五年前
数年に一度、帝国ムーでは宝剣に捧げる祭儀が催される。
飢え、貧する民衆を差し置いて華々しく行われるそれは貴族達の怠慢の象徴だ。彼等は自身の暇潰しに夢中らしい。
年々気温は下がり氷河期とも言えるような気候は酷作を生み飢饉は続いている。
だと言うのに、だからこそか、貴族の下らぬ派閥争いは激しさを増し、中でもヴァンガード家はその筆頭としてこの祭儀を主催した。
コロッセオで動物や罪人に死闘をさせ、その優勝者に宝剣を振るわせ生贄の首を切らせる。
最も血塗られた祭礼であり、忌むべき儀だ。
されど貴族達はコロッセオに歓声を響かせてそれを見るのだ。
割れんばかりの歓声を聞きながら、目隠しをされた少年は静かに溜息をついた。
捨て子だった自分を拾い育てたのは帝国軍暗部の長であった。
故に少年にとって死闘など恐るるに足らぬ些事だ。
レイブン、そう名付けられてから食事をするように暗殺し、体術を叩き込まれ、目隠しをしていても人の、物の気配が分かる程には成長した。
お前は才能がある、と言ったのは誰だったか。
息をするように人も動物も虫も殺せた。
もう何回目になるだろうか、再び湧き上がった歓声の中恐らくサーベルタイガーを殺した。
いかに巨大な体躯とて急所は弱い、いかに牙が強くとも当たらなければどうと言うことはない。
次はグリフォンかドラゴンか、そんな空想の化け物ですら殺せると、レイブンは思っていた。
過信でも傲慢でも無い、殺せぬものなどありはしない。
それ程に彼は殺すことに慣れていた。
「優勝おめでとう、レイブン」
鳴り止まない歓声に紛れて聞こえて来た声に、レイブンは顔を上げた。
直後目隠しが外されたかと思うと、目の前には不気味に笑う貴族らしい服を着た男が立っていた。
その男は剣を持っていた。鞘に納められた見たこともない造りの剣だった。
そして足元には、顔を布袋で覆われ縄で四肢を固く縛られた男なのか女なのか、とにかく大人であろう人が首を無防備に晒し座らされている。
「君が優勝するに違いないと思っていたよ」
その顔に覚えがあった、つい先日任務で諜報に侵入した屋敷の主人だ。
あれはとても奇妙な屋敷だった。
◆
夜、闇に紛れてレイブンは屋敷に忍び込んだ。驚異的な身体能力で、上階の未施錠の窓から易々と侵入したのだ。
けれどもレイブンはそれに驕ることもなくただ淡々と任務を遂行する。
そもそも、彼にはそれほどに豊かな感情など無かったのだ。
その心は静かなる水面が如く、波風など立つことはほとんど無い。
だから彼は幼くして実に優秀な暗部だった。
さて。今回の任務はこの屋敷に居る筈の公爵夫人を探せとのことである。
何でもここ数年、社交場にも姿を現さず見かけた者もいないと言うのだ。
レイブンは潜みながら器用に屋敷を探索していく。
人の気配のない奇妙で不気味な屋敷である、その中の一角、屋敷の中最奥とも言える場所にその部屋はあった。
任務前に頭に入れた構造から考えれば、そこは窓の無い部屋になる。
そこからぼんやりと明かりが灯っているのが扉の隙間から微かに見えた。
物置だとしたらこんな時間に明かりは違和感がある。
レイブンはその扉の前に立ち静かに耳を立てた。
ほんの微かに、か細い女性の声で子守唄が聞こえてくる。
優しく、優しく、ただ優しく。
夜の隙間を埋めるように、静かに闇夜を流れていくその歌声。
レイブンは、気が付けばその歌声をただ黙って聞いていた。耳を傾けていた。
「……お前は」
だから気付かなかったのだ、近づいていた人の気配に。
しかしレイブンは更に動揺することになる。
そこに居たのは、自分だったのだ。
ただひとつ違うのは、自分は黒髪、相手は金髪だということだけ。
幻覚にでも掛かったようだった。しかしすぐに気を取り直しその場から離れようと身を翻した直後である。
「レイン?」
扉が開いた。真っ暗な廊下に部屋から暖かな灯りが漏れ出す。
そしてとびらの形を繰り抜くように、黒い影。
それは細く弱々しい影。
振り返ったそこに、金髪のそれは美しい女性が立っていた。
その女性が息を呑んだ音がする。
直後その大きな瞳から後から後から大粒の涙が零れ落ちた。
キラキラと照らされて真珠のように落ちていくそれに、レイブンは初めてどうしていいか分からなくなった。
気が付けば、その女性に息が苦しくなるほど強く強く抱きしめられていた。
レイブンは動揺する。思わず見つめたもう一人の自分は酷く無表情でこちらを見つめていた。
その背後から、ゆらりと。
現れたのが、その男だった。
◆
「君はあの後すぐに逃げてしまったからね、もう一度会いたいと思っていたんだよ」
気持ちの悪い、優しげな声。
その背後にふと視線を投げれば、貴賓席と思われる場所にあの屋敷で出会った件の女と少年が座っている。
「さぁ、これを」
その男は鞘を持ちその剣をレイブンに差し出した。
茶色い髪、茶色い目、似ても似つかないへちゃむくれな顔。
その不気味に笑顔を作る顔を見つめながら、レイブンはゆっくりと剣に手を伸ばした。
歓声が五月蝿く、煩わしい。
鞘から抜いたその刀身は黒銀に煌めき、けれども全ての光をも呑み込むようにそこに在った。
それを認めた瞬間に感じた事もない優越感と興奮で表情が歪んだ。それは高揚の笑顔であった。
「さぁ! 優勝者よ、儀式を!」
男のその一声で割れんばかりの歓声がコロッセオの空気を震わせる。
それに呑み込まれるように、レイブンの瞳は怪しく輝きその刀身を大きく空に振り上げた。
まるで空気を切るような感覚、あまりにも軽く恐ろしい程の、感触。
脳の中まで満たされるような歓声と、ごろりと転がる人の首。
その顔を隠していた袋が、皮を向くようにずるりと剥がれた。
その顔は。
「あぁ、よくやった! 何て清々しいことだ!」
あぁ、その顔は。
「それはお前の父親だ!」
それは暗部の長だった。
黒い髪、黒い瞳、切れ長の、自分によく似た瞳。
それが、ごろりと。
どろりどろり、溢れ出す血が海のようにレイブンの足元に広がって。
「あぁ良い気味だ! 暗部に窶させてまで守った我が子に殺されるとは! 我が妻と姦通した報いだ! 次はお前も」
醜い男の声を切って。
声にならない咆哮と、振り上げた刀身は、その首を遠く遠くへと刎ね飛ばした。
直後コロッセオ中で割れんばかりの絶叫と殴り合いが巻き起こり、それはどんどんと苛烈してやがて血飛沫の舞う殺し合いへと変貌する。
コロッセオ中の人々が意味もなく無差別に、まるで理性の抜け落ちた獣のように殺し合う。
その地獄絵図の中、血の海に手を突いてレイブンは茫然とその血を見つめていた。
『早く僕を鞘に戻して!』
声がする。
『これ以上は、君自身が大変なことになる!』
けれどもレイブンには届かない。
ドロドロと脳みそが溶けるように、あぁ頭が熱い、パンパンに目が、手が、足が、破裂して溶けて無に帰すような。
もう何も、分からない。
「何をしているの!?」
涼やかな、凛とした声。
気が付けば剣は鞘に戻され、目の前には金の髪が太陽にキラキラと煌めいている。
目の奥で、チカチカ光る。
「逃げなさい! どこまでも遠くへ! ここに居てはいけない!」
それはあの女だった。
自分を抱きしめたあの女。
女は丸く大きな瞳を強く強く瞠ってレイブンを見つめていた。
厳しい顔つきで、強い瞳で、細くか弱い腕で、レイブンを強く強く抱きしめて。
「貴方の名を、ずっと前から決めていたの。お腹の中に居た頃から、ずっと」
その手が優しく背を押した。
最後の声は、少し震えていた。
「ヴァン、走って!」
背を押され、少年は走り出す。
宝剣を持って、ただ只管に駆け抜ける。
それはやがてヴァンガード家の惨劇と呼ばれ、目撃者の証言により「ヴァン・ヴァンガード」の名は国中に指名手配されることになる。




