3-2:半ギレ千影
エリア1内、後楽園ドーム数個ぶんの敷地面積を誇る駐屯地。
両ポータルの観光用エレベーターと直結しているこの場所には、D庁やIMODの職員の各詰め所やPX(プレイヤー向け用品専門の購買所)、診療所などの各必要施設の他に、食堂や雑貨店やコンビニ、観光客向けのお土産屋まである。
空はすっかり暮れているが、あちこちでランプや提灯がついていて、大通りはエキゾチックな風情がある。ただでさえ今日は人が多く、いつもの倍は賑やかだ。
千影とギンチョは診療所のプレハブの外のベンチに座り、コンビニで買ったパンをかじっている。ギンチョは早々にコロッケパンを始末し、からあげ棒にとりかかっている。夕食前だからといって手加減しないのがギンチョイズム、彼女の流儀。
出入り口のドアが開き、ヒゲもじゃメガネの前野医師が出てくる。診療所に勤めるダンジョン医の中年男で、千影も大変なところを救われた恩がある。彼の後ろには駐屯地で仕事中だったという明智もいる。
「いやー、こないだの初心者チームに続いてまたもや人助けとは。成長したな、早川くん」
「あたしの指導がいいみたいです」
「おい」
「それで、あの子だが……今は点滴打って眠ってる。空腹と疲労、脱水症状もあった。身体に血がついていたが、どこか怪我をした様子はなかった。診療所の冷蔵庫の中のもん全部たいらげて、そのまま大いびきだよ」
「確認なんだけどさ、あんたたちがあの子を拾ったの、ショートカットの近くの草むらってことでおk?」
「おkっす」
裸の彼女を見つけたあと、千影はジャージの上着とかリュックの中のタオルとかを総動員し、まずはその開放的すぎる身体を隠してもらった。それから駐屯地に連れていき(足がふらふらするというので千影が肩を貸し)、診療所に引き渡した。
「そうか……」と思案顔の明智。「経緯はわからないけど、下層から逃げてきたってとこで間違いなさそうだね」
「経緯はわからない? 彼女から聞けなかったんですか?」
「そこなんだけどなあ……」と困惑顔の前野。「なんというか、いろいろと困ったことがあってな……」
「記憶がないみたいなんだよね、あの子」
千影とギンチョは顔を見合わせる。ギンチョはイマイチ理解できないようで、ぽかんとした顔で「ぐぇぷ」とからあげくさいゲップをする。
「どこの階層からどうやって戻ってきたか、憶えてないってことですか?」
「というか、自分の名前も国籍も、家族構成も友人の名前も一切合切、なんにも憶えていない。詳しくは検査をしてみないとわからないが、いわゆる全生活史健忘ってやつかもしれない。フィクションなんかで一般的に言われる記憶喪失ってやつだな、自分が誰でどこにいるかもわからなくなる、例のアレだ」
現実にあるんだ、そんなこと。
「下から逃げてきてあそこで倒れたときに記憶を失ったのか、それとも下層で記憶を失ったあとで意識朦朧のまま逃げてきたのか。いずれにせよ、記憶をとり戻せればはっきりするだろうけどね」
「ともあれ、元気なんですよね、彼女。じゃあ、僕らはもういいですかね」
明智と前野が顔を見合わせる。
「ちなみにだけどさ、早川っち」
明智がいきなり肩を組んでくる。初めての呼ばれかたに警戒心メーターが振り切れる。
「あんたさ、ちゃんと見た?」
「は?」
「あの子の裸、ばっちり見たんかって訊いてんだよ」
返答に困る。ちらっと窺うとギンチョがまた例のジト目顔になっている。
「いや、あの、ええ……」
「もじもじすんじゃねえよ、この童貞野郎が」
「なんだって。早川くん、お前さん童貞なのか」
「ちーさん、どーてーってなんですか?」
通りすがりの人がこちらを見ている。死にたくなる。
「えああ、みみみ見ちゃいましたよ。ちょっとだけですけどね。しかたないでしょ、僕が見つけたんだから。横たわってたし薄暗かったから? 肝心なところというかなんというか大事なところというかなんというか? そういうのは全然みみみ見てないけど、それがなんか問題なんですか? 僕が悪いんですか? 逮捕ですか? 童貞は罪ですか? 何罪ですか? ていうか今の時代、そういう性体験の話とかセクハラじゃないんですか? 訴えたらこっちが勝つんじゃないですかね、はい論破」
半ギレでまくしたてると、明智も前野もたじろいでおずおずと頭を下げる。
「……いや、その……悪かったよ、ちょっとからかったつもりだったけど……」
「……俺もそんなつもりはなかったけど……気にしたなら謝るよ……」
二人の目は「なんてみじめであわれな生き物」と語っている。死にたくなる。
「そうか、ともかく見てないんだ、彼女の――。ごめんね早川くん、変なことを訊いて」
なにを言っているのかわからない。
「明智さん。それ以上は、患者のプライバシーだから」
「そっすね、すいません」
なにを言っているのかわからない。
「えっと、なんなんですか? あの人がなにかあるんですか?」
「いやいや、なんでもないって――」
がちゃっとドアが開く。みんなの目が一斉にそちらに――出てきた彼女に向けられる。
「おっと、そんなとこで大の大人が突っ立って、イケイドカイギってやつか?」
なにその倍返し的なやつ。たぶん井戸端会議。にかっと笑うその顔は、初対面のときより幼く見える。年齢は千影とあまり変わらないかもしれない。
赤みがかった栗色の髪は後ろで一本に結われている。瞳は黒、目は大きくてアーモンド型。鼻筋は通っているし顔のつくりも素晴らしく整っている。精悍というか凛々しい雰囲気がある。まぎれもなく美女というか美少女というか。
スタイルも素晴らしい。身長は百七十センチの千影より少し低いくらいだから、女性としては大きいほうだ。すらっとして筋肉質でササミっぽい感じだが、出るところは出まくっている。不可抗力でまぶたに焼きついてしまった裸体は、今は白地のTシャツとハーフパンツに隠されている。
肌はやや色白で、でも白人ではなさそうだ。なんとなくハーフっぽい気もするけど、アジア系と東欧系? でも中東っぽい気もする? 要するに全然わからない。
「おう、憶えてるぜ、お前のこと。オレをここまで連れてきてくれたニーチャンだろ。ありがとな!」
彼女に思いきり背中をどつかれ、ヘッドロックみたいに頭を抱え込まれる。力が強い、普通の女性の腕力ではない。明らかにプレイヤーだ。そしてなにより頬に当たる弾力がすごい。いろんな意味で赤面不可避。
「あのさ、そいつ童貞だから。そんな風にされると血流が顔なり局部なりに集まってやばいから、離してやって」
「やめて明智さん、具体的に説明しないで」
「おっと、わりいな。そうか、ニーチャン童貞なのか。命の恩人だし、ここはオレが人肌脱いで――って言いたいとこだけど」
はあ? マジ?
「でも、ニッポンジンはそういうの好きじゃないんだよな、確か」
そうなの? 「そうなの?」、口に出た。
「あれ、違ったっけ? どっかでそんなのを聞いた気がするけど、どこだったかな」
とりあえず開放される、と同時にボコッとすねを蹴られる。地味に痛い。誰? ギンチョが目を逸らして口笛を吹く真似をしている。どこで教わったの、そのベタなごまかしかた。
「あれからなにか思い出したかい?」と前野。「日本人はって言ってたけど、君は外国の子かな?」
「いや、ぶっちゃけなにも」と彼女。「そうかもしんないけど、じゃあなんでこんなぺらぺらしゃべれてんだろうな? あと英語もしゃべれるし、あと……うーん、頭いてえや」
頭をがしがし掻きむしる。仮に日本人ではないとして、どこでこんな男前な口調を習得したのだろう?
「プレイヤータグ持ってりゃ一発なんだけど」と明智。「とりあえずはポータルのプレイヤー管理課に連れていって、時間かかるけど顔写真から照合するか。IMOD側にも問い合わせなきゃね。あたしの仕事じゃないけど」
――あ。
「……わかるかも」
「は?」
「いや、彼女がどこの誰か、わかるかもって」
「あんた、この子のこと知ってんの?」
「いや、そうじゃなくて」
「ああん? なにもったいつけて――あ」
明智もそこに思い至ったらしい。先んじた千影はここぞとばかりにドヤ顔するも、案の定尻を蹴られる。目で前野に助けを求めると、すっと目を逸らされる。大人って。




