40 エレナと殿下と殿下の運命の番(つがい)と道ならぬ恋
殿下は談話室を見回し、大きなため息をつく。
躊躇いがちに部屋に入ると、わたしの隣に座った。
まるで幼い頃みたい。
ううん。違うわ。
幼い頃ならわたしの隣に座れば、優しく抱き寄せて膝に乗せてくれたもの。
隣に座る殿下を見つめると、苦しげに顔を歪ませて、汗が顎から滴り落ちていた。
いつもの一糸乱れぬ王子様然とした殿下とは違う様子に胸が苦しくなる。
「もしかして私たちを探すのに、走り回ってくださったの? ご迷惑をおかけして申し訳ありません。汗を拭かれた方がいいわ」
「ああ」
本当は拭いて差し上げたいけど、殿下に嫌がられたら立ち直れない。わたしは平静を装い、ハンカチを差し出した。
殿下は驚いた顔でわたしを見つめる。
ゆっくりと手が伸びてハンカチを受け取ると、整った顔の前でハンカチが止まる。一度深くため息をつき躊躇いがちに汗を拭った。
「エレナは、私の発言を受け入れてくれたのか?」
わたしは汗を拭いた殿下をじっと見つめる。真剣な眼差しに吸い込まれてしまいそうだ。
「……殿下のご発言をですか?」
「あ、いや。いくらエリオットと二人きりだったとはいえ、軽率な発言であった。受け入れてくれたかなどと、私の浅ましい願望を押し付けるべきではないな。あのような場でエレナの耳に入れるべきではない発言をしたことを反省している。エレナが逃げ出したい気持ちを抱えただろうというのはわかっているつもりだ。エレナにも気持ちの整理が必要だろう。私の一存だけで早急に進めたりはしない。……ただ、その、私の気持ちを少しでも理解していると言うのなら、許してはもらえないだろうか……」
真剣な殿下の態度の後ろでお兄様が慌てている。
「やっやだなぁ、殿下ったら、何言ってるの? そうだ僕たちのこと探し回ってくれた割に見つけるの遅かったんじゃない? ほら昔かくれんぼしてた時は、エレナのこと探すの殿下得意だったじゃない」
「幼い頃のエレナは、いつもこの部屋で私が探しに来るのを本を読みながら待っていたからここにいるに違いないと一番初めに訪れたが、その時は誰もいなかった。他に思い当たる場所を探している最中にあの官吏の男に捕まり、追い返すのに時間がかかりってしまった。念のためともう一度訪れたのだ」
「あいつ、まだ揉めてたの? そりゃ大変だったね──」
お兄様は軽口を叩いて話を逸らそうとしている。お兄様と殿下の会話を聞き流しながら、わたしはあの時を思い出す。
あの時、殿下はお兄様に向かって「運命」と呼んでいた。
そうよ。お兄様が殿下のことをなんとも思ってないってだけで、殿下はお兄様のことを運命の番だと思ってらっしゃるんだわ。
殿下の気持ちを少しでも理解しているのなら、やっぱりわたしは身を引くべきなのよ。
「殿下。お兄様。わたしの話を聞いてください」
感じの悪い役人の不満で盛り上がっている二人の話を遮る。
キョトンとした顔のイケメン二人に見つめられると、緊張以上にドキドキする。
わたしは深呼吸して、殿下の目をまっすぐ見据える。
「殿下。我慢なさる必要はないわ。わたしは早急に進めていただいて構いません」
「エレナ。いいのか?」
殿下の顔はキラキラした物語の王子様みたいだけど、華奢なわけじゃない。
鍛えた身体はしっかりと男らしい。
わたしに向かって前屈みになった殿下の体躯に圧倒される。
「いいわけないでしょ! エレナ! 何言ってるの⁈ どうしてわかってて、焚き付けるようなこと言うの! ……あ、わかってないからか」
「わかっています! いつまでも、かりそめの婚約者ではいけないわ。殿下のお気持ちが決まっているなら、わたしは受け入れるしかないもの。許すも許さないもないわ」
目の前の殿下の喉はごくりと大きな音が鳴り、見上げた瞳には歓喜の光が灯り、期待の炎が揺れる。
わたしが婚約破棄を受け入れることをこんなに喜ばれるなんて……
涙が自然にぼろぼろと溢れるのにまかせる。
「こうして殿下がわたしの思い出の場所を覚えていてくださっているだけで幸せですもの」
殿下はわたしから受け取ったハンカチでわたしの涙を拭こうとする。
自分の汗を拭いたことを思い出したのか、そっとわたしの頬を大きな手で包み、親指で涙を拭ってくれた。
「本当に進めていいのか?」
「もちろんです」
「殿下違うから待って! エレナ。今、何を考えてるかちゃんと口にして! 結論だけじゃなくて、頭の中のエレナと会議して、こねくり回した過程もだよ!」
慌てた様子のお兄様が水をさす。
「ですから、殿下はお兄様を運命の番として愛してらっしゃるのでしょう? わたしはいつまでもかりそめの婚約者に固執して殿下とお兄様のお邪魔をするなんてことしませんから」
目を見開いて驚いた殿下は、お兄様をしげしげと見つめた。
「どういうことだ」
「だから、エレナにはなんも伝わってないの!」
「お兄様。伝わってるとさっきから言っているわ。殿下にとってお兄様は特別な存在でしょう? 普通の友人ではないもの」
お兄様は首を横に振る。
「ほら、殿下も、ちゃんと説明して」
「……エリオットに抱く感情は、普通の友人に抱く感情ではないかもしれないが、乳母兄のランスや私の従兄弟達に抱く親愛の情と何一つ変わらない。神に誓う」
殿下も嘘をついている様子はない。
真剣な眼差しだわ
お兄様は殿下の腕を引っ張り、何か耳打ちした。