35:捜査協力
服部が中座し、すぐに戻ってくる。紙コップを四つ載せたお盆を持ってくる。
「すいません、お茶をお出しするのを忘れてました」
前回テルコのときは麦茶だったが、今回はコーヒーだ。明智はそのままぐいっと一息で飲み干す。千影もそのまま一口含む。ちょっと苦い。というか熱い。
「話の続きですが――」佐久間はマドラーですいすいとかき混ぜながら言う。「殺害と工作が未然に終わった時点で、じきに捜査の手が自分のところまで届くであろうことを悟っていたのでしょう。警察の捜査が自身へと及ぶ前に、やつはダンジョンへと逃げ込んでいた。計画的な犯行、そのわりにツメの甘いトリック、臆病さと大胆さ。彼はその澄ました仮面の下に、だいぶ破滅的な側面を持っていたようですね。殺人なんて真似を犯す人間なんて大抵そんなものかもしれませんが」
明智がぎゅっと拳を握りしめている。逃亡先がダンジョンとなると、捕まえるのは相当困難だ。広いし危険だしGPSも使えない。人海戦術を敷くにしても人員が足りないだろう。
「じゃあ……逃げ得ですか? 野垂れ死ぬ可能性のが高いだろうけど……」
「そういうわけにはいかないと、我々としては言うほかありません。それにもう一つ、是が非でも彼を確保しなければならない理由があります。彼は一人ではなく、奥さんとともにいる可能性が高いのです」
「えっ……奥さんもプレイヤー……?」
「いえ、ごく普通の人間です。飯田は自身のタグでプレイヤー用のエレベーターから、奥さんは観光用エレベーターから。それぞれ別の経路でダンジョンに入り、駐屯地で合流した。そしてプレイヤーの格好をさせ、駐屯地の外に逃げ出した。正門からでなく【スプリガン】を使って塀を越えたと思われます」
ポータルにはエリア1駐屯地直通の観光客専用エレベーターがある(厳密には資材の搬入や非プレイヤーの駐屯地スタッフも使用する)。都庁の展望フロア直結エレベーターみたいなものだ。管理がザルだった頃にそこから入ってダンジョンに姿をくらます人はまれにいたと、前に明智から聞いたことがある。ビザの切れた外国人とか、地上にいられなくなった逃亡者とか。
「飯田はレベル3の経験豊富なプレイヤーですが、同行者である奥さんはまったく生身の人間です。人質のつもりか、それとも愛妻との逃避行のつもりか、はたまた無理心中でも図ろうというつもりなのか」
服部が奥さんの顔写真を見せてくれる。飯田弥生、専業主婦、三十三歳。黒髪で品のよさそうな美人だ。どうやったら美人と結婚できるのだろう(素朴な疑問)。
「いずれにせよ、生身の人間である奥さんの命は風前の灯火と言わざるをえません。我々としても二人の確保を急がなくてはなりません」
「なるほど……」
それは確かに大変だ。しかしながら、なんでそんなことまで話してくれるのだろう。
そんなことを思うと、千影の中の嫌な予感はさらに膨れ上がる。
「今日お呼び立てしたのは、それについて早川さんに再度ご協力をお願いしたく。もちろん報酬はお支払いいたしますので」
「はあ(予感的中?)」
「なんでも早川さんたちが飼っているシモベクリーチャー……イヌまんくんでしたっけ?」
「はい、え?」
「ダンジョンでにおいからクリーチャーを追跡したと、ダン生研の職員の報告が話題になっておりまして。ならば姿を消した飯田を追跡することも可能ではないかと。広大なダンジョンをあてもなくさがし回るより、遥かに希望が持てる手段だと思われます。いかがでしょう、早川さん?」
千影はしばらくなにも言えなくなる。口をぱくぱくさせることしかできない。
「……早川さん?」
「……えっ、あ、いやいや」
「いやいや? 無理ということですか?」
「いや、無理かどうかじゃなくて……イヌまんを殺人事件の捜査に使うってことですか?」
話の潮目が変わっている。どこのタイミングでこんな流れに?
いや、最初からか。
最初からこれが本題だったのか、この人には。
「従来の警察犬では同じことは難しいのです。何度か警視庁から借り受けた実例がありますが、どんなに訓練してもクリーチャーに怯えてしまうのがほとんどで、去年の捜査の際には同行した捜査官の凡ミスで一頭死なせてしまったそうで。今回また貸してもらえるかどうかは微妙なところで、少なくとも嫌味の千個くらいは言われてしまいそうです」
「えっと……だからうちのイヌまんですか?」
「シモベクリーチャーでしょう? ダンジョンで活動するために生まれてきた存在だ。なにより実際、ダンジョン内での対象追跡に成功した実績がある。まさにうってつけの手段とは思いませんか?」
いやいやいやいや。
さっきから他人様の犬を道具扱い。部外者から見れば、偉い人から見ればそんなものなのだろうか。
千影は自分だけなら手伝ってもいいと思っていた。マコちゅんについて思うところもあったし、このままではもやもやするばかりだったから。もちろん可能な範囲でだが。
それでも、こうなると話は別だ。殺人犯のところまで追跡させるなんて、そんな血なまぐさい事件にイヌまんを巻き込みたくない。
なにより、今回一度で済まなそうなのが怖い。似たようなケースで何度も捜査協力に駆り出される羽目になりそうで。
「ふむ……あまり乗り気ではなさそうですね?」
「はあ……まあ……」
「シモベクリーチャーの有用性を示すチャンスじゃないですか。ひいてはそれがシモベ全体の地位向上にも役立つし、めぐってイヌまんくん自身のためにもなる。シモベの置かれている現状についてはご存知ですよね?」
「いやー……うーん……」
マコちゅんと似たようなことを言っている。脅されているようにしか感じられない。佐久間はにこやかな顔をずっと維持しているが、そんなのはもはやメッキ感しかない。
「早川さんとしても、我々とは仲よくしておいたほうがいいと思いますよ。一緒に暮らしている彼女たち、当庁とも縁浅からぬ仲ではないですか。特例免許の子にしても、永尾信輝……テルコさんでしたっけ? 彼というか彼女にしても、チェーゴの犯z――」
バァンッ! と部屋全体を揺るがすほどの衝撃音。
明智がテーブルに拳を振り下ろした。木製の天板が割れ、スチールのフレームがべっこりと折れ曲がっている。服部がぎょっと頭を庇うポーズをしている。
「……明智さん、課の備品ですよ」
「すいません。なんか虫がいたもんで。あいにく逃げられまして、課長のほっぺたにくっついています。つぶしてもよろしいでしょうか?」
「勘弁してください。私はあなたたちのような超人ではありませんから、首から上がもげてしまいます」
この人はプレイヤーではないのか。今のでよく腰を抜かさなかったものだ。明智の剣幕によく笑顔で応じられるものだ。千影が同じ立場なら失禁と脱糞のコンボだ。
「どうも明智さんは、特定の民間人に肩入れしすぎな気がしますね。業務に差し障りがない範囲であれば黙認するつもりですが、我々の本分はプレイヤーによる犯罪から秩序と国民を守ることあるのをお忘れなく」
「だったらあたし一人で行きますわ。飯田をとっ捕まえるまで何年でもダンジョンにこもってやりますわ」
「そんなことされたら、私がパワハラで更迭されかねません。明智さんからも早川さんにお願いしてもらえませんかね? 彼もあなたの頼みなら無下にはできないでしょう? 一緒に特例免許の子をそそのかして世の晒し者にした仲じゃ――」
間違いなく佐久間の鼻骨と頬骨を粉砕する予定だったその拳を、身を乗り出した千影が全力で腕にまとわりついて制止する。
「……悪いね、早川くん」
明智はちらっと千影に目配せしてうなずき、するっと腕を抜く。
「……ああ、課長もすいませんでした。辞表いります?」
さすがの課長も椅子から転げ落ちている。明智はスマホをとり出し、メガネがずり落ちて大股を開いたまま硬直している上司に向けてスマホをタップする。パシャリ。千影としてはもう感心するしかない。
「……そうですね。彼らに協力を仰げないようなら、この件は君に一任しましょうか。責任も含めてね」
「あの……いいですか……?」
千影は挙手して発言を求める。
「……今日一晩、考えさせてもらってもいいですか。仲間にも、イヌまんにも相談しないとなんで……」
「早川!」
明智に睨まれる。別に彼女を庇うわけでもなく、そうでもしないとこの場が収まらない気がして。この場から無事に帰れない気がして。だからそんなに睨まないでほしい。さっきので不覚にも数ミリちびったから。
「……そうですね、大事なお仲間に相談もなしには決められませんよね。あまり時間もないのですが、明日の朝、お返事をお聞かせください」
そう言いつつ佐久間は立ち上がり、スーツをぱんぱんとはたく。
「どうか前向きにご検討ください。容疑者の確保も重要ですが、罪もない民間人の命がかかっています。今なら尊い人命を救うことができるかもしれないのです」
引き受けなければ見殺しにするのと同じだ、というニュアンスを感じられるのは気のせいだろうか。こちらにはなんの責任もない話なのに。
「彼女は今も、病院で戦い続けています。その無念を晴らすためにも、どうかお力添えのほど、重ねてお願いします」
深々と頭を下げられる。その仕草に大した意味も思いもないことは、さすがのボンクラにも察しがついている。




