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第一幕・オフィス 八 小さな棘

 佐由利は一人暮らしの部屋で必死になって社員旅行の案内を読み漁った。これまで男に取り入ったかのように言われてきた趣味の傾向を、今こそ利用したい。「女性の仲間が誰も行ってくれないんです。磯原さん、ご一緒いただけないですか?」……。

 モニター用に用意されたオプションツアーは二つまで料金会社持ちで参加できるという。だが、浅瀬でのシュノーケル体験、展望台のある山へのゴンドラ空中散歩、ランチクルーズ、自然動物観察……どれも女性が楽しめそうで、「誰も行ってくれない」ものには見えない。佐由利は行き詰まり、「プラリオ島 観光」と打ち込んでネット検索を始めた。日本人観光客向けの大きなホテルは確かに夏からの営業だが、すでに地元ゼネコンや欧米の有名ホテルが開発を進め、それなりのリゾート地域に育ちつつあるようだ。

 はっとして、佐由利は手を止めた。観光スポットの紹介の中に、日本から国際援助の一環として贈られた島の巡視船が今月いっぱい毎週日曜日に無料でデモンストレーションと試乗体験を行っているという記事があった。消防設備を搭載した船二隻が行う海上放水だとか、ものものしい装備を積んだ巡視船だとか、佐由利はそういうものが大好きだし、磯原に「女性の仲間が行ってくれない」と言っても説得力がありそうだ。

 不便な場所でもないのなら自分で行けるかもしれない。プラリオ島は公用語の一つが英語だから、佐由利もちょっとだけならなんとかなる。

 翌日、佐由利は出勤するなり磯原にメールを出した。残された時間は少ない。言い訳を手に入れたのならとにかく行動するしかない。

『磯原様

社員旅行の件でご相談したいことがあります。

お昼に時間が取れる日はないでしょうか。

お返事お待ちしてます。 仲本佐由利』

 間もなく磯原から返信があった。

『仲本様 昼は毎日一人なのでいつでもどうぞ 磯原』

 ランチの誘いをOKしてくれているのだから喜んでもいいはずなのに、どうにも素っ気ない。「ああもう!」と佐由利は心の中で身悶えた。失礼でない範囲内で最短の返事しか返してこない。佐由利は腹いせに自分も努めて短く返事をした。

『急ぐので明日! お願いします。合流はこれまでと同様で。 なかもと』


 磯原から了承とも何とも返信がなかったので、佐由利は不安にドキドキしながら駐輪場で待っていた。磯原はちゃんと、十二時半に駐輪場に来てくれた。

「どこ行きます?」

 言いながら、磯原は佐由利と視線を合わせるとそのまま立ち止まらず駐輪場を出た。

「あの、肉の日の店でいいです。それか、磯原さんの行きたいとこ」

「……そうですか、だったらちょっと、足を延ばします?」

 十分歩いてたどり着いたのは、どう見ても場末のスナックにしか見えない怪しい店だった。でも、佐由利はお店なんてどうでもよかった。とにかく社員旅行の相談がしたかった。

「どうぞ」

 やっぱりスマートにさりげなくドアを開けて促され、佐由利がちょっと不便な段差を上って店内に入ってみると、中は若い女性でいっぱいだった。外観からではこの客層はとても想像できない。店内は、基本的なつくりが明らかにスナックなのに、ランチョンマットやエアプラントなどの小物がことごとく可愛くて店内は小綺麗だった。

 佐由利はどうにも磯原が不思議でならなかった。社内では女性に一つもいい顔をしないのに、自然な気配り気づかいができて、こういうちょっとしたお店も知っている。メニューを開くと実に女性が喜びそうなヘルシー系イタリアンがリーズナブルな価格で並んでいた。佐由利は「ポルチーニ茸と三種のハーブのジェノベーゼ」のパスタを頼んだ。磯原は「ボリュームイタリアン丼」という焼きチーズのご飯ものを頼んだ。

「あの、すみません……なんか、年中ランチに呼び出すみたいになってて」

「別に、人と行くのも一人で行くのも嫌いじゃないんで、気にしないでください」

 佐由利が恐縮すると、磯原は何の感情の起伏も感じさせない口調で答えた。なんだかなあ、と佐由利は思った。こんなに何度もランチに誘ってくるのは、何か特別な感情があるんじゃないか……くらい思ったほうがいいのに。いい意味でも悪い意味でも手ごたえがない。

「相談ってなんですか?」

 磯原は即座に問いかけてきた。重大なことだから「いつ話を切り出そう」と気負っていたのに、あっさりと言い出されて佐由利は慌てた。すぐに返事がなかったのを見るや、今度は、

「ああ、食後のほうがよかったら、後にしましょう」

 と言って磯原はさらりと話を流してしまった。

「遠い店まで来ちゃってすみません。でも、仲本さんけっこう食べるの早いみたいだから、少し遠くても大丈夫だろうと思って。なかなかね、男一人でイタリアンは来づらくて。仲本さんをダシにして来ちゃったから、食後のコーヒー追加二人分を僕が出します。今日は遠くてハシゴもできないし」

「えっ、いいです、ちゃんと自分で出します。だって、毎回、私がお誘いしてるんですよ」

「仲本さん相手にくらいしか、かっこつける場面もないですからね。オマケにつける百五十円のコーヒーくらい、いい気分にさせてやってください」

 これは断りづらい。断ると、かっこつけるな、いい気分になるな、という返答になりかねない。それに……「仲本さん相手にくらいしか、かっこつける場面もない」つまりそれは、社内で一緒にお昼に行く女性は佐由利だけだし、もしかしたら彼女もいないということではないのか。佐由利はいろんな意味でドキドキして言葉もなく磯原をただ見ていた。

「物好きですよね、仲本さん」

「え……」

「普通、女性たち、僕に近寄ってこないですよ」

 磯原は笑った。佐由利は反応の仕方に困った。「物好き」なのではなく、つまりは「好き」なのだ。だから近寄ってきているわけで……。

「でも……磯原さんとお話ししてるの、楽しいです」

 佐由利は重くなりすぎないように必死の笑顔で好意を投げた。

「変な人。僕もこう見えて、人見知りはしないほうなんで楽しいです」

 やっぱり磯原の返答は佐由利を悩ませた。「楽しい」と言ってもらえたともいえるが、「人見知りはしない」というのはまだ他人の距離だと言われているも同然だ。それでも「楽しい」と言われたのはうれしかった。

「……そういえば、今回の社員旅行、仲本さんのおかげだそうですね」

「えっ」

「僕の仕事、けっこう社内の噂話、耳に入るんですよ。商品開発の山辺さんが、新しく入った女の子相手に熱心に語ってました。マーケの仲本さんのために大野課長が頑張って取ってきたおかげで社員旅行に行けるんだぞって」

 山辺が関係ないところで佐由利の話をしているのは困ったものだと思ったが、磯原の耳に多くの噂話が入るというのは意外な気がした。磯原なら努めて耳に入れないように遮断するかと思っていた。

「いえ、課長が謙遜のために私の名前を出してるだけですから……」

「仲本さんの派遣期間が延ばせないかって大野課長が人事に掛け合ってる時も、実は僕、近くにいたんです。あ、そうだ、だから本当は……前回ご一緒した時、あなたが五月末までだって言ったの、元々知ってたんです。派遣期間が終わっちゃうこと」

 本当はいろんなことを知っているんだな、と佐由利は思った。人付き合いをしないわけじゃない。人見知りもしない。情報だっていくらでも手に入る。ただ、知っていても黙って自分の仕事をして、人の居場所や心情を侵害しないだけだ。仕事しかしない、という賢い選択。

 佐由利がじっと黙って視線を返していたら、磯原が意外なことを言った。

「すみません、僕ばっかりしゃべってますね」

「そんな、……あの、全然、いいので……しゃべっててください」

 磯原久士に限って「しゃべってばっかり」なんてありえないと思っていた。でも、きっかけがあればたくさん話をしてくれる。楽しいと言ってくれる。気づかって、居心地のいい空間を作ってくれる。佐由利は磯原を独り占めして過ごす幸せを噛みしめた。

 間もなくやってきた「ポルチーニ茸と三種のハーブのジェノベーゼ」は香り高くて歯ごたえの快い逸品だった。

「うわあ……鼻からハーブが抜けていきます。摘みたてみたい。感動です……。ポルチーニも、すごく、美味しい」

「よかった、連れてきた甲斐がありました。……あの、ちょびっと、もらってもいいですか。仲本さんがすごく美味しそうに食べるから、気になっちゃって」

 磯原がわずかに乗り出してきた。佐由利はぱっと頬を赤らめつつ、わずかに皿を磯原の方に押し出した。

「どうぞ。ちょっと埋もれてきちゃいましたけど、葉っぱのとこも持っていって、ちゃんとのせて食べてください」

 磯原は遠慮がちな手つきながら端からパスタをフォークひと巻き分持っていった。そしてしばらく黙って噛んで飲み込んでから、

「これは美味いですね。僕は自分ではこれは頼まなかったな。ご一緒してよかった」

 としみじみうなずいた。佐由利が心の中ではしゃいでいると、

「スプーン貸してください」

 と磯原が言った。佐由利は、服にパスタソースを撥ねさせないために使っていた左手のスプーンに視線を落とした。

「それ、はい、こちらに」

 声と共に目の前に出された掌に、思わず自然にスプーンを渡していた。それからその意味を認識して慌てて磯原を止めた。

「あの、磯原さん、ごはん足りなくなっちゃいますから、あのっ」

 磯原は箸のついていないところから丼をスプーンで掘り、ごはんのせスプーンの状態にして佐由利に返した。

「ちょっとしかあげません。僕、これ好きなんで」

「……よかったのに」

「いや、こっちも負けてないぞって思って。引き分けです」

 スプーンに載ったご飯は、見た目にはただケチャップライスにチーズがかかっているだけだったが、食べてみるとふんわりバターと生卵の香りがした。佐由利はこれまた「うわあ……」とつぶやいていた。

「実は、チキンライスの、チーズと卵かけごはんなんです、これ。ところどころホワイトソースのクリームもかかってて、鶏肉もほどよく入ってて、部分的に味が違ったりして飽きないんです。ただ、多分、すごいカロリーですけどね」

「ほんとに美味しいです。でも『ボリュームイタリアン丼』って名前じゃ、なかなか自分では挑戦しないかも……」

「ね、引き分けでしょう」

 なんだろう、と佐由利は何度も繰り返していた。なんだろう、このハッピーな空間。なんだろう、この楽しさ。この居心地の良さ。なんて会話の楽しい人だろう。なのに、なんで、会社では仏頂面をしているんだろう。こんなに魅力的な人なのに。

 美味しいのと、磯原との時間が楽しいのと、佐由利はめいっぱいの幸福感で食事を終えた。残った時間は、「後にしましょう」になっていた相談を全力でするのみだった。

「……あのう、社員旅行、磯原さんは前の班、後の班、どちらで行かれます?」

 磯原がどちらで答えようと「私もです」と言って「だったら、一緒に行ってほしいものがある」と続けるつもりだった。だが返答はどちらでもなかった。

「行かない、っていう選択肢もありますよね」

 佐由利は愕然とした。磯原と海外のリゾート地で過ごせたらと、ドキドキしていた期待が一気に弾け飛んだ。

「飲み会くらいはいいけど、いろんな人と必要以上に関わると、その後がやりづらくなりそうで。会社では仕事しかしないことにしてるから」

「そうですか……」

 態度を取り繕うエネルギーがなくなり、佐由利はあからさまに悄然として答えた。

「何を相談しようと思ってたんですか?」

 佐由利の様子に特に反応するでもなく磯原が聞いてきた。新しく何か会話を考える気力もなくて、佐由利は話すつもりだったことをそのまま言った。

「会社で配られた紙には書かれてなかったんですけど、ネットで調べたら現地の巡視船のデモンストレーションと試乗体験みたいなのが、無料でやってるらしくて……巡視船とか消防施設積んだ船とか、見たかったんですけど、普段会社で仲良くしてる女の子たちが興味持ってくれる内容じゃないから……磯原さんなら、ご一緒してくれるかなって、思ったんです……」

「ああ、巡視船見学じゃ、女の子、行かなそうですね」

「そうなんです……」

 言えば誰か付き合ってくれるのかもしれない。だが、磯原以外の誰かと一緒なら、一人だけで好き放題船舶の内部を見物しているほうがいい。

「……そうかあ、巡視船か……」

 磯原は眼鏡を直して腕を組み、しばらく黙っていた。佐由利はしょんぼりと水を飲んでその間を埋めた。

「それだけご一緒したら、あとは全部単独行動してようかな」

 佐由利は反射的にコップから顔を上げ、数回まばたきをした。

 磯原はそのまま考えていたが、

「そうですね、せっかく仲本さんが取ってくれた社員旅行だし、お相伴にあずかることにします。まあ、半分は、行こうかなって思ってたんで」

 と言って、時計を見て、あと十五分ほど店にいられることを確認してから店員にランチのサービスコーヒーを二つ注文した。

「あのっ、絶対コーヒーも自分で出します」

「いいですよ、社員旅行のお礼で。こんな、百五十円の旅行じゃ申し訳ないけど」

「じゃあ……社員旅行、……行くんですか?」

「今、決めました。仲本さんは前半ですか、後半ですか? 合わせますから」

 佐由利はあたふたしてしまった。どっちかなんてまるっきり決めていない。しばらく相談して、磯原の仕事の加減に合わせて後半の日程にした。現地で過ごせる三日のうち、日曜日に当たる真ん中の日を空けることを約束して、二人は店を出た。

 帰り道、幸せいっぱいの気分で佐由利は言った。

「――よく、こんな素敵なお店、ご存じでしたね」

 ああ、と笑って磯原は答えた。

「三條さんに教わったんです。僕は自分で、こんな遠くにまでイタリアンを食べには来ませんよ」

 夢見心地から一気に目が覚め、佐由利は必死で作り笑いをした。

(今のお店、三條さんと一緒に来たんだ。……時々、お昼、一緒なのかな……)

 かっこつける場面もないと言っていたのに。いや、三條美紀とはもう、格好をつけることもいらないほど親しいのかもしれない。そういえば、社員食堂の交流会で、美紀は磯原に腕を組んでいた……。なぜそのことを忘れていたのだろう。

 自分だけが磯原と親しくなれたと思っていた。でも、磯原は「人見知りしない」と言っていた。自分だけだなんて、とてつもなく恥ずかしい思い上がり――。

 佐由利は必死で態度を繕い、なんとか笑顔でお辞儀をして磯原と階段下で別れた。心には小さな、しかし鋭い棘が残った。

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