配達員
階段ばっかりで大変でしょう、とナカタさんが言った。
若いから大丈夫だよ、と山本君も言った。
わたしは笑顔を作った。事情はわからないけど、大変なのになんで新人のわたしがやるんだろう、と思った。でも、わたしは子供の頃に柔道をやっていたこともあり、まぁまぁ腕とか足とか太くて、それはそれでたまに嫌になったりするくらいだし、とにかく体力はけっこうあるほうで、不安じゃなかった。どっちにしても文句を言うと偉そうに聞こえそうだし、だから黙っておくことにした。
わたしの担当は丘の上の集合団地だった。アルファベットのついた、同じ形の棟が並んでいた。平成初期にできた団地だけど今は空き家が多くて、おじいちゃんとかおばあちゃんばっかり住んでいるらしい。真ん中には小さな広場があって、ブランコもあるけど、塗装が剥げて赤茶色の鉄が見えていて、古くなっているのがよくわかった。でも子供もいないわけじゃなくて、ときどきどこかから声が聞こえたりしていた。
やってみると、思っていたよりは楽だった。たしかに階段の上り下りをずっと繰り返すけど、走り続けるわけじゃないから、それほど体力は使わなかった。それよりもずっと嫌だったのは、留守の家があることだった。せっかく上ってきたのに荷物を受け取ってもらえないと、本当に疲れる。一旦車に積みなおして、またこなくちゃいけないからだ。さらにひどいことに、無視されることもあった。その団地には一軒だけ、連絡のつかない部屋があった。新聞はちゃんと取っているから誰かが住んでいることは間違いないのに、荷物の連絡は無視する。再配達の連絡もしてこないし、こっちから電話しても絶対にでない。箱には通販会社のマークが入っていて、概要にも家電製品と書いてある。自分で注文したものなのだ。なんで受け取ろうとしないのか、ちょっと理解できない。
それに引き換え、そいつの隣に住んでいるおばあちゃんはとてもいい人で、色んなことを教えてくれた。最近は団地も世知辛くて、近所付き合いとかもないとそのおばあちゃんは言っていた。そんなこと言われても、わたしは昔のことなんて知らないしどうでもいい。だいたい、面倒くさい。隣近所でおかずを交換とか、想像しただけでぞっとする。もらうのはまだいいけど、あげるとなったら、なにか陰で言われそうな気がする。
それはともかくとして、おばあちゃんは隣のやつについても教えてくれた。空き家ではなくて、ちゃんと住んでいる。おばあちゃんによるとそいつは、七時くらいにはいつも帰ってくるという話だった。わたしは言われた通りに、七時まで待った。他の作業をこなして時間を潰し、それから団地へ戻って電話をかけた。出ないだろうなと思ったけど、七回目のコールで電話が繋がった。相手はこっちが話す前からブツブツ言ってて、誰かと勘違いしていた。でも、弁解する隙がなかった。お前ふざけんなよとか、騙されてんだよとか、お前なんかいつでもやれるみたいなことばっかり言っててだんだん怖くなってきたけど、わたしが女だって気が付いて、それでようやく黙った。だからそいつはそれまでの五分くらいの間、ずっと一人で話していた。事情を聞いてみたくなってきたけど、そんなことを聞ける雰囲気じゃなかった。
当然わたしは荷物のことを話した。でも、今はいないし都合のいい日もないから置いていけ、とそいつは言った。命令調でハッキリ言われたから一瞬くじけそうになったけど、そんなことはできない。ダメだと最初に警告されていたことで、本当に厳しくチェックされている。盗まれたりしたら、送った人も、送られた人も困るからだ。でもそいつはわたしにも怒り始めて、サインなんか自分で書けよとか、お前が言ってることは全部お前の都合だとか言い出して、話を聞いてくれそうになかった。
「上司に相談しないと」とわたしは言った。でも冷静に考えるとそんなことはできなかった。あの上司はたぶん理解できないだろうな、と思った。会ってまだ二日だけど、そういうことはすぐわかる。堅物で、余計なことだけはするなと顔に書いてある感じだ。だいたいそういう男は、女のグループに嫌われている。電話して説得しろとか言われたら、わたしはどうすればいいのか、わからない。電話なんてこれっきりにしたいし、二度と嫌だし、説得できそうにもないし、とにかく無理だ。
そいつはだんだん低い声になっていった。お前は本当に配達員か、格好だけならだれでもできるんだからな、と言った。わたしはそのとき制服を着ていて、帽子もかぶっていて、ドキッとした。ハッタリかもと思ったけど、でも、どっちかわからない。最近は、普通の人でも殺人犯だったりするし、どこにどんなやつがいるか、よくわからない。夜だから団地も真っ暗で、部屋がいっぱいあってどこから見られてるかわからなくて、だから本当に怖くなった。
わたしはすごく迷ったけど、結局置いてくることにした。サインも自分で書いた。すぐに車に戻って、逃げた。悪いことだとわかってたけど、他にどうしようもないし、そいつとはもう関わりたくなかった。本当に怖かった。職場の人には話せるわけないし、旦那はわたしの話を聞かない。優しい人だと思っていたけど最近は少し変わって、露骨に聞いてない態度を取るようになった。旦那は最近、一人でしている。その日も同じで、夜中にこっそりベッドをでて、リビングでパソコンをつけて、アイドルの画像を開いて、事に及び始めた。隠してるつもりでも、わたしはちゃんとわかっている。名前はわからないけど、ちょっとデブっていうか、おっぱいがおっきい子だ。しの、しのだ、違うな、篠崎なんとか。よくわからない。でもわたしは胸もそんなにおっきいほうじゃないから、ショックっていうか、傷つくんだけど、旦那は無神経だから、そういうことには絶対気がつかない。
とにかく次の日見にいったら、荷物はなくなっていた。だからちゃんと受け取ってもらえたのだろうと思った。でも、あのおばあちゃんが、もしかしたら勝手に預かっちゃったかもしれないし、だから最後だと思って、またそいつに電話することにした。そいつは機嫌をなおしていて、ちゃんと受け取ったよと言った。それでほんのちょっとだけ安心した。
それからはもう、その家の荷物は置いてくることにした。わたしが言い出したんじゃなくて、そうしろと本人に言われたのだ。昼間は無理だから、夜になるのを待った。悪いことだとわかっていたけど、機械でバーコードを読んで、それで荷物がちゃんと届いたかどうかネットで監視してるから、だから他にどうしようもなかった。それで変な履歴が残ってたら、当然上司はわたしのことをボロクソに言うにきまってるから、だからもう、開き直って、その家は特別なのだと思うことにした。
もちろん他の家にはちゃんと届けた。電話もしつこいくらいしたし、ちょっとしたことでも、ちゃんと責任を持って判断した。罪悪感だって、あった。二度とあの家に荷物がこなければいいと思った。でも、どうしてか一週間に一度くらいは、荷物があった。家電製品だったり、組み立て式の家具だったりで、かなり重かった。すべて通販会社のマークが入っていた。自分で注文したのにどうして受け取らないのか、不思議だった。でも誰かに相談したりできないし、本人に聞くのも嫌だったから、事情はわからないままだった。
あるとき隣の家のおばあちゃんの、旦那に会った。当然だけど、おじいちゃんだ。おじいちゃんは真昼間なのにパジャマを着ていた。でも、それほど不自然なことじゃなかった。日曜日だったからだ。私も普段とは違って、ちゃんと荷物を持っていた。五階だから本当は持っていくのも面倒だけど、日曜日だったらその男も家にいるかもしれなくて、だから荷物を持って行ったのだ。
おじいちゃんはおばあちゃんとまったく同じで、近所づきあいがどうとか、そういう内容のことをずっと喋っていた。しばらく話を聞いてやっていると、二人の男が冷蔵庫の箱を持って階段を上がってきた。中くらいの冷蔵庫だけど、すごく重そうで、二人ともびっしょり汗をかきながら運んでいた。
二人はひーひー言いながら目の前で箱を降ろして、それからあの男の家のインターホンを鳴らした。
これで居留守だったらかわいそうだな、とわたしは思った。でもその日はドアが開いた。冷蔵庫があるから、どんなやつがそこに立っているのか、最初は見えなかった。その二人はこっちを見ていた。だから、まずわたしの番なのかもしれないと思った。
壁際にいたほうの男が体を寄せると、箱の向こうから誰かが顔をだした。そこにいたのは男じゃなかった。おばさんだった。縮れた金髪で、かなり太っていた。肉のあいだに埋もれた細い目でわたしを睨みつけていた。おばさんは電気屋さんを押しのけてこっちにきて、わたしの肩を力いっぱい押した。そして両の腰に拳を当てた。
「あんたはなにがしたいの?」そうおばさんは言った。「仕事する気あるわけ?」
答えなさいよ、とおばさんは叫んだ。わたしはただ怖くて、じっとしていた。なにか言わなくちゃいけなかったけど、なにも言えなかった。おばさんはわたしのほっぺをぶった。太い指が見えた。赤ちゃんみたいな手だ。黙っていると、何発もぶたれた。わたしは頭を抱えた。今度は蹴りが飛んできた。デブで体重があるからすごく痛くて、どこかへガツンと頭をぶつけて、泣きそうになってきた。
おじいさんが間に入って、おばさんを止めてくれた。やめなさい、とおじいさんは言った。なにかきみは勘違いしてるぞ。
おばさんは鼻息を荒くして、わたしを見下ろしていた。「黙りな。あんたには関係ないよ」
わたしは怖くて、泣きそうだった。おばさんはわたしを鼻で笑った。それから荷物を拾って、階段を降りていって、踊り場の窓を開けて、そこから荷物を投げた。
かなりの時間が経ったあとで、荷物は地面にぶつかった。その音が聞こえた。それはずっと下のほうから聞こえてきた。
おばさんは戻ってきた。箱に向こうにいって、見えなくなった。その向こうから声がした。「で、あんたたちはなんなの?」
「サイトウ電機の者です」と片方が言った。「サカザキさんですよね?」
少しの間があって、箱の向こうから、声が聞こえた。「中身は?」
「冷蔵庫です」
「そう。じゃあ、そうね、台所に古いのがあるから、入れ替えて。そっちはもういらないから、あんたたちで持っていってよね。まさか、別料金だなんて言わないわよね?」
二人はきょとんとして、顔を見合わせた。最初からそういう注文だったはずなのに、なんでおばさんがそんなことを言うのか、よくわからないみたいで、もう片方がそのことを言った。
「だから?」と声がした。「なんか文句でもあるわけ?」
二人は顔を見合わせて、すぐに作業を始めた。あっちこっちに体をぶつけて、痛そうだったけど、文句は言わなかった。ドアは三角形のゴムで開きっぱなしになっていて、家の中が見えた。どこにでもありそうな、ごく普通の玄関だった。テレビの音が聞こえた。お昼頃やってるワイドショーだった。ナレーションの声ですぐにわかった。無知な女の子に料理を作らせて、みんなで笑う番組だ。
たくさんの人の笑い声が聞こえた。
なんなんだ、あの女は、とおじいさんは言った。えらそうにして。
わたしは汗をかいていた。それが頬を伝った。軍手で額を拭くと、痛みが走った。わたしは少し驚いて、拭いた跡を見た。流れたのは汗じゃなくて、血だった。頭の怪我だから、けっこうな量がでていて、手の甲の生地にベッタリとついた。それは軍手では吸収してきれていなくて、液状のままだった。
血が、とわたしは言った。
でもおじいさんはこっちを見てなくて、どういう育ち方をしたんだ、と部屋に向かって言った。
おじいさんはうめき声をあげると、急におとなしくなった。廊下の奥で、あのおばさんがこっちを見ていた。わたしは血のついた手を後ろへ回した。おばさんが顎を振ると、さっきの二人のうちの片方がきて、三角形のゴムを外してドアを閉めた。
わたしたちは動けなかった。ただ静かにしていた。広場から子供たちの声が聞こえた。わたしはまだ23個の荷物を預かっていた。団地全体で220枚のドアがあり、そのうち23枚を開く必要があった。なにかが頬を流れていて、腿の上に落ちた。血だろうと思った。でもわたしは動けなくて、そこでじっとしていた。