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第一幕・オフィス 二 鎧を脱ぐ

 翌週の金曜日、出社してきた佐由利を見て、何人もの人が「どうしたの」と声をあげた。佐由利は髪を綺麗にかつ華やかに編んで整え、裾の刺繍が可愛い黒のワンピースとグレーのジャケットを着ていた。眼鏡は外してコンタクトレンズに換え、ことごとく佐由利を男性受けさせてきたナチュラルメイクを施し、普段の「手抜き」とはもはや格段に違っていた。

「先週、三條さんに女を捨てるなと叱られたのを反省して、まあ飲み会くらいはと……」

 やや肩をすくめて猫背なような姿勢で謙遜しつつ、佐由利は控えめに言った。早速、男女を問わず「そのほうがいいよ」「可愛いじゃない」と、お世辞の分の嵩上げも入ってすっかり持ち上げられた。当の美紀も「言った甲斐があったよ」と笑顔で言ってきたが、その表情がピーンと張りつめているのを佐由利は見逃さなかった。

 それでも「地味でイケてない女」の態度だけはしっかり決め込んで、佐由利は内気にやや卑屈に一日を過ごし、夕方六時、終業のチャイムが鳴った。

「よーし今日はここまで、社員食堂へ移動~!」

 部長の声がオフィスに響き、何人かが「やったー」と声をあげた。佐由利もパソコンの電源を落とした。

(せっかく今日はそれなりに装ってきたのに、こういう社内の社交的な集会みたいなのに、磯原さんは来そうにないよな……)

 磯原は会社の人と関わりたくなさそうな気配が常に漂い、バリアを張っているかのようだ。三か月で、どうすればチャンスが作れるのだろう。

 マーケティング部は全員で社員食堂へと下りていった。かなり広い食堂が、立食と着席のパーティー仕様にしつらえられている。中央には軽食が並び、もう百人以上が集まっていた。社員全員が来たら二百人近くになるが、そこまでは来ないだろう。佐由利はさりげなく周囲を見回したが、磯原の姿はなさそうだった。

 マーケティング部のメンバーが一つのテーブルを占拠して、三々五々、料理や酒を取りに行った。美紀は光の速さで同期の男性のところへ飛んでいった。美紀が商品開発部の山辺皓太にご執心なことは社内の常識で、もはや話題にする人もいない。この二人は大学でクラスが一緒だったらしく、美紀が大学時代の話をしては「山辺君も一緒だったんだけど」と続けるのが「お約束」となっている。

 他部署の顔見知りが次々佐由利に声をかけてきた。

「あれっ、なんと仲本さん?」

「感じが違うからわからなかったよー」

 そのたびに「女を捨てるなと叱られちゃって」と恐縮してみせつつ、佐由利は仕事中の猫背な姿勢はやめて、すっと背筋を伸ばして颯爽と立っていた。

 間もなくお開きの時刻という頃、たまたま一人になった佐由利に背後から声がかかった。

「マーケの仲本さん!」

 佐由利が振り返ると、商品開発部の山辺だった。

「マーケの三條美紀って俺の同期なんだけど、さっきまでこっち来て仲本さんが綺麗だって話してたからさー、見ておかないとー思って」

 さあ来たぞ、と佐由利は思った。美紀にはかなり強烈に意識されているらしい。そして、これまで佐由利に目もくれなかった山辺がチョッカイをかけてきた。予想通り、これまでの平和はもはや打ち破られたということだ。

 山辺皓太は、顔がやや濃くて散らかった印象だが、髪型と眉の整え方と雰囲気でイケメン風に見せている独身男性だ。社内で「それなり」以上の見た目の女性は、山辺に必ず一言二言「イイコト」を言われていたし、実際ちょっとした恋愛騒ぎもあったらしい。佐由利はもちろんそんな男性にまるっきり興味などない。異性よけの鎧を脱いでこの場に立つ佐由利は、自分を守備力高めの戦闘モードに切り替えた。

「やだなあ、三條さんの足下にも及ばないのに、彼女何言ってるんですかねー」

 佐由利が愛想笑いで答えると、山辺は臆面もなく続けた。

「ううん、ほーんとキレイだよ、マーケに行ったときとか、もっとしゃべっておけばよかったなあ~。ねえ、彼氏とかいるの?」

 実に現金な男だが、むしろわかりやすくて助かる。そして多分、山辺自身も何割かは恋愛ごっこなのだろうと佐由利は感じた。女性のほぼ全員が「あの人は女好き」と知っているなんて、本当に女性をオトしたかったら非効率的だ。

 佐由利が「いやいや、もう、またまたー」と適当な相槌ですべてを煙に巻き、できるだけ早く話を切り上げて帰ろうとしていたら、美紀のわざとらしい大声が近づいてきた。

「あーっ、山辺アンタ、ウチの仲本さんを何足止めしてんのー? マーケの皆が待ってますー、仲本さんは返して!」

 美紀は佐由利に歩み寄って無暗に親しげに肩を抱いた。佐由利は驚いたが、「私の男に手を出すな、ってことだな」と理解してすぐに追従した。

「ありがとうございます三條さん、一緒に戻りましょう」

 最後まで聞かず、山辺は美紀に強く言った。

「こっちは楽しくやってるのに!」

 いや、やってないけど……と佐由利は思った。

「交流会なんだから、俺は仲本さんと交流したいの。しっしっ」

 山辺は美紀に手で追い払うしぐさを向けた。美紀がムッとしたのが佐由利にも伝わった。

「あ、私、部署のほうに戻りますんで……」

 佐由利が山辺に軽く頭を下げた途端、さっと美紀が肩を放した。

「いいよゆっくりしなよ、私は帰りますー、どうぞご存分にー」

 美紀はその大半を山辺に向けて嫌みっぽく言い、ぷいっと去っていった。

「あ、三條さん……」

「放っときなよ、仲本さんが綺麗で嫉妬してるんだよ。でもホント、なんか、普段地味にしてた子がこんなに綺麗にしてくると、ギャップの分もグッとくるなあ」

 山辺のおべんちゃらタイムをなんとかやり過ごし、佐由利は何度もお辞儀をしてその場を去った。マーケティング部のテーブルに戻るとやっとホッとした。そして何の気なしに顔を上げると、正面に大柄なIT部門の主任の背中が見え、その向こうに磯原の顔が見えたような気がした。

(えっ?)

 佐由利は懸命にその周囲を目で探った。しばらくして、主任の背中がかがんで何かを拾うようなしぐさをした瞬間、奥に磯原の姿が見えた。

(――磯原さん、いたの!?)

 大いなる失敗だった。最初に見回して姿がなかったから、先入観で「こういうところには来ない人」と決めてかかっていた。佐由利は残りの五分間を悩みぬいたが、話しかけに行く理由は見つけられなかった。

「はい、それでは皆さん、ご歓談中のところ恐れ入りますが……」

 司会のマイクが会の終了を告げた。佐由利は肩を落とした。

「じゃあ、皆、帰ろうかー。二次会とかどうする?」

 マーケティング部のうち最後まで残っていた人たちは揃って社員食堂の出口に向かった。佐由利は、フォローのために美紀と他愛ないことでも会話しておこうかと気配を探ったが、美紀は他の女性と話していて、仲間に入る余地はなかった。

 社員食堂の出入口の先にITの部署の一団が見えた。マーケティング部の面々は出入口付近で淀んだように溜まっている。今だ、と佐由利は思った。

「磯原さん」

 自然なふりで声をかけたが、佐由利は必死だった。そもそも、磯原は「仲本佐由利」という従業員を認識しているだろうか。

「あのっ、マーケティング部の仲本と申します、いつもパソコンについてはお世話様です」

 佐由利は必死で名乗った。磯原はわずかに体を後ろにそらして眼鏡の奥でパチパチッとまばたきをした。

「――えっ、大丈夫ですよ、名前はちゃんと知ってます」

 佐由利は感激した。名前は覚えていてくれた、それがわかっただけでも大収穫だ。

「磯原さんって、こういう会社の飲み会みたいなの、出ない人だと思ってました」

 何を言っていいかわからなかったので適当な話をした。磯原はまたパチパチッとまばたきをして、答えた。

「いや、そんなことないですよ、飲み会とか……けっこう好きなほうですから」

 佐由利は心底驚いた。どこから見ても飲み会が好きなキャラクターとは思えない。会社の仏頂面が仮面なら、この人の素顔は何だろう。やっと話しかけたのに、早速次の言葉が出てこない。うまく世間話をしなければと焦って焦って、でも何も出てこない。しばらく不自然な沈黙が続いた。

「いそはらくーん、ちょっとー」

 乱暴な声がして何かがどさっと磯原にぶつかった。それが三條美紀だとわかった途端、佐由利の心には冷や水が浴びせかけられた。

 美紀は佐由利にまるで構うことなく、磯原の腕に腕をからめて引っ張った。

「ねえウチの二次会おいでよー、これからみんなで街に繰り出すからー」

 存在を抹消された佐由利はただ呆然と二人を見ていた。

「いや、ITはITでどこか行く話もあるから……」

「たまにはいいじゃーん、こっち、おいでよー」

 美紀と磯原の問答は続いていた。佐由利は磯原に軽く会釈だけしてその場を離れ、マーケティング部の群れに挨拶して一人で帰途についた。

(磯原さん、三條さんの腕を全然嫌がってなかった……)

 暗い夜道に佐由利の足取りは重かった。やっと勇気を出して話しかけたのに。せっかく元のちゃんと綺麗にした自分で顔を合わせられたのに。やっぱりご縁はないのかな、と佐由利の気持ちは沈んだ。

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