エピローグ-5
八年前の五月、平日。
千影が小学校をさぼったのは、その日が生まれて初めてだった。
ランドセルを荒川河川敷の茂みに隠し、新荒川大橋を渡り、交番の前をこそこそと横切り、赤羽駅へと向かった。
どうしても学校に行きたくない、そういう強い動機があるわけではなかった。
学校は好きではなかったし、家庭での鬱憤やいつも一人でいる寂しさとか、日常への不満を言えばキリがなかったが、だからといって早川千影は自棄を起こしたりする性質ではなかったし、大人を困らせてやろうという度胸も持っていなかった。
ただ、日々溜まっていくものがあった。日々それを抑え込むのが難しくなっていた。一度なにかバカなことをやってみたらすっきりするかもと、軽い気持ちで始めた人生初の冒険だった。
駅前に着いてとりあえず、その付近をうろついてみることにした。クレアガーデンを見て回り、西口のショッピングモール付近を散策し、赤羽三番街に迷い込んだ。
軒先で酒を呑んでいる人、うろうろと店を物色している人。平日の昼間だというのにそこはたくさんの大人たちで賑わっていた。働いていないのかな? それともさぼっているだけかな? 僕みたいに。
特に目的もない、どこか行きたい店や場所があるわけでもない、思いつきの冒険だったので、そのうちに飽きて疲れてきた。お腹も減ってきたが、ポケットの中にはなけなしの数十円しか入っていなかった。
狭い路地にへたりこみ、とりあえずいいにおいをかいで満足できないかと試していた。見知らぬ大人に声をかけられたのはそのときだった。
「ほえー、ハヤカワチハゲくんね。将来政治家に怒鳴られそうな名前だね」
「ちかげです」
「僕のことは宇宙人って呼んでちょ。あだ名じゃないお、総称的なアレだお」
青っぽいぼさぼさの髪の自称宇宙人は、異様にフレンドリーで、へらへらと軽薄そうで、でもなんとなく無害そうに見えた。人見知りプラス大人という怖い生き物相手に緊張しまくる千影を、彼はさらっと昼食に誘った。
「気になってるラーメン屋があるんだけど、一人じゃ入りづらくてさ。僕がおごるから、一緒に入ってくれると嬉しいにゃあ」
ネコ科動物並みに警戒心マックスの千影が、どうしてそんな言葉に甘えようと思えたのか。それはその店の黄色い看板と濃厚なスープのにおいに興味をひかれたからに違いなかった。
三郎ラーメン赤羽店。初めてその名前を知った日だった。
「では、ともに行こうぞ、相棒」
「はい、宇宙人」
二人で行列の最後尾に並び、二十分くらいしてようやく食券を買い、並んでカウンターに座った。通路が狭かったので、セルフサービスの水は千影が二人ぶんとってきた。
ラーメン屋自体初めての体験だったが、この店は自分の思い描く「ラーメン屋」という概念とはまったく別の異世界だった。店員は不愛想で怖く、他の屈強な客たちも殺気立って怖かった。さっきまでへらへらしていた宇宙人も、着席してからはぴったりお口チャックしてそわそわと所在なさげだった。
「にんにく入れますか?」
店員から発せられる三郎ラーメンの公用語とも言うべきその問いを、千影は理解できていなかった。「ヤサイマシマシニンニクアブラ」と答える隣の客。なにそれ、「はい」か「いいえ」で答えるんじゃないの? 前の人の呪文をそらんじるのも難しく、千影は「い、入れます……」と答えるのがやっとだった。
着丼したものを見て、さらに度肝を抜かれた。ギトギトに脂の浮くスープ、顎がすり減りそうなほどぶ厚いチャーシュー、縁に添えられたアイスクリームかという量のにんにく、小さな山をつくる大量のもやしとその下に埋もれたごわごわの太麺。これはラーメンやない、三郎という食べものや。
券売機で食券を買うとき、「お子さんはミニラーメンをお勧めします」と店員が声をかけてくれた。そのとおりに注文してよかった。並ラーメンを頼んだ宇宙人は丼の大きさに唖然とし、「ニンニク、ヤサイマシマシ!」などと調子に乗って唱えたせいで召喚されたもやしの富士山に驚愕し、その約束されたハイカロリーに冷や汗をかいていた。
どうにか二人とも汁以外は食べきり、店を出た。食後の一休みにと近くの小さな公園に寄り、ベンチに並んで座った。
宇宙人に買ってもらったウーロン茶を一口飲んだ。ギトギトした口の中に爽やかな風が吹いた。ウーロン茶がうまいと思えたのは生まれて初めてだった。生まれて初めてのバーゲンセールや。
「ぐぇぇぷ……すさまじい体験をすることができた。おかげですっかりガーリックエイリアンだよ。この惑星には三郎という素晴らしい食べものがある」
宇宙人はそう言って缶コーヒーを口にした。千影も彼の妄言にはだいぶ慣れてきていた。
「えっと……おいしかったです……ごちそうさまでした」
「マジで? いや、確かにおいしかったけどさ、キッズにはきつくなかった?」
「きつかったけど……何回か行ったらハマりそうかも……」
「それな。次はあのコールってやつを華麗にキメてやる。そんで汁まで飲んで『俺もついに店主に認められたかな』って感じで店を出てやる」
千影もまたいつかチャレンジしたいなと思った。もう少し大人になってから。
「そういやさ、聞くの忘れてたけど、チカゲくんはどうして学校さぼったの?」
学校が創立記念日だから、とか嘘をつけばよかったのかもしれない。ただなんとなく、千影は「さぼった」と正直に話していた。この人に説教くらうようなことはなさそうだったから。
「……なんとなく……深い理由とか全然なくて、なんか日常がイヤになってというか……」
「あー、あるある。大人もそういうときあるし」
「あるの……? 大人っていうか、宇宙人にも」
「あるある。大人にも宇宙人にも。なんかもういいやってなって、風邪ひきましたーって仕事サボって家でネットして酒飲んで、仕事辞めたいわーって天井に向かってさけんだりして」
大人も大変なんだな、とちょっと同情した。三番街をうろついた大人たちも、普段はきっと人知れず苦労しているのかもしれない。軒先で酔っ払って「うっひょー! このまま死んじゃいてー!」とかさけんでいるおっさんがいたが、しかたないのかもしれない。
「もっと適当して、イヤになったら投げ出せたらいいんだろうけど……いろいろ考えちゃう。あとで困るかもとか、学校や家にメーワクかかっちゃうかもとか」
「真面目だねえ」
「違うと思う……オクビョーなだけかも」
「あれだね、激おこのときでも部屋のものに当たり散らしたりできないタイプだ。後片づけとか壊したものの値段とか考えちゃって」
「めっちゃ当たってる」
「そうだねー、でも別に、全然普通だとは思うよ。けど……君みたいな子は、ダンジョンには向いていないかもね」
「ダンジョン?」
宇宙人はベンチを離れ、すぐそばの雲梯によじ登り、てっぺんから空を仰いだ。故郷の星をさがすように。
「近い将来、この宇宙人様が地球に革命を起こす予定でね」
「チキュウシンリャク?」
「いやいや、むしろ宇宙文明の技術提供みたいな。プロメテウスの火ってやつだね」
「ぷろめてうす?」
「ファーストコンタクトがうまくいけば、この国に新しい職業が生まれるはずなんだけど、僕の予想では彼らは世間でヒーローみたいな存在になると思うんだ。救世主とか正義の味方って意味じゃなくて、みんなの憧れの英雄的な感じの。グラディエーターとか野球選手みたいな」
「はあ(これも妄想?)」
「すごく冒険心や勇気が問われる職業になるから、君には向いてないかもしれないね。ヒーローってのはある意味ネジがぶっ飛んだ人がなるもんだし。君は根が真面目そうだからね」
別にヒーローになりたいなんて大それた願望はなかったものの、面と向かって言われると子ども心に多少しょんぼりだった。宇宙人は苦笑した。
「ああ、めんごめんご。そんな深い意味はないよ。別にヒーローになれなきゃ偉くないなんて言うつもりはないし。つーか僕なんか今ニートだし」
「はあ(ニートなんだ)」
「この星に来たばっかりだけど、働いたら負けだと思ってる」
「はあ(ダメなほうのニートだ)」
「まあでも、そういう子がいても面白いかもね。華々しく空を飛ぶヒーローとは対照的に、地道にこつこつ、地に足をつけて、着実に一歩ずつおっかなびっくり歩いていく。そういう人が案外、ダンジョン最深層までたどり着けちゃったりして」
「ダンジョンって、ゲームの話? プロゲーマーみたいな?」
彼はにやにやしたまま曖昧にうなずいただった。
「チカゲくんの小学校ってどこにあるの?」
「川口です。荒川の向こう」
「教室から赤羽のほうって見える?」
「荒川の土手のところに建ってるから、一応見えるけど……」
「じゃあ明日、教室の窓から空を見ていてね。面白いものが見られるよ」
「宇宙船がコーリンする的な?」
「最近の小学生ってネタバレセンサーすごいのね」
なにを言っているのかさっぱりわからない。悪い人ではなさそうだけど、本気で言っているとしたらやべー人だ。あるいはかわいそうな人だ。
「明日、人類は未知との遭遇を果たし、地球がひっくり返るような騒ぎになるだろう。君の退屈や鬱憤を吹っ飛ばすような、地球史に残る大イベントさ。そして人類は試されることになる、その意思の力を。戦いぬく意思、生き抜く意思、守りぬく意思、変化を恐れない意思。僕らはそれを見るためにこの星に来たんだ」
「なるほど(刺激しちゃいけない)」
「未来は誰にもわからない。地球の未来も、君自身の未来もね。興味があれば、いずれまた赤羽に来たらいいよ。また三郎ラーメンで会えるといいね。マシマシ、マシマシ」
宇宙人は上体をふらふらさせながら雲梯の上で立ち上がり、「とう!」とジャンプして生垣の中にダイブした。
「はっ?」
慌てて駆け寄ったたものの、そこに彼の姿はなく、生垣もまったく無事なままだった。そのまま下を潜っていった痕跡もないし、あたりを見回してもやっぱりいなかった。
消えた? そんなアホな、人間が消えるなんてありえない。
今までの全部、自分の妄想とか夢だったとか? でも現実に、お腹の中はたぷたぷで、吐息はしっかりにんにくくさい。
狐か狸に化かされる、というのはこういうことなのかな。いや、案外宇宙人というのも本当だったのかもしれない。いやいや、ありえない。きっと一瞬の隙をついたトリックかなにかに違いない。
狐狸や宇宙人を手放しで信じられるほど、千影少年は純粋ではなかった。マンガ的な非日常体験なんてあるわけがない、あったとしても自分みたいな凡人の前に訪れるはずがない。そんなものにわくわくしても、あとでがっかりするだけだ。
いろいろ楽しかったけど、疲れた。冒険はこれで終わりだ。明日は普通に学校に行こう。
ウーロン茶と飲みかけの缶コーヒーを持って、千影はその公園をあとにした。
その翌日、赤羽上空に現れた巨大な長方形を、千影は教室の窓から目にすることになった。
今さらですが、もう一つのプロローグです。




