31 エレナと殿下の想い人
「エレナ」
扉の横には見慣れた顔が立っていた。
ノックの主はお兄様だった。
「お兄様が、ノックされるなんて珍しいこともあるのね」
「しばらくここで立ってたけど、気がつく様子がなかったからさ。また頭の中のエレナと会議でもしてたんでしょ? 物思いにふけるレディに配慮をするのは紳士として当然の行いだよ」
お兄様はそう言って大袈裟に肩をすくめる。
さっきまで殿下に一方的に詰め寄っていたとは思えない。いつも通りのお兄様だ。
お兄様はわたしの斜め向かいの席に座る。幼い頃にお兄様が座っていた席だ。
「ありがとうね。ユーゴが水を持ってきてくれたおかげで、冷静になれたよ」
「それは、ユーゴにお礼を言ってあげて。喜ぶわ」
「でも、エレナがユーゴに持ってくように言ってくれたんでしょ。ユーゴがそう言ってたよ」
前言撤回。
ユーゴには間諜なんて務まらない。
わたしが送り込んだってバレバレじゃない。
「何があったのって聞かないの? 知りたいからユーゴに間諜まがいの事をさせたんでしょ」
「聞かなくていいわ。だって、お兄様は聞いてほしくないんでしょう?」
「うん」
何があったか聞きたいけれど、殿下に好きな人がいて、それをお兄様も知ってるなんて、明らかにしたくない。
だって、あの雰囲気は、お兄様は殿下が好きなお相手が誰なのかもわかってるってことだもの。
沈黙が続き重苦しい。
「ねえ、エレナ。記憶って今どうなってるの?」
「えっ?」
お兄様のエメラルドみたいな瞳が細められて、じっとわたしを見透かしたように見つめる。
記憶って? えっ。
前世の記憶を思い出したことを、お兄様は気がついているの?
なんで?
思いもよらないことを聞かれて、わたしはパニックになって声も出ない。
「階段から落ちて気を失った衝撃で記憶が曖昧なところがあるってお医者様がおっしゃっていたんでしょう? 僕から見ればいつも通りのエレナで、そんなに記憶が曖昧な印象はないんだけど。僕のことがわからないとか、そういうこともないでしょう?」
やだ。びっくりした。現世の記憶の方か。
わたしは胸を撫で下ろした。
前世の記憶を思い出したことかと思って、ドキドキしてしまった。
そうか、お兄様にはエレナが階段から落ちた衝撃で記憶が曖昧になったことが伝えられているのね。
お兄様はどこまで知ってるんだろう。
あと、エレナの記憶が曖昧になったことは、他に誰が知ってるんだろう。
お父様と、お母様はご存知よね。
メリーは多分知らないわ。心配性なメリーにそんなこと伝えたら、わたしは一歩も外に出られないと思うもの。
殿下もご存じなのかしら。
だから、エレナと距離を置いているの?
ううん。違う。
エレナが殿下と婚約してからの記憶は、確かにあまり思い出せないけれど、それでも婚約者らしく頻繁に会ったり、手紙を送りあったりしたなんて記憶はない。
婚約してから、エレナは去年の領地のお祭りに手紙で誘ってる。
でもお越しいただけなかったし、返事すらもらってない。
エレナが殿下から頂いたものは、子供の頃から恒例でお誕生日に贈られてくる本と、その本についていた手紙しか見つからなかった。
その本も手紙も読み込んでボロボロになってるけれど、大切に保管している。
お祭りの招待に対する返事の手紙があれば絶対に大切に保管しているはずよ。
婚約してからの手紙も贈り物も何も見つからなかった。
ドレスも、お見舞いのマーガレットの花束も、誕生日プレゼントのイヤリングもエレナが王立学園に通うために王都に暮らし始めてからの贈り物。
きっと、エレナが近くにいるから贈らないわけにいかなくて用意したものに違いない。
現実を突きつけられて、泣きそうになるのを、ギュッと手を握りしめて我慢する。
「……心配ないわ。もちろんすべてを明瞭にというわけじゃないですけど、ほとんど思い出せていると思います。それに記憶というのは普通、時の経過とともに薄れていくものだから。去年の同じ日同じ時刻に何してたかなんて答えられないでしょ?」
「そうだね。僕も昨日何を食べたかなんて聞かれても思い出せないのものね」
「……お兄様は食べ過ぎなんだわ。覚えきれないほどの量をレストランでお頼みになるから覚えられないのよ」
「あはは。相変わらず厳しいこと言うね」
困ったように笑ったあと、お兄様は急に真顔になる。
「じゃあ、エレナは殿下の気持ちはわかってるってことだよね」
えっ。なんで? なんで、そうなるの?
そう言いたいのに言葉が出ない。
わたしが前世の記憶を取り戻す前、エレナは殿下の気持ちを理解していたの?
殿下には他に想う相手がいるって。
それなのにエレナは殿下の婚約者の立場に固執していたの?
わからないわたしは、何も言えない。
「そっか。エレナがわかってるなら、僕も殿下のお気持ちに沿うようにするよ」
真剣な表情のままお兄様は呟いて席を立つ。
わたしの返事がないのを肯定と思ったのか、お兄様は勝手に納得してしまったようだった。