4-2:ググール先生とYDK
千影としては手加減の具合を変えた憶えはないのに、ギンチョの回避率は二日目を終えてもなかなか向上しない。
運動センスがどうのというより、攻撃されることを異常なまでに恐れ、思わず身がかたくなってしまう悪癖が根強い。二日目の停滞に本人はやや気落ちしているようだった。
千影としても、小さな肩をがっくりさせるキッズに特効薬的な励ましの言葉を気安くかけられるようなら十八年コミュショーやっていない。彼女が寝静まったあと、スマホを駆使してあらゆる答えをリサーチする。教えて、ググール先生。
「部活 後輩 褒めかた」
「女の子 なぐさめる 言葉」
「子ども やる気 スイッチ」
「体罰 指導 境界線」
〝飴と鞭〟というキーワードから着想を得た千影は、翌日、自分でもびっくりするぐらい的確に、すっかりへこみきったチビっこのやる気スイッチを押すことに成功する。
「僕の攻撃を十回連続でかわせるようになったら、赤羽で一番うまいラーメン屋に連れていってあげる」
三日目の回避率はおよそ三分の一まで向上し、夕方まで集中力を切らすことなく、ギンチョは野生の狼のごとく公園中を駆け回る。目標というのは人をやる気にさせるものだと改めて実感する。
「こつ! これがこつというやつですね! はう!」
「うん、まあいいんだけどね、うん」
コツというか慣れというか、ともかく打たれる前に硬直する癖はどうにか解消された。
最初の関門は突破。あとは身のこなしと判断力を、経験から身につけていくだけだ。
すっかり調子に乗って朝から興奮気味のギンチョで迎えた四日目。小雨が降っていて、今日は休みにしようかと提案するも、メンタル無双モードのギンチョは首を縦に振らない。
「おにーさん、きょうこそかぐごです!」
「別にお前が攻撃するわけでもないのに」
ビニール合羽を羽織っての鬼ごっこは、千影としてもなかなかしんどい。足元はぬかるんで動きづらいし、視界が悪くて距離感が掴みづらいからハンマーのブレーキしどころが難しい。
「ぬあっ! むひょっ!」
それでも、ギンチョの集中力は今日も途切れていない。最初の頃が嘘だったかのように、千影の攻撃をきちんと目で捉え、怖れることなく回避の一歩を踏み出している。おお、YDK。
「はふーっ! ななっ、はちっ!」
偶然もあるのだろうが、ここまで八回連続で回避に成功している。はひっはひっと息を切らしてはいるが、千影を凝視する目は興奮でぎらぎらしている。
芝生の上を駆け抜け、誰もいない野球グラウンドに入り込む。水たまりがぽつぽつとできているが、ギンチョは千影を警戒したまま器用にステップして泥水には入らない。たった数日で大した成長だ、ありがとうラーメン。
本気を出そっか。ちょっとだけ。
力を込めて踏み出した三歩の跳躍で、千影が一気に距離を詰める。ハンマーを大げさに振りかぶる。少しだけ殺気というか、威圧する意思を身体から発散させる。
「覚悟――」
「ひっ――」
見上げるギンチョの目に怯えが浮かぶ。そこで千影は一瞬、ほんのコンマ数秒、言葉にならない高速の思考に捕らわれ、静止する。
このまま振り下ろせば、おそらく頭のてっぺんに直撃する。ヘルメットをかぶっているし、しょせんぺひーだ。そこはいい。
でも、ここまで八回継続中。それがまたゼロになる。
ギンチョはへこむだろうか? またあのしょんぼりモードに戻ってしまわないか? 自信を失ったりやる気をなくしたりしないだろうか?
じゃあ、わざと外す? 手心を加える的な? でも教育的にそれでいいの? ちゃんと目標を自分で達成することが重要なんじゃね? えーとえーと、どうしたら――
「ギンチョちゃーーーーん、おべんとだよーーーーーー」
横合いから呑気な声が割り込んでくる。振りかぶった体勢のまま振り向くと、傘を差した丹羽がにこにこ顔で巾着袋をふりふりしている。それからようやく絶妙なタイミングすぎたことに気づいて、あっと口元を押さえる。
向き直ると、ギンチョの目は丹羽のほうというか昼メシに釘づけになっている。ゆっくりとこちらに目が戻ってくる。千影と目が合う。ぺひー。
*
懸念していた燃え尽き症候群やモチベーションの低下は見られず、翌日の五日目の終わりにはついに目標が達成される。
ギンチョはヘルメットを放り投げて芝生の上に倒れ込み、バンザイして「やったー!」とさけぶ。世界制覇を決めたボクサーのごとく。
「やりましたー! じゅっかい! わいでぃーけー!」
まあ、初日の苦労を考えればその喜びようもわかる。思い悩むのをやめた千影は、連続回避が終盤になっても同じ加減で攻撃を続けた。それをかわしきったのはまぎれもなくギンチョ自身の成長だ。ベンチで見守っていた常連の犬連れおばあさんも感動した表情で拍手している。
ググール先生から後輩の人心掌握術を学んで「デキるオトコ五級くらい」になった千影は、もちろん労うことを忘れない。彼女の頭にぽんっと触れ、「がんばったな」と声をかける。
「………………」
「…………ん?」
予想していた反応と違う。「はう!」とか「ラーメン!」とかバカでかい声で跳び上がって犬連れおばあさんをびっくりさせるかと思いきや、驚いたように千影の顔を見上げるだけだ。褐色だからわかりづらいが、その頬はうっすら赤くなっている気がする。
「ど、どした? まさか熱でもあるの?」
「な、なんでもないです。うひゃっ」
念のためその額に触れてみる。風邪などひかれたら明智に釜茹でにされる。ふむ、運動後の体温上昇なのか風邪なのか、わからない。ていうか流れでやってみたものの、こんな触診の経験なんてないし、意味があるのかもわからない。
「昨日の雨もあるし、風邪だったら大変だ。帰ってゆっくりしよう」
「はう」
「んで、明日、ラーメン行こっか」
「はう! ラーメン!」
うん、風邪じゃないな、たぶん。
帰宅後はしつこいくらい検温をするが、いずれも三十七度足らず程度、微熱なのか平熱なのか微妙なところ。明智に確認してみると、「彼女の平温くらい」という短い返信が来る。とりあえずひと安心だ。彼女の身も自分の身も。




