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第一幕・オフィス 六 二度目のランチ

 山辺が余計なことを教えてくれたためか、佐由利は以前より少しだけ、三條美紀に親近感をおぼえるようになった。三十五歳まで独身だったら結婚しよう……たとえ冗談だとしても、嫌いな人とそんな約束はしない。そんな当てのない約束にすがりたい女心はわからなくもない。所詮保険なのかもしれないが、保険があるというのは安心だ。

「女って、哀しいなあ……」

 佐由利はため息をついた。女同士の七面倒くさいバトルだって、子孫をより有利な条件で残したいという本能に基づいている。だからこそ切実で、逃げ場がなくて余計に面倒だ。

 佐由利は、磯原をどんなタイミングで二度目のランチに誘おうか悩んでいた。頻繁に誘ったらうっとうしく思われるかもしれないが、退職までのカウントダウンに入っている以上、間を空けている余裕はない。磯原は強敵だ。会社の廊下ですれ違って、佐由利がドキドキしてとびっきりの笑顔であいさつしても、無表情の会釈しか返してこない。ラジコンで笑顔を見せてくれたのに、実は嫌われたんじゃないかと心配になるくらい、社内ではまるで鉄仮面ときている。

 対照的に、時々、山辺が通りすがりに「今度、また飲み会でも」と、こそっと佐由利に愛想よく声をかけていくようになった。佐由利はあいまいな会釈だけで流しつつ、背後におそらくあるだろう美紀の厳しい視線を気まずく思っていた。


 四月一日、社内の大異動があり、予定通りの人の移動が行われた。佐由利の派遣期間は残り二か月になった。五月末日、それが磯原と親しくなるタイムリミット。異動直後はIT担当が駆けずり回っている時期なので、佐由利は焦る心を押し殺して、一週間が過ぎてから磯原に社内メールを出した。

『磯原様

お忙しいところ、業務外のメールですみません。

前回、またご一緒いただけるということだったので、

近々お昼はどうかと思ってご連絡してみました。

ご検討ください。

マーケティング部 仲本佐由利』

 その日一日、ドキドキして待ったが、返信はなかった。スルーされたかと思って佐由利が落ち込んでいると、翌朝一番で返信があった。

『仲本様 昨日は代休で失礼しました。今日でも明日でも、声かけてください。 磯原』

 文面を見て、佐由利は口の中でこっそり歓喜の叫びを呟いた。そういえばシステム担当は、従業員がパソコンを使っていないタイミングで大規模なメンテナンスやセッティングをするため土日出勤になることがある。その代休の日にメールを入れてしまったようだ。

『磯原さんへ

今日の今日は急なので、明日、ぜひお願いします。

今回も、十二時半に下にいればいいですか?

マーケティング部 仲本佐由利』

 そのメールを出して数分後、磯原がマーケティング部の新しいパートさんのところにやってきたので、佐由利はすっかりドキドキしてしまった。それでも必死で仕事に没頭していると、用の済んだ磯原が近づいてくるのが見えた。佐由利はますます緊張した。

「あの」

 磯原が正面から声をかけてきて、佐由利はドッキリした。それでも、仕事用の若干よそよそしい微笑で顔を上げた。

「はい」

「――それで、いいです。一言だから、返信するまでもないと思って」

 無表情で、磯原はそれだけ言って去っていった。即座に踵を返したので佐由利が返事をする余地もなかった。

(今の、ランチの相談の回答だと思った人、絶対いないよね。何、あの仏頂面)

 佐由利は可笑しくなった。でも、にやにやしていたら誰かが何かに気がつくかもしれない。佐由利は磯原を見習って、仏頂面の鉄仮面を装った。でも、内心では可笑しくて、うれしくて、どうしようもなかった。


 翌日の十二時半、佐由利が階段を下りきると、ちょうどエレベーターホールから裏口に抜けるドアが開いて磯原が姿を見せた。

「あ――磯原さん」

 佐由利はちょっと照れて動揺した顔になったが、磯原は眉一つ動かさなかった。

「出ましょう」

 静かにそう言うと磯原は佐由利の前に出て、鉄の扉を開けて佐由利を通してくれた。表情は無機質なままだったが、物腰はスマートだった。

 佐由利はフリルのブラウスに春らしい花柄のマーメイドスカートを穿き、首もとにスカーフふうのチョーカーを着けていた。磯原との身長差を演出するため、もちろん靴はぺったんこだ。

「どこ行きます? でも、とりあえずここは離れましょうか」

 磯原はさっと駐輪場を出た。佐由利も、あまり社内の人の目につきたくはなかった。

「あの、磯原さんがよく行くお店ってどこですか?」

「大半は社員食堂ですが、『肉の日』っていうのを決めてます」

「肉の日?」

「半月に一度くらい肉が食べたくなるんで、毎週水曜は外で食べることにして、第二、第四水曜はいつも同じ店に行ってます。実は今日は肉の日なんです。でもそこ、女性向けじゃないからなあ」

 やっと、その「なあ」のところで口調が柔らかくなった。そこまでは事務的な気配がしていたから、佐由利はホッとした。

「あの、その肉の日の店、教わってもいいですか? ……あ、別に、磯原さんが行く日に押し掛けようっていうことじゃなくて、いらしてそうな日は避けますから」

「――いや、べつに、来るなとか言いませんよ。じゃあ今日はそこに行ってみますか? 多分、女性はあまり使わないだろうから、逆にぜひご一緒に」

 いちいち磯原の言葉の端々がうれしくて、佐由利はドキドキした。「来るなとか言いませんよ」ということは、行ってもいいのだろうか。「ぜひご一緒に」という言い方も何気なくいい響きだ。

「あのう、異動で、システムの方々、大変でしたね。土曜出てこないといけないし……」

「そうですね、でも土曜出勤は気分が変わって楽しいですよ。このへんの、土日限定ランチに挑戦したりして。――あ、月曜は、返信しなくてすみませんでした。まるっきり休んでました」

「そんなの気にしないでください、勝手なお誘いで、スルーされたってよかったんですから」

 社交辞令の延長線上みたいな会話をしていたら、壁にかかった黒板に殴り書きでメニューが記された、真っ白い壁に赤さびのようなドアがついただけの店に着いた。磯原はその赤いドアを指さした。

「一見怪しいから、怖気づいたら別の店にしますけど」

 そう言うと、磯原は眼鏡の奥でいたずらっぽく笑った。佐由利はドッキリした。

(……笑った……。って、私、なんか、この人に絶対オトされてるよね?)

 ずるい、と佐由利は思った。笑顔一つがいちいち強烈だ。普段とは違う顔……。

「いえっ、入ってみたいです。来たことないお店です」

「じゃあ、メニューはこれ見て決めちゃってください。店内にはメニューがないから」

 黒板には「魚 鶏 豚 牛」とあらかじめ絵の具で書かれていて、その横にチョークで「カレイのムニエル」「トマト煮」「サラダしゃぶしゃぶ」「すじカレー」と書かれていた。

「鶏のトマト煮、美味しそう。ムニエルも惹かれます、どうしよう。でも鶏にします」

「今日は珍しく、女性にもよさそうな感じですね。アジの塩焼きと親子丼とトンカツ、なんてことも多いんですけど。じゃあ、怪しい店ですが、どうぞ」

 ドアを引いて佐由利を中に入らせると、磯原は佐由利の背後から店の人に「二人」と指を立ててみせた。「どこでもどうぞ」と言われ、磯原はすいっと佐由利を追い越して奥へ進み、隅の二人掛けの壁際に佐由利を座らせた。それからすぐに自分も座り、水を運んできた店の人に注文した。

「僕はすじカレーで。……トマト煮で、変更ないですか?」

 磯原は佐由利に視線を送った。佐由利はうなずいた。

「この人は鶏のトマト煮、お願いします」

 佐由利は「この人」という言い方にまた心を奪われた。いちいち、なんでもないところにドキドキする。何をやるにもさりげなくて気負わないくせに、自然に気遣いができていて紳士的。そして時々、ときめきを誘う口をきく。

 店の人が奥に引っ込むと、磯原は一息ついて水を飲んだ。

「……今日は、割り勘じゃないとダメなんでしたっけ?」

「あっ、はい。同じ会社で、オゴリとかやめましょうよ。前回はラジコンの見物料って言ってくださったから、いただきましたけど……」

「仲本さん、歳、おいくつですか?」

「えっ……」

 女性に年齢を聞くのは普通、タブーだ。佐由利は年齢を答えることにまったく頓着はなかったが、他のことにすべてパーフェクトだった磯原が珍しく失敗をしたように思ってつい言葉に詰まった。

「あ、非常識だと思いました? 絶対僕より若いから、聞いてもいいはずだと思って」

 磯原は若干恐縮した。佐由利は慌てて首を振った。

「いえ、歳とか全然気にしないんで、普通に答えます。二十八です」

 磯原は、佐由利が素直に答えたのでホッとした笑顔になってうなずいた。

「僕は三十ちょうどです。僕が三十の男で正社員、仲本さんが二十八の女性で派遣社員、だったら僕のオゴリでもいいんじゃないかな、って。あなたが三十二の正社員だったら、僕は普通に割り勘にするし、オゴると言われたら遠慮なくたかります」

 佐由利は「あなた」と言われたことにまたドッキリしてしまった。なんとも、殺傷力の強い恋の矢を持っていることだ。

「私がハケンなのは、ご存じだったんですね」

「僕は下っ端なので各部署の人たちの雇用形態を把握する立場にはないですが、システム上、アクセス制限やメールアドレスの設定ですぐわかります。仲本さんがアクセスできるのは部署内の公開フォルダだけで、これは派遣社員用の設定です。アドレスにも『s.』がついてる。ナカモトという名字は社内に他にいないのに、名前が一字アドレスに入ってるのは正社員じゃないということです。後から同じ名字の人が正社員で入ってきたときのために、名字だけのアドレスは空けておいてもらってます。佐藤さん鈴木さんは複数いるから正社員でも名前入ってますけど」

「言われてみれば、わかって当たり前ですね。でも私、今日は絶対割り勘じゃないとご一緒しませんから」

「もう来ちゃってるのに?」

 磯原は笑った。本当に、いちいちドキドキする。佐由利はもう、完全に恋することに心を決めた。

「部署まで『お昼代払います~!』って押し掛けられたくなかったら、割り勘にしてください。私、お昼代をたかりたくてお誘いしたわけじゃないんだから」

 佐由利がわざとむくれてみせると、磯原は握りこぶしの親指側を唇に当てて肩を震わせてくすくすっと笑った。こんな笑い方をするんだ、とまた佐由利はうれしくなった。

 料理はすぐに来たし、ボリューム主体の安い店なので付け合わせなどもほとんどなく、単調な作業で食事はあっという間に終わってしまった。店の中はなんとなく食べたら出ていく雰囲気になっていて、佐由利は控えめに左右を見回した。その気配を察して磯原が申し訳なさそうに言った。

「すみません、ここ、長居しづらいですよね。僕、肉の日は喫茶店にハシゴするんです。コーヒーが飲めるとこ。――行きましょう」

 磯原が立ち上がったので、佐由利も財布を手にすぐ後を追った。ちゃんと別々に会計をして、やっぱりスマートにドアを開けてもらい、佐由利は店外に出た。磯原が静かにドアを閉めて、前に立って歩きだした。

「コーヒー、嫌いじゃないですか?」

「あ、好きな方です。部署の有志でコーヒーをシェアするメンバーにも入ってるくらい」

「ならよかった。ハシゴさせちゃって、落ち着かなくてすみません。コーヒーはおごりますよ」

「いえっ、全部割り勘で!」

 磯原は黙って佐由利に笑いかけ、決して速すぎない速さで歩いてチェーンの喫茶店に佐由利を連れていった。

「どこに座ります?」

 店内は何か所か席が空いていた。壁際に、少し広めのスペースがとってある席が空いていたので、佐由利がそこにしばらく視線をとどめていると、

「――じゃあ、そこに座っててください。何がいいですか?」

 と言って磯原はセルフサービスのレジに半分体を向け、顔だけ佐由利を振り返った。

「いえ、あの、自分で……」

「席、取っておいてください。何にします?」

 次の客が店に入ってきた。佐由利は席を確保するために、

「コーヒー、ブレンドで……」

 と告げて奥へ行くしかなかった。

 しばらくして、佐由利のホットコーヒーと自分のアイスコーヒーを盆にのせた磯原が席にやってきた。

「いくらでした?」

 席からメニューは遠くてよく見えなかった。佐由利は一生懸命メニューを見つめた。

「もう買っちゃいました。コーヒーくらい、いいでしょ」

「……」

「僕、もう財布しまっちゃいましたから。どうぞ」

「……すみません……」

 上手くやられた、と佐由利は脱帽していた。「断らせないテクニック」というのがあるのだと思った。本当に、ご馳走になる気なんかなかったのに……。

 その日の話題は人事異動や、春先に出て爆発的ヒットを飛ばしている自社の新商品のことになった。ラジコンや野球の話題でなくても話が途切れない。佐由利はドキドキしっぱなしで、楽しい時を過ごすことができた。

 最後に佐由利は、意を決して言った。

「あの、実は私……五月末、までなんです」

「え?」

「派遣法。期限が来ちゃうから、雇い止めです。あと二か月しかいないから……あの、よかったら、それまでに何度か、またランチ、行ってください。コーヒーも割り勘で」

 磯原は特に残念そうにするでもなく、

「そうですか。仲本さんは、僕のことがつまんなくないみたいだから、いつでも歓迎です」

 と社交辞令のような承諾を返してくれた。口調も態度も親切だっし、次回の食事もOKしてくれたわけだが、佐由利はいくらかガッカリした。退職を惜しんでもらえるほど親しくなってはいないが「残念です」くらいの社交辞令は言ってほしかった。

 それでも、佐由利の中で磯原の存在はぐっと大きくなった。もっと関わっていたいし、もっと親しくなりたい。ランチタイムの一時間では足りない、そんな気分だった。

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