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第三幕・再びオフィス 十六 女の闘い

 水曜日、社員旅行後半の班のメンバーが戻ってきたマーケティング部は、いつものとおりに始業した。大野も、佐由利に対する態度を変えるようなことはなく、そこは四十代の管理職としてしっかりしたものだった。佐由利は、大野から旅行モニターのアンケート用紙を渡されて、大野に対しても磯原に対してもいろいろな思いが去来した。きっと、このアンケートを冷静に書くことはできないだろう。

 その日、佐由利の視界に磯原が入ることはなく、佐由利の仕事はほとんどがもう引継ぎと残務処理なので定時ですぐに帰るしかなかった。あと二日。気持ちを伝えたいという思いは強くなる一方だったが、「あの絵の具は、もう、使っちゃったから」の声を思い出すたびに打ちのめされた。

 だが、翌日、もっと打ちのめされる出来事が起こった。

 朝、始業前に、マーケティング部の一人が気を利かせて全体に聞こえるように言った。

「今日、磯原さん体調不良でお休みですね。グループウェアに、何かあったら宇川さんにって連絡が入ってます」

 磯原は今日、いない。昨日も会えなかった。明日も会えないのかもしれない。佐由利は顔に出さないように落ち込んだ。やっぱり気持ちを伝えることなく、黙って消えるべきなのかなと思った。

「磯原くん休みかあ。旅行では元気そうだったけどなあ」

 大野が「みんな、今の聞いてたよね」と言う代わりに無難な反応をしてみせた。佐由利はこっそりふてくされて「旅行でも、二日目は全然元気じゃありませんでしたー」と心の中で言い返したが、それはともかく、ここまでは珍しくもない光景だった。

 だがこの日はそこに三條美紀の声が響いた。

「彼、風邪で、今、熱出して寝てますよ。明日は出てきたいけど、もしかしたらダメかも、だって。心配するほどのことじゃないですよ」

 美紀の言い方は不自然に声高だった。部署にしばし微妙な気配が漂った。

 佐由利は心臓を氷の手でつかまれたような感覚がいつまでたっても抜けなかった。パソコンの画面に集中できず、あまり考えなくてもできる廃棄処理に仕事内容を切り替えた。

(……そういう、ことなの?)

 社内の連絡には「体調不良」としか書かれていない。妙に不自然だった美紀のアピールは何なのか。それは……。

(つまり、三條さんと磯原さん、今朝は一緒にいたってこと? ゲットしましたアピール?)

 佐由利もそう思ったし、部署の皆もそう思ったからえも言われぬ空気が漂った。こういう場面は意外と世間によくあるもので、女子力アピールに余念がない女性は、久々に彼氏ができたりした際になぜかこういう謎の勝ち名乗りをあげたりする。

 佐由利が最初の最初に磯原に声をかけた時、わざわざ邪魔をしに来て磯原に腕をからめていた美紀の姿がよぎった。一緒に行ったイタリアンのお店も美紀が教えてくれたと言っていた。そう考えたら手がかりはたくさんあった。

(でも、だったらなんで磯原さん……私と二人で過ごしてくれたんだろう。プールでも彼女はいないって言ってたのに)

 でも、と佐由利は思い返した。あの時の返事は……

『いませんよ。そこまでは答えます、あとはなんにも答えません』

 彼女と明言できる人はいないが、それなりに恋愛の相手はいる……そういう意味だったのだろうか。考えてみれば思わせぶりな回答だった。

 佐由利は振り払うように首を振った。派遣社員とはいえ三年いたから、捨てるものはたくさんあった。黙々と処分品を箱に入れながら、佐由利は結局ぼうっとしていた。

(そうか、私って、女性じゃなくて「人として」親しくしてもらえることも多いもんな……)

 周囲の女性たちに「あざとい」「オトした」と言われるものの、佐由利にも相手の男性にもその気はなく、ただ楽しいから仲がいいだけとか、そういうことはたくさんあった。

(磯原さんが浮気みたいな感覚で女性と約束することなんてあるわけない。そうか、私って最初から磯原さんにとって、異性とか、恋愛対象とかじゃなかったんだ……)

 バカみたいだ、と思った。考えないようにしないと仕事を続けられそうになかったので、とにかくそこからは頭を空っぽにすることに努めた。考えるとつらいのに、それでもやっぱり、佐由利にエネルギーをくれたのは磯原だった。

『会社では仕事しかしないことにしてるから』

 そう、社会人はそれが正解。恋愛で仕事に穴をあけるようなことはすべきでない。

(仕事しかしない。……それが正しいし、かっこいいよね)

 おかげでなんとか集中できて、気がつくと終業のチャイムが鳴っていた。佐由利はホッとするとともに、力が抜けた。気持ちを伝えるなんてナンセンスだ。片想いでしかなかったなら、わずかな可能性もないのなら、素敵な思い出を胸に黙って去るしかない。

 派遣社員は、佐由利のように長くいる人もいれば、ほんの短い期間でいなくなる人もいるから、公式の送別会は行われない。有志の送別会は在籍最終日ごろに予定されていたが、仕事のうえでは佐由利は淡々と今日を帰り、明日挨拶回りをして帰るだけだ。佐由利は荷物を手に立ち上がり、「お疲れ様でした」と声をかけて部署に背を向けた。

 そこに、商品開発部の山辺が現れた。佐由利が挨拶して帰ろうとすると、なんともいえない視線が向けられた。なんだろうと思って佐由利は立ち止まった。しばらく山辺は黙っていたが、佐由利がやや訝しむような視線を向けると、やっと口を開いた。

「――俺の方が先だったのになあ。まあ、縁ってタイミングだから……しょうがないよね。でも、くやしいなあ。仲本さん明日まででしょ。ちょっとね、負け惜しみくらいは言ってやろうって思って」

 何のことだろう。何を言われているのかまったくわからない。面倒だから、笑顔で「失礼します」と言って去ろうかと思ったが、はたと佐由利は思い直した。

 旅行で、美紀はずっと山辺と一緒にいたという話だった。三十五歳まで独身だったら結婚しようという話は消極的ながら生きている気配だ。この二人には一定以上の信頼関係が成り立っていると考えられる。ならば……。

(本当のところを聞こう……)

 磯原と美紀はどういう関係なのか。このまま推測や憶測で落ち込んでここを去るのは悲しい。もしも山辺がその二人のことについてあまり知らなければ、美紀に本当のところを聞いてほしいと頼んでみてもいい。寄ってくる男性をしたたかに活用するような真似は好きじゃないが、人生に一度くらい、利用させてもらってもいいだろう。

「……山辺さん、このあと、予定とか、何かあったりします?」

「え?」

 山辺はとてつもなく驚いた顔をした。

「あれっ、何、予定聞かれてるってことは……退職前に、一緒に食事にくらいは行ってくれるのかな。いいのかな、そんなんで。でも俺は歓迎だよ?」

 山辺が先走ってくれたので誘いをかける手間が省けてしまった。佐由利は、屠殺されに行く家畜のような気持ちで山辺に言った。

「山辺さんの仕事が終わるまでお待ちします。何時に、どこにいればいいか指定してください」

 山辺は「一時間待って」と言ってビルの向かいのコーヒーショップを指定した。佐由利は言われた通りにそこで待った。山辺は時間通りにやってきて、二人は食事に行った。


 翌朝、佐由利は出勤してすぐに給湯室に行き、わざと少し長居した。朝、三條美紀がコーヒーを汲みに来るのはいつもこのタイミングだ。しばらく待つと美紀がやってきた。佐由利は深呼吸をして、全力の戦闘モードに切り替えた。

「三條さん」

 佐由利が重くて厳しい声をかけたので、美紀は面食らったようだった。給湯室周辺に人の目や耳がないことを確認して、佐由利は本気の怒りをこめて美紀を糾弾した。

「――三條さん、何年もこの部署にいて、いったい何をやってるんですか?」

 カンペキメイクにハイヒール、自分に似合うシャープな色調の服を身につけ、女子力とかモテだとか、そんなことにエネルギーを割いているくせに、実は肝心なことを何もしていない。佐由利は美紀に向けて、全身全霊で文句を言った。

「私、大野課長とはほんとに何もありません。私が退職しちゃうから、結婚相手にどうかな~くらいの品定めはしたみたいですけど、あの人は私のこと、好きでもなんでもないですよ。……三條さん、ちゃんと言えばよかったじゃないですか。社員旅行、大野さんと一緒に行きたいって。旅先で一緒に過ごしませんかって。それをやらないで、私に変な八つ当たりとか言って、しかも噂を鵜呑みにして大野さんに『私は磯原さんと仲いいもん』みたいな変な当てつけ言って、磯原さん、とばっちりじゃないですか。女性はそういうとこ、ワケわかんなくて、めんどくさいんですよ。当てつけだけ言ったって、なんにも伝わらないですよ」

 そう、「女子力の高い」人はほんとうに面倒くさい。おかしなところで臆病なクセに、おかしなところがトゲトゲだ。

(――だから、私はちゃんと、磯原さんと一緒の班になって、一緒に巡視船を見に行く算段をつけたんだから。好きな人に対して、そうやって頑張らないのは自分なのに、勝手に落ち込んだりひがんだりする女子が多すぎるの!)

 努力が足りない。行動が足りない。それでうまくいかないのは当たり前だ。なのに勝手に人を羨んだり妬んだりする。

 佐由利の糾弾に、美紀は息をのんだまま声も出ないようだった。

 ――昨夜、山辺皓太が教えてくれた。大野が「社長賞のお礼がしたいから、俺は仲本さんと同じ班で」と言っていたのを知り、美紀は、佐由利と同じ班で行けば旅先で大野と一緒に過ごせると思っていた。山辺が「仲本さん、早めに行くって言ってたよ」と言ったから前半だろうと思い、美紀は前半の班で申請した。だが、佐由利が実は後半の班だったため、大野も後半になってしまった。美紀はガッカリしていたが、そこまでは、大野があくまで「社長賞のお礼で」佐由利と一緒になりたがっているとしか思っていなかった。

 佐由利たちが帰国して最初の出勤日、つまり一昨日、旅行の際の噂が社内各所に広まった。後半の班の一番のニュースは――

『大野課長が最終日の夜、プールで仲本さんを口説いてたらしい。実は旅行でキメようと思ってその前から画策したりしていたらしい。で、誰かが首尾を聞いたら、大野課長は「想像に任せるよ」と言ってニヤニヤしてたらしい。これはつまり、そういうことだろう』

 佐由利はそんな噂が流れていたことをまるで知らなかった。大野は、おそらく「ダメだった」というつもりで「想像に任せる」と言ったのだろう。だが、ちゃんと言わなければいろいろに解釈されるものだ。

『あれっ、違ったの? 三條、めっちゃくちゃ荒れてたのに、誤解かあ。あいつ……ホント、さっさと大野さんに告白しとけよ』

 やっぱり山辺は全部知っていた。美紀の好きな人は磯原ではなかった。

「三條さんの不可解な行動」を問いかける形にして絶対に磯原への気持ちが露呈しないように努めたうえに、旅行先で大野とどうこう……という誤解が解けたため、佐由利はそのあとで山辺に口説かれることになった。とはいえ自分が山辺を利用した結果なので、できるだけ誠意を尽くして、礼儀正しくきれいさっぱりノーサンキューを言うことができた。そして、もう一つ山辺から得た情報は……

『以前、俺と磯原くんと三條と、あと二人くらいで会社帰りに球場行ったことがあってさ。自由席だったし、はぐれないよう、みんなで連絡先交換したんだよね。磯原くん、プライベートの連絡先教えるの渋ってて、それで「一人わかればみんなと連絡つくでしょ」って三條がかなり無理やり連絡先持ってってたなあ。ただ単に、磯原くん、プライベートで連絡できる相手がその時に連絡先交換させられた三條だけだったんじゃない? それで、三條に「熱があって寝込んでるので、この個人的な伝言を誰々に伝えてもらえないか」みたいな連絡をしたら、それを三條が「私は別の男性と親しいんだから!」って当てつけるみたいに大野さんにアピールしちゃった……とか、そんなとこだと思うよ。三條が磯原くんと、ってことは絶対ナイ。三條、磯原くんのこと、男認定してないよ。自分だけ連絡先知ってるのはかなり自慢みたいだけど』

 大半は山辺の推測でしかない。でも絶望感からは解放された。だから、佐由利は今日、美紀にも磯原にも、絶対に言いたいことを言ってやる……というつもりでいた。

 空っぽのカップを手にして、給湯室の前で立っている美紀に、佐由利はさらに言った。

「早く誤解解いたほうがいいですよ。朝イチで、磯原さんが今熱出して寝てますなんて言ったら、どう聞いたって三條さんと磯原さん、今朝一緒にいたってことになるじゃないですか」

 美紀の顔色がさっと変わった。そこまでの誤解を与えている自覚など、まるでなかったらしい。佐由利はその表情を見て安堵した。

「私も『そういうことですか、はいはい』って思いました。――そんなふうに思わせたままでいいんですか? 他の人は良くても……一人だけ」

 恋に盲目で、わがまま勝手で暴走して、意味不明の八つ当たりや腹いせをして……女性は本当に扱いづらいし、面倒くさい。でも……。

(恋する乙女は、やっぱり可愛い。三條さんも……事情がわかってみれば、いろんなことが理解できる。……女って、可愛いよね)

「結果として、私、三條さんにとって邪魔者だったみたいですね。邪魔者が消えたら、勇気出してくださいね。応援してます」

 佐由利は美紀を置き去りにして給湯室を後にした。だがすぐに背後から美紀の声がした。

「……仲本さん」

 どこかしおらしい美紀の声に、佐由利は「発破をかけてあげたことに、ありがとうと言ってくれるのかな?」と思った。そうしたら、美紀は佐由利に近づいて腕にわずかに指をかけてきて、照れたように囁いた。

「前に、社長賞残念だったね……みたいにしか言えなかったけど、ホントに言いたかったのは……あの、大野さんに、社長賞とらせてくれてありがとう」

 佐由利は美紀にニコッと笑顔を向けて颯爽と職場に戻ったが、内心では可笑しくてしょうがなかった。美紀の態度が一時期から急に変わった理由がやっとわかった。大野の社長賞をアシストした佐由利は「ライバル」でなく「恩人」になったということだ。

(自分のことより、大野さん最優先か。……ほんとに、女ってかわいい)

 三條美紀との勝負は終わった。あとは磯原に――とはいえ、何を、どう話したらいいだろう。連絡するすべは社内メールくらいしかない。呼び出したら、磯原は応じてくれるだろうか。磯原と美紀はなんでもなかったが、佐由利が冷たくされたことまでが消えたわけではない。それでも、このまま磯原と、ただ別れていくことはできそうになかった。


 昼前に、涼子が「今日で最後だから、お昼一緒に行こう」と声をかけてきた。二人は十二時を少し回った頃、社員食堂に下りていった。

 佐由利は名残を惜しんで一番リッチな定食を頼んだ。さりげなく周囲を見回したが磯原はいない。今朝は「休みだから連絡は宇川に」の連絡は来ていなかったが、もしも磯原が今日も休みで、「会えませんか」などという佐由利のメールを宇川が代わりに見てしまったら、磯原に迷惑をかけることになる。どうしたらいいだろう。

 退職の日の独特の感慨に身を浸しつつ、佐由利が淋しさとともに食事を続けていると、涼子が突然ぷっと吹き出した。佐由利はまばたきをして涼子を見つめた。

「なんか、社内では、大野課長が仲本さんをオトした話になってたんだって?」

 涼子は決して噂が好きなタイプの人ではないが、屈託がないので社内のいろいろな人と親しくしていて、多くの人の耳に入った情報は適宜キャッチしてくる。

「ああ、それ……」

 佐由利はきまり悪い気分で視線を左右に動かした。結婚を前提に……と交際を申し込まれ、断ったのは事実だ。でも、社内の人たちに対しては、大野のメンツをつぶさないでほしいと思っていた。

「ねえ、口説かれたのは口説かれたの? 俺の部屋に来ないか、とかって。キャー! 大野課長、一人部屋だったのは、あわよくば……のつもりだったりして」

「声が大きい。……退職しても会えないかなって、その程度のことだよ……」

「でもほんと、仲本さん、わざとダサくしてたのやめたらすごいモテるよね。あっ、そうそう、それで思い出した! あの時、そのまま出掛けちゃったから忘れてずっと言いそびれてた。私、仲本さんに寄ってくる悪い虫、よけといてあげたよ」

 なぜか佐由利は、まだ何も聞いていないのに、涼子がこれから言うであろうことに愕然とした。そして、同時にわずかな興奮が湧き上がってきた。

 涼子はうれしそうに言った。

「旅行で別行動した日、仲本さんが夕方シャワー浴びてた時に、磯原さんから部屋に連絡入ったの。体調悪いから来てくれないかって。部屋番号は電話の液晶に表示されてたから、私、ちょっと早く部屋を出て、代わりに行って釘刺しておいたよ。『デリヘルじゃあるまいし、女性に気軽に部屋に来いなんて言ったら失礼ですよ』って。もう、あのテの人って、女性の扱い全然わかってないんだからー」

 あの日、七転八倒してやっとホテルにたどり着いて、真っ青な顔をして、それでもなんとか「あと少しだけ」一緒にいてくれて、そして、……

『女性を男の部屋に呼びつけるような非常識はできませんよ』

 ものの道理のわかった人が、それでも佐由利に頼るほど苦しかったなら、代わって現れた女性に非難されたのはひどくプライドが傷ついたし、余計に苦痛だっただろう。

(……謝らなきゃ……。私の気持ちを伝えるよりも先に、何より、そのことを……)

 涼子を責めることはできない。佐由利は、なぜ涼子に協力を頼まなかったのかと後悔しかけた。磯原への気持ちを正直に打ち明けて協力を仰いでいればこんなことは起こらなかった。だが……

 女性陣は皆、磯原の魅力に気づいていない。だが、「私は磯原さんが好き」と誰か一人が言ってしまったら、それをきっかけに皆が磯原という存在に気づいてしまうのかもしれない。磯原はステルス機であり、爪を隠した能ある鷹でいてほしい。

「……どうかした?」

 佐由利がじっと答えないので、涼子が不安そうな顔をした。佐由利はなんとも言いようのない反応しかできなかった。

「あの日ね……磯原さん、ものすごく具合悪そうだったから、私が『構わないから、呼んでね』って言ってあったの。だいぶ遠慮してたけど『いいから、いいから』って、私が言ったの。だから、悪いことしちゃったかなって」

「えっ! ほんと! ……ごめん、なんだ、その前に顔合わせてたんだ、知らなかった。仲本さん目当てで、いきなりそんな電話してきたんだと思ってた」

「あの人に限って、そんな色っぽい話はないよ。あの日、ホテルの売店で一緒だったの。具合悪いから何買おうかなって言ってたから……その会話の流れで。そうでもなきゃ、そんなうかつなこと、言ったりやったりする人じゃないよ」

「そうなんだー」

 佐由利は、あくまで磯原を女性たちから隠したままにする方法を取った。嘘は嫌いだから、嘘ではないけれど、まるで売店で会っただけのように聞こえる言い方をした。これで、自分の恋心は誰にも知られずにここを去っていけるだろう。

 それにしても、大野とプールで夜遅くまで二人でいたことは社内中に知れているのに、磯原とまる一日一緒にいたことはまったく知られていない。佐由利は可笑しかった。能ある鷹のステルス機能は健在だ。磯原の職場での立場を守れてよかったと思った。

(でも、呼んでくれたんだ。あの日。私に、頼ってくれた……)

 話をしなければならない。どうしても、磯原と二人きりで。誤解を解いて、気持ちを伝えて、それでもダメならば仕方ない。夕方には各部署に退職の挨拶回りに行くことになる。その時に磯原が出社していることを確認できたらメールを入れよう。

 それにしても、危ないところだった。最近は恋愛の現場から少し遠ざかっていたから忘れかけていた。佐由利の敵に回るのは大概が三條美紀のようなタイプだが、実際に殺傷力が一番強いのは悪意のない「天然」タイプの女子だ。今回は、最も親しい駒形涼子が佐由利の恋にとどめを刺してしまうところだった。恋の敵はどこにいるかわからない。佐由利は改めて身を引き締めた。

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