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第一幕・オフィス 九 恋に揺れる

 佐由利は久しぶりの恋に身悶えていた。磯原と過ごす時間が、交わす会話がたまらなくいとおしい。今すぐにでも会いたい。一年以上前に別れた彼氏とは三年続いたが、熱心なアプローチに情が湧いてほんのりした幸福感から付き合い始めたので、片想いに身を焼くような感覚は十代の頃まで遡る。八年以上前だ。

 磯原久士。異性から身を隠すステルス機能を装備した能ある鷹。会社では仕事しかしない、仏頂面の「つまらない男」。けれど、単に女性に縁がなくて冴えない人ではない。振る舞いはしっかりレディ・ファースト。男性でこれが自然にできる人はそういないのに、どこで身につけたんだろう。――実際は、佐由利としては男性にそういうスマートさを求めていないが、能ある鷹の「能」の一つではある。

 突如、佐由利の脳裏に、社員旅行の案内レジュメの文言がよぎった。

『ホテルのプール利用自由』

「プール!」

 ベッドに転がっていた佐由利はガバッと起き上がった。三十が近づいてきて昔よりちょっと体が緩んだ気がする。それに、ここ一年、彼氏もいないし会社でもわざと手抜きにしていたから、自分が思っている以上に劣化していそうだ。

 磯原はプールに来るだろうか。そういうアクティブな場所、会社の人と「裸の付き合い」みたいなものが求められそうな場所には来ないようにも思うが、もしも来るのなら、自分が行かない手はない。すべての可能性を考えて、万全の用意をしなければ。

 佐由利は昔フィットネスクラブに通っていた時に使っていたスウェットの上下を探し出し、さっそくジョギングに出かけた。動いてみるとスウェットのもものあたりが若干きつくなった感じがした。体力も落ちていた。

(……劣化してる!)

 佐由利は朝晩、走ることにした。自転車で十五分行ったところに区民プールがあるから、休日には泳ぎにも行こう。食事も減量食にして、なんとか、少しでも綺麗なプロポーションで旅行を迎えたい。リゾート水着は何年も前に買ったのが一着あるだけだから、少し大胆なのを買い足そうか……。プールで磯原と一緒になると決まったわけでもないのに、佐由利は必死だった。

 時々、三條美紀のことがちらりと脳裏をよぎる。磯原をくんづけで呼んで、腕を組んでいた。一緒に食事に行くこともあるのかもしれない。山辺にご執心という話にはなっているが、「三十五歳まで独身だったら結婚」という約束のために山辺を「ツバつき」にしておきたいだけならば、三十五歳までに別の人をつかまえることだって十分にある。

 それでもきっと、美紀が磯原と親しいとしてもおそらくは恋愛関係ではない。そう信じて頑張らなければ。

 久しぶりの恋は快く、けれど苦しい。社員旅行の現地二日目を一緒に過ごせることが今からうれしくてしょうがない。その日のために、とにかくめいっぱい頑張るだけだった。


 社員旅行の前半・後半の希望を申請する前日、黙々と仕事に打ち込む佐由利に山辺が声をかけてきた。

「仲本さん、社員旅行は前半? 後半?」

 さあ来たぞ、と微妙な気分で佐由利は顔を上げた。もしかしたら来るかもしれないと思っていた。もしも旅行先でここぞとばかりに近づいてこられたら、せっかくの磯原との時間が台無しになるかもしれない。絶対に隙を見せてはならない。

「あ、私、五月いっぱいで退職になるので……最後バタバタしちゃうといけないから、早めに行かせていただこうかなと思ってます」

 不自然でないくらいに小声で、周囲には聞こえないように佐由利は答えた。嘘は嫌いだが、磯原との巡視船見学がもしも「三人で行こう」なんてことになったら……と思うとゾッとした。山辺がこの旅行に「勝負をかける」つもりになっていたら、さらに厄介だ。だから正直に答えるつもりはなかった。

「ふうん……そうなんだ」

 山辺はそれだけ聞くとうれしそうに去っていった。佐由利は、自分が自意識過剰になりすぎているかもしれないと思ったが、それでも用心に越したことはない。

 翌日、〆切ギリギリの時間に総務の担当者宛てに「後半で参加」の意思表明を送信した佐由利は、不安になって磯原にメールを入れた。

『磯原様

 社員旅行はちゃんと後半の班の参加表明をしました。よろしくお願いします。 仲本』

 返信はすぐに来た。

『仲本様 約束通りこちらも済ませました。 磯原』

 佐由利は改めて喜びに震えると共に、他の人たちの動向が気になっていた。山辺は、美紀は、どちらの班だろう。

「仲本さん、旅行の班どうした?」

 パートの駒形涼子が声をかけてきた。佐由利は周囲の耳を憚りつつ「後半」と答えた。

「あ、一緒だね。同部屋にならない?」

「うん、私も駒形さん一緒だったらぜひ……と思ってた」

 宿泊は二人部屋で、誰かと同部屋になる。でも、佐由利は事前に誰とも旅行の相談をしなかった。相談をしたら後半の班で行くことを表明しなければならない。皆がオプションツアーを相談している場にいたら、「二日目はすでに予定がある」と言うのも言わないのも危険だ。佐由利は普段、人付き合いのいいほうだが、この社員旅行は磯原に全力投球することを決めていた。

「オプション何に行くとか、何も言わないから、もしかして行かないのかと思った」

 涼子は屈託なく佐由利に笑いかけた。

「うん……仕事が今月末までなこともあって、他の予定との兼ね合いで、どっちの班にするかとかギリギリまで考えてたから……」

 これも方便だが、磯原が「マーケティング部の仲本さんと、後半の班で一緒に行く約束をしている」と周囲に言うことは百パーセントないと思えるから言える嘘だった。

 その日のランチは涼子と二人で社員食堂に行った。

「ねえ、三日間、何して過ごす?」

 涼子はニコニコ問いかけてきた。佐由利は徹底的に保身を図った。

「うん、中日なかびは一人で行動してみたいから、ツアー行くんだったら初日か最終日だなー」

 幸い、涼子もずっと佐由利と一緒のつもりはなく、自分なりの自由な時間が欲しいようだった。ランチタイムのうちにだいたいの予定が決まった。初日は、現地に到着してから一緒に街を散策して、何か面白いところがあったら行ってみる。二日目は別行動。三日目は、オプションツアーのファーマーズマーケットでのランチとゴンドラ登山。

 涼子が一緒でよかった、と佐由利は思った。マーケティング部の他の女性でも、三條美紀以外なら誰とでも楽しく過ごせたと思うが、やはり涼子が一番気心が知れている。そして、いざとなったら「私、実は磯原さんを……」と白状して協力を仰いでもいいとまで思えるのは涼子だけだった。

 用意は万全。あとはめいっぱい、綺麗な自分にならなくては。

 佐由利は行きつけの美容院にヘアケアトリートメントのフルコースを予約した。さらに会社の近くにある「一回いくら」で後腐れなく行けるエステのパンフレットを持ち帰った。


 ゴールデンウィークに入った。佐由利はカレンダー通り出勤した。連休の隙間を埋めて長期休暇にしている人もいたが、それはごく少数で、大半の人が通常通り机に向かっていた。

 社内全体で共有されているグループウェアで「社員旅行五月参加部署の前後半メンバー」という回覧が配信された。佐由利は早速、自分と磯原が同じ班であることを確認して相好を崩したが、慌てて頬を引き締めた。後は……

 後半の班に課長の大野がいた。他はと見ていくと、特に目を留めるような人はいない。

 前半の班には三條美紀、山辺皓太の名があった。

(よし、回避した!)

 佐由利は「たまたま」山辺と班が分かれたのだと思うことにした。だが、午後には渋い顔をした山辺がやってきて、佐由利に恨み言を言った。

「……俺、仲本さんが前半だって言うから前半にしたのにな……」

 佐由利は「またまたー」という軽い笑顔を作って応対した。

「最初は前半にしたほうがいいかなって思ってたんですけど、ゴールデンウィーク明けはデータが溜まるから、それをちゃんとさばいてからにしようと考え直して……」

 一緒に行きたかったなあ、と独り言のようにつぶやいて山辺は去っていった。

 もう前半の班は十日ほどで出発になる。ここからの予定の変更は認められないと明記されていた。「逃げ切った」と佐由利は思った。美紀と磯原も別々だ。佐由利は万事うまくいって心から安堵した。

 その日、女子トイレで美紀と鉢合わせた佐由利は、「山辺さんと一緒なのはうれしいだろうな」と思って明るい気分であいさつした。

「お疲れ様です」

 美紀はしばらくじっと佐由利の顔を見ていた。いったい何事か、佐由利は戸惑った。

 ふうっと、ため息をついて目を伏せると、美紀は意外なことを言った。

「……前半で行くんじゃなかったんだ」

 返答に困って佐由利が立ち尽くしていると、美紀はもう一度ため息をついて、

「ゴメン。八つ当たり。……気にしないで」

 と言うなり肩を落としてさっと出て行ってしまった。

 どういう意味だろう。佐由利が前半で行くようなことを言ったのは山辺に対してだけだ。なのになぜ、美紀は佐由利を前半で行くと思っていて、しかもそうでなかったことを残念そうにしているのだろう。山辺に答えた声は周囲の人に聞こえていなかったはず。事実、比較的近い席の涼子は佐由利に前半か後半かを問いかけてきた。おそらく美紀は山辺から聞いたのだろうが、それで「八つ当たり」する理由も、肩を落とす理由も、まるっきり思い当たらない。

 どうも最近の美紀の様子はおかしい。佐由利に「社長賞残念だったね」と声をかけてみたり、前半の班でないことを不満げにしてみたり……。

 その後も何度か、美紀が何か言いたそうに視線を向けてくるのを佐由利は感じた。だが、その意図がまったく推測できず、ただ気づかないふりをする以外になかった。


 佐由利はゴールデンウィークに必死で走って泳いで体作りに努め、自分なりのベストと思えるくらいにはプロポーションを整えることができた。

(プールで水着姿を見せることはないかもしれないけど、一緒にいるときに少しでも綺麗に見えるほうがいい)

 持っていく服も、自分の中でとっておきの中から割とユルくてリゾートっぽいものを選び出し、満足いかない分はちょっと気張って買い足した。磯原と過ごす日は、胸元がきわどくないのに色っぽい、少しピンクがかったオレンジの明るいワンピースに決めていた。ざっくりしたデザインにスカートがばさっと無防備で可愛らしい。また、仕立てがしっかりしていてスタイルが良く見える。

(……もしも、一日一緒にいて、いいムードになったりしたら……)

 南国のリゾート、海に落ちる美しい夕陽を二人で見つめながら肩を寄せ合って、それから……。佐由利は妄想に身を浸し、ベッドでぐるぐると寝返りを打った。

 金曜日、いよいよ社員旅行前半の班が社員旅行へと旅立った。そして金土日月火と休んだ後、水曜日には帰ってきた面々が出勤した。島は思いの外、日本語が通じる場所も多くて便利だったらしく、総じて旅行は好評だった。モニター参加という名目なので、膨大な質問項目の書かれた用紙が配られたが、それを書くのも楽しそうで、後半組の期待も高まった。

 翌々日からは佐由利たち後半の班が出発だ。いよいよ、と佐由利は気を引き締めた。現地での二日目は恋の勝負の日。

「楽しみだねー」と涼子と笑顔を交わし、わざわざ「一緒に行きたかったな」と言いに来た山辺に愛想笑いを返し、佐由利は定時で会社を出てエステに寄って顔と全身をつるつるにして帰宅した。

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