エピローグ
ギンチョは変わった女の子だ。
ライオンより肉好きで。白目剥くほど野菜嫌いで。
世間知らずで。ときどき慇懃無礼で。
羨ましいくらい女にモテて。
どうしようもないくらいビビリで。感嘆詞がいちいち意味不明で。
汚い大人にダンジョンウイルスを投与されて。
それでもバカみたいに素直で、僕のようなやつに懐いて。
いろいろ変テコでも、普通の女の子じゃないか。
なんでダンジョンに行きたいなんて思ったんだろう?
ダンジョンにいなきゃいけないって、どういう意味だったんだろう?
なんで僕なんかを庇ったりしたんだよ?
なんで僕なんかと一緒にいたんだよ?
部屋に響く絶叫が、自分の口から溢れているものだと、千影は気づかない。
なにも考えられない。思考が言語の形をとらない。
ギンチョの顔が脳裏に浮かぶ。笑っている。肉を食べて頬を緩ませている。怯えている。笑っている。ビビって泣いている。照れている。笑っている――
頬を重い衝撃が襲う。床になぎ倒される。
うるせえよ。
誰かの声がする。頭に入ってこない。
胸ぐらを掴まれて引き起こされる。身体に力が入らない。全身の骨を奪われたみたいにぐにゃりとしている。
どうしようか。このまま生かしとくのもありかもな。そのほうが絶望だろ?
男の声がそんなことを言う。
意味がわからない。どうでもいい。もうなにも、なにも――
「――がぁっ!」
短い悲鳴とともに、千影の身体が投げ出される。それが千影の意識を現実に引き戻す。
顔を上げると、目の前に黒が立っている。顔を歪めている。その首に銀色の毛むくじゃらがひっついている。
黒の手がそれを掴み、ぶちぶちと引きはがして床に投げつける。首元の肉が大きくえぐられている。ぼたぼたと大量の血が流れ落ちる。
「くそが……いてーじゃねえか」
床に落ちてごろんと転がったそれが、ぐぐっと起き上がる――ギンチョの上半身だ。
「忘れてたよ、その能力……シヴィのまがいもんだもんな、その程度じゃ死なねえか」
腕で床を蹴るように跳ね、血の海に浸るもう半身へとしがみつく。切り口と切り口が重なると、ぴきぴきと乾いた音とともに断面の肉が伸び、触手のように絡み合い、接合されていく。
「……ギンチョ……?」
ゆらっと頭を左右に揺らしながら、ギンチョが立ち上がる。銀髪が柳のように垂れ下がり、その顔は見えない。
なにが起こっているのかわからない。わからないけど。
千影の脳が再び動きはじめている。
「……ギンチョ……お前……」
死んだんじゃなかったの? 身体が二つになったのに、なんでくっついてんの? ホラー映画かよ。
ぼたぼたと血の垂れる首筋を押さえたまま、黒が一歩二歩とあとずさる。
その足元から突如、幾筋もの蔦のようなものが現れ、びゅるんっと黒の全身に絡みつき、その動きを拘束する。
「ちっ、時間かよ! まだ終わってねえ、もっと遊ばせろ! 〝ダンジョンの意思〟!」
床が液状化したかのように、黒の足がずぶずぶと沈んでいく。声の限りに悪態をつくうちに腰まで、蔦を無理やり引きちぎろうともがくうちに胸まで。これがエネヴォラの時間切れか。
「ま、待て――」
とっさに千影の口がそうさけぶ。考えなしに、ほとんど反射的に。
黒が千影のほうを向く。そして口の端を持ち上げて笑う。
「次に出る場所と時間は決まってる。運がよければまた会えるかもな。きひ――」
とぷん、と頭の先まで沈みきると、床はほんの少し波打ち、そしてなにもなかったかのように元の石床に戻る。残されたのは散らばった黒の血痕だけだ。
思いがけず訪れた静けさの中で、千影は全身から力が抜けていくのを感じる。
ギンチョのほうを振り返る。
視界に飛び込んできたのは、裂けんばかりに口を開け、眼前に迫る影だった。
ばつん、と顔の右側でなにかが切れたかと思うと、音が消える。ヘッドギアが床に落ちる。
反射的に顔を背けた。それでも避けきれず、耳とその周りの肉をもっていかれた。
なにを避けた? なににもっていかれた?
血が噴き出す。灼けるような痛みを感じる。構わずに後ろを振り返る。
ギンチョが背中を向けてうずくまっている。頭を上下に揺らしている。ぐじゅぐじゅと咀嚼音のようなものを残った左耳が拾う。
「……ギンチョ……?」
千影の呼びかけに応じるように、ギンチョが振り返る。
垂れ下がる前髪から覗く目は、ピンポン球のように丸く見開かれている。銀色だ――瞳も白目も、妙に透き通った綺麗な銀色になっている。
もちゃもちゃと口元が動いている。唇の周りにはべっとりと血糊がついている。
「ギンチョ……なんで、僕を食ってんの?」
ごくん、と口の中のものを飲み込み、げふっと一息つく。そしてまた、千影を見据える。
表情がない。昆虫みたいに無機的に、獲物を凝視するような眼だ。
「おい、聞いてんのか、ギンチョ」
かぱっと口が開く。前かがみになって床に手をつき、そのまま四つ足で突進してくる。
ああもう、全然わけがわからない。
ギンチョが死んだ。なのに生き返った。そして肉を求めてあんなに口を開けている。
お昼前だからかな。リュックどこにやったっけ。弁当を差し出せば、もう噛みつかれなくて済むのかな。でも無理だ、もう間に合わない。
ほんとにもう、考えるのも疲れた。避ける気力もない。殴られた腹もかじりとられた耳も痛い。いや、もう耳はないのか。顔が痛い。
ギンチョの顎が迫る。千影の首あたりに狙いをつけているようだ。
まあいいや。食べたいなら食べればいい。ギンチョに食べられるならそれでいい。
それでもう、考えなくて済むのなら――
バキッ! とギンチョの身体が吹き飛ぶ。横倒れになって床を滑っていく。
「……どうなってんの、これ……」
ギンチョと入れ替わるように、千影の目の前にバトルメイスが転がっている。横合いから投げられたそれがギンチョを直撃したようだ。
振り返ると、真っ白な女が脇に立って千影を見下ろしている。
白髪、尖った獣耳に端正な顔立ち、ふさふさの尻尾。そして巨乳。
「……で、ボクのギンチョはどこ……?」
眠たげな声で〝白狼〟こと直江ミリヤは言う。
「……今吹っ飛ばしたアレがそうです」
千影も疲れきった声で応じる。
ギンチョがふらっと頭をもたげ、髪の隙間から千影と直江を見る。どちらが食いでがあるかを品定めするみたいに。
「どうなってる……あの愛らしい奇跡の子が……海外のB級ホラー映画みたくなってる……」
「わかんないです……殺されたと思ったら生き返って、肉を求めて暴走モードです」
「……殺された……誰に……?」
「黒のエネヴォラに」
直江がちらりと千影を見て、すぐにギンチョに目を戻す。
「……死んでも生き返るアビリティなんて……聞いたことがない……」
「こっちだって……もうなにがなんだか。わからない、考えたくもない……」
どかっと足裏で肩を蹴られる。ゴツい安全靴だからなおさら痛い。
「……考えろ……あの子を元に戻す……方法を考えろ……」
かぱっとギンチョの口が開く。品定めが終わったようだ。
「……ザコは頭使うしかないだろ……首の上に乗ってんのはチ〇コか……?」
四つ足、一気にダッシュ。向かう先は――直江のほうだ。
バトルメイスの柄がギンチョの口をふさぐ。がちっと噛みついたまま、それでもギンチョは止まらない。爪を立てて直江の腕にしがみつき、直江の背後の柱へと押し込んでいく。
直江も本気を出してはいないだろう。それでも渡り合うギンチョは、スピードもパワーも、レベル1のものではない。
考えろと言われても。今さら自分になにができる?
全力を尽くした。絶対に殺したいと思っていた仇に、自分のすべてをぶつけた。
なのに軽々と返り討ちをくらった。思うさま嘲笑われ――目の前で仲間を殺された。
心なんかボッキボキに折れてしまった。いっそミキサーにかけて粉々にして海に撒いたほうがいいくらいに。
これ以上、自分になにができるんだろう?
ずりずりと床を削るように、ギンチョが柱のほうへと押し込んでいく。
その小さな背中が――あのときの、黒から千影を庇うように立ちはだかった、あの背中と重なる。
ギンチョは生きている?
ギンチョを元に戻す方法はある?
わからない。無理かもしれない。
それでも――小賢しく考えることはできる。
つーかさ。それくらいしかとりえがないだろ、早川千影。
直江がふっと力を抜くと、跳躍し、背後の柱を蹴ってふわりと宙返りする。華麗な着地とともに距離をとる。
ギンチョは左右に首を振り、後ろを向き、また直江を視界に捉える。
あのとき、ギンチョは確かに身体を両断された。ギンチョは一度死んだ。いや――死んでいなかった?
――その程度じゃ死なねえか。忘れてたよ、その能力。
黒はそう言っていた。ギンチョのこの状態はその能力とかいうやつのせい?
もう一度、ギンチョが突進する。直接の噛みつきでは届かないと学習したのか、今度は手から掴みにかかる。
大振りとはいえ、そのスピードは千影にも迫るほどだ。それでも直江は最小限の動作でかわす。じゃれつく仔犬をあしらうかのように、彼女の尻尾が優雅に揺れている。
ギンチョの目が――左目が、さっきまでの異常な銀色ではなくなっていることに気づく。ひどく充血しているが、元の白目と赤みがかった瞳に戻っている。
あのとき、黒の肉を食い、すぐさまもう半身と接合した。
千影の肉を食い、片目が元に戻っている。
ダメージを回復している? 食べることで?
肉体の激しい損傷で発動する自動的なアビリティ?
その損傷を捕食で補う能力?
だとしたら――。
「直江さん! ギンチョを止めて!」
直江の目が千影を垣間見る。迫るギンチョの顔に、直江の尻尾が当たる。視界を奪われたギンチョが一瞬怯み、その隙をついて直江が背後に回る。
羽交い絞め。両手でがっちりとギンチョの身体を拘束する。
ギンチョがもがく。力の差を見ればそれをほどくのは不可能だ。それでも足をばたつかせ、直江の太ももや腰を蹴る。直江がわずかに顔を歪ませる。
千影は立ち上がる。足が言うことを聞かず、頭も重い。自分の身体ではないみたいに。
あっちこっち傷だらけ。血を失いすぎている。おまけに肋骨も折れている。
その上、仮説の検証のために、もっと痛い目が待っている。
それでもやるしかない。直江には頼めない。自分がやるしかない。
ただの子守りクエストだとしても。嘘となりゆきで始まったチームだとしても。
僕はギンチョのメンターなんだから。
ギンチョはたった一人の仲間なんだから。
千影は足を引きずるようにして、ギンチョと直江の前に立つ。
ギンチョは声にならない低いうなりをあげながら、その口を開いてあぐあぐと宙を噛んでいる。
「……なにかわかったか……?」
「……わかんないけど……やれることから試してみます」
左腕の袖をまくり、ギンチョの前に差し出す。骨に近い外側ではなく、肉の厚い内側を。
「……なにを――」
直江が言うより先に、ギンチョの歯が腕に食い込む。皮膚を破る痛みを感じる間もなく、その歯は躊躇なく肉を食いちぎる。
痛すぎる。目に涙がにじむ。押さえる指の間から血はぼたぼたと流れ落ちる。
「……もう一口くらい、いっとく?」
言葉が通じたのか、もう一度腕を差し出すと、遠慮なくさらにがぶっともう一口。痛みで気が遠くなる。膝から崩れ落ちそうになる。
せっかく振る舞った新鮮なお兄さんの肉、せめてもう少しおいしそうな顔ができないものか。
「この際だから……右腕もいっとく?」
無表情のままもちゃもちゃと咀嚼するギンチョの頬に、
「それでも足りなきゃ……もういいや、全部食っていい」
千影の血まみれの指がそっと触れる。
「だから――戻ってきてよ、ギンチョ」
ごくん、と千影の肉がか細い喉を通る。
もがいていたギンチョの身体がぴたりと動きを止める。いや、小刻みに震えている。なにかに抗うかのように。
右目の銀色が消えていく。その目から赤い涙がこぼれ落ちる。血糊で汚れた唇が薄く開く、必死になにかを求めるかのように。
「……おにーさん……?」
その声を聞いたとき、千影は、耐えがたいほどに胸が熱くなるのを感じる。
すとんと尻から床にへたりこむ。天井を仰いで大きく息をつく。
最初にかける言葉は決めてあった。
「――帰ったら絶対野菜食わすからな」
1章終わりです。お付き合いいただいてありがとうございました。
次は2章です。シーケンス的に2ですが、1章の後編みたいな感じです。
引き続きよろしくお願いします。
ここまでの感想、レビュー、評価などをいただけると大変嬉しいです。
よろしくお願いします。




