1-1:早川千影
ダンジョン暦九年。
六月十八日、日曜日。
一層のエリア4まで来ると、そこいらを初級者が呑気に歩いているようなことは少なくなる。半ば観光名所と化したエリア1とは打って変わって、乾いた空気と緊張感が漂っている。
早川千影は二層に通じる道筋から逸れて、緑や青や紫の葉っぱがごちゃごちゃと生い茂る不気味な森の奥へと足を踏み入れていく。
ここではまだ他のプレイヤーとは一度も遭遇していない。今日は日曜日。それぞれが個人事業主である大半のプレイヤーにとっては週休制度なんて関係ないが、ポータルで働くダンジョン庁の職員は公務員気質のせいか土日になると明らかにやる気が低下する。それにつられる形で、日曜日を自主的に休日に設定しているプレイヤーも少なくない。よくも悪くもみんな日本の社会人だ。
人がいないということは、ソロプレイヤーにとっては獲物を横どりされる心配がない。そのぶんいざというときのリスクも高いが、誰かと鉢合わせしなくて済むのは気が楽だ。
重なり合う木の葉の隙間から、白っぽい光が降りそそいでいる。各階層の天井は発光する鉱石で覆われていて、擬似的な昼や夜がある。風が吹いたりするし、曇ったり雨が降ったりもする。とても屋内とは思えない空間だが、そもそもダンジョンに地上の常識なんて無用の長物だ。
地上はちょうど梅雨真っ只中。けれど、今日の一層は快晴、湿度もなく心地いい。防寒着はいらないし、ジャージ一丁でちょうどいい。
エリア4は色とりどりの木々が生い茂る森林エリアで、千影がいるのはその北側の奥まったところだ。東端にあるエリア5の迷宮への入り口から何キロも離れているため、用がなければ他のプレイヤーはほとんどこんなところには来ない。
千影がここを訪れたのは、他でもなくその用件があったからだ。
このあたりのクリーチャーの出現頻度はそう高くない。ただまれに、ごくまれに、エリアに不相応なレベルのレアクリーチャーが現れる。
ここに通いつめて三日目。日中はそのクリーチャーの出現を待ち、夜になったらさっさと地上に戻ってアパートでカップラーメンをすする。その繰り返しだ。
適当なところでいったん足を止め、目を閉じて、耳に意識を集中させる。聴覚強化のアビリティ【ロキ】を発動。
脳みそにぎゅるんっとスイッチが入り、〝音〟というデータの解析能力にリソースが傾けられる。百メートルくらい先の会話も聞きとることができる(周りが静かなら)。
小鳥の声、木の葉のこすれ合う音、風鳴り、無害な小型クリーチャーの足音。あまり長くはもたないから、耳を澄ませては脳を休ませてを繰り返し、あたりの状況をさぐり続ける。
三度場所を変え、ザコクリーチャーを何体か退け、そんなこんなで二時間経過。いい加減脳みそに鈍い疲れが混じりはじめた頃、広げた意識の片隅に、異変を感じとる。
「……来た」
目を開ける。聴覚強化を解除した矢先、そいつの甲高いおたけびがかすかに聞こえる。
千影はすぐにその方向へと駆けだす。三日目にしてようやく湧いたと思うと気がはやるが、あくまでも周囲への警戒は怠らない。慎重かつ臆病なのがソロプレイヤーの生き延びる極意だ。
極力足音を殺し、柔らかい草地を踏んで声の方向へと走る。もう一度おたけびがあがり、木々が震える。かなり近い。
いったん足を止め、そこらの木に登る。子どもの頃は一度も木登りなんてしたことがなかったのに、まさか十八歳にもなってこんなことするはめになるなんて。
体重を支えられる太い枝に足を置き、隣の木へ、そのまた隣へと移っていく。間もなく、わずかに開けた草地に出て、そこに目的の影が見える。
その体長は人間とあまり変わらない。こめかみに生える二本の角を含めても、百七十センチの千影と同じくらいだ。その中背とは不釣り合いなまでにがっちりと筋肉質な身体つきで、特に肩や胸は海外のプロレスラーみたいにぶ厚く盛り上がっている。
金色の体毛、虎のような尻尾。太く短い脚、逆に異様に長い八本の腕――肩から生えた左右の二本と腰から生えた六本。金色で覆われた体表のうち、手首から先だけが真っ赤に染まっている。まるで捕らえた生き物の腹を素手で割いたばかりのように。
顔の造形は猿に似ているが、口元だけ昆虫みたいに上下の牙がうねうねとしている。そして目が無数にある。顔に頭にも首にも、身体の上部に模様とか刺青みたいにぼこぼこと点在している。
百目の猿、ヘカトン・エイプ。エリア4で最もレアで、最も危険なクリーチャーだ。
「あ、やば」
先約がいる。三人、若い男女のチームだ。威圧的に仁王立ちするヘカトン・エイプから距離をとって囲み、それぞれナイフと剣鉈を構えている。
エリア1の駐屯地のPXで売っている安価な武器、怯えと興奮を隠せない表情。おそらくレベル1以下だ。
「ねえ、どうするの、これ……?」
「おい、後藤。やるぞ、いいか?」
「待て、ダメだ、俺が合図するから」
後藤と呼ばれた真ん中の男がリーダーらしい。三人の中では一番落ち着いているが、明らかに緊張しすぎて全身こわばっている。
彼らの気持ちはよくわかる。ここより前のエリアでも、あれより大きいクリーチャーはいる。けれど、小さいぶん逆に強さというか怖さというか、そういうのがぎゅっと凝縮されているような雰囲気がある。マンガとかでよく見る強キャラ的パターンだ。
当のヘカトン・エイプは身じろぎもせず、低いうなり声を漏らしている。顔を動かさなくても無数の目に死角はない。
「いいか、合図したら――」
ボグッ! と鈍い音が千影のところまではっきり聞こえる。リーダーの身体がくの字に折れながら吹っ飛ぶ。ちらっと仲間のほうに目を向けた、その一瞬で敵が一歩踏み出し、軽く左腕を振った、それだけだった。
リーダーが地面に叩きつけられて動かなくなる。ヘカトン・エイプが身体ごと残りの二人のほうに向き直り、同時に女性メンバーがその場にへたりこむ。
「お、おい。立て、逃げ――」
「キュォオオオオオオオオッ!」
男性の声をヘカトン・エイプのおたけびが遮る。がちゃがちゃした牙をいっぱいに開き、あたりに撒き散らすような甲高い遠吠え。
やばい、こらやばい。千影はリュックを放り出し、木の枝から一足飛びで二人と一匹の間近に着地する。
「こっち見んな!」
残った二人に向けてさけぶ。久しぶりに発声したものだから多少裏返る。
「こいつは目を逸らしたら襲ってきます。にらめっこしているうちは大丈夫」
自分も眼前の百目を見据えたまま、右手で腰に提げた筒に触れる。小さく咳払いしておく。今絶対顔真っ赤。
「レベルいくつですか?」
「え、あ」一拍ぶん置いてから、男が答える。「い、1。俺ら全員……」
ポップしたところにたまたま居合わせただけなのか、それとも無謀にも狙っていたのか。
「こいつは2・5相当って言われてますけど、まだやりますか?」
「え、いや……」
「もらっていいっすか? こっちレベル4です」
「あ、はい、どうぞ……」
ああ、何日かぶりにこんなに人と会話した。目を合わせずに済んでよかった。
ともあれ、エビデンス確保。
「さっきの遠吠えだけど、手下のイカザルを呼ぶ声だから、すぐにわんさかやってきます。下手に囲まれなければレベル1でもなんとかなるんで、がんばって」
それでもって忠告完了。あとでクレームとか訴訟とか面倒なことにならずに済む。