2:わふん
夜が明けて朝になり、昼を迎える頃には幼体は五センチくらいになっている。この一晩、仮眠と起床を繰り返して断続的にチェックしていたが、起きるたびにちょっとずつ大きくなっている。単純計算で三センチ増、二・五倍。
「なんか、かおができてきたです」
まだまだ親指に目と口の線を描いたようなのっぺり顔だが、少しずつ面影的なものができつつある。ちなみに、ぺろっと裏返して下腹部を確認してみる限り、オスだ。
「もう少し大きくなったら、どういう感じの生き物かわかるかもな」
「はやくおっきくなってね」
ギンチョはすでに我が子のような溺愛ぶりで、その柔らかい背中を触りたくてうずうずしている。さっき触りすぎだとたしなめたので、今は顔を近づけて見守るにとどめている。
当のシモベは、ときおり口を開けてきゅーきゅーと鳴くくらいで、まだ自由に動き回ったりはしない。タオル生地に包まれてもぞもぞしたり眠ったりしている。水を飲んでいるところはまだ見ていないが、小皿に入れた水が多少減っている気もするので、目を離したときに飲んでいるのかもしれない。
「昼は出前でもお願いしようか」
「でまえ! ラーメン! おまえもたべますか?」
みゅー、とタイミングよく鳴くけど、無理だと思う。
昼食代もダン生研持ちなので、せっかくだからピザでもとってみようかと思う。ギンチョの好み的に嫌いなはずはなさそうだが、存在を知らないということもありうるので、念のためチラシを手に尋ねてみる。
「ピザ……あ、はう、すきです……おいしいです」
なんだか想像していたリアクションと違う。おいしい、ということは食べた経験はあるということか。でも一瞬顔が曇り、そのあとそれをごまかすような感じで笑った。ボンクラ千影でも気づける程度の変化だった。タマネギやピーマンが嫌なのだろうか。
とりあえずスマホのアプリでメニューを見せてみる。千影の杞憂を吹き飛ばすかのように、ギンチョは瞬く間に目を輝かせ、自分好みのものをピックアップしはじめる。
「これとこれとこれと、あとこれもいいですか?」
「ビスケットサイズじゃないから。お前の顔よりでかいから」
見事にじゃがいもとタマネギくらいしか野菜の載っていないものだけのチョイスになる。ジャーマンポテトとハワイアンミートのMサイズを二枚とコーラ。
「はふはふ! チーズがとろける! なつのひるさがりのように!」
「なにその詩的表現」
「チーズのコク! ポテトのホクホク! パイナポーのさんみ! ミートのにくみ!」
「肉みなんて単語は教科書にないから」
というかピザ、おいしいが早川千影的金銭感覚ではコスパが悪すぎる。デリバリーの人件費? ダンジョンの機械生命体にやらせたらもっと安くなるんじゃなかろうか。でもそれだと人の雇用を奪うロボットの図に?
何切れかおやつに残るかなと思っていたが、意外とぺろっといけてしまう。やはりおいしい、まれに食べると神のようにうまい。最初にチーズをつくった人に敬意を表したい。
「そういやさ、最初にピザって言ったとき、ちょっとだけ嫌そうな顔しなかった?」
余計なことを聞かなければよかった。とたんにまた曇ってしまうその表情を見てそう思う。
「……べつに、いやじゃないです。ピザはすきです。でも……けんきゅうじょでよくでてきたから……ちょっとだけおもいだしちゃいました……」
ああ、と千影は内心顔を覆う。
つまり、プチ地雷を踏んでしまったわけだ。某研究所に監禁されていた頃の。米国研究者たちが日本でもピザ大好き的な感じだったというわけか。さすがに思い至らなかった。
プチ後悔の沼にハマる千影に、ギンチョは首を振ってみせる。
「ちーさん、だいじょぶです。パイナップルのピザ、はじめてたべたけど、おいしかったです。ちーさんといっしょにたべるとおいしいです」
「……そっか、よかった」
「でもどうしてもっていうなら、もういちまいたのんでもいいですか?」
「どうしてもの使いかたがイマイチわかんないけど、また今度ね。だから僕のスマホから手を離せ。お前が今かけようとしているのはポリスメンだ」
午後も部屋に引きこもってチビっことチビクリーチャーのお世話を、という予定のところで、管理課の丹羽から呼び出しの電話を受ける。あのメイプルボイスに耳がはわわっとなりつつ、切ったあとにうわーめんどーと腰が重くなる。
おそらくシモベクリーチャーの件だ。D庁側からのなにかしらのアドバイスか、それとも警告や要請とか。ポータルまでご足労をということだが、できれば行きたくない。あの美貌を遠巻きで眼福するだけに留めたい。
「あのさ、ギンチョ……留守番だけど、だいじょぶ?」
「はう、だいじょぶです。このこといっしょにおるすばんします。おべんきょうしてまってます」
スペシャルイベント後。実は明智と相談の上、「ギンチョに勉強を教える」というミッションが早川家に追加された。
見た目とそれ以上の賢さで錯覚しがちになるが、ギンチョは本来は生まれてまだ一年にも満たない零歳児だ。そのためにその知能と知識は非常にアンバランスだ。
知能の高さから日常的な会話は大人とでも支障がないレベルだし、英語だって中川並みにぺらぺらしゃべれる。一度教えたことはなかなか忘れない。けれど日本語の読み書きや計算問題など、普通の子どもが学校で習得する学問的知識はまだまだ乏しいと言わざるをえない。
彼女はダンジョンウイルス持ちであり、他の子と一緒に通常の学校に通うことはできない。通信教育という手もあるが、まずはその前に自分たちで教えられる基礎的な「小学校のおべんきょう」から始めることにした。
改めてちゃぶ台の上に目を向ける。ギンチョに買い与えたテキストは、小学生低学年向けの教科書、漢字ドリルや算数の計算ドリル、〝マンガでわかる日本の歴史〟、〝マンガ・人体のふしぎ〟、〝理科が大好きになれる本〟などなど。
それと合わせて、ギンチョ自身の希望で絵日記もつけることになった。ちょっと遅れた夏休みの宿題として、とりあえず一カ月やってみることになった。始めてまだ数日だが、きちんと毎日つけている。
「お、昨日のぶんもちゃんと書いたのか。偉いな」
「えへへ」
『シモベクリーチャーがうまれました。みんなでおいわいしました』
そんな感じでピンクのヤモリみたいな物体と、それを囲む大人たちの姿が描かれている。
まあ、ビギナーに画力までは要求しない。それよりも気になることがある。
「あのさ、このボインがテルコでこのメガネが明智さんで、ヒゲもじゃの前野先生と白髪の北畠先生、ぽっちゃりは中川さんだよね」
「そうです」
「この肌色の豆に棒が刺さったみたいなやつって」
「ちーさんです」
「だよね。豆の上にちょろっとだけある、黒い苔みたいなのって」
「ちーさんのかみのけです」
「見たものをちゃんと忠実に再現しなきゃダメだろ。描き直せ、というか描き足せ」
「かがみみてください」
冷蔵庫から野菜ジュースをとり出し、ギンチョの頭を押さえ込み、その口に無理やり注ぎ込む。がぼがぼとうめきながら白目を剥いているが、あくまでも彼女の健康のためだ。でもあとで監視記録を削除してもらおうと思う。
*
なるべく早く戻ってくるつもりだったが、バスでの移動、諸々の手続きやら注意事項の共有やら、それに思いがけない人物に絡まれたことでがっつり二時間以上拘束される。
部屋に戻ると、ギンチョがちゃぶ台に突っ伏して、カゴの上のシモベを覗き込んでいる。エアコンが効いてて涼しい。
「おかえりです」
「ただいま。お土産買ってきたから、夕メシ前だけどおやつにしよう」
「おやつ……いいひびきですね」
いろいろ種類があったから四つも買ってきてしまった。まあ、ギンチョなら二つ食ったとしても夕食に支障はないだろう。
「はわわ……これは……?」
「やっぱ見たことないんじゃないかと思った。中華まんだよ。コンビニの」
別にドヤ顔するつもりはないが、庶民の端くれとしてこの素晴らしい食べものを誇らしく思う。お世話になっております。
「早いとこだと九月から発売だから、近くのコンビニで買ってきた。肉まんとあんまんとピザまんとカレーまん。せっかくだから全部半分こしようか」
電子レンジでちょっとだけ温め、あちちあちちと苦戦しながら手で二つにちぎる。あまりうまくいかないが、大きいほうを渡しておけば文句はないだろう。肉まんの餡も八割方ギンチョのほうにいくけどしかたない。
「はふはふ! こんな、こんなぶんかがあったなんて! にくが、あんこが、チーズがしっとりとふっくらのなかからこんにちは! カレーのピリからがエスニック!」
「中華まんを三角食いって、小さな贅沢だよな」
去年は経済的に余裕もなかったし料理もできなかったので、中華まん二つで一食とか何度も経験してきた。今年はギンチョもテルコもいるからさすがにちゃんと料理を覚えるつもりだが、コスパ的にこいつの出番も少なからずありそうだ。
「あんまりにくかんもピザかんもないですけど、これはこれでおいしいです。がっつりおやつです」
「早川家で暮らすということは、来年の春までちょくちょくこいつのお世話になるってことを覚悟しといて」
「かていのあじってことですね」
久しぶりに堪能したこの味で、激減していたメンタルゲージが多少回復する。ふううう、と長く息をつく。
「ちーさん、なんかいわれたですか? このこのこと」
鋭い。大正解。言われた。言われまくった。釘を刺されまくった。
この子にも説明しておかないとだが、もう今日はしんどい。シモベが出歩けるくらいまで成長してからでも遅くないだろう。
「あー……ちなみにさ、ギンチョ……ユーチャンネルってよく見てるよね?」
「はう。〝さうろんちゃんねる〟とか」
「現役プレイヤーのユーチャンネラーのさ、〝ファイナルダンジョンフリーター・マコちゅん〟って人、知ってる? 見たことある?」
「いっかいだけみたことがあります。かわいいおねーさんです。ダンジョンのどうがとかあげてます」
「なるほど……」
「その人がどうかしたですか?」
どうかした。しまくった。思い出すのも腹立たしいほどに。
職員の用件のあとに突然声をかけられ、二十分以上も話し込むことになってしまった。
明智や直江など、これまでも癖の強い女性とはそれなりに関わってきた。だが彼女――マコちゅんはもう別格だった。千影にとっては世界一絡みたくないタイプの女だった。
ギンチョと無関係な話というわけでもない。ただそれは向こうが勝手に難癖つけて無理やり関係しようとしているだけだ。「あたしのチャンネルとコラボしてほしいんですけど」なんて。
この子に言う必要はない。この子を晒し者にするような真似は絶対にさせない。断固として二度と彼女と関わるつもりはない。
「えっと……たまたまポータルの近くで会って……ちょっとだけ話しただけ」
「……かわいいおねーさん……ですよね……」
ギンチョがジト目になる。分度器みたいな目になる。それで思い出す、今日は算数のドリルを進めないと。
夕食前に北畠がやってきて検診をする(体長や体重などを調べ、聴診器を当て、順調ですねの一言で終わる)。コンビニ弁当の夕食を済ませ、シャワーを借りる。ギンチョのお勉強タイムも無事終わり、だらだらとテレビを眺めつつすごす。
そろそろ寝ようかという時間になるが、ギンチョはちゃぶ台の前から動かない。勉強中もこうして気もそぞろなままだった。気分的にはもはやマーマなのかもしれない。
千影も横から覗き込んでみる。そしてちょっと驚く。
「えっと……でかくなりすぎじゃね?」
順調どころではない。今、明らかに十五センチを超えている。生まれてからもうすぐ丸一日だが、すでに十センチ以上大きくなっている。
きゅう、とそいつが千影に向けて鳴く。「人間以外の動物の成長の早さみくびんなよ」とでも言うかのように。
「メシってあげてないよね?」
「はう。おみずだけです」
「体内の備蓄栄養だっけ? それだけでこんな成長してんの? どんなメカニズムなの? 教えてクリーチャー」
きゅうん、と返事する。「ネット見ろ」とでも言うかのように。
身体もすでにピンク色ではなくなっている。うっすらと毛が伸びている。乳白色というか、少しくすんだ白っぽい毛だ。でも顔の真ん中へんは若干黒ずんでいる。目の周りも。現時点でだけ評価するなら、ぶっちゃけあんまり綺麗じゃない。汚れた毛玉の集合体みたいな感じだ。
「やっぱりパンダかもしれないです。わくわく」
「うーん……可能性はゼロじゃないけど……ちょっと違う気もするけど……」
額の角も少しずつ伸びてきている。角のあるパンダ?
「あしたになったら、コパンダくらいになりますか?」
「うーん、どうだろう。そろそろゆっくりペースになっていくんじゃないかな。なんも根拠ないけど、体内の栄養だけってのも限度があるだろうし」
明日になったらなにか食べられそうなものを用意してみよう。動物用ミルク的な、あるいは離乳食的な。北畠にお願いすれば見繕ってもらえるだろう。
*
翌朝。九月四日、月曜日。
夜中までシモベの様子を見ていたものの、特になにもなさそうなので普通に朝まで寝てしまう。やべ、と目を覚ましてすぐにカゴの様子を窺って、目をこすり、「ファッ!?」と声をあげる。
そいつの身体はカゴからはみ出すくらいになっている。
「……いやいやいやいや、ありえないから……」
頭から尻尾の先まで二十五センチくらいある。この一晩でさらに十センチ伸びた計算だ。
むしろ心配になる千影。なにこの倍々ゲーム。どこまで大きくなっちゃうの?
すくすくとした成長を喜びたい反面、このベビーシモベがヒグマサイズまで膨れ上がるのを想像して怖くなってくる。わんぱくでもいい、ほどほどに育ってほしい。
体毛もきちんと生えそろえ、哺乳類っぽい毛並みになっている。少し黄ばんだ白というか薄茶色というか。目と耳と口の周りだけが黒い。なんだか見憶えがある。
「ふおお! ちーさん、これは……」目を覚ましたギンチョが目を輝かせる。「これこそパンダ……じゃない……? なんですか、これ……?」
「えっと、なんだっけ?」
千影の声にそいつはむくっと首をもたげ、「わふん」と眠たげな声で鳴く。
「…………パグ?」




