5-8:滑り落ちる
――【ムゲン】。
脳のスイッチが入る。千影の見る世界はその瞬間から速度を緩める。
終わりだ、と千影は思う。口には出さない、出しても相手には聞こえない。
スローモーションのようになった黒の首筋に、千影の振るう刃が吸い込まれていく。
その褐色の肌に刀身が食い込み――そこで止まる。
刀の鎬を、黒の左手が掴んでいる。
え、なんで? 【ムゲン】に反応した――?
黒は口の端を耳まで届かんばかりに持ち上げている。
肌が粟立つより先に、千影は反射的に地面を蹴っている。
黒の握りしめた右手が、ごうっと空気を裂いて千影の腹に飛び込んでくる。【アザゼル】で防御、いや間に合わない――
ずどん、と鈍い衝突音とともに千影が空中を飛ぶ。腹筋と内臓が根こそぎえぐりとられたかのような衝撃。背中から壁に激突する。
肺が、息が。痛みが、震えが。うずくまってもだえるしかない。
とっさに後ろに跳ばなければ終わりだった。内臓も背骨もミンチになっていた。
「なーんてな。ちょーし、のっちゃった?」
「おにーさん!」
ギンチョがぱたぱたと駆け寄ってくる。
ダメだ、来るな。そう言おうとしても声が出ない。
「レベル4ってとこか。さっきの加速、俺がくれてやった切り札だろ? でもさ、俺がほんとに忘れてると思ったの? 俺が警戒してないと思ったの?」
千影は犬のように大きく口を開け、どうにか空気をかき集めようとする。膝を立てて立ち上がろうとする。それでも身体にうまく力が入らない。上体を支える腕が震える。
【ムゲン】に反応できる爆発的な速度。この身で感じた膂力。
あれが黒のエネヴォラの本当の力。レベル5どころじゃない、7か、8か。それ以上か。
――届かない。
これほどの差が。絶望的なまでの差が。
「きひひ、その顔が見たかったんだよ。復讐にメラメラしてるところでさ、いけるって思った矢先、真っ逆さまにすとんと落ちてく感じ。ああ、絶望って最高だなぁ!」
黒は千影の刀を右手に持ち替え、得意げにひゅんひゅんと振るってみせる。
「さて、もうじゅうぶん楽しんだよ。こないだは気まぐれで逃がしてやったけど、今回はちょっと迷うとこだよな」
千影は力の入らない手で〝えうれか〟の筒を抜き、槍を具現化する。それにすがるようにして上体を起こす。
「やっぱ殺しとくかなー。スキルくれてやった仲だけどさ、あんまり特別扱いもキモいじゃん? お前もさ、絶望もいい加減お腹いっぱいだろ? もう死にたいだろ、え?」
身体が震えている。心臓が怯えている。それでもまだ、頭は動き続けている。
弱点はないか? 針の穴サイズでいいから、つけ入る隙はないか?
【ムゲン】でやつを上回る瞬間をつくる、それにはどうしたらいいか?
あるいは時間を稼げないか? こいつの時間切れまで踏ん張れないか?
このままじゃ終わりだってことはわかってる。
それでもまだ、終わってない。終わるまでは終われない。
「……ああ?」
黒が訝しげに首をひねる。千影も一瞬、思考が止まる。
目の前にギンチョが立っている。千影を庇うように、相手を制止するように、両手を広げて立ちはだかっている。
「おにーさんを……もう、いじめないで……」
その小さい身体は、千影以上に小刻みに震えている。声はこれ以上ないほどかたくこわばっている。
「なんだ、リンクが切れてやがる」黒が苛立たしげに床に唾を吐く。「ってかお前、コントロールもできねえんだろ? まがいもんは引っ込んでろよ」
そうだよ、引っ込んでろよ。千影は声にならない声で言う。
いやいや、マジで想定外すぎだから。お前ビビりじゃん。なんで逃げないんだよ。なにもできないくせに、なんで僕を庇ってるんだよ――。
「そうだ、先に訊いとかなきゃな」黒が千影に向けて言う。「シヴィを殺したのはお前か?」
「……は?」
「違うよな。シヴィが死んだのは三年も前だ。てめえじゃねえ。シヴィを殺したやつ、シヴィをいじくってそのガキをつくったやつ。そいつの情報を吐け。そうしたらお前、もう一回見逃してやってもいいぜ?」
嘘だとわかっている。プレイヤーに絶望を与える、それが黒のエネヴォラの存在意義だとわかっている。そのためにまず嘘の希望を与えるのがこいつのやりかただ。
「……知らない」千影は正直に答える。「意味がわからない……」
シヴィって誰? ギンチョがつくられたってどういう意味?
わからない。頭がうまく回らない。ダメだ、考えろ。なにを考えればいいんだっけ? こいつを倒す方法? ギンチョと一緒に逃げる方法?
「そんなわけねえだろ。だったらなんでそいつを連れてる? シラを切ったところでお前にメリットなんてなにもないぜ?」
黒がすたすたと近づいてくる。ギンチョはそれでも千影の前から動かない。
「どけ、まがいもんが」
「わたしは……たかはなギンチョです」
黒がきょとんとして、それからぎしっと歯を軋ませる。
「むかつくな、シヴィと同じ顔でしゃべんじゃねえ」
黒が刀を握った手を横に構える。
「やめ――」
千影がさけぶより先に、それがギンチョの左から右へと通り抜ける。
ぴしゃっと千影の顔に血しぶきが飛ぶ。
赤く染まった視界の中で、ギンチョの半身がずるりと滑り落ちる。
5話はここまでです。お読みいただきありがとうございます。
次は1章エピローグです。できれば今日中にアップします。
引き続きよろしくお願いします。




