2-2:ピンクのエネヴォラ
B棟のそばに荒れ放題のグリーンルーフの休憩スペースがあり、そこに三人で腰かける。
ぱりっとしたスーツの公務員、埃まみれのジャージ姿の未成年、そして黒ずくめの犬マスク。異様な光景。ていうかいい加減マスクを脱げと思う。
明智が缶コーヒーを三本、テーブルに置く。道中にコンビニで買ってきたものだ。明智は一口飲むなり、「うめーわー、どっかの上級プレイヤー様んちで出された雑巾汁の億倍うめーわー」などと大声で言う。二度と淹れてやらないと誓う。
犬マスクは手袋を外し、缶コーヒーのプルタブを開け――そのまま犬の口のところからコーヒーを飲む。いやだから脱げと思う。
「つーわけで、運動後のお茶しに来たわけじゃないんで。全部話してもらうよ、タカハナさん」
タカハナ? 高花? ギンチョと同じ苗字?
彼女がマスクを脱ぐ。脱ぐんかいと思う。
ふぁさっと長い髪がこぼれる。綺麗な栗色の髪だ。なんかいいにおいもする。
青い目に白い肌。欧米の人だというのはわかる。明智と同じくアラサーくらいか。あの激しいアクションぶりの印象とは裏腹に、思ったよりも柔和そうな顔立ちだ。間違いなく美人。
「アビゲイル・タカハナ。この国ではこの名前を使用している」
流暢な日本語だ。あのインチキくさい外タレ殺し屋コンビとは比較にならない。
「タカハナさんはIMODのダンジョン理事会の諜報活動員だ」
「だった、です。すでに辞表を提出し、同僚に追われる立場です」
えっと、今、IMODって言った? 諜報活動員って、さらっと言った?
「彼女はこの施設でギンチョの世話係をしていた。研究所お抱えのプレイヤーとして、諜報員の身分を隠して潜入していた」
「えっと、ちょっと待って。IMOD? 話でかくないっすか? つーか、ここにギンチョがいた?」
「君の言うとおり、ファミレスで君に話したギンチョの身の上話はほぼすべて嘘だ。あたしらで適当につくったストーリーだ。それなりに踏み込みづらい設定にしておけば、君もおいそれとは触れてこないかなって想定だった。思い返してみると結構雑だなーと思うのはあんまり時間がなかったからと言い訳しておく」
確かに、千影としても触れようか触れまいかさんざん迷いまくっていたのは事実だ。
「ここは、表向きは米国の企業が所有する液体濾過システムの研究施設だったが、その実体は米国のとある超党派議員らの政治団体の息のかかった遺伝子工学研究施設だった。ダンジョン由来のウイルスの研究を目的としていたが、別の研究も行なわれていた。とりわけプレイヤーの体細胞を元にしたヒトクローンの創造だ。結論から言うと、それがギンチョだ。ギンチョはここでつくられた」
ひゅう、と風が吹き抜けていく。背中の汗が冷たく感じられる。
「はい、ここで無知な早川くんにクエスチョン。プレイヤーが結婚して子どもが産まれた場合、親の身体に付加されたアビリティは遺伝すると思う?」
「あ、えっと……しないって、どっかで読んだことがある気がします。理由は知らないけど」
小人化する【ブラウニー】を投与した亜人プレイヤーが結婚して子どもが産まれても、普通の大きさの子どもだったという。両親いずれもプレイヤーの場合でも、彼らのアビリティは一切子どもに受け継がれないらしい。
「一番つまらん答えだな」明智はちっと舌打ちする。「正解だけど理由わかんないって。空気読めよ」
「理不尽にいびるのはあとでいいんで、話進めてください」
「ダンジョンのウイルスを人の手で培養できないか。それを模索するにあたり、この施設が手を出したのがヒトクローンだった」
タカハナが話を継ぐ。
「プレイヤーに投与されたレトロウイルスは、その子孫には遺伝しない。生殖細胞の遺伝子にはレトロウイルスによる変異が起こらないから。脳細胞を含むほぼ全身の細胞をつくりかえる【ベリアル】や亜人タイプのウイルスでさえ、生殖細胞には組み込まれない。ダンジョンウイルスによる変異は一代限りのものだということね。ウイルスの培養も、感染者の生殖による個体増殖も不可能。行き詰まった研究者たちは、プレイヤーの体細胞からのヒトクローン生産という禁忌に手を出した」
体細胞クローン。そもそもそこがいまいちわからない。そう言うと、明智がスマホ片手に軽く説明してくれる。
体細胞から核をとり出して、逆に核をとり除いた卵細胞に移植する。それを別の親に移植して出産させる。そうすると、核を提供した人と同じ遺伝子を持つ子どもが産まれる。人間のコピー技術ということらしい。以上、ウィキプリオより。
「ちなみに――」と明智。「ヒトクローンの創造は日本でも米国でも法律違反だし、国際的にも条約違反だ。立派な犯罪行為だし、多数派の倫理観では神や生命を冒涜する所業だと言われたりする」
「それも結局はうまくいかなかった」とタカハナ。「どういうわけか、ダンジョンウイルスが組み込まれた体細胞では、卵細胞が仮親の体内に定着しなかった。ダンジョン由来の技術や素材を用いた人工子宮システムも開発されたけど、それでも無理だった。まるであらかじめそうプログラムされていたかのように。ダンジョンウイルスのコピープロテクトは想定以上に執拗で強固だったということね」
えっと。またなんの話かわからなくなってくる。
「あの、そもそもそこまでしてダンジョンウイルスを増やしたい理由って、なんなんですか? そりゃ金にはなりそうですけど」
「一つは軍事力」と明智。「国際ダンジョン条約で、各国の軍籍者やいわゆるならずもの国家の有国籍者などのダンジョン進入は禁止されている。ダンジョンウイルスは金のない小国にはまたとない軍事力拡大の切り札になるからね。それを懸念した大国が世界のパワーバランスを保つためにそういうルールをつくったわけだ。まあ、人道上の観点とか他にもいろいろ理由はあるけど」
「実際守られてるんですか?」
「そらまあ、抜け道なんていくらでもあるし、実際みんなこっそりやってんだろうけどね。軍事力のセオリーが無人機に移行しつつある昨今、それをつくる金もない国にとっては全員【ベリアル】持ちの超人部隊なんてつくれたらコスパ最高なわけよ。とりわけゲリラに悩まされてる小国なんかにはね。次世代の戦争はダンジョンのせいでデジタルからアナログに回帰する、なんて学説を唱える学者もいる」
大佐萌えの戦争映画やアメコミヒーロー映画がまんま実現するわけか。
「でも、米国はそうじゃないし、お金もあるんじゃないですか?」
「そもそも米国国家主導のプロジェクトじゃないわ」とタカハナ。「その政治団体はダンジョン原理主義に似た思想を持つ人々の集まった超党派の組織だった。彼らのような者の中には、ダンジョンウイルスはヒトという種の進化の可能性そのものだと主張する者もいた。生物として行き詰まりつつある人類を次のステージへと導く福音となりうる存在だと。その未来への旗手となる栄誉を掴む野望を、そのグループは抱いていた」
「なんか話がでかくなりすぎてるんですけど」
「さっき訊いたじゃん、覚悟はあんのかって」
そうだけど。ここまでグローバルなスケールとは聞いてない。
「相当な資産家がバックについていたこともあって、研究には莫大な資金が注入されていた。それでも目に見えた成果はなかなか上がらず、時間と予算だけが浪費されていった。そんなとき、三年前、この研究所にある素体が持ち込まれた。ダンジョン内の特殊なクリーチャーの体細胞だった」
特殊なクリーチャーって、それって。
「それは地球人と酷似したゲノムを持っていた。まるで人類と枝分かれした兄弟と呼べるほどに。その細胞からクローニングを行なったところ、三百体以上のサンプルの中で、たった一体だけが成功した。人工子宮の中で胎児となっていく姿を見て、奇跡だと、無神論者ばかりの研究員たちでさえ祈りを捧げずにはいられなかった」
嫌な予感がする。うなじのあたりがぞわぞわしている。その先を聞きたくないと思う。
「情けないことに――」と明智。「あたしらはそのへんの真相をまったく把握できていなかった。だけど、早川くんが遭遇した黒のエネヴォラの情報、会話の内容、そしてタカハナさんの証言から、ようやく確信することができた」
「素体は、当時プレイヤーによって倒されたピンクのエネヴォラ。それを元につくられたのがギンチョだった。私がこの施設に送り込まれたのは、去年の十月、ギンチョが人工子宮から排出されて少し経った頃だった」




