契約血痕
吸血鬼にとって血液は、体を維持する糧であり、寿命を延ばす妙薬であり、魔術を使うための源であり、最上級の嗜好品である。
そして吸血は紛れもなく狩りの一種だ。
リスクは可能な限り低く、対価は可能な限り高く。
赤く濡れた犬歯をなめながら、私は目の前に座る女の太ももに目をやる。
先ほどまで歯を立てていたそこには、まだ数滴の血が垂れ落ちていて、もう一度むしゃぶりつきたい衝動にかられるが、口中の鉄の味を反芻して抑え込む。
これ以上は、だめだ。餌の枯渇を招く。
一度体を許した人間を狩るのはリスクが限りなく低い。
そして、この女の味は上物で、対価は限りなく高い。
一瞬の情動で手放すわけにはいかなかった。
女は垂れている血を無表情でふき取り、大判の絆創膏を傷口に貼り付けた。
長いまつげが瞬いて、頬に微かな影を落とす。
麗しいというよりは、幼さを感じさせるような、アンバランスに大きい瞳は彼女のチャームポイントだ。
まつげを隠すように揺れる、切りそろえられた前髪も。ほとんど笑みの形を作らない唇も。
吸血鬼は魅了の術を使い抵抗されないようにしてから血を獲る。
それは抵抗されるというリスクを減らすためでもあり、血液の味が落ちるのを防止するためでもある。
だが魅了の術は相互作用が基本だ。
愛さなければ、愛されない。
だから私は彼女を愛しているし、だからこそ彼女に愛される、はずだったのだが――
「終わったら帰って」
「またそうつれないことを」
「いつも通りでしょう。貴方は血を飲む。私は飲ませる。それだけ」
「今日も魅了は効果がないようだね」
「そうね、いつもの通りね」
「まだあの想い人には何も?」
「彼は何も知らない。言っているでしょう。私がこんな子だって、知らせるわけにはいかないの」
彼女が立ち上がって、スカートがぱさり、と傷を覆い隠す。いつも通り。
彼女の首筋にも、手首にも傷はなくて、彼女はただの健全な女子高生に戻る。
彼女にとって痛みは甘美で、ただそれは彼女の中で不都合でしかなかった。
私の犬歯は、傷が残らず、痛みは深く、彼女にとって都合のいい道具でしかない。
彼女の意志の強さに、私は、勝てない。
それは愛ゆえでもあるが、結局のところ、私にとっても都合がいいからでもあった。
「自傷癖を打ち明けられないような彼ではね。長続きはしないよ」
「いいのよそれでも。一時でも彼の記憶に残れたら本望だわ」
「まあ君は彼と別れたら死にかねない。私としても死なれたら困る」
「そうでしょう。だから貴方は私の欲望を満たす。私は貴方の欲望を満たす」
「しかし、魅了にかかった女の血は格段においしいと聞く」
「今でも十分おいしいと聞いたわ」
「もっとおいしくなるのであれば、それを求めるのが本能だろう」
「じゃあそれは他の女で試して」
「そういうわけにはいかない。私の愛しい人は君だけになってしまった。君のせいだよ」
「そんなことを言われたくらいで揺らぐと思って?」
「いいや、すまなかった」
「じゃあまた一週間後」
じゃね、と窓の外に押し出される。
屋根の上で一瞬呆けるが、気を取り直して夜の闇に溶け込み、姿を消した。
吸血鬼にとって血液というのは、体を維持する糧であり、寿命を延ばす妙薬であり、魔術を使うための源であり、最上級の嗜好品である。
彼女の血を受ける限り、私は生き永らえ、永遠を過ごし、夜に紛れ、心を満たす。
あわよくば、彼と彼女が永久に今の関係を続けますように。
願わくは、彼女が生を終えるまで、私の恋心が抑えられますように。