5-5:おにいさん
正直、一人だったら悲鳴をあげていただろう。嘔吐をこらえるのも難しかったかもしれない。
扉の先には広めの部屋がある。端のほうに寝袋やペットボトルが置かれていて、おそらく探索中のプレイヤーの拠点として使われていたのだろう。
無造作に転がっている。人の頭が。
それも一つではない。確認できる限り、三つ。
胴体もいくつかに分断されている。もがれた四肢は嵐のあとの小枝みたいに折れ曲がって散らばっている。
床は血の海になっている。まだ乾いていない、こんな風になってまだ時間が経っていないということだ。
「ギンチョ、僕がいいって言うまで部屋の外にいて。扉は開けたままにしておくけど、入ってくるな。絶対に」
「は、はう……」
むせかえるほどの血のにおい、臓物のにおい。クリーチャーのもので多少は慣れているが、それでも人のものだと思うと胃腸ごとリバースしたくなる。
頭の一つと目が合う。目は大きく見開かれ、口は苦しげに歪んでいる。一気に吐き気がこみあげてきて、壁際に朝食をばらまくことになる。昼食の前でよかった。このあと食べる気になれるかどうかは別として。
どうやったらここまでバラバラにできるんだ? レベル1や2のクリーチャーにそこまでの殺傷力があるだろうか? というか、こんな残虐な殺しかたをするだろうか?
真っ赤な水たまりの中にプレイヤータグが沈んでいる。拾い上げてみると、〝ノボル クリヤマ〟と書かれている。当然ながら知らない名前だ。
まず推測されるのは、PK。より高レベルのプレイヤーに殺された可能性。
ただ、〝バックスペース〟や〝怪人赤ヤギ〟といった超有名プレイヤーキラーが暗躍していたという数年前までならともかく(千影もネットで聞いた話しか知らない)、昨今は取締りや免許交付も厳しくなり、悪質なPK事件はめったにない。もちろん可能性はゼロではないけど。
いや、なにか違う。よく見てみる、見たくなくても見てみる。
ノコギリで引いたかのような、大雑把な切り口。災害じみた圧倒的な暴力性。その狂気と悪意を示す、命に至らない無用な傷の多さ。
この残虐性――千影はこれとよく似たものに触れたことがある。
膝が震えだす。呼吸が浅くなり、肺が痛む。胸元を掻きむしる。
「――あいつが、まさか」
ぴちゃ、と背後で水音がする。ギンチョが血だまりに足を踏み入れている。
「おい、ダメだ。見るなって、つか入るなって――」
その顔は表情を失っている。さすがにこんな惨状を目にして、いつものようにぎゃわーと騒ぐなというのも無理――いや、様子がおかしい。
瞬きを忘れた目は、焦点も虚ろなまま、千影を通り抜けてその先を見据えている。まるでそこに、自分にしか見えないなにかの存在を見ているかのように。
「…………いる…………」
「へ?(ギンチョ?)」
ぴちゃ、ぴちゃ、と靴が赤く汚れるのも構わず、ギンチョは歩きだす。入ってきた側とは反対にある奥の扉のほうに。
「おい、待って――」
千影の制止を振りきり、ギンチョは扉を開け、その先の廊下をぺたぺたと進んでいく。
ギンチョの靴が血の足跡を床につける。しかしその前にはペンキをこぼしたようなべったりとした赤い線が続いている。あの惨状を生み出したやつの進んだ跡だ。ギンチョのふらふらとした足どりはそれをたどっている。
「おい、待てって!」
それでもギンチョの足は動くことをやめない。意思とは切り離された別の生き物のように。
力ずくでも止めないと――そう思ったところで、床にうずくまっている人を見つける。髪の長い女だ。垂れ下がった前髪が顔を隠している。さっきの部屋の人たちの仲間だろうか。
しゃがんで覗き込む――こちらを向いているのは後頭部だ。首にはべっとりとした血糊と黒ずんだ帯状の痣がある。力ずくで百八十度ねじり折ったのだ。よく見れば手も足も、同じように反転している。
「……ふざけてる……」
恐怖を怒りが塗りかえていく。頭ではよくない兆候だとわかっている、落ち着けと自分自身に何度も呼びかけている。それでも湧き上がる感情を抑えるのが難しい。
まずはギンチョを止めないと。千影は小走りで足跡のほうへと追いかける。
あの子になにが起こっているのか。ショックでとり乱している、にしては様子がおかしい。呼びかけにも応じない。
なにか催眠術的な、洗脳的なものにかかっているかのような。でも一緒にいた自分にはなんの影響もない。考えてもわからない。
すぐにリュックを背負った後ろ姿が見える。扉、彼女の背丈の三倍以上はありそうな、大きな扉の前で立ち止まっている。
ざらりとした予感が背中を粟立たせる。「開けるな!」、千影の呼びかけを無視して、ギンチョは扉に身体を預け、もたれるようにして押し開く。
扉の先は、さっきの部屋よりもずっと広い、広間と呼べるような空間だ。壁の一面に窓枠が並び、外からの淡い光が注いでいる。柱にはなにか模様というか文字のようなものが彫られ、奥には祭壇らしきものもある。
おそらくここが中ボスの間だ。
でも、それらしきクリーチャーはいない。
広間の中ほど、柱のところに座ってもたれかかっている人影がいる。頭を上げ、こちらのほうを窺っている。
「……おにいさん……?」
そちらを見つめたまま、ギンチョがつぶやく。リュックが肩からずれて床に落ちる。
人影が立ち上がる。身長は千影と同じくらいだ。SF映画に出てくる宇宙服みたいな黒いボディースーツを着ている。ヘルメットの前面はスモークガラスで覆われている。それらのすべてが返り血でぬらぬらと煌めいている。
ふらふらと、ギンチョがそいつのほうに近づいていく。
「……シヴィ、か?」
男のヘルメットが真ん中から割れ、ひとりでにするするとスーツの襟に収納されていく。
素顔は若い男だ。つくりものみたいに整った目鼻立ち、小麦色の肌、緩くウェーブのかかった銀色の癖毛。似ている――その特徴も面立ちも、ギンチョと重なる。
「……いや、違う。お前は……きははっ、そういうことか!」
男はてのひらで顔を覆い、うつむく。身体が小刻みに震えている。
「俺たちは兄妹だ……遺伝子レベルでそう生み出された。リンクすればお互いの場所や感情もわかる、そういう風につくられた。だが、お前はシヴィじゃない。まがいものだ」
そしてはじかれたように、天井を仰いで笑いだす。おかしくてたまらないといった風に、腹を抱え、きひゃひゃひゃと甲高い笑い声をあげる。がらんとした広間にびりびりと響く。
「どうだ、見ているか、〝ダンジョンの意思〟! これが人間だ、これが命だ! なにも変わらない、俺たちもこいつらも! どの星へ逃げようと、命は同じことを繰り返す! 間違っているのは誰だ、俺たちか、それともお前か!? 誰がそれを決める、誰がそれを裁く!? 本当の〝エネヴォラ〟は誰だ!?」
千影はゆっくりと数歩進み、ギンチョの肩に触れる。軽く揺する。そのぼんやりとしていた顔に表情が戻り、はっと千影を見上げる。
「……おにーさん……?」
「もうさ、なにがなんだか、全然わかんないけどさ。ちょっと下がっててくれる?」
真ん中の筒を手にとる。ポーチに接続し、刀を抜く。りん、と刀身が静かに鳴る。
「僕のほうが先なんだ、あいつに用があるのは」
心臓が破れそうなほどに速く強く脈打っている。柄を握りしめる手が震えている。
「……一年半ぶりだね、エネヴォラ」
男はぴたりと笑うのをやめ、目を丸くして千影を見つめる。呆けたように小さく首を左右に揺らし、にたりと口元を歪める。
「……ああ、思い出した。その冴えねーモブ顔。まだ生きてたのか」




