第一幕・オフィス 三 恋のラジコンカー
それでも仲本佐由利は決めたことをちゃんと実行する。週明けの月曜日、女子力を「ON」にして、髪を軽やかにまとめてナチュラルメイクを決め、明るいオシャレな服装になった佐由利が黙々と資料をデータベース化していた。
そこへ外回りの男性社員が一人帰ってきた。かなり大きな包みを抱えている。
「おみやげあるよー」
作業机には、ファンシーキャラクター柄のティッシュボックス、アニメイラストの大判タオルなど、さまざまなグッズが広げられた。取引先から廃棄資料をもらってきたらしい。
「早い者勝ち、好きなもの持っていって。非売品の限定品ばっかりだから、レアアイテムがあると思って、一応ぜーんぶもらってみた」
部署の人たちが品定めをする中、佐由利は恐る恐る人の後ろからアイテムを覗き込んだ。派遣社員は、あくまで控えめに……。何人かがいくつかのグッズをもらっていく。そして、大判タオルの下から現れたやや大きな箱を見た瞬間、佐由利は思わず叫んでいた。
「これ! ください!」
そこにあったのは、非売品の「プロ野球十二球団ラジコンカー」。ついむしゃぶりついてしまった。佐由利は慌てて周囲に詫びた。だが手放すつもりはなかった。
佐由利の趣味はプロ野球観戦。好きなチームはあるものの、とにかく野球観戦ならチームを選ばず大好きな、筋金入りの野球ファンだ。プロ野球十二球団が十年ほど前にイベントの販促アイテムとして制作したのがこのラジコンカーで、子供の頃に兄と遊んだ記憶から車の模型も好きな佐由利は、「プロ野球+ラジコンカー」というこのゴールデンなアイテムが欲しくてたまらなかった。だが、非売品で当時どうしても手に入れることができなかった。
「仲本さん、女の子なのにそんなの欲しいの?」
販促アイテムの山を運んできた男性社員が不思議そうな顔をした。
「すみません、これ十年前、兄がすごく欲しがってたのを思い出して……」
佐由利は、自分がプロ野球のファンであることを公表していなかったので、面倒だから兄のせいにした。
「そうなんだ。俺も好きな球団はあるけど、それ十二球団のロゴ入ってるじゃない? 嫌いな球団といっしょくただとね……」
男性社員の苦笑に他の面々も「そうだよね、好きな球団だけのグッズがほしいよね」と同調して、ラジコンカーは無事佐由利のものになった。
佐由利はそのやや目立つ大きな箱をさっさとしまいたかったが、あいにく派遣社員は自分のロッカーがない。制服がないから着替える必要もないし、私物は机の一番下の大きめの引き出しに入れて鍵をかけるようになっている。だが、荷物入れの引き出しにラジコンの箱を入れるとカバンの置き場がなくなってしまう。佐由利が右往左往していると、周囲の人から「帰りまで、隣の空き机に置いておきなよ」と笑われた。佐由利は「趣味丸出しですみません」と周囲にペコペコしつつもそうさせてもらった。
午後遅く、佐由利に大きな声がかかった。
「仲本さん、これ何?」
佐由利が慌てて声のほうを振り返ると、商品開発部の山辺だった。佐由利は愛想笑いを浮かべた。
「お疲れ様です」
「ねえ、これ、これ。こういうの持ってるってことは、仲本さん野球好きなの?」
山辺はラジコンカーを指さした。
「野球は……たしなむかな、っていう程度です。兄が好きかな、と思って……せっかくだからもらいました」
佐由利は隙を作らないよう慎重に、「私はあまりわかりません」とでも言うかのような声色を作った。
「そうかー、野球好きなんだったら、会社帰りの野球場飲み会とか誘いたかったな~」
佐由利はノーリアクションでニコニコしていた。やがて山辺が残念そうな顔を見せたので、危機を一つ回避したなと安堵した。野球は面倒の元になりやすい。野球が好きだと公表すると社内の野球好きの人々とのネットワークができ、結果として男性の輪の中に少数の女性が入ることになる。すると「野球で男に取り入って……」と陰口を叩く女性が出てきたり、余計な男性が野球をダシにデートに誘ってきたりする。
そのまま山辺はしばらく佐由利相手に雑談をしていた。佐由利が「いつまでいるのかなあ」と時間を気にした途端、三條美紀がつかつかとやってくるのが見えた。
「山辺君さあ、仕事ヒマなの?」
美紀の声に山辺は振り向いた。
「ヒマなわけないじゃん、でも社内のコミュニケーションだって大事だよ?」
山辺が冗談めかして答えると、美紀はニコリともせずに言った。
「ハケンに、用なんてないでしょ」
その言葉に部署の空気が凍った。佐由利は、気まずく思いながらも、こういう状況にはいささか慣れてしまっていた。佐由利は「まいったな」という笑顔を作って答えた。
「私はともかく、山辺さんも、お忙しいでしょうから……」
「ね、仲本さん困っちゃうよねー、仕事の邪魔でー」
美紀は満足そうに佐由利を気遣ってみせた。山辺は空気を読んで去っていった。
部署の気配が若干殺伐としたままなのを感じ取り、佐由利はわざと美紀に丁重に礼を言った。
「すみません三條さん、気を遣っていただいちゃって……」
「あ、ううーん、相手を選ばない男ってほんと、困るよねー」
美紀はそう言って席に戻った。佐由利は一瞬苦笑したが、涼しい顔でまた椅子に座ってデータベース作りを始めた。「相手を選ばない」とはご挨拶なことだ。これは「あんたみたいな女にまで声をかけるなんてね」と翻訳する。佐由利は「悔しいくせに」と、わざと美紀を見下すことで逆立った神経を鎮めた。
それにしても、見た目に気を遣った途端にやっぱりこんな騒ぎだ。佐由利は、「地味でイケてない服装」がどれだけ強固な鎧となってくれていたかを思い知った。
そこに、遠くから歩いてくる磯原の姿が見え、佐由利はドッキリした。たいがいの人がメールで音もなく用事を伝えるので、磯原は社内で「いつの間にか来て、いつの間にか部署に帰る」という行動パターンになる。佐由利は平静を装ってパソコンに集中した。
磯原に用事を頼んだのは隣の席のパートさんだった。佐由利が努めてクールに仕事を続けていると、ものの一分とたたずに磯原はパートさんのパソコンの不調を解消して「これで終了です」と短く言い残して無表情で部署に戻っていった。
(うーん……磯原さん、難攻不落すぎる)
とっかかりもきっかけも何もない。実に「つまらない男」だと思う。だが彼には別の顔がある。つまらなくない側面をどうしても見てみたい。
間もなく、パソコンの片隅にメールを受け取った表示が出たので、佐由利は画面をメールに切り替えた。
えっ、と声が出てしまいそうになった。差出人は「IT統括 磯原久士」。パソコンのメンテナンス通知の場合は差出人が「システム管理」という表示になるから、これは磯原個人からの社内メールだ。佐由利はめいっぱい冷静な表情を作ってメールを開いた。
『仲本様
お疲れ様です。仕事に関係ないメールですみません。
机の横にあったラジコンは仲本さんのでしょうか。見せてもらうことはできますか。
IT統括 磯原久士』
横目で、さりげなく佐由利は大事な「十二球団ラジコン」を見た。もしかしたらこれは、とんでもないお宝なのではないか。十年越しの憧れの果てに手に入っただけでもラッキーなのに、磯原からこんな連絡が入るなんて。
すぐに返事をしたかったが、どう返せば最も「今後」につながるかを真剣に考えたい。まずはと仕掛かりのデータベースを更新してから、やっと返事をした。
『磯原さん
おつかれさまです。もちろんお見せします。
今日明日じゅうには家に持って帰るので、今日の仕事後か明日のお昼など、少しご一緒する時間が取れたらいいのですが、いかがでしょう。返信お待ちしています。
マーケティング部 仲本佐由利』
出してしまってから不安になった。ご一緒したいなんて言ったら嫌われるのではないだろうか。磯原は「ちょっと見せて」程度の声をかけてきたのに、佐由利の返信は「仕事以外の時間に、お食事でもご一緒に」だ。「重い」「面倒だ」と思われてはいないだろうか。
佐由利が勝手に落ち込んでいると、すぐに返信が来た。涼しい顔でかぶりついた。
『明日昼休みにお願いします。お昼おごります。磯原』
ヨッシャ、と佐由利は心の中で全力で叫んだ。よろしくお願いします、詳細ご指示くださいと返したら、十二時半に下におりて裏の自転車置き場前という指定が届いた。
まさかの展開。とんでもないラッキー。佐由利は終業を迎えると、引き出しから荷物を出して代わりにラジコンの箱を入れ、大事に大事に鍵をかけた。そして会社を出て、新しいワンピースと、ほんのりとバラの香りがついた化粧水を買って帰った。