第二幕・南の島 十四 もう少しだけ
途中で道路沿いのカフェや売店に寄って休むなどして、二人は三時間一緒に歩いた。道でも、店でもぽつりぽつりとしかしゃべらなかったが、もう、ここまでに「それでもいいや」という意識が共有されていた。
「すみません。最低の一日にしてしまって」
何度目かの「ぽつり」が磯原からこぼれた。佐由利は横目で磯原を見上げた。
「私、ショッピングで銀座をノンストップで五時間、六時間って歩けます。そんなこと考えてないで、景色、楽しんだらいいのに。……まあ、私がいるせいでゆっくりできないから、磯原さんには最低かもしれませんけど」
「いや、休みたくなったら正直に言ってるし、あと、……誰かと一緒にいて気が張ってるほうが気力が保てるし、歩くエネルギーが出ます。歩いた分、確実にホテルに近づいてるわけだから、助かります。一人だったら半分も来てないかもしれない」
「ほら、すごく天気もいいし、景色もきれいじゃないですか。こんな景色の中を歩いてて、最低の一日なんて言う人の気がしれません」
「……すみません。そうですね」
途中、小高い丘の斜面の道に沿ってハイビスカスがずらりと植えられている場所があった。あふれるような花の道が丘の上までずっと続いている。海と反対側だったので、来た時のバスでは気づかなかった。
「磯原さん、見て見て、すごい、……ほんとに蛍光色だ。ピンクに光ってます」
「ピンクというか、オレンジと蛍光ピンクの間って感じですね」
「なんでこんな色になるんだろう……」
「地中の鉱物か何かが影響してるんですかね。歩かないと、これは見られなかったわけですね。少しは、僕がこんな状態なおかげで、仲本さんにいいものが見せられたかな……」
広い通りの片隅から、二人はしばらく丘の上を見上げていた。それから、また歩きだした。
三十分ほどまた歩いたあと、磯原が大きく息をついて立ち止まった。
「もう残りも少ないし、覚悟も決まったから、バスに乗りましょう。ただ……バスが、いったいいつ来るか、ですけど」
視界の先にバス停があった。二人で歩いて、時刻表を見た。バスの運営も日本のノウハウを取り入れているのか、よく見る表記法の時刻表でわかりやすかった。
「……五十分後」
磯原が消沈したような声で言った。
「え……長いですね。でも、すっごい前に追い越されただけで、ここ十分の間には追い越されてない気がするんですけど……」
そこに、大きなクラクションの音がした。慌てて振り向くと、バスが近づいて来ていた。運転手がアイコンタクトを送ってきている。「乗るのか、乗らないのか、バスを止めるのか、止めないのか」ということだろう。
「乗ります!」
佐由利が手を振ると、バスがカラカラ……と軽い音を立てて減速し、止まった。
「乗れますか? 磯原さん。ダメなら、運転手さんに断りますよ」
「いえ、……乗りましょう。脚もそろそろ限界だから」
バスに乗り込んだが、金額がわからない。佐由利と磯原は交互に運転手と単語だけの会話をして、幸い正しい金額を払うことができた。運転席のすぐそばの、前方を見て乗れる席が空いていたので、二人はそこに座った。
佐由利はこっそりと磯原に膝を寄せた。触れる、すれすれ。わずかに体温を感じた。ドキドキして目を閉じた。
(最低の一日……ううん、私は、すごく、幸せ)
「あの」
磯原の低い声がしたので佐由利は目を開けた。
「……しゃべらなくていいですか。……下向いて財布覗いたでしょ。あれが効いた」
前方に視線を固定して、ひじを張って膝の上に掌をのせて、磯原が真剣な声でつぶやいた。
「次で降ります?」
最大限の気づかいのつもりで、佐由利は短く、早口で聞いた。
「もう、強制的に帰るしかないです。耐えます」
微動だにせず、磯原が言った。佐由利はもう返事をしなかった。あとは黙って時間が過ぎるのを待つだけだった。
ホテルがすぐそばに見える四つ角の先に、とうとうバスはたどり着いた。佐由利は慌てたように、磯原はうつろな動きでバスを降りた。
「歩けます?」
佐由利はまた、短く早口で聞いた。
「少しだけ、休めると助かります」
磯原は突っ立っていた。佐由利はぐるっと周りを見回した。
「ちょっとガマンしてください。そこから海に下りましょう。砂浜なら、座っても、寝ても大丈夫だから」
佐由利の先導で磯原は砂浜にたどり着いた。
「使ってください。汚して大丈夫だから」
カバンにしまっていたショールを出して、佐由利は砂浜に敷いた。磯原は一瞬ためらったが、会釈するように少し頭を下げ、素直にショールの上にのって横になった。
「日よけして座ってます。休んでください」
佐由利は日傘をさして、磯原も傘の影に入るように位置を決めて座った。お気に入りのオレンジのスカートが白い砂の上に広がる。視界の先には綺麗な海。照りつける太陽から背後の磯原を守る勇者よろしく、佐由利はじっと海を見たまま座っていた。
(磯原さんのこと、嫌いになる?)
自分に問いかけてみたが、無意味だった。多分、今日は磯原の人生の中でも最大の失敗の日だろう。ガッカリしなかったと言えば嘘になるが、吐くほど気持ち悪い体調のまま、ずっと無理をして佐由利につきあってくれた。吐くところを見せるわけでもなく、倒れるわけでもなく、最低限の尊厳は守りきっている。むしろ、磯原を強い人だと思った。相当、格好をつけて気を張っていたはずだ。
佐由利は時計を見た。もう十六時。それでも、夕暮れまではまだ二時間以上かかるだろう。白い砂浜で、二人並んで夕暮れの海を見られたら素敵だったけれど……。
十分とたたずに磯原は起きだして、佐由利に声をかけた。
「すみませんでした。もう動けます。……仲本さんを、早く解放してあげないと。これ以上無駄な時間を使わせられません。どうします? ホテルに戻りますか、それともどこかに行くならここで解散して……」
「具合は大丈夫なんですか?」
磯原が立ち上がったので、佐由利も立ち上がった。磯原はショールを払ってたたもうとしたが、佐由利が取り上げた。
「前かがみで、折り目を覗き込んだら、また酔っちゃいますよ」
はじっこをつまんで強く振り、砂だけ振り落とすと、佐由利は肩にショールをかけた。その様子をじっと見ていた磯原がわずかに頭を下げた。
「すみません。それから、ありがとうございました。僕はホテルに戻ります。多分、今、気分が悪くなってるのは空腹もあると思うから、腹に何か入れて自分の部屋で寝ます。今日はほんとに……お詫びしか出てきません」
今日が終わってしまう。佐由利は何も言えずに胸元のショールの隅を指で強く握って立っていた。もっと一緒にいたかった。もっと話がしたかった。でも、どうしようもない。
「……早く、一人になりたいですよね」
うつむいて、佐由利はつぶやいた。気分が悪いんだから、一人になって部屋で休みたいに決まっている。わかってはいるが、名残惜しくて、どうしても未練がましくなってしまう。多分もう二度とこんな機会はない。そして間もなく、自分は派遣期間が終了する。磯原との縁は切れる。もしかしたら、今のこの瞬間が二人でいられる最後なのかもしれない。
磯原は戸惑い、逡巡して口を開きかけ、適切な言葉が浮かばなくて口を閉じた。
長い沈黙の後、やっと磯原は言った。
「じゃあ、――あと少しだけ、一緒にいましょう」
佐由利は顔を上げて磯原の瞳を覗き込んだ。不思議な一言だ。磯原が佐由利の気持ちを知っているような……そうでなければ成立しないような返事。二人の間に流れる空気が不自然で、不思議で、言葉の真意がどうしてもわからない。
「僕は、ホテルに戻って、売店で何か買おうと思ってます。正直、長い時間、ゆっくりしていられる余裕はないと思います。……買い物、一緒に行きませんか。ちょっとだけど」
言いようのない、どこか切ないような不思議な気配に導かれるように、二人は並んで歩いて砂浜を出た。信号を待ち、道を渡り、ホテルの遊歩道から上がって正面玄関からロビーに入った。売店はロビーの隅にある。
「こんなときって、何を食べて寝たらいいんですかね」
「とりあえず、飲み物はたくさん買った方がいいんじゃないですか?」
「そうですね。あとは……サンドイッチか何か、かな」
「今日の晩ごはん、それになっちゃうんですか?」
「しょうがないですね。仲本さんも、お昼を食べ損ねましたよね。夜は美味しいもの、食べてください」
「あ……でも、私は、途中のカフェでフレンチトースト食べてるから。磯原さんが気分悪いって言ってるのに、卵とバニラの香りぷんぷんさせてすみません……私、肝が縮みました。このせいで、余計気持ち悪くさせちゃうんじゃないかって」
「だから急いで食べてたんですか? 僕は、なんでそんなに早食いするんだろうって思って見てたんです。よかったのに」
磯原は快活にしゃべっていたが、最後の気力を振り絞っているに違いない。やっぱり佐由利にとって、磯原は優しくて素敵な人でしかなかった。
会計を済ませて売店を出たら、もう「もう少しだけ」は終わり。でも、佐由利はあきらめがついていた。これ以上無理をさせられない。
二人でエレベーターを待った。残りは何十秒だろう。
「磯原さん、もしももっと具合悪くなったら、内線で呼んでください」
半分は心からの心配と、もう半分は恋する気持ちから、佐由利は言った。もちろん磯原が自分に手を出すようなことは絶対にないと信じていたし、ちょっと残念な気持ちと共にその安全性は確信していた。決してそういう意味じゃない。一人にしたくなかった。
「女性を男の部屋に呼びつけるような非常識はできませんよ。女性の側が、いったい何を言われるか……」
エレベーターが来た。二人は乗り込んだ。
「体調悪い時は、無理しないで人に頼ったらいいでしょう?」
「人は勝手なことを言いますから」
エレベーターがすうっと上がる。
「私はかまいません。吐いたものでのどが詰まって、死んじゃったら嫌です。ああ、ダメだってなったら……死ぬよりも、呼んでください」
沈黙が流れ、磯原の階に着いた。エレベーターを降りる後ろ姿で、磯原は言った。
「人に何かを言われるのは、覚悟が要ります。面倒ばかりだから」
そして、降りきったところでまっすぐに佐由利を振り返り、エレベーターのドアが閉まりはじめてからわずかに頭を下げるようにして言った。
「今日は、ありがとう。僕は楽しかったです」
エレベーターのドアが閉まった。佐由利の「私も」は、多分声は間に合わなかったが、口の動きかけた様子できっと伝わっただろう。指先でエレベーターのドアに触れると、すぐに自分の階に着いた。佐由利は、エレベーターを降りた後、しばらく立ち尽くしていた。
大きなため息をついて、肩を落として、キーをかざしてドアを開けると、クローゼットの前にいた涼子が目を見開いていた。佐由利は慌てて感情をしまい込み、普段の自分に戻った。
「わっ。駒形さん、出掛けてなかったんだ」
「仲本さんこそ、戻ってくるのは夜じゃなかったの?」
涼子はちらっと外を見た。もうだいぶ午後遅いが、夜にはまだまだ早い。予定を切り上げて帰ってきたとしたら何事かあったのかと、やや訝る表情を浮かべた涼子に佐由利は笑いかけた。
「……すっごい歩いちゃった。疲れたから、今日はもういいや。プールも行かない。外も行かない。ごはんは……いいや。途中でフレンチトースト食べたから、それで」
もしも……と、佐由利は思った。もしも、磯原が助けを求めるほどつらかったら、なんとか力になりたい。確かにあの言い方だと絶対に呼ぶつもりはないのだろう。それでも、どうしても、佐由利は「呼んでくれたら」という万一の可能性が捨てられなかった。
「フレンチトースト? せっかくの旅先なのに、そんなのもったいないよ」
「うん、ちょっとね、気持ち悪くなっちゃって」
佐由利は嘘をついて涼子の前を通り抜け、バルコニーに出た。
「私、六時に総務の子たちと晩ごはんに出る約束しちゃった。行かない?」
涼子が声をかけてきたが、佐由利は断った。
「ありがとう、でも……多分、食べらんない。いいよ、大丈夫、行っておいでよ」
佐由利はショールを肩にかけ、端をそっと抱きしめた。磯原はもう寝ているだろうか。大丈夫だろうか。
(……面倒ばかりだから、か……)
最後に距離を取られた気がした。元は「会社では仕事しかしません」という人だ。会社に戻ったら元の無表情に戻る。ならば、どう考えても「磯原さん、社員旅行で女の子を部屋に引っ張り込んだらしいよ」なんて噂を良しとするはずがない。
佐由利はじっと風に当たっていた。磯原と見たかった夕暮れが近づくのを眺め、それから、涼子がいるうちにシャワーを浴びた。一人になってからシャワーに入ったら、もしも部屋の内線が鳴っても水音で気づかない。だから涼子のいるうちに。
佐由利がシャワーから出ると、涼子は「ちょっと早いけど」と言って十五分前に出かけていった。一人になった佐由利は、暮れていく空を眺め、夜のとばりが降りるのを見ていた。ベッドの枕元にあるホテルの電話が気になった。
『あと少しだけ、一緒にいましょう』
磯原の言葉の中の違和感の理由が知りたかった。確かに佐由利は一緒にいたいと思っていた。でも、あの場面で磯原が「一緒にいよう」と言うのはやっぱりどうしても不思議でならない。佐由利は答えを求めて、その会話の違和感を何度も何度もつついた。
絶対にないだろうと思いながらも、それからずっと、佐由利は磯原が呼んでくれるのを待っていた。けれど枕元のベルが鳴ることはなかった。
やがて涼子が帰ってきて、翌日に備えて、まもなく一緒に床についた。