第二幕・南の島 十五 旅の終わり
翌日、佐由利は涼子と一緒に朝の海岸を散歩して、予定通りのオプションツアーに出かけた。ファーマーズマーケットで海外に持ち出せるドライフルーツのおみやげを買い、マーケットの片隅にある伝統料理の屋台でランチを食べた。それから初日にバスで登った山に、今度は空中散歩のゴンドラで登った。ゴンドラからの景色は素晴らしかった。
「ねえ、仲本さんって、モテるの隠してたでしょ」
山頂のオープンカフェでお茶を飲みながら、涼子は言った。
「えっ、なんのこと」
佐由利はしらばっくれた。だいたい、自分は熱心に好かれたり愛されたりするわけではない。「ちょうどいい」と見繕われるか、異性の垣根を越えて親しんでもらえるだけだ。
「すっごい面白いよね。三條さん、仲本さんのこと完全に下に見てたのに、仲本さんが本気出したら慌てて敵認定したりして。ちょっと爽快だったなあ。私もちょっとちくちくやられたりしたから、溜飲下がっちゃった」
涼子が楽しそうに話すのを聞いて佐由利は苦笑した。三條美紀のような女性は世間にたくさんいる。皆が涼子のように、佐由利が綺麗にしていてもしていなくても、同じように接してくれると助かるのだが。
「三條さんかあ。仕事の邪魔はしてこないんだけどね……。山辺さんがチョッカイかけてきたりすると、途端に面倒になるんだよね」
「それだけど」
涼子は佐由利の方へと乗り出した。
「あのね、三條さん、ほんとは……山辺さんは滑り止めだって。お互いに滑り止めだよ、って自分で言ってた。酔っぱらって、ほんとは片想いの人が他にいるんだよ……って意味のこと、遠回しに言ってたな~。誰なんだろ。この旅行、三條さん、ずっと山辺さんと一緒にいたんだって。ってことは、好きな人、前半の班の誰かじゃないってことだよね。他の男とべったりなとこなんて、見せられないもん」
山辺が滑り止めというのは「三十五歳まで独身だったら結婚」の約束のことだろう。それは佐由利も山辺に聞いて知っている。だが、他に片思いの人がいるというのは――? 佐由利の胸を不安がよぎった。佐由利が勇気を出して初めて磯原に声をかけたとき、なんで美紀はあからさまに邪魔をしに来たのか。
『前半で行くんじゃなかったんだ』『ゴメン。八つ当たり。……気にしないで』
旅行に行く前のおかしな態度。もしも好きな人が磯原なら?
(でも、磯原さんとは限らないよ。後半の班の誰かかもしれない、ってだけ。それこそ、同じ部署なんだから大野課長ってこともあるし。あ、そうか、営業部とかの、このあとに社員旅行に出る部署の人かもしれない)
今、この島に美紀はいないのだから、考えたってしょうがない。佐由利は不安を振り払った。そんなことより、磯原ともう一度チャンスを作るため、佐由利はまた夜にプールに行くことにした。昨日は無理だったろうが、今日なら磯原が来るかもしれない。あと少しでいいから一緒に過ごしたい。
夕方まで涼子と二人で楽しく観光して回り、屋台で少し早めの夕食を摂って、ホテルでしばらくゆっくりしたら、佐由利はもう一つ持ってきたビキニに着替えた。涼子は「昨日の昼間、ビーチで泳いだからもういい。今日はプールは行かない」と言った。佐由利は一人でプールに下りていった。涼子が来なかったことで、磯原が来さえすれば二人になれる確率は上がる。
プールに着くと、知った顔は誰もいなかった。
(それでこそ、一人で磯原さんが来て、二人っきりになれるってものよ)
佐由利は黙々と深いプールを泳いだ。そして、自分がせっかくのビーチで泳いでいないことに気がついた。もったいない。この島に観光に来る機会はもうないだろう。できることは、今回できるだけしておきたい。
(明日の早朝、ダッシュでちょっとだけ海に入ろう。あと、やり残したこと……)
磯原と、夕方の砂浜でデートがしたかった。そのチャンスはもはや失われた。佐由利は口元まで水に沈め、ガッカリした気分に身を任せた。
「仲本さん! 一人?」
大声で名前を呼ばれ、佐由利は一瞬沈みかけた。慌てて水をかき、振り返ると、大野が立っていた。
(――しまった、そっちの目は考えなかった)
磯原と二人っきりになるために一人でいたら、他の男性につけいる隙を与えてしまう。佐由利は磯原に必死になるあまり、つい防御力を落としてしまっていた。
「あ、大野課長、また泳ぎに見えたんですねー」
さあ、どうしたものか。このままここにいて磯原とのチャンスを待つか、大野を避けるために部屋に戻るか。だが、迷いはしたものの、佐由利は自分が最後にどちらを選択するかを知っていた。どうしても磯原に会いたかった。
大野とは、時々話をして、それ以外の時は別々に泳いだ。佐由利は「これならいいか」と思って、大野を気にせずに磯原を待った。
夜がふけていくと、プールサイドの客は次第に減っていく。佐由利はただただ、磯原が来るのだけを待っていた。
「ね、仲本さん、俺のオゴリで一杯やらない?」
大野が声をかけてきた。佐由利は丁重に断ろうとしたが、すぐに真面目な声が続いた。
「……あとさ、ちょっと、話したいことがあるんだけど」
まさか、と佐由利は身構えた。旅行最終日の夜。帰国したら、三日出勤してこの職場とはお別れだ。うまくすればロマンティック、失敗しても後腐れもほとんどない、言わば千載一遇のチャンス。今の自分はうかつにも「飛んで火にいる夏の虫」だ。
佐由利が答えられずにいると、大野が水から上がって佐由利のそばに来た。
「真面目に聞いて。話があるから」
大野は水中の佐由利に真剣な目を向け、じっと待った。佐由利は観念した。
佐由利がピニャ・コラーダを気に入っていたことを大野は覚えていた。佐由利をテーブルにつかせると、大野はしばらくして両手にカクテルを持って戻ってきた。
「この時間から泳ぎに来る奴は、いないよなあ」
大野の声には人目を憚る独特の響きがあった。佐由利は気が重くなった。明日と、帰国後の出勤の三日間は気まずくなることが確定だ。
しばらく、大野はとりとめのない身の上話をしていた。佐由利はやむを得ず礼儀正しく話を聞いた。
「……女子のみんなって、バツイチは、恋愛対象に入るのかなあ」
話が核心に近づいてきた。
「人それぞれでしょうね。あと、子供がいるかどうかは大きいと思います」
「そうか。……俺は子供はいないんだよね。最初失敗しちゃったけど……今、婚活中。仲本さんは、婚活したりしないの? あ、もう彼氏いたりする?」
下手なリサーチだ。本題に入ってくれれば話は早いのに、と佐由利は思った。
「今のところ結婚願望はないですね。幸い、まだ二十代だし」
「……彼氏は?」
「いませんけど、今のままでいいです」
磯原が相手なら今のままじゃなくていい。だが、まさか磯原以外お断りとは言えない。
「そんなのもったいないよ、命短し、恋せよ乙女」
「無理してするものじゃないから……」
沈黙が流れた。佐由利はあえて言葉を促すように黙っていた。退職の際にぐずぐず連絡先を聞かれるよりも、もうこうなったら、ここで勝負を決したほうが早い。
「……帰国したら、仲本さん、あと三日しか出勤日がないんだよね。……会社で言うわけにいかないから、今ここで言わないと、チャンスがない。あのね……」
頼むから、今、磯原が来てくれるなと佐由利は思った。
「――うちを退職しても、俺とは一対一で会ってくれないかな。真面目に、結婚前提で」
佐由利は一応の礼儀としてしばらく黙って時間をやりすごした。それから、静かに口を開いた。
「大野課長、私、逆にお聞きしたいんです。それは私のことを好きな気持ちと、結婚したいっていう気持ち、どっちですか?」
「えっ?」
大野は何事かと戸惑った顔で佐由利をじっと見返した。
「結婚したい男性が求めてるのは、そこそこ控えめで、そこそこまあ不細工でなくて、なんとなく『これならいいか』って安心できる女性です。好きな人と結婚したいわけじゃなくて、結婚で自分が安心したいんです。大野課長も同じです。私と結婚を考えたいんじゃなくて、私くらいがちょうどいいんです。好きとか、そういうのじゃなくて。」
大野は面食らっていた。でも、その反応で十分だった。「あなたは私を好きではない」と言われて反論しない時点で、それはもう恋ではない。
「……理屈っぽいことを言ってすみません。でも、モテる自慢じゃないんですけど、私……結婚前提の交際を申し込まれたこと、何度もあるんです。最初は『まいったな』っていい気にもなれました。でも、お断りして、そのまま私を好きでいてくれた人、いないんです。結婚が前提だった人は、皆さん、すぐに次の人を探しに行きました。その繰り返しでわかったんです。皆、私じゃなくてもいい人たちなんだなって」
「待ってよ、でも俺、仕事で君にサポートしてもらったのが助けになって……こういう人に、公私ともに支えてほしいなって、女性として信頼できて、しかも可愛いなって思って……」
「じゃあ聞きます。私が今大野課長のことお断りして、そのまま派遣契約が終わって、いなくなって、顔も合わせずに、半年後……それでも結婚相手は私がいいと思っていますか? もう二度と会えなくても、片想いして、私との再会を必死に祈っていてくれますか?」
「…………」
「次の派遣さんがそこそこの人だったら、この子は条件に合うかなって、品定めしてると思います。結局、条件なんです。私は“条件の”いい女、なんですよ、課長にとって」
「待ってよ、……俺だって、真面目に考えて、今ほんとに勇気出して言ったのに」
「ありがとうございます。お気持ちはうれしいです。……でも、大野課長もたくさん『結婚を前提に』って口説かれたら理解できますよ。私、そう言ってくれる人に悪気がないこともちゃんとわかってます。でも、本当は私じゃなくてもいいことも、知ってるんです」
「なにも今、そんな結論しなくても……、結婚前提という言い方が重いなら、友達からでいいから、まずは二人で会えれば……」
佐由利はまっすぐに大野を見据えた。
「大野課長。俺の気持ちが本物じゃないの、見透かされちゃって……っていう話で済ませておきませんか。私の結論は同じです。惚れた腫れた、切った張った、みたいな話になるよりも無難です」
このまま大野が気持ちをぶつけてくるのなら、佐由利は恋愛として「あなたに興味はありません」とばっさり断るしかなくなってしまう。すでに勝負は決している。真剣で斬り合う前に刃を納めたい。男性には面倒なプライドがある。「自分が○○だったせいで」と言えるうちは格好がつく。
「私、もうちょっと泳いできますね。ちゃんと戻ってきます。待っててください」
佐由利は大野にクールダウンの時間を与えた。目の前の「良さそうな相手」がどうやら手に入らないらしいと認識すること、損得勘定が動き出すこと、それだけでいい。大野にとって明らかに、ここから追ったら損だ。そして「それでも追いたい」というのが恋だ。
しばらくして佐由利が戻ってきて、ピニャ・コラーダの残りを口にした時、大野は静かに言った。
「……反論したいことはたくさんあるけど、結局俺は、断られたってことだよね」
やっぱり追ってこなかった。佐由利はまた、選ばれはするけれど愛されるわけじゃない自分にガッカリした。
そのままの空気で部屋に戻ると引きずってしまうので、佐由利はそこからうまく雰囲気を立て直し、「今日のことはこのまま忘れましょう」という結論を共有させる他愛ない話を交わし合った。そして大野にエスコートされてエレベーターに乗り、部屋に戻った。
大野の気持ちは、寂しいが、嬉しかった。けれど佐由利にとって、とうとう磯原が来なかったことがたまらなく悲しかった。あとは帰国するだけ……。佐由利は帰国後に磯原に気持ちを伝えるかどうか、迷いながら眠りについた。
早朝、佐由利は先にほとんどの荷造りを終えてしまい、まるで朝風呂にでも入るかのように一人でこっそり海に来た。プールで泳いで、砂浜で海を見たのに、海にまったく入らずに帰るところだった。
朝の海は少し寒く、風がとても強かった。佐由利は、とうとう昨夜プールに来なかった磯原を想って感傷的になった。磯原への想いをどうするか。片想いのまま抱いて去るのか、当たって砕けるのか。
今は考えても仕方ないと、佐由利は気持ちを吹っ切って海に走った。風が冷たい。でも、磯原のことを考えると心の中はいつだって熱かった。佐由利は水に飛び込んだ。
「冷たい!」
まだ日が昇って間もない海は温まっていなかった。それでも佐由利はあてずっぽうに、バシャバシャ泳いでなんとか「海でも泳いだ」という気分を手に入れた。
そろそろ上がろうかと、海岸に置いた薄いワンピースとサンダルを振り返ると、そのまっすぐ先の道路に誰かが立っているのが見えた。いつも視線で追っている姿だから、遠目でもすぐにそれが誰かがわかった。向こうもこちらに気づいているようだった。
「――磯原さん」
なんでこんなところで会うんだろう。佐由利は懸命に砂浜を歩いて磯原に向かっていった。磯原はそれを見て、下りづらい段差を滑りながら下りてきてくれた。
佐由利はとてつもなく高鳴った胸を抑えるように胸元を拳でわずかに隠し、声をかけた。
「磯原さん、早いんですね」
「そちらこそ、こんな早い時間から泳いでるなんて……風邪引きますよ」
「あの、……一瞬、海に入りたかっただけだから。もう上がります」
佐由利は荷物のところに走ってぱっとワンピースをかぶり、サンダルを手にしてすぐに磯原のもとに戻ってきた。磯原は待っていてくれた。
この機会をチャンスと考えるべきではないかと佐由利は逡巡した。大野のように、帰国の前に。今は恋をかなえるベストのタイミング……。
「空、きれいですね」
磯原が言った。日が昇って白みがかった空は、パステルカラーのグラデーションになっていた。水色、緑、黄色……ふんわりと、ごく淡く。
「そうですね。磯原さんと、夕焼け見られなかったけど、こんな空が見られました」
そのままホテルまで並んで歩きながら、二人で空を見ていた。あっという間に空は白くなり、うっすらと青空になっていった。
佐由利の視界にホテルの周りのハイビスカスが入った。もう少しで告白しそうなくらいに気持ちはあふれていたが、佐由利は言いたかったことを取り換えた。どうしても、欲しいものができてしまった。
「磯原さん、あの……お願いがあるんです」
佐由利は必死に視線を送った。だが、磯原は視線を返してこなかった。佐由利はわずかに違和感を覚えた。それでも、どうしても欲しかったので、一気に言った。
「一枚でいいんです。あの、プラリオ・ハイビスカスの絵の具で、一輪でいいからハイビスカスを描いてもらえないですか。……この旅行の、思い出にしたいんです」
磯原の視線が一瞬だけ佐由利に向かった。だがすぐに遠ざかった。しばらくの沈黙の後、磯原は視線を前に据えたまま、抑揚のない声で答えた。
「……すみません。あの絵の具は、もう、使っちゃったから。今からは描けないです」
頭を思いっきり、ガツンと殴られた気がした。佐由利は言葉が出てこなくて、そのまま黙って歩くしかなかった。
すぐにロビーにたどり着き、エレベーターホールに向かおうとすると、磯原が言った。
「僕は部屋には戻りませんから――ここで」
嘘だ、と佐由利は思った。この後一時間ほどで集合になる。磯原は手ぶらだったから、荷物は部屋にあるはずだ。部屋に戻らないはずがない。
佐由利は黙ってぺこりとお辞儀をして、一人でエレベーターホールに向かった。磯原の背中を見たくなくて、エレベーターに乗ると、ロビーが死角になる側にさっと入り、必死で自分の階のボタンを押した。
その後、佐由利が磯原に近づくチャンスはまったく訪れなかった。まとまってバスに押し込まれ、空港に行き、手続きをして、飛行機に乗り、ひたすら日本へと飛んだ。
社員旅行のメンバーは大半、飛行機の中で眠っていた。佐由利は眠れなかった。磯原と過ごした二日目の、格好悪いけど輝くような長い時間がいとおしかった。一日目の、偶然会えて、すぐそばに立って、同じものを覗き込んで話をした時間もいとおしかった。なぜ――と、思うと涙がこみ上げた。今朝も偶然会えた。なのに……
『あの絵の具は、もう、使っちゃったから。今からは描けないです』
『僕は部屋には戻りませんから――ここで』
買ったばかりの絵の具を、もう全部使ったはずがない。「絵の具を使ってしまった」のではなく、佐由利の欲しがっている絵を描く気はないということだろう。
帰国は火曜日。水曜、木曜、金曜と出勤して、週明けからは有給休暇。自分が動かなければきっと磯原との縁は驚くほどあっけなく切れる。佐由利は磯原に想いを伝えるかこのまま消えるか、決断を迫られていた。