プロローグ-1
災厄や変革といったものに、必ずしも兆候のようなものがあるとは限らない。
それが現れたのは、文字どおり一瞬のことだった。あまりにも唐突に、一方的に、堂々と。
埼京線上り大崎行き、戸田公園駅から浮間舟渡駅へ差しかかる列車の中で。
新宿区東京都庁四十五階、北展望室の窓際から。
またあるいは遠く富士の山頂から。
道を行く人、早めのランチを終えた人、一休みしてぼうっとしていた人。
その日、その瞬間、人々はまず異変を察し、目を疑い、そしてようやく一斉にぬるっと混乱していった。
当時、彼は小学生だった。
学校をさぼって荒川沿いの土手に腰かけて、ひとりぼんやりと対岸の風景を眺めていた。
突然、視界の一部が黒っぽい影に隠れた。顔を上げ、何度か瞬きをして、そしてぽかんと開けた口がふさがらなくなった。
「……なにあれ?」
南東の方向、赤羽駅方面の上空に、黒っぽい長方形が浮かんでいた。
それはビルのようにも筒のようにも見えたが、とにかく巨大すぎた。赤羽付近の街をすっぽり覆うほどに広がり、なによりその高さは空の天井に突き刺さらんばかりの勢いで、どこがてっぺんなのかもわからないくらいだった。
「……すげー……」
あたり一帯にのっぺりと黒い影を投げかけたまま、その長方形はその場をぴくりとも動かなかった。黒い表面にはひび割れのような、折れ曲がった白い筋がいくつも走っていた。液晶画面が割れているような、あるいはゲームのバグのような。
バグったのが現実なのか自分の目なのか、ちょっと判断がつかなかった。友だちが横にいたら、顔を見合わせて頬をつねり合ったりしたかもしれない。友だちがいたことはなかったけど。
五分もしないうちに土手に人が集まってきて、がやがやと騒がしくなってきた。赤羽のほうを指さして「なんだありゃ」とか「地球侵略か」「この世の終わりだ」などとわめき、パシャ、パシャ、とスマホのシャッター音がひっきりなしに鳴りだした。
自分だけがおかしくなったわけではないのだとわかった。現実か、それともみんなして同じ夢を見ているかのどっちかだ。
「直方体、いや、円柱みたいだな。直径一キロ近くありそうだ」
言われてみると、底辺のあたりが少し弧を帯びているように見えた。上に行くほど細くなっているようにも見えるが、あまりにもスケールが大きすぎて全体像が掴めない。
「んで、これからなにが起こるんだ?」
誰かのつぶやきに答える人はいなかった。でも、まさにそのセリフが引き鉄になったかのように、突然それが動きだした。
「おい、あれ、下がってね?」
確かに、言われなければ気づかないほど、ゆっくりと円柱の高度が下がっていた。
「うお、マジだ。落ちてる」
「うそ、やばくね? やばくね?」
戸惑いのざわめきが瞬く間に悲鳴へと変わっていく。それに比例するように、円柱の降下速度が上がっていく。
逃げろ、逃げろ、とさけんでいる人もいた。遠く赤羽にいる人たちに向けて、だが届くはずもなく、円柱は数万人を抱く街のすぐ頭上まで迫っていた。
中年女性の金切り声と同時に、その底辺がビルやマンションなどの高層ビルに接着した。それでも円柱の降下は止まらず、やがてついに直径一キロのそれが、街一帯を押しつぶした。膨れ上がった悲鳴が一気に破裂した。泣きだす人や一周回って笑いだす人もいた。
「はは……マジかよ……あの下にいた人たち……」
「赤羽オワタ……つか、日本オワタ……」
彼は呼吸も忘れてその光景に見入っていた。魅入られていた、と言ってもいい。
けれど、上気するその横顔とは裏腹に、周囲の慌てふためく大人たちとは逆に、その頭は妙に冷静だった。
地面に到達しても、なお、それの表面についた白い筋の模様は下へと動き続けていた。見上げると――首を傾けてさらに背中までのけぞって見上げると、円柱の頂上らしき部分が遥か上空に見えた。
さっきまではどこがてっぺんかわからなかったのに、青い空にちゃんと切れ目が映っていた。そしてそれは、今もなおじりじりと下がり続けていた。
「……つか、おかしくね? なんか……」
あれだけ大きなものが落ちたのに、地面は揺れなかったし音もしなかった。土埃も一切上がっていないし瓦礫も飛散していない。しかも、まだ円柱は下がり続けている。いや、地面に潜り続けている。
てっぺんがだいぶ下がってきた。落下のスピードはみるみる上がっていき、白い模様が灰色の残像になっていく。そして、一同がもはや言葉を失う中、やがてそれはちゅぽんと、水面にペンを落としたみたいに、完全に地面に吸い込まれて消えてしまった。
「……は?」
それ以上、なにも起こらなかった。そして、円柱につぶされたはずの赤羽の街は、なにごともなかったかのようにそこにあった。数分前となにも変わっていない、いつもどおりの灰色の街がそこにあった。
「……俺ら、集団で夢でも見てたんか?」
「……この場の全員が……?」
はは、と誰かの乾いた笑いが聞こえた。それでも少年は、遠くの街から目を離さずにいた。さっきまでのアレが、まやかしや幻だとはどうしても思えなかった。思いたくなかった。