プロローグ-2
二層エリア6はがらんとした荒地だった。クリーチャーのエンカウント率が低いとされる回り道のルートで、千影たちはエリア7に通じる岩壁のトンネルをめざしていた。
「このへんからクリーチャーも強くなってくるけど、レベル2が三人いれば心配はないよ」
千影にとっては生まれて初めての二層だったが、いつもと変わらない馬場が頼もしかった。
瓦礫や石や岩が無造作に転がるだけの殺風景な道の途中で、先頭を歩いていた馬場が突然、慌てた様子で後続に合図を送った。
止まれ、物音をたてるな。
行く先に人影があった。黒っぽい宇宙服のようなスーツをまとった人間のようだった。
「……エネヴォラだ……」
そう言った馬場の額には大量の汗がにじんでいた。
「二層での出現事例はなかったはずなのに……」
ド新人の千影でも、その名前と危険性は講習の際に幾度となく聞かされていた。仲間たちから一歩遅れて恐怖に駆られ、一気に呼吸が荒くなり、内藤に口を押さえられた。
マジで? やばくない?
プレイヤーになったばっかなのに、ここで死ぬの? 理不尽すぎじゃね?
「急いでここを離れよう、俺たちが束になってかかっても、到底歯が立つ相手じゃない」
馬場の提言にみんな無言でうなずき、すぐに踵を返した。足音を殺し、一歩、二歩、と慎重に歩きはじめたとき。
「あれえ、気づいてないと思ったの?」
岩陰から、黒いフルヘルメットの頭が千影たちを覗いていた。
逃げろ、とさけんだ馬場が最初に殺された。黒に頭を掴まれ、手頃な岩に押しつけられた。血と脳漿がペンキをぶちまけたみたいに岩肌に広がった。
内藤と高坂は、刃状に細く伸びた右腕の一振りで同時に足を切断され、二人で左右対称になるように順番に身体の部位を切り離されていった。
春日は誰よりも速くその場を離れていた。黒が追いかけていって数秒後、遠くで彼女の悲鳴があがった。それは数分にわたって続き、やがて途切れた。
千影はその場にへたりこんだままだった。胃の中身を全部吐いて、失禁もして、涙のにじむ目で三人の死体をぼんやり見つめていた。
ざっざっと砂利を蹴るような足音がして、黒が戻ってきた。千影の目の前で立ち止まり、覗き込むように頭を近づけた。げっそりとした自分の顔が、返り血に濡れたヘルメットに映っていた。
「お前が一番ザコだってのはわかってた。だから最後まで残してやった。どうよ、絶望は楽しめたか?」
ヘルメットの奥から聞こえてきたのは、若い男の声だった。
「このまま仲間とおんなじようにしてやってもいいんだけどさ、今日は機嫌がいいから、ワンチャンあげちゃおっか的な気分なんだよね」
黒は腰を上げ、うーむとうなりながらすたすたと左右に歩きだした。
「どうしよっかなー……そうだ、今から左右の手で一発ずつ、お前を殴る。両方ともかわせたらそのまま見逃してやる、ってのはどうかな? きひっ、俺ってマジ優しいね。どうだい、もうチャレンジするしかなくね? ほら、まずは立って。生きることを諦めないで」
言われるまま、震える足で立ち上がった。思考はだいぶ前から停止していたが、一つの意志が千影の脳を支配していた。
仲間を失った悲しみも、仲間を奪った敵への怒りも憎しみもない。
怖い。死ぬのが怖い。死にたくない。ただそれだけだった。
「よっしゃ、じゃあ始めるか。よーく見てかわさないと、すぐ終わっちゃうぜ?」
黒はボクサーのようにひょいひょいとステップしたかと思うと、間髪入れず千影の脇腹めがけて回し蹴りを放った。
完全な騙し打ち、目にも止まらないスピード。それでも千影がのけぞってかわしたのは、予期していたからではなかった。まったく反射的、本能的な動きだった。
黒は呆けたように動きを止めていた。まったく想定外だったようだ。
「へー……」
ビュンッ! と耳元で空気が裂けた。左の拳、その圧力だけで耳の周りの皮が削られ、それでも直撃は免れた。
「……マジかよ。お前、レベルいくつ?」
「……い、いち――」
答えるのと同時に右の拳、今度は腹めがけて。身をよじって回避。シャツが破けた。
「……なんで? なんでかわせんの?」
自分でもわからなかった。呼吸は乱れ、すべての筋肉が軋み、すべての内臓が悲鳴をあげていた。
それでも意識は、目の前の男の動作にだけ集約されていた。ゴキブリ並みの反射神経――初めてひとに褒められたその能力が、目と鼻の先数ミリにまで迫った死を前にして、限界まで研ぎ澄まされていた。
だからこそ、約束破りの三発目、四発目の拳もかわすことができた。よろよろと数歩あとずさり、岩にもたれかかった。もはや肺が破れそうで、うまく呼吸できない、もう動くのも限界だった。
きひっとヘルメットの奥から笑い声がもれた。
「きははは、おもしれえじゃん。最後の二発、そこそこマジだったのに。レベル1の反応じゃねえな。モブ顔のくせしてやるじゃんか、少年」
黒はぱたぱたと拍手し、親指を立ててみせた。
「いいぜ、約束どおり見逃してやる。お前は生かしておいてやる」
そのセリフを脳が理解すると、とたんに千影の身体から力が抜けていった。安堵でへたりこみそうになった、その瞬間。
「ほれ、お土産」
どす、と肉を破る音がした。腹に、へその少し上くらいに、黒い棒が刺さっていた。黒の腕から細い針のような突起が伸び、それが千影の腹を貫いていた。きひっと黒は笑った。
「きはは、安心しちゃダメだって。絶望ってのは大抵、希望のあとにやってくるんだから」
ずりゅ、と突起が引き抜かれた。どろっと血がこぼれだし、耐えがたいほどの痛みが一気に脳天まで走った。ああ、と悲鳴にならない悲鳴を漏らし、千影はその場に崩れ落ちた。
「だいじょぶだって。すぐに死にゃしないし、これで終わりにしてやるってのはマジだから。俺も絶望でじゅうぶん腹いっぱいだから」
ヘルメットが目と鼻の先まで迫っていた。自分の顔を反射するガラスの奥に、悪魔のようににたりと笑う口が見えた気がした。
黒はスーツの胸元に手を当て、ずぶっと指を突っ込んだ。そこからずるずると箱のようなものを抜き出し、倒れている千影のそばに置いた。
金色の小箱――スキルシリンジの入った箱。実物を見るのは初めてだった。
「これは餞別。俺を倒したときのドロップアイテムらしいけど、そんなん誰も一生ゲットできないじゃん? お前にくれてやるよ。なんとかってスキルのやつだ」
黒が立ち上がり、千影に向けてひらひらと手を振った。
「じゃあな、命があればまた遊ぼうぜ。えっと、名前知らねえや、モブ顔のなんとかくん」
今にも気が変わって、とどめを刺しに戻ってきたりして。そんな風に思ったが、足音が遠ざかっていき、そのまま戻ってこなかった。
腹の傷は小さいながら、背中まできちんと貫通していた。軽く触れるだけで激痛だし、身じろぎするだけで激痛だった。血はだらだらとこぼれ続けていた。
あたりを見回せば、仲間だった人たちの死体が転がっていた。
このまま死ぬのもいいか、とは思えなかった。ここで死にたくない、と強く思った。
*
気がつくとベッドの上だった。看護師から地上の病院だと教えられた。
一層行きのエレベーター近くまで自力で戻った。そこまでは憶えていた。
そのあと気を失った千影を、通りがかったプレイヤーが発見し、駐屯地の診療所まで運んでくれたそうだ。そこで応急処置を受け、この病院に搬送されてから三日が経っていた。
助けてくれた人は、名前も告げずにそのままいなくなってしまったらしい。かなりのイケメンだったという噂だけが看護師まで伝わっていた。
枕元には小さな箱が置かれていた。気を失っている間もずっと、抱えて離さなかったらしい。
血のしみで裏面の説明書きは読めなくなっていたが、中身のシリンジに掘られたアルファベットから名前だけはわかった。Mugen――【ムゲン】か。ダンジョンウィキでも見たことのないスキルだった。
プレイヤーをやめようかと思った。
こんな目に遭って、またもう一度あの場所に戻ろうなんて、正直考えられなかった。
たまたま遺伝子的に適正があるとわかって、他にやりたいこともなくて、高校にも行きたくなくて、意外と面白そうだしお金も稼げそうだし、子どものときにサウロンに会ったのも偶然ではない気もして。プレイヤーをめざしたのは、そんなふわっとした動機からだった。
退院したら免許を返上して、普通にどこかでバイトでもしよう。
いや、最後に手に入れたスキルシリンジ。きっと高く売れる。バイトなんかしなくてもしばらく食いつなげそうな気がする。
そうだ、それがいい。それでいい。
――逃げんの?
逃げるよ。別に恥ずかしいことじゃないし。生きることが最優先だし。
――あの黒のエネヴォラから?
そうだね。もう一度あれと出くわしたらって、考えただけでチビる。心臓が止まる。
――こんな僕によくしてくれた先輩たちを殺されておいて?
そりゃ……そうだけど……。
――これまでの人生で、あんなにも自分を見てくれた人たちがいたっけ? あんなにも自分を必要としてくれた人がいたっけ?
――そんな彼らを、嘲笑うように踏みにじったあいつを、許したままでいいの? 野放しにしといていいの?
そんなこと言ったって、じゃあ僕一人で黒のエネヴォラを倒せると思う?
できないことに挑むのは無謀で、それは自分の性分に合わない気がする。
僕はもっと現金で、ドライで、臆病で、ジコチューな人間だ。
そうだ、合理的に考えればいい。復讐なんてしたところで、誰も喜んだりしない。
――じゃあ、合理的に考えてさ。なにもせずに逃げ出して別の世界で生きていく自分を、この先ずっと許し続けられる自信はある?
――非合理的かもしれない、無意味かもしれない。それでも、合理性だけが正解なの?
――正解ってなに? なんのためにあるの? ただ生きるだけの人生が、本当に正解と言えるの?
そんなこと言ったって、そんなこと言ったって、そんなこと言ったって――。
――なにができるかじゃなく、なにをしたいか、なにをするべきかを考えようよ。
――ここでふんばることに、一つも意味がないなんて言えるの?
――プレイヤーとしてやれることは、もう一つも残っていないの?
夢の中なのか起きているのか、自分でもよくわからない時間がすぎていった。
気がつくとシリンジを握りしめていた。
千影は歯を食いしばり、それを左腕に押し当てた。




