4-9:〝ソシャゲ部屋〟④
黒タコの群れがうぞうぞと這い寄ってくる。
動きは鈍い。近寄ってくるより先に千影はタコ野郎との距離を詰めている。
タコ野郎の糸目が見開かれ、千影を捉える。そして触手が伸びる。
んがっ! と発声する間もなく身をよじる。触手の鋭利な先端が千影の頬をえぐる。
一瞬かわすのが遅れていたら鼻の穴がもう一つ増えていたところだ。とんでもなく速い。
十数本の触手がぶわっと広がり、浮かび上がり、千影めがけて降りそそぐ。飛び退いた千影の手足や脇腹を削って床に突き刺さる。
「くそっ!」
苦しまぎれに刀を振る。触手が数本ちぎれる、がにゅるにゅるとところてん的に肉がひねり出てすぐに再生する。そしてすぐさまうなりをあげて襲いかかってくる。
「ちょ待って! マジ待って!」
「バォオッ!」
短いおたけびとともに触手が代わる代わる繰り出される。
タコ野郎の図体自体はのろい。しかし反応速度と触手の伸縮スピードは桁違いだ。黒コウモリよりもさらに上、下手するとエネヴォラ並み。
唯一のストロングポイントでも勝てない。悪夢みたいな相手だ。
こいつ相手にあと一分四十秒くらい? はは、無理ゲー。
反撃も迎撃もできない、とにかく回避に専念する。
身をよじり、上体をのけぞらせ、ステップし、飛び跳ねる。
黒タコを踏んづけて体勢を崩した隙をつかれ、今度は肩を深くえぐられる。
「邪魔だっつの!」
黒タコを二刀で蹴散らす。こいつらははっきり言ってザコだ、〝相蝙蝠〟で撫でる程度で両断できる。黒い殻のついた足にだけ気をつければいい。
けれど水場で足場が悪いだけでなく、ザコが捨て身で寄ってくる。回避に専念していても注意が削がれる。バランス感覚強化の【ヤタガラス】がなければとっくに捕まっていただろう。
「ここここっちだタコどもぉ! おおお俺らが相手だこらぁ!」
「ブブブブレイブオブオクヤマ(剣鉈)の錆にしてやるぜぇ!」
背後で二人が声を張り上げ、剣鉈でがんがんと派手な音をたてている。黒タコを引き寄せるつもりだ。
千影としてはありがたいが、少し心配になる。二人がでなくテルコが。彼女をカバーしつつこの数を捌けるだろうか。
というか今どういう状況だろう。テルコは無事なのか。三人のほうを振り返る余裕もない。
触手は頭の下部にぐるりと全方位から生えている。側面に逃げても追ってくるし、なら背後にと思っても牽制されて回り込めない。
とはいえ、万能というわけでもない。意外と射程が短いようだ。バックステップで距離をとると追撃が止む。七・八メートル、この距離が触手の間合いの外のようだ。向こうからそれをつぶそうにも、その足は亀のように遅い。
その隙に呼吸を整える。全身血まみれ、全身激痛だらけで脳みそが沸騰しそうだ。
タコ野郎が一歩踏み出す。千影がじりっとあとずさりする。足下のタコはぺしぺしと刀で払っておく。
お願い、もう少し休ませて。できればあと一分二十秒くらい。
と、一本の触手が持ち上がり、千影にその先端を向けて静止する。
触手がぶくっと膨れ上がる。同時に千影は横に飛び退いている。
触手の先端が追尾する。膨張が一瞬で元のサイズにまで狭まり、そして、放たれる。
無意識に【アザゼル】で顔を庇う。その左腕を鋭い衝撃が削り、千影のヘッドギアをはじき飛ばす。
激痛で床に倒れ落ちながら、光線のようなものを撃たれたのだと理解する。すぐさま右手で床を殴るようにして跳ね起きる。その足下を追撃の光線が撃ち抜く。飛び散った水のしぶきが顔に降りかかる。
違う。光線ではなく水だ。ぎゅっと圧縮した水レーザー。
マンガとかでよく見るけど、現実に撃たれたのは初めてだ。
なんでもいいけど、【アザゼル】削られるのも初めてなんだけど。
ガードで逸れてなかったら頭までぶち抜かれてたし。
千影は左手の刀を納め、手の甲でこめかみの血を拭う。痛みのせいか恐怖のせいか、その手は無意識に震えている。
「……やべーわこりゃ……グレートだわ……」
中距離は通常の触手、遠距離は水レーザー。近づいても超反応。足の遅さなどお構いなしの隙のなさ。わかってはいたけど、超強い。絶望感が半端ない。
とにかく触手と水レーザーを混ぜられたら詰むので、千影は後者の間合いで逃げ回る。
通常の触手攻撃とは違い、水レーザーは撃つ前の予備動作が大きいので、どうにかぎりぎり逃げられる。だがバンバン撃ってくる。そんなに撃って干からびないのと心配になるくらい。
ずるい。ああいうのは普通ありえないほど大量に水を使うはずなのに。絶対あのタコ野郎の体積で済むはずがない。ちゃんとルールを守ってほしい。
いや、それを言ったらプレイヤーも同じか。手から火の矢とか撃てるし。謎原理の加速できたりするし。
どうしよう。あと一分。
どんどん体力が削られるし、黒タコが邪魔で事故が怖い。このままじゃジリ貧だ。
いや、一分と言っても。テルコのスキルだけで倒しきれる保証はない。というか、フルチャージとはいえレベル3のスキルで仕留められる強さとは思えない。
それまでにできる限り削る必要がある。テルコの一発へと効果的につなぎ、崩したところを千影がとどめを刺す。それしかない。
だけどまだ、敵の急所すら見えていない。近づく隙さえない――ない?
急に水レーザーの追撃が止む。タコ野郎が動きを止めている。
なぜ、と今のうち、が同時に頭をよぎるが、千影は目の端に捉えたそれを見てぶっと噴き出す。
タコ野郎の背後から、ホースのように細長い触手が伸びている。床を這って部屋の奥の滝が流れる水辺につながっている。ぼこぼこと蠕動している様子からして、そこから水を吸っているようだ。
「ずっけえ! こっそり水補給してんじゃん!」
思わずさけぶ千影を水レーザーが襲う。バレた気恥ずかしさをごまかすみたいに。
距離を詰めてこないのも、足が遅いように見せているのも、きっとホースの届く範囲から出たくないだけだ。
「せこい真似しやがって……ラスボスのくせに」
タコ野郎が超強敵なのは変わらない。それでもなんというか、その圧倒感の裏に隠された小細工を垣間見たせいか、少しだけ肩の力が抜けた気がする。
小賢しさはこっちの専売特許だっての。
千影はぐっと身を屈め、床を蹴る。
見せつけてやる――小者としての格の違いを。
床の砕け具合を見るに、水レーザーは十二・三メートルほどを境に威力ががくんと落ちるようだ。テルコたちを狙い撃たれる心配はない。
視界の隅に黒タコを蹴散らす二人の姿を見る。剣鉈を振り回し、巨大化した腕を振り回している。その後ろにいるだろうテルコの姿は見えない。
タコ野郎の周囲を走りながら、水レーザーが途切れた瞬間、一直線にタコ野郎に向かって突っ込んでいく。
通常の触手が伸びてくる。それより一手先に、千影は黒タコ投げつける。生きたままぴっちぴちのそれを。
数本の触手が黒タコを容赦なく切り裂く。
飛び散る黒タコの体液の陰から、もう一つの飛来物が弧を描く――こっちが本命だ。
巨大な頭に到達する寸前、それさえも触手が捉える。さすがの超反応、でもじゅうぶんだ。
両断された球体からばふっと赤い煙が広がる。それがタコ野郎の頭に降りかかる。
「バァアアアアアアッ!」
タコ野郎が苦痛の悲鳴をあげる。目を閉じて触手で顔を払っている。こんなこともあろうかと、イベント前にギンチョから借り受けていた〝超北極カラシビ玉〟。効果は抜群だ。
目を閉じていても、触手はひゅんひゅんと空を切って牽制している。やけくそのでたらめというより、視覚とは別のなにかで近づく者を感知しているような動きだ。
とはいえ、スピードも精度も激減している。千影はそれらを薙ぎ払いつつ、一気に懐まで飛び込む。
「――ようやく近づけた」
触手のカーテンごと胴体を逆袈裟に斬りつける。ぶ厚い肉を裂く手応えを感じる。黒ずんだ体液がこぼれる。
「バァウッ!」
短いおたけびとともに超至近距離からの触手の応戦。バックステップした足下に突き刺さる。
「らあっ!」
それでも千影は食い下がる。ここが一度目の、いや最後のチャンスだ。
再生されてもいい、可能な限りダメージを与える。
テルコは見てくれているはずだ。急所をさぐり、その先の一撃につなげる。
触手が乱れ打ち、さらにその奥からマッチョな腕が出てきて振り回される。なりふり構わず千影を突き放そうとしている。
それでも千影は食らいつく。触手にあちこち刻まれながら、前後左右にまとわりつく。
息が苦しくて肺がつぶれそうでも、傷だらけで痛み以外の感覚を忘れそうでも。
タコの生ぐさい息や体臭が不快だ。飛び散る体液や粘液が不快だ。
それでもここから離れない。この距離は譲れない。触手をかいくぐり、触手を切り離す。拳をすり抜け、腕を撫で斬る。瞬きのたびに攻防の変わるここで必死に刀を叩き込み続ける。
ざけんなタコ! スピード勝負でタコがゴキブリに勝てるかコラァ! いやゴキブリじゃねえけど!
腕と胴体の傷は再生が鈍い。ダメージを溜めるなら首から下か。
ふと、タコ野郎の頭上に触手が数本持ち上がっている。千影を狙うでもないそれが、ぶくっと膨れ上がる。
そうくるか。企みを読んだ千影は飛びかかり、背中いっぱいに刀を振りかぶる。
触手から水が放射され、頭を、目を洗う。
その隙をついて、全力をこめた千影の刀がタコ野郎の左脇に吸い込まれる。
胴体を両断する――はずが、肋骨まで食い込んだところで阻まれる。帷子のように束ねた触手に勢いを殺された。
ぎん、とタコの目が見開かれる。充血はカラシビ玉のせいか、それとも怒りの表れか。
「――マジか」
触手が本来のスピードで降りそそぐ。とっさに【アザゼル】で頭と胸を庇う。ギィンッ! と金属のぶつかり合う音とともに千影は後ろに吹っ飛ばされる。
すぐに膝立ちになるも、手から刀が離れている。
もう一振りを抜こうとするが、目の前のタコ野郎が触手を構えている。
千影の心臓が跳ねる。息を呑む、その音がやけにはっきり聞こえる。
静止したまま向き合う一秒が、数分にも引き延ばされて感じられる。
触手の先が千影に向けられている。ごぐん、と蠕動する。
タコ野郎の目がにたりと笑った、気がする。
透明な光が放たれる。水レーザー。千影の眉間を射抜く――はずのそれが、こめかみを浅くえぐって通過する。
タコ野郎が目を見開く。千影も同じだ、むしろもっと驚いている。
限界まで集中していた。その瞬間だけを捉えようと、呼吸も鼓動さえも止めるほど神経を研ぎ澄ましていた。それでもかわせたのはまぐれだと思った。
千影は左手を突き出す。
イメージだ。身体中のエネルギーを速やかに集約させる。集めたエネルギーの勢いを借りず、自分の意思で放つ。
できる。できなきゃ死ぬ。
次は千影が笑う。
【イグニス】――弾速も熱量も低い、ノーチャージともいかない。それでも一秒チャージのスキル。
またもタコが水で防ぐ。蒸気が小さく爆ぜる。
衝撃波で尻餅をつく千影。
タコ野郎も多少よろけるが、大したダメージはなさそうだ。
千影を睨め下ろす。触手がぎらりと鈍く光る。
その頭に巨大な光の刃が突き刺さる。
「――へ?」
振り返ると、十メートルほど後ろにテルコがいる。
振り下ろした姿勢のその腕から、丸太のように太い光の鞭が生じている。【グリンガム】、テルコのスキルだ。
それは何度か見た。だけど、その先端についた光の刃は初めて見る。
三日月型の湾曲した刃。それがタコ野郎の頭頂部に深々と突き刺さっている。
「らああああああああああああああっ!」
獣じみたさけびとともに、テルコがその腕を振り抜く。頭を叩き割り、首、胸、腹を一文字に掻っ捌く。大量の体液がこぼれ出す。
「あああああああああああああああっ!」
千影が斜め後ろに飛び退く。
同時にテルコが腕を振り回す。縦横無尽、でたらめに、やたらめったらに。
刃つきの鞭が、けたたましい破壊音を撒き散らして蛇のようにのたうち回る。
地面を砕き、黒タコを薙ぎ飛ばし、タコ野郎の図体を切り刻む。手足が吹っ飛び、胴体が両断され、頭がちぎれ飛ぶ。
千影は頭を抱えてうずくまっている。やがて破壊音が途絶えると、おそるおそる顔を上げる。そこには息を切らしたテルコが一人で立っている。
動かなくなったタコ野郎の死体が転がっている。モザイクをかけても足りないほどの無残なありさまになっている。その頭だった肉塊がまだぴくぴくと蠢いているので、【イグニス】で焼いておく。
今度こそ動くものがなくなる。束の間の静寂。
なにが起こったのか、思考が追いつかない。ただ一つ、確かなのは――。
「うわあああああああっ! 死ぬかと思ったああああああっ!」
「生きてるうううううっ! 俺たち生きてるううううううっ!」
黒タコの体液まみれの中野奥山が、剣鉈を放り投げて抱き合う。うわあああんとマンガでしか見たことのないベタな泣き声を披露する。
千影も震えている。涙が出そうになる。それでもあの二人のように手放しで喜べないのは、なにが起こったのかわかっていないのと、当のテルコががくっと膝をついたからだ。
「テルコ!」
千影が肩を抱く。テルコは血の気を失った顔で、汗とも水滴ともつかないびしょびしょに濡れた顔で、力なく笑う。
「……へへ、カミってたろ?」
気づいたら彼女を抱きしめている。腕の中の温かくて柔らかい肉の感触に我をとり戻し、自分が一番驚き、「ぎゃわー!」と慌てて突き放す。勢い余ってテルコが水たまりに顔面ダイブしてしまう。
「ごめん、マジごめん。で、えっと、さっきのは……」
今までの【グリンガム】とは違っていた。刃みたいなものが生えていた。あんなスキルは聞いたことがない。
しかもとんでもない破壊力だった。千影の【イグニス】よりも断然上、むしろ直江の【コルヌリコルヌ】に迫るほどかもしれない。
「ノブのスキル……【ナイトメア】……」
【ナイトメア】――光子の鎌を具現化させるスキルだ。
「できる気がしたんだ。なんとなくさ、ノブの力を使えるって……」
テルコは自分の右手を胸に抱える。とても大事なものをそうするように。
二人のスキルが融合した? ノブの覚醒があって、融合が進んだ?
最初のコッパーちゃんの診断でスキルが正常に表示されなかったのも、その影響があったから? サウロンに訊いたらどんな顔をするだろう?
「……ノブみが出てきたってことか。これがオレの……テルコのスキルだ。そうだろ、タイショー?」
イタズラっぽく微笑む彼女の目には涙がにじんでいる。
「うん……そうだね……」
そんな風に答えながら、千影はサウロンの言葉を思い出す。
――ダンジョンの常識なんて、命や意思のとんでもなさの前では通用しない。
にしても、ここまで度を超えた奇跡が起こるなんて。誰が予想できるものか。
「あんちゃん! ねーちゃん! やったぞ、勝ったぞ!」
「俺たちみんなの勝利だ! 赤羽三番街に未来永劫語り継がれる伝説がまた一つ!」
涙まみれで鼻水をぶら下げた中野奥山が駆け寄ってくる。二人の奮闘ぶりはほとんど見えていなかったが、テルコをきっちり守りきったようだし、黒タコが減って千影自身も助けられた。
二人に応えようとして――前触れもなく千影の背中に激痛が走る。「ああっ!」とうめいて崩れ落ちる。
「タイショ――うあっ!」
一瞬遅れてテルコも苦痛に顔を歪め、うずくまる。
「おい、だいじょぶかよ!?」
全身の筋繊維が一斉にちぎれたかのような激痛。ただし、この痛みには憶えがある。そしてなによりも歓迎すべき痛みであることも知っている。予想外すぎて完全不意打ちだったけど。
二・三秒ほどで嘘のように消えてなくなる。顔を上げた千影とテルコが、目を見合わせて、笑う。
「……へへ、一緒にイッちまったな、タイショー……」
「(下ネタか)……僕ら、レベル上がっちゃったみたいです……」
蓄積された経験値が一定を超えたとき、全身に筋肉痛に似た痛みが生じ、肉体をもう一段階上へとつくり変えてくれる。レベルアップのサイン――千影はこれを四度経験し、テルコはこれで三度目のはずだ。
つまり、千影はレベル5になり、同時にテルコはレベル4になった。
今度は中野奥山が顔を見合わせ、『おおーっ!』と歓声でハモる。
ぎりぎりだった。一人だったら百二十パーセント死んでいた。
相手は少なくともレベル6以上、下手したら7に近かったかもしれない。
死ぬ死ぬと千回くらい思った。全身ズタボロでいっそ死にたいほど痛かった。
それでも諦めなかった。それがテルコの奇跡につながった。
もう一度戦っても同じ結果にはならないかもしれない。
でも勝てた。この一回を勝ちきった。それがすべてだ。
みんな生きている。生きて帰れる。
「……はーーー……」
水たまりの上に寝転がり、天井を仰ぐ。散りばめられた光る石が満点の星空のように輝いて見える。
かつてないほどの達成感が、全身を覆う傷の痛みを、今このときだけ誇らしい感覚へと変えてくれる。
強敵を倒した。隠しステージをクリアした。
まさかのレベルアップも果たした。これ以上の満足はない。
帰ろう。ギンチョたちと合流して、傷の手当をして、うちに帰ろう。
そして眠ろう。午後までゆっくり寝て、病院に行くならそれからでもいい。ギンチョをラーメン屋に連れていってやろう。三郎系でテルコをひーひー言わせてやる。
なにか忘れている。
頭を起こすと、ふよふよと浮かぶ銀色のカエルと目が合う。
口を開き、声なき声で鳴く。エアケロ。
4章4話、これで終わりです。
次はイベント大詰めの4章5話に入っていきます。
ここまでの感想、評価などいただけると幸いです。
引き続きよろしくお願いします。




