夕闇
「シュウくんもホークも戻って来ないの!」
レイブンが牢屋に戻って来ると、開口一番エルピースはそう叫んだ。確かに助けに向かってから大分時間は経っているように思う。シュウとホークはお互いに連絡を取り合える仕組みの筈だ、場所が分からないということは考えにくい。
つまり、何かあったに違いない。
そういう思考回路で今エルピースは焦っているのだろう、レイブンは落ち着いた様子で鎧と仮面を脱ぎ捨てると「問題ない」と何とも呑気な返事をした。
「助けに行く」
けれどもエルピースの口から飛び出したその言葉に、レイブンは少しだけ眇めた瞳でエルピースを見やる。
「駄目だ」
「……考えたの、私が囮になる。ホークとシュウくんを助けるついでに大暴れする。その間にこの子たちを逃がすくらい、レイブンには簡単でしょう?」
レイブンは大きな溜息を吐いた。傲慢で、乱暴で、あまりに幼稚な作戦だ。上手くいく訳が無い。
「協力出来ない」
「………」
エルピースは俯いた。レイブンは悟られぬよう溜息を吐くと牢屋に閉じ込められた子ども達を見やる。
レイブンに本当は全員助ける気など毛頭無かった。それは不可能な話だ、自分の強さを持ってしても。
この人数を逃がす途中で必ず見つかる、自分が盾になったところで必ずまた見つかり誰かは連れ戻される。上手く数人逃げ延びたとして、この幼い子ども達がまともに生きていける場所など無いだろう。
この世は甘くない。運命は残酷だ。
それなのに何故なのだろう。
シエルとシーザーの居所を探していたところ、ホークから連絡が入った事でこのピエール子爵の屋敷に居ることが分かった。
エルピースが危ない、屋敷へ忍び込んだところでシュウがその連絡を受けた。
好都合な筈だった、エルピースがいなければジークルーネを使ってアリスが自分の居場所を探知することも無い。
それなのに気が付けば彼女を探し、彼女のもとに居た。
情などとうに捨てたのに。
誰が死のうと生きようと、自分には関係ないのだと。
「………下らんな」
胸にざらつく不快感に、思わず呟いた。
シュウが戻り次第やはりここを出よう。これ以上は駄目だとレイブンの本能が告げている。
自分は誰にも関わるべきでは無いのだ。
「お願いします」
しかし、ふいにエルピースから聞こえたその言葉にレイブンは眉を顰めた。
「私には悔しいけれど何の力も無い、あなたに何も差し出す物も無い、だけど……私にはレイブンの力がどうしても必要なんだ……! 力を貸して欲しいんだよ!」
深く深く、頭を下げていた。レイブンはけれどそれを見ても表情ひとつ変えることは無かった。
エルピースは頭を下げ続ける。
「お願いします! お願いします……!」
頭を上げる事なく只管にそう繰り返す。それは何て惨めな姿だろうと思った。レイブンは冷めた瞳でその光景を見つめていた。何の力もない、弱者。己に力が無いからこうして強者に頼むことしか出来ない、地面に這いつくばる事でしか生きていけない。何て惨めで下らない。
だから力を手に入れるのだと。
「お前は何をする?」
教えてくれたのは誰だっただろう。
エルピースは顔を上げた。嬉しそうに一瞬笑顔になったが直ぐに真剣な表情でレイブンを見つめる。
「私は盾になる。この命と、口先で、皆の盾になる」
ニッカリと、歯を見せて笑った。無理矢理作ったようなその笑顔に溜息が出る。
そんなもの、何の役にも立ちはしない。
レイブンが返事をしようと口を開けた、直後であった。
『エルピースー! エルピースー!』
けたたましい音を立てて現れたのは、片翼で壁にぶつかりながら空を飛んで来るホークと、その足に掴まれたシュウの二人である。
『大丈夫!? 無事だった!? 全くとんだ野郎だわよ、この猿!!』
エルピースのもとまで飛んできたホークは、言いながらシュウを思い切り床に投げ捨てた。シュウは『きゃん』と悲鳴を上げると『うわーん! レイブンー!』と泣きながらレイブンのもとへと逃げる。
「ど、どうしたの?」
『こいつ、嫌がる私に……無理やり!』
「え!?」
エルピースの顔が真っ赤に染まる。その光景にレイブンは心底呆れた風にシュウを見つめた。シュウはその視線から逃れるようにマントの中へと隠れてしまう。
『私のプログラムを書き換えようとしたのよ! だから返り討ちにしてやったわよ! 安心してエルピース!』
「えぇ? どういうこと? プ……ラムって……?」
『こいつの目的はね、私がこいつらの居場所を探せなくする事だったってこと! ワルキューレ同士は仲間が起動していればお互いに居場所を感知出来るのよ』
「あ、そんなこと言ってたね確か」
『そうよ! それを無理矢理出来なくしようとしたのよ!』
ホークはエルピースの頭の上に乗ると、不遜な様子でフンと鼻息らしきものを鳴らした。
レイブンは、気が付けば階段を昇ろうとしていた。
しかしピンときたエルピースはそのマントをガシリと鷲掴む。
「レイブン、分かるよね?」
「………」
「えへへ、やったね。これで私の思う通りに動いてくれるよねぇ?」
下衆な笑みであった。先ほどまでの立場が逆転している。殊勝に頭を下げていた娘はどこに行ったんだと罵ってやりたいほどの腹の立つ勝ち誇った笑顔だった。
レイブンは大人しく階段から地下牢に戻ると、深く深く息を吐いて、そして項垂れるように額に手を添えながら口を開いた。
「仰せのままに、エルピース殿」
「あはは! ありがとう」
今度は本当に嬉しそうに、目を細めて笑った。
レイブンはその笑顔を横目で見ると、バサリとマントを翻す。
「時間が無い、行くぞ」
「え?」
「この大騒ぎに、気付かないほど無能ではない」
エルピースもハっとしたのか、急いで牢屋の扉を開け子ども達を外へ出す。それから全員自分の後ろを付いてくるように言って、レイブンの横に並ぶ。
「ホーク!」
そしてその声と共にホークは光を放ちエルピースはそれを手に嵌める。
「行こう、みんな!」
そしてもう一度、子ども達を振り返り、次いでレイブンを見る。レイブンもまたこちらに視線を寄越し、頷いた。
「脱走だよ!!」
レイブンを先頭に、エルピース達は螺旋階段を駆け上った。
そして眩しい光の照らす温室へと飛び出して直後、レイブンは立ち止まる。
「遅かったか」
そこにはピエール子爵と衛兵が四方八方を取り囲んでいた。数人どころではない、十数人という人数がエルピース達を取り囲む。出て来ようとする子ども達を一度制してから、エルピースはレイブンの前に躍り出た。
「私たちは私たちのあるべき場所に帰るだけよ!! そこを退け!!」
「あはははは、本当に初めて会った時から面白い事を言う小娘だなぁ。君たちはただの商品なんだよ、分かるかい?」
エルピースが子爵に近寄ろうとすると、兵士が剣を翳しそれを妨げる。
それでもエルピースは前に出ると子爵を睨み付けた。
「だから何だ、商品すらも大切に思えない癖に偉そうに反吐が出る理屈を並べるな!!」
空気が震えるほどに叫んだ。
「威勢がいいね、私がここで指を鳴らせば君の首はすぐにどこかに飛んで行ってしまうんだよ?」
ニヤニヤと、指を鳴らす真似をする。しかしエルピースは怯まない。睨み付けたまま傷が付くのも厭わずにもう一歩進み出る。剣先が頬に当たる、更に体中に剣を突き付けられ身動きは最早取れない。
それでも睨み付け、声を上げる。
「それで勝ち誇ったつもり? 正攻法で勝てないから誰がやったって簡単に出来る事でお金儲けで王様気取り? 下らない! つまらない! お前はこの世界で一番愚かで無能な恥晒しだ!」
ピクリ、子爵の眉が動く。その表情から笑顔が消えて、明らかに怒りを露わにした表情に移り変わる。
「やれ」
その言葉と共にエルピースを数多の凶刃が襲い掛かろうとした刹那、温室が眩い光で埋め尽くされる。
同時に金属がぶつかる音が響き、光が消えた頃。
「レイブン……!」
「本当に……人使いが荒すぎだ」
剣に姿を変えたシュウを構え周りにいた兵の剣をすべて弾いたレイブンが、エルピースの目の前に踊り出ていた。その剣はやはり、鞘に収まったままである。
それを見止めて一斉に兵が身構えるが、レイブンがそれら全てに視線を配せばその圧倒的な強さを前に複数の兵士は動きを止める。その威圧に、震えあがったのだ。
「いくら俺でもこの状況で手加減はしない、死にたくなければ今すぐに逃げるんだな」
その言葉で数人の兵士は剣を下ろし逃げ出したが、さすがに鍛えているのだろう、残った兵はすぐに剣を構え直すとじりじりとレイブンと距離を計る。
その間に、エルピースはハっとして背後に聳える異国の木に視線をやった。高く聳える幹、祖父の図鑑で見たことがある、南の方に生える椰子の木である。
「レイブン!」
その声と共に、レイブンはエルピースがやろうとしたことを悟る。
直後、エルピースはホークを嵌めた手でその椰子の木を力いっぱい殴りつけた。
「なっ!」
うまくいった、幹は殴られたところからメキメキと折れ曲がり兵士たちの方へと勢いよく倒れこみ、温室の壁を豪快に破壊し砂埃が舞い上がる。
その隙にエルピースは兵が居ない方へ子ども達を誘導すると、今度は温室の支柱を殴りつけた。
瞬間上から下まで温室の硝子に皹が入ったかと思えば、音を立てて砕け散り辺り一面に降り注ぐ。
兵士たちは大混乱である。
レイブンは自身のマントでそれを避けながらエルピース達の下へ駆け寄る。
エルピースも、子ども達もなんとこの状況で降り注ぐ硝子に全くの無傷であった。レイブンでさえ少し刺さったというのに、その余りの幸運にレイブンは息を呑む。
降り注ぐ硝子の破片がチラチラと幻想的に輝く中、色素の薄い少女はただ悠然と立ち、力強い瞳でこちらを見つめていた。
「行くよ、みんな!!」
皆は割れた硝子の隙間から中庭へと踊り出る。さすがの子爵もここまでは予想出来なかったようで、そこに兵の姿は無かった。
「こっちだ!」
レイブンが瞬時に侵入するときに調べたルートに全員を誘導する。この人数で子ども達に壁を昇らせていては逃げきれるものも逃げ切れない、ならば正面突破しかない。兵が追い付いてくる前に正面の門を抜ける、その後の事はもう、出たとこ勝負である。
レイブンに続き子ども達が走り出し、エルピースもそれに続く。
中庭を走り抜け、警備兵はレイブンが風のように気絶させて行く、そして城壁の正門に辿り着いた時だった。ちょうど門を抜け一台の幌馬車が入ってきた。
「レイブン!!」
エルピースの声と同時にレイブンはその馬車に飛び乗るとまるで風のような速さで御者二人に手刀を落とす。
それから気絶した男二人を馬車から放り落とすと、幌の中を覗き込んだ。
木箱がひとつ、レイブンは手を振り全員馬車に乗るよう指示を出す。
エルピースは下で一人ずつ支え子ども達を乗り込ませ、レイブンは正門を警備していた兵が襲い掛かって来るのをシュヴェルトライテで応戦する。
「レイブン、いいよ!」
エルピース以外全員馬車に乗り込んだところで叫び、レイブンは馬車に飛び乗り馬を引き、半ば強引に街へと向けて旋回する。急カーブに馬車が傾き、同時に「ぎゃぁ!」「きゃぁ!」という声が響いたかと思うと、木箱の中から女の子が二人飛び出して来て、子ども達は驚愕する。
中に入っていたのはシーザーとシャルロッテである。揺れる馬車の中、幌の開いた後方から外で驚いた顔をしたエルピースが目に入り、シーザーは咄嗟にその名を叫んでいた。
「エルピース!?」
「……え!? もしかしてシーザー!?」
長い金髪にドレスを着ていたのがシーザーだと分かりエルピースは唖然とする。
「くそっ!」
馬車は猛スピードでエルピースから遠ざかっていく。シーザーは咄嗟に立ち上がると、無謀にも馬車の後方から思い切り跳躍した。
「シーザー!?」
その行動にシャルロッテが悲鳴を上げる。
「お前はそのままそれに乗って逃げろ! いいな!?」
地面を転がり傷つきながらも馬車を降りたシーザーは、ガバリ起き上がりながらこちらを不安そうに見つめるシャルロッテに叫ぶ。
レイブンはそんな後方のやり取りに気付きながらも馬に鞭を打ち更にスピードを上げた。
見たこともない速さで馬車が丘を下る。揺れる馬車でバランスを崩し、シャルロッテが倒れこんだのを子ども達が支えた。
「あなた達は……?」
そしてシャルロッテは、目の前のボロボロに汚れやせ細った子ども達に気付き思わずその痛ましさに眉を顰める。
子ども達は無口だった。けれどその視線はシャルロッテを見つめている。
「いったいどうなってますの……?」
状況が分からず困惑しながらも、シャルロッテはもう遠くなってしまったシーザーと、もう一人の少女を見つめる。
二人は立ち上がり、屋敷の方へと消えていった。それに激しい不安を覚え胸をぎゅっと握りしめる。
直後である。
馬車が街から歩いてきた男とすれ違う。
シャルロッテはその人物の後ろ姿に思わず手を伸ばしていた。
「アリス様!?」
届かない手をそれでも伸ばす。名を呼んだが、その男は振り返りもせず屋敷へと向かって行く。
シャルロッテはへなへなと座り込むと、しかしキっと子ども達を振り返る。
「何だか分かりませんが、分かりましたわ!」
子ども達はそんなシャルロッテに首を傾げる。
けれども子ども達の様子などお構いなしに、シャルロッテは一人勝手に頷くと、拳を握り締めた。
「私、やってみせますわ!」
幌の中から丸聞こえの声を聞きながら、レイブンはまた面倒臭そうな女が居るな、女難かな、などと半ば諦め気味に考えながら、さてどこへ向かおうかと馬車を疾走させるのであった。
◆
エルピースとシーザーは馬車を見送り、改めてお互いを見やった。
言いたいことは山ほどあったが、二人とも言葉は出て来なかった。そして服装を恥じたり笑ったりしている余裕が無い事も理解していた。だから頷き合う。
「俺は喋れないキルナの娘としてここに攫われてきた、お前は俺とは初対面、馬車は奪われて俺だけここに残った」
「よく分かんないけど分かった」
「いや分かれよ」
しかし屋敷の方から聞こえてきた複数の足音に、二人は押し黙る。
やがて正門へと坂を下ってやって来た衛兵達が、二人を取り囲んだ。
「おや?」
そして、後から悠然と子爵がやって来て、シーザーの存在を見止めるとニヤリと口角を上げた。
「これは上出来、一番欲しいものは手に入った」
その言葉と同時に二人は兵士に後ろ手で取り押さえられる。
「実はエルピース、君の事も欲しいと思っていたのですよ? 何せとてもめずらしい毛色と瞳の色をしている。見たことがない色だ……私には分かる」
言うと子爵はエルピースに歩み寄り、その顎を手で掴み上を向かせる。間近に子爵の息が掛かりエルピースは不快そうに顔を歪めた。
「おぉ、なんと美しい赤い瞳! なんと珍しい!」
シーザーは自分の存在がバレぬよう必死で声を押し殺していたが、驚いたようにエルピースを見つめた。
考えもしなかった。確かに珍しい容姿だとは思っていた。しかし、そうか。
この男達にとって、それが価値になるのか。
たったそれだけのことが。
「ふむ、髪の毛も何か臭う……染めているね?」
エルピースは微動だにしなかった。じろりと子爵を睨みつけたまま動かない。
しかし押さえつけられてしまっては抵抗も出来ない、その余裕からか子爵は可笑しそうに笑っている。
「シエルを返せ」
「またそれかぁ、言うと思ったがね? まぁいいだろう」
子爵は言うとピンと指を鳴らす。その合図で兵が割れ、そこからシエルが現れる。
その首筋には剣が宛がわれていた。
「シエル!!」
「この娘は私の富と権力の象徴なのだ、手塩にかけて育てたのでね……そう簡単には解放出来んなぁ? ある程度、恩返しをしてもらわなくては」
エルピースはその物言いに激怒する、が、兵士に取り押さえられていては、ただその場でもがく事しか出来ない。
シーザーはその様子を何も言わず見つめながら、この状況を脱する方法を考えていた。もう諦めないと決めたのだ、妹を、エルピースを、二人を守ると決めたのだ。
不意にシエルと目が合って、シエルは少しだけ目を瞠ったようだったが、すぐに気が付いたのだろう、泣きそうな顔になったのを隠すように俯いた。
シーザーは、苦笑する。
情けない姿を見られてしまったと。
「しかし私は運が良い、声は出ないようだが健康で美しいキルナの娘を手に入れることが出来た。この出来損ないは今日のオークションにエルピース、お前と一緒に出してやろう。二人一緒にな!」
子爵の高笑いが響く。エルピースは悔しそうに歯を食いしばり、シエルはただハラハラと涙を流す。
シーザーだけは、冷静に状況を見つめていた。だから気が付いた、背後から近付く足音に。
振り向いた。そこには軍服を着て、今まで見て来たどんな姿よりも燦然と、寒気がするほど凛とした空気を纏い、アリスが立っていた。
シーザーとアリスの目が一瞬合う、しかしアリスはシーザーを見向きもせずに歩みを進めると、シエルと、エルピース、そしてシーザーの中心に誰もが呆然とする中、悠然と立った。
「……これはこれは! アルセーヌ公爵ではありませんか!」
兵が動揺しているのが分かる、しかし子爵は急いで体裁を整えるように自分も一歩前へ躍り出た。
「今、屋敷に忍び込んだこの賊めを捕まえたところなのです! うちの可愛い娘を誑かそうと……昨日の舞踏会でご覧になられたでしょう?」
「えぇ、取り込み中に来てしまったようですね」
エルピースが何か言おうとしたのを兵士に口を抑えられ地面に押し付けられてしまう。
それを涼しい顔で見ながら、アリスは子爵に向けて微笑んだ。
「どういう訳かは存じませんが、小さい事には目を瞑りましょう。今日は別件で参りました、お時間ございますか?」
「あぁ、そうでしたか! さあさあ中へ! お前達、後は任せたぞ!」
アリスはそのまま三人に目もくれず子爵に続いて行ってしまった。その様子をエルピースは呆然と見つめていたが、シーザーは何故か少しだけホッとしている自分がいることに気が付いた。恐らく何か企んでいるのだ、自分もこのまま演技を続けよう。
気が付けばアリスを信用している自分に驚きながら、シーザーは衛兵に従い抵抗もせず歩き出した。
エルピースは抵抗していたようだったが無理矢理に連れて行かれ、シエルは部屋に戻されたようだ。
全員が引き離され、シーザーは一人豪華な部屋に通された。
そこで着替えを渡され、着替え終わるとお茶を出され、その致せり尽くせりな状況に拍子抜けしながらも、頭を左右に振って再度気合を入れ直す。
オークションと、子爵は言った。そしてどうやら妹の役回りを今度は自分にやらせようという算段らしい。確かに体が生まれつき弱い妹よりも、健康でしかも喋れないシーザーはさぞ子爵に取って都合が良いことだろう。思わず反吐が出そうな思考回路に顔を顰めながら、シーザーは立ち上がる。
今は部屋に一人だ。だが部屋の外には兵が常駐しているようである。先程試しに開けて見たら兵が一人立っていた。とりあえずお手洗いということにして事なきを得たが、最初から最後まで兵が付きっ切りで逃がすつもりは無いようだ。
エルピースと、そして妹がオークションに出される。きっと子爵の仲間の下衆どもが買いに来るのだ。メガラニカでは日常の光景だった、それこそ貴族でなくても奴隷が買えるほどに日常だ。
それをこの国では貴族がこそこそとやっているのかと思うと滑稽で、笑える。
アリスは今頃何をしているだろうか、自分は今何をするべきだろうか。
しかし結局答えは出ないまま、焦燥感だけが募り時は過ぎていく。これでは今までの自分と何も変わらないではないか、ふいに、部屋に強い光が差し込んだ。西日である。海に太陽が溶けていくように、橙の光が部屋を照らし出し、染め上げる。
太陽は堕ちていく、掴めはしない。
けれどもまだ、妹は生きている。
シーザーは部屋を飛び出した。兵士に掴まれるよりも疾く走り出す。慌てて兵士が追いかけて来ようとしたが、ドレスを脱ぎ捨てて顔に思い切りそれを投げ付けてやった。その隙に次の扉を開き目の前の階段を下る。
下着姿で走り抜ける。よく考えたら先ほど脱ぎ捨てたドレスと一緒に鬘も取れてしまっていた。あぁこれはもうバレたなと先走った感は否めなかったがそれでいい。
考えたって、答えはない。慎重になろうと、上手くいかないことはある。ならば今、ここで、全力で叫ぶしかない。
「シエル!!」
叫んだ。屋敷中に響く声で。
「シエル!! 何処だーー!?」
階段を最下まで来たところで、風に運ばれて微かな扉を叩く音と、妹の声が聞こえた気がした。シーザーは、まるで導かれるように走り出す。
「シエル!!」
「お兄ちゃん!」
中庭に出て、声の聞こえる建物へ回廊から入る。そこに並んだ同じような扉のひとつ、その向こう、くぐもった声だが確かに聞こえた。その扉の前に立ち、シーザーは鍵穴を見つめて髪の毛から何やら針金を取り出す。
まさかこんな所でこんなクズの特技が生かされるとは思わなかった、そう自嘲しながらシーザーは扉の鍵をガチャガチャと針金でいじくり回し。
カチャリ、開いた。
「シエル!」
「お兄ちゃん!」
扉の向こうにはシエルが立っていた。少ししか離れていないのに、随分とまた長い間離れていた気分だった。どこか大人びたような妹を見つめる。
シエルは嬉しそうな、けれど泣きそうな顔でシーザーを見つめていた。二人とも、ドア枠を挟んで動けずに見つめ合う。
先に笑ったのは、シーザーだった。
「行くぞ、シエル」
それはとても軽やかで、逃げるとか、そんな風ではなくて、まるですぐそこへ遊びに行くくらいの余りに拍子抜けするいつも通りの声で、けれどシエルとシーザーにとって、それは遥か遥か遠い昔の記憶。
そんな声で、シーザーはシエルに手を差し出す。
「色々面倒臭いとこもあるけどさ………お前は、俺のたった一人の家族だもんなぁ」
それはメガラニカで雪の降る中、幼ながらに追いかけ続けていたあの頃と変わらぬ、兄の姿だった。
シエルはその手を取る。
もう、他に何もいらないと思った。
この一瞬が永遠ならば良いと。
兄がいて、自分がいる。
たったそれだけでいいのに。
そうだ、随分と昔から―――願いはたった、それだけだった。
「居たぞ! 捕まえろ!」
シーザーはシエルの手を強く引く。兵のいない方へ、いない方へ走れば気が付けばそこは2階の突き当りでもう逃げ場が無い。
兵が迫っている音がする。
震えるシエルを強く抱きしめて、シーザーは残された最後の手段、窓を睨みつけた。そして開け放つと運よくそこには隣の館の屋根があった。多少強引だが屋根を伝って行けば逃げ切れる筈だ。
妹を抱き上げ窓の外へと押し出して、自身も窓枠に飛び乗り屋根に降り立つ。
「止まれ、お前達!」
妹の呼吸が荒くなる、けれど出来るだけ早く、早くと屋根を伝って逃げる。少しずつ日は暮れ始め夕焼けが夕闇に変わる頃。二人はただ只管逃げる。
兵士も屋根に出てこちらへ向かって来た。建物の下にも兵が集まりだしている。
けれどもシーザーは諦めずに辺りを見渡した。何とか飛び移れそうな位置に、人気のない城壁上部がある。
「シエル、あそこに飛び移るぞ?」
「うん、お兄ちゃん」
「追いついたぞ!」
しかし、遂にそこで衛兵に追いつかれてしまった。二人は屋根の先端へ追い詰められ、シーザーはシエルを守るように前に立ち手をかざす。
「お兄ちゃん……っ」
「大丈夫だよ、シエル。先に行けるか?」
シエルは首を振った。シーザーはそれに微笑んでみせると、「大丈夫だから」と優しく微笑んで見せた。シエルは力なく頷くと、シーザーを残しすぐ隣の砦へと思い切って飛び移る。
それとほぼ同時、衛兵がシーザーに向かって剣先を振り下ろした。それを避けようとシーザーが横に踏み出した、瞬間。
「お兄ちゃん!?」
シエルの劈くような悲鳴が響く。
足が屋根を踏みしめた瞬間、屋根の石が割れシーザーの体はグラリ、バランスを崩す。そして気が付けば地面へ向かって真っ逆さまに放り出されていた。
シエルの悲鳴が聞こえる。
景色はやたらと緩やかに流れて、シーザーは夕闇に染まりゆく空を仰いだ。
―――あぁ、なんだ………運が悪いなぁ
シーザーが伸ばした手は、虚しく空を掴んだ。
この手は何も掴めない、どれだけ願おうと、どれだけ足掻こうと。
けれどもその時、脳裏に誰かの言葉が響く。
―――私は絶対諦めたりしない!!
シーザーは目を見開いた。




