第二幕・南の島 十三 悲劇のメインイベント
運命の旅行二日目、佐由利は涼子のセットしたアラームで目を覚ました。涼子は朝八時のヨガに行くと言って六時半にアラームをセットしていた。
「九時に終わるから、九時半前には戻ってくるかな……」
涼子はそう言って、七時半過ぎに出ていった。佐由利は困惑した。磯原との待ち合わせは九時五十分。入れ替わりに出ていくと「どこへ行くの?」とか「誰かと一緒?」と問われかねない。頭を悩ませた末、佐由利は九時に部屋を出てしまうことにした。涼子には「でかけます! 戻るのは夜なので、私に構わずに過ごしてね」と書き置きをした。
今日の服装はとっておき。少しサンゴ色に近い、オレンジ色の明るいワンピース。スカートがばさっと無防備で可愛くてスタイルが良く見える。胸元も下品でないくらい思わせぶりに開いている。必要に応じて薄いショールを肩にかけるが、日陰では外すつもりだ。腕を出した方が無造作に無防備で可愛い。
佐由利は、ホテルと反対方向からバス停に向かう位置、涼子の行った海岸とも反対方向の場所を散策して、小さな公園を見つけた。すべり台なのかよくわからない造形が組んであり、段々を上ってみると上がほったて小屋のようになっていた。そこから眺めると、ハイビスカスの生垣と海がとてもきれいに見えて景色がよかった。
(ここで、四十五分まで隠れていよう)
三十分と少し、佐由利はぼうっと磯原のことを考えて過ごした。幸い公園は人影もなく、その時刻までしっかり佐由利を隠してくれた。
バス停のすぐそばの物陰までは出て行って、佐由利は人目につかないように磯原が来るのを待った。だが、磯原が来ないまま、とうとうバスが来る予定の十時になった。佐由利が不安でおろおろしていると、遠目に磯原の姿が見えた。結果、磯原がバス停に到達した直後にバスが来た。
慌てて乗り込み、最初にガイドに「バスの乗り方」として教わった通りに行き先を告げて料金を払った。バスはすいていたので、進行方向と直角の海側を眺める向きに設置されている大きな席に並んで座った。
「すみません」
磯原は深刻な顔をして謝った。
「ちょっと、あの後、飲んでしまって。思ったより酔いが回って……」
言われてみれば顔色が悪い。佐由利は心配してじっと顔を覗き込んだ。
「――もしかして、まだ、気分が悪いんじゃないですか?」
「いや、そんなことはないです。大丈夫なんですが、ギリギリまでホテルで休ませてもらって……だから、遅くなっちゃいました。バスには絶対間に合うように、道が見えるところでちゃんとバスが来るタイミングは見てました。ほんとにすみません」
体調が治っているならギリギリまで休んでいる必要はない。こっそりと佐由利は落ち込んだ。
(私と一緒にお出かけする前日に、飲みすぎちゃったりするんだ……。好きな人相手だったら、絶対に、そんなことはないよね……)
サンセットとか、ディナーとか、この様子では絶対に無理だろう。
「あの、途中で『無理』ってなったら、言ってください。休みながら行くとか、引き返すとか、何か対処しましょう」
「いえ、ほんとに大丈夫です。心配かけるようなことになってすみません。大丈夫だから出てきたんです。気をつかわないでください」
そこに荒いブレーキがかかり、進行方向に対して直角に並んで座っていた佐由利は磯原のほうに倒れ込んだ。横向きに抱きつく形になってしまい、佐由利は慌てて体を起こした。
「す――すみません」
ラッキーと言いたいところだが、胸が思いっきり腕にヒットしてしまった。気をつかわせただろうと思って焦ったが、磯原は完全にノーリアクションだった。相当具合が悪いらしい。佐由利は迷いはじめた。
(私に気をつかって我慢してるだけで、ほんとはホテルで寝てたいんじゃないかな……。無理をさせるんだったら、今日のことはあきらめて、磯原さんには帰ってもらうべきじゃないのかな……。気分が悪いのって真剣につらいし、しかも、バスって酔うよね……)
でも、磯原が気をつかって「大丈夫」と言ってくれているのに、無理やり「帰って」と言うのも憚られる。
景色のいい海沿いをバスは進む。だが、二人の間に会話はなかった。佐由利はずっと迷っていた。一緒にいたいが、無理をさせるのは忍びない。それに、「今日のことはどうでもよかったんだな」と思うと落ち込んだ。もう勝負は決まった気がした。だったら、お互いに気をつかい合うより、具合の悪い人に合わせてあげればいいのではないか。
三十分、時々揺れに合わせて肩と膝が触れ合うだけで、とうとう港に着いてしまった。バスを降りる磯原の真剣すぎる顔つきから、やっぱり無理をしているのだろうと佐由利は感じた。
「磯原さん、少し、休みましょう。どこかに、ベンチとか……ないですかね」
佐由利は周囲を見回した。
「いえ、ほんとに大丈夫なので」
絶対に大丈夫なはずがない顔で磯原が言った。
「そうですか……」
佐由利は港の見える方角へ一歩足を進めて磯原を振り返った。蒼白な顔のまま、磯原が口元だけ笑ってみせた。
黙ったまま、二人は港に入っていった。ちょうど何かショーが始まるらしく、ファンファーレの音が鳴り、聞き取れない言語でアナウンスがされている。佐由利は遠慮がちに磯原を振り返った。
「――僕、追いつきますから、見に行ってください。ここまで来て、見られなかったらもったいないですよ。待たれると、無理しないといけないから、行ってください」
「わかりました、見に行っちゃいますね!」
(やっぱり、だいぶつらいんじゃない……)
佐由利は明るく言って足を速めたが、ずっとこの日を楽しみにしていた分、崖から真っ逆さまの勢いでどんと落ち込んだ。でも、やっぱり磯原は優しくて強い人なんだなとも思った。佐由利も二日酔いや乗り物酔いをしたことがあるが、その時は吐きそうな感覚がとてつもなく耐え難くて、周囲に気をつかってなんかいられなかった。平気なふりをして三十分バスに乗るなんてまず無理だろう。
港の見学用の手すりの前には、親子連れや、カメラを構えた観光客などがいた。佐由利はその中の一角に、隣を空けて陣取った。
演奏に合わせて汽笛が鳴り、二隻の船が大きく外を回って湾内に出た。ぐるっと回って交差して、お互いの立てた波に乗り上げた後、まずは金色の紙吹雪を吹き上げた。そして左右対称の位置に止まり、向き合うように船首を展開した後、両の船から放水が始まった。
背後に磯原が追いついてきた。
「すみません、来るの遅くて……」
声を受けて、佐由利は隣をもう少し大きく空けた。磯原が隣に並んだ。
「バスでちょっとしんどくなりましたが、また治ります。ここが国内だったら気をつかってもらうのはうれしいですが、海外で、もう二度と来ない場所かもしれないんだから、心残りなく見て回ってください。もしもはぐれるようなことがあったら、僕は大丈夫ですから、別々に帰りましょう」
磯原の気づかいを感じて佐由利は切なく笑った。磯原が普段通りの体調だったらどんなに楽しいだろう。
「ありがとうございます。無理はさせたくないから、勝手に動くかもしれないけど……はぐれたらここに見に来てみます。三十分待っても磯原さんと合流できなかったら一人で帰ります」
佐由利は船が描く水のアーチを見上げたまま静かに言った。縁がないってこういうことなのかな、と感じた。今日のこの日をずっと楽しみにして、とびっきりの服を着て……でも、磯原のためにはできるだけ早く帰った方がいいだろう。
「あの……僕がいないほうがよかったら、今からでも……」
「磯原さんが今、帰りたいんだったら付き添いますよ」
有無を言わせない声で佐由利は答えた。磯原の気持ちが自分を向かなくても、縁がなくても、少しでいいから今日の思い出はほしい。今から別行動をするなんて、考えたくもなかった。
ふうっと、磯原が息を吐く音が聞こえた。佐由利はそのまま放水を見ていた。
「楽しみにしてたのに、すみません。大丈夫ですから……せめて邪魔しないようにします」
所詮他人だからこその「気づかい」にすぎないのかもしれないが、一緒に過ごす覚悟を決めてくれたように感じた。一方で、どれだけ無理してここにいてくれているのか、気にせずにはいられなかった。
放水のショーは三十分もたたずに終わった。日よけのために頭からかぶっていたショールを外し、佐由利は磯原を見上げた。
「たぶんどこか、座れるところがあると思います。一旦休みましょう」
「でも、仲本さんが……」
「私、磯原さんを座らせたら、港の中をウロウロしてきます。なんか笑っちゃうな、この島に着いたときは、駒形さんと散策に出る約束してたのに、駒形さんが『無理』って寝ちゃったから先に一人で探検してきたんですよ。磯原さんが絵の具買った時です。同じじゃないですか。今回はそういう旅なんですよ、きっと」
近くにある建物に向かって佐由利は軽やかに歩いた。その後ろを磯原が追う。休憩所かと思って建物を覗いたら物置だった。磯原に「ここはダメ」という視線を送って、もう少し離れた建物を覗いてみた。そこは売店で、椅子が置いてあった。佐由利はさっと外に出て磯原に声をかけた。
「ここ、売店で、椅子もあります。座って、何か飲んでたらどうですか」
磯原が急ごうとしたので、佐由利はさらに声をかけた。
「ゆっくり来てください! 私、薄情だから、一緒に座ってあげないですよ! ここにいてください。なんか面白いことがないか、見てきます」
佐由利は磯原に手を振ってその場を離れ、遠目に磯原が売店の建物に入るのを確かめてから、勝手に港の中を歩き回った。消防艇などが停泊する港なのだから保安施設なのだと思うが、いろんなところに備品らしきものが置いてあって無防備だ。盗まれない、盗んでも仕方ないというところなのだろうが、少々ぞんざいすぎる。
チケット販売所らしきテントの先に、少し大きな船が止まっているのが見えた。胴体に「日本友好丸 NIHON YUKO MARU」と入っている。これだ、と思って佐由利はテントに近づいていき、中にいる人に声をかけた。
「あの、日本語、できる人っていますか」
中にいた制服姿の二人のうち、一人が佐由利に寄ってきた。
「ニフォンゴ、できる、ですよ。カタコト、ときどき、エイゴ、オケー?」
「あ、オッケーです、オッケー」
佐由利は何度もうなずいてみせ、早速質問をした。
「ここは、何のチケット、売ってますか?」
「ふね、ニフォン・ユウコウ・マル。ニフォンのふね、おおがた、じゅんしせん。FREE、ムリョウです。サンジュウプンごとにシュウカイ、します。ニジュウプン、CRUISE。ツギ、ゴフンゴ」
「サンキュー」
すぐに踵を返し、佐由利は磯原のいる売店に戻った。磯原はおとなしく座って水を飲んでいた。椅子は三つ並んでいて、磯原しか座っていなかったので、佐由利はえいっと隣に座って足を投げ出した。
「何かありました?」
少ししっかりした声で磯原が問いかけてきた。佐由利は自分の足先を見つめたままニコッと笑った。
「あったけど、酔ってる人には無理です。巡視船のクルーズ、二十分ですって。三十分に一回海に出て、二十分で回って、また次のお客さん乗せて……って運転してるんでしょうね。磯原さんが絵の具買ったお店にあった、あの模型です。日本友好丸、だって」
「乗らないんですか?」
「どうしようかなー」
「……これに乗りたくて、来たんじゃなかったんですか?」
佐由利は苦笑した。だって、巡視船は、磯原と一緒に過ごしたいから探した言い訳だ。
「だって、日本の船ですよ。似た船は、日本にいくらでもあります」
やや空元気で言うと、磯原は強い口調で返してきた。
「でも、そういう船が、よその国で活躍してるのは特別なことですよ。――三十分、風に当たらせてください。そしたら……一緒に乗りましょう」
「え、でも……」
「二十分でしょ。酔ったって耐えられますよ。でも、船酔いしながら見るのは僕も嫌だから、三十分ください。だいぶ楽になったから、それで大丈夫」
佐由利はじっと磯原の顔を見つめた。本音と建前、あと、顔色を読み取りたかった。
「僕だって、あなたの付き添いだけでここに来たわけじゃないんです。せっかくなんだから、こんな真っ青の綺麗な海で、クルーズくらい楽しみましょうよ」
磯原はそう言って笑った。佐由利もつられて笑った。
「クルーズだったら、オプションツアーにランチクルーズとディナークルーズがありましたよ。あとはイルカクルーズ。よりによって、無理してまで、巡視船なんて」
「でも、仲本さんが好きなのはそういう船でしょう。僕もね」
二人で立ち上がって建物を出て、ゆっくり港を歩いた。潮風の中、子供たちがはしゃいで走り回り、カモメが飛んでいる。磯原といることを、やっぱり幸せだと佐由利は思った。
「なんで、お酒なんて飲んじゃったんですか? プールのバーで飲んだのに」
佐由利は口をとがらせた。磯原はしばらく黙って、淡々と答えた。
「今日のために、ちゃんと寝ておきたかったんです。でも、昨夜なかなか寝付けなくて……酒の力で寝ようと思って」
「裏目に出たんですね」
「……まあ、そんなところです。……ここから海を見ませんか」
海の上に何かを開発している構造物が見えている。ちょうど、巡視船がクルーズに出ていった。遠くに突堤と、さらに向こうに灯台が見える。海と、あとは人工物ばかりだ。
「こういう海もいいですね」
つぶやくように言って、佐由利は手すりに体を預けた。すぐ隣に磯原も手をかけて、深呼吸をした。
「ですよね」
そのまま、また会話はなくなった。磯原の体調を治さないといけないと意識が共有されていて、黙ってそばにいることが当然のようだった。
やがて、巡視船がクルーズから戻ってきた。乗客がぱらぱらと下りて通路を出ていく。一回に乗船する客はせいぜい十人かそこらのようだ。もっと派手なイベントなのかと思っていたが、やはり日本のような盛大なものにはならないらしい。体調を崩した磯原を人混みに連れてくることにならなくてよかったと佐由利は思った。
「――戻ってきましたね、巡視船。行きましょうか」
磯原が佐由利に視線を送ってきた。佐由利は心配そうな上目づかいを向けた。
「ホントに大丈夫です。もしダメでも、気力で隠し通しますけどね。行きましょう」
テントで受付をしてもらい、どこか不用心なゲートをくぐって、磯原と佐由利は巡視船に足を踏み入れた。船は大きくて安定感があった。外をぐるっと階段が通っていて、フロントデッキからまずは上へ向かった。監視員のような人に会釈をして、開放されているエリアの一番上に着いた時に汽笛が鳴り、巡視船は出港した。磯原と佐由利は船内を歩き回った。佐由利は所詮観光客の物見遊山だったが、磯原は博識だった。時々磯原がちょっとした解説を加えながら船内を進んだ。磯原が快活に話しているので、佐由利はホッとした。
「私たちみたいに船内ばっかり見てたら、海を眺める時間がなくなっちゃいますね」
「大丈夫、大きいとは言っても巡視船のレベルだから、まだ乗ってから五分です。船底近くというか、水より下になる部分の機関室が一部公開になってるみたいだから、それは絶対見たいです。どこから下りられるのかな……」
機関室に下りる金属ハシゴはすぐ見つかった。磯原はちらっと佐由利を見て、一瞬困った顔をして、
「あの、先に下りてください。後から下ります」
と言った。佐由利は、磯原ならこういうところは男から行くと言うと思ったのでやや驚いたが、素直にせまい金属ハシゴを下りた。
機関室は、公開とは言ってもごく一部の通路から各部を覗くくらいのものだった。それでも、今運行中の船舶の機関室に入れたことを磯原は喜んでいた。ただ、どこか油臭いにおいがしていて、佐由利はほんのわずかに気分が悪くなり、磯原を心配した。
機関室の公開部分にも監視員のような人がいて、磯原と佐由利、それからハシゴを交互に見ていた。磯原は監視員に何度か視線を投げ、意を決したように何かを言いに行った。そして戻ってくると、
「僕が先に上がります」
と言った。あれ? と佐由利は思った。さっきは佐由利を先に下ろしたのに、今度は磯原が先。なぜだろう。
「それから、あそこの監視員に、あなたが上りきるまで椅子を立たないように言ってきました。僕たちが機関室見てる時、時々立ってハシゴの下に行ったりしてたでしょう。それをやるなって。心配だから、急いで上がってきてください」
ぽかんとする佐由利を尻目に、磯原はそそくさとハシゴを上っていった。佐由利も言われた通りに急いで後から追って上がった。磯原の足がどいたことを確認しようと、視線を上げた時にはっとした。
(……そっか、縦のハシゴだと、パンツが見えるんだ!)
だから、下りる時は佐由利が先、上る時は磯原が先。位置として必ず磯原が上。磯原が下にいたら、見上げた時に佐由利のスカートを覗いてしまうから。そして、監視員にも佐由利の下に回るなと言ってくれたということだ。佐由利の着ているワンピースはリゾート仕様の無防備な楽ちん膝丈フレアースカート。見上げたらさぞかし中がよく見えるだろう。
急いで上りきった佐由利は、おずおずと磯原に礼を言った。
「磯原さん、お気遣いありがとうございます。私、ガサツで……全然気づいてませんでした」
磯原はきまり悪そうに目をそらした。
「ハシゴの上り下りがあるのは予定になかったかもしれませんけど、港とか、船の甲板で風にあおられるかもしれないんだから、生地の軽そうなスカートは、考えた方がよかったかもしれませんね。甲板でも気をつけてください」
佐由利はカバンからショールを出してスカートの腰の位置にひと巻きさせて結んだ。
「これで、ちょっとは強化できました。外、出ましょう!」
そしてわざと元気に階段を上がって甲板に出た。磯原はゆっくり後を追った。
風は比較的穏やかで、スカートはショールの重しの分もあって安定を見せている。佐由利は笑顔で磯原に向かってスカートを指さし、「大丈夫、大丈夫」というジェスチャーをしてみせた。磯原はうなずいてくれた。
二人で並んで甲板の船首の部分にある柵にもたれ、しばらくじっと海を見ていた。ずっと一緒にいたいと佐由利は思っていた。会話はない。でも、とても心地よい。磯原の存在そのものが温かくて優しい。佐由利のスカートにまで気を配ってくれる、細やかな人。
感慨にふけっていると、磯原が重々しい声でつぶやいた。
「――すみません。偉そうに、気力で隠し通すとか言いましたけど、ちょっと……ダメになってきちゃいました」
「ええっ!」
「下にあったトイレで吐いてきます。ちょっと、そういう感じなんですみません」
そう言い残して磯原はあっという間に階段に消えた。そのまま、何分間か磯原は戻ってこなかった。佐由利は何か、磯原のためにできることがないかを考えた。時計を見るとクルーズはあと五分程度で終わりそうだ。待っていればいいだろうか。でも、何か……
(そうだ、室内に給水器があった……)
ホテルの水道水も飲用禁止のこの国では、おそらくトイレの洗面所の水も飲めないだろう。うがいをするにも、飲むにしても、飲用と明記されたものでないと危険だ。佐由利は甲板からすぐの屋内の部分に入り、置いてあった給水器から使い捨てコップに水を汲んだ。一つで足りないといけないから、もう一つ。そして両手に水を手にして甲板に戻ると、磯原が階段を上ってきたところだった。
「磯原さん、――あ」
船が揺れた。佐由利は両手の水を死守して、おぼつかない足取りで船首に戻ってきた。
「あの、水を汲んできたんです。飲用不可の水だったんじゃないかと思って……これは大丈夫です。そこに飲用の給水器があったので」
磯原は両手にコップを受け取って、真剣な目で佐由利に礼を言った。
「ご想像通り飲用禁止の水で口をゆすいで来ちゃったので、ありがたくこれ、すぐ使わせてもらいます。すぐ戻ります」
そしてまた磯原は階段に姿を消した。佐由利はやるせない思いで見送った。
(……無理、させちゃったなあ……)
しばらくすると、磯原が青い顔で手すりを握りしめて甲板に上がってきた。佐由利は一生懸命声をかけた。
「もう港、見えてますから。風に当たった方がいいですか、冷やさないほうがいいですか」
「このままここにいます。もう、動く気力もないから」
磯原は佐由利の隣に立った。でも、だったら、と佐由利は思った。
(動く気力がないのにここまで上ってきてくれたのは、私がいるから、気をつかってくれたのかな……。船が止まるまでトイレにいたってよかったのに……、トイレから下船したほうが歩かなくて済むのに。船の出口、一つだけだから、私とも絶対合流できるのに)
船は港へと入っていった。船からは、最後の最後に、青い顔をした磯原と、心配そうな佐由利が降りた。
「すみません。正直、今もしんどいです」
磯原がじっと前方を見つめたままつぶやいた。
「大丈夫ですか? どうしたらいいですか?」
「そこの、通路を抜けたところに長いベンチがありますよね。大変申し訳ないんですが、横になっていいですか」
「もちろんです!」
ベンチは日なたにあった。磯原は横になり、太陽に背を向けて丸まった。
「日焼けします、磯原さん」
「かまいません。申し訳ないけど、しゃべってると吐きそう」
「あの、わかりました、でも、これだと日に当たったところが日焼けで炎症か火傷みたいになります。これ、日よけにしてください。強力UVカット加工です」
佐由利はスカートに巻いていたショールを外して磯原にかけた。磯原はじっと黙ってその好意を受けた。
「私は日陰にいます。私が横にいると休まらないだろうから、上の段にいますね。動けるようになったら上がってきてください。私、上で、勝手に楽しんでるから、好きなだけゆっくりしてて大丈夫です」
それから三十分、佐由利は時々磯原の様子を手すり越しに見下ろして確かめながら、バス、船といった酔う乗り物を使わずに帰る方法を調べた。だがやはり交通手段はバスと船、あとはタクシーしかなかった。休憩所のような場所もなかった。この周辺は、どうやらこの港以外に何もないようだ。
次に見た時、磯原はベンチに座って頭からショールをかぶっていた。佐由利は磯原のところへ下りていった。
「大丈夫ですか?」
佐由利は正面に回って磯原の顔を覗き込んだ。いくらか血色が戻ってきたように見える。
「……本気で寝ました。だいぶ楽になりました」
「ほんとに? 隠し通そうとか、思ってません?」
「仲本さんが日焼け、嫌だろうから、とりあえず上に移りましょう。ここは日のよけようがないから」
磯原はいくらか空元気な様子で立ち上がって、佐由利にショールを返そうとしてためらった。まだ必要なのかな、と思って佐由利はすぐに声をかけた。
「使うなら、今日、貸しますよ」
「いや、僕が使って、気持ち悪いにおいとかつけてないかなって。僕が自分で嗅いでも多分わからないし」
佐由利はさっと磯原からショールを奪った。磯原は焦った様子を見せたが、佐由利は容赦なくショールに顔を近づけて深呼吸した。そしてすぐに顔を上げて、ニッコリ笑った。
「大丈夫です。ゲロくさくとか、なってないから」
「ほんとに?」
「ほんとです。私、人のゲロのにおいなんか、絶対ガマンしません」
肩にショールをかけながら佐由利は短い階段を上った。磯原も続いた。
「でも……仲本さん。僕、決めました。あなたを置いて帰ります。バスで」
佐由利はそのまま日陰まで歩いていった。
「じゃあ、私も帰る」
足を止め、振り向かずに、少しうつむいて佐由利は言った。港とか巡視船とかコンテナとか消防艇とか、そういうものが好きなのは嘘じゃないが、この場所でどんなに自由に過ごしても磯原がいなければ意味がない。
「気をつかわないで、本音を言ってください。僕の本音は――みっともなくて、仲本さんの前にいるのが恥ずかしくて、気分が悪いことより、そっちがつらいです」
磯原の訴えを背中で受けて、佐由利はもっと下を向いた。
「だって、一人で帰ったら、気分悪くてバス途中で降りて、倒れてたら財布とパスポート盗まれて、そのまま放置されて死んじゃって、帰ってこないかもしれないじゃないですか。自分が、一人で放り出されていい状態かどうか、考えてください」
「それは自業自得です」
きっぱりと言い切る磯原を振り返り、佐由利は必死で訴えた。
「私だってわかってます。約束してたのに、お酒飲んじゃって具合悪くなって遅れてきて、バスで全然会話もなくて、ふらふらで足手まといで、無理してくれたのはいいけど動けなくなっちゃうし、理屈で考えたら磯原さんがひどいです。でも、一人で帰るなんてもっとひどいです。もちろん、私は一人で行動するのも好きですよ。だけど今日のこと、楽しみにしてたのは船とか港とかだけじゃなくて、磯原さんともっとしゃべってみたかったのに。せめて一緒に帰りたいです」
果たしてこの朴念仁にどれだけ想いが伝わるだろう、と思って佐由利は口を結んだ。これ以上は今は言えないけれど、精いっぱいの「好きです」のつもりだった。
磯原の表情があきらめをたたえて緩んだ。
「……実はね、心配かけるから、言わないで一人でやろうと思ったんですけど……僕、今、バスに乗れる気もしないから、歩いて帰っちゃおうかなって。バスで三十分かかったから、時速四十キロ出てたとして単純計算で二十キロ。仲本さんに、これ、つきあえなんて言えないです。しんどいから途中でバスに乗ろうと思っても、バスは一時間に一本しかない。いつバスに乗れるかだってわからないわけです。あなたにはここから出るバスで普通に帰ってもらって、僕は今から歩いて……夜には帰れるか、あるいは力尽きたらバスに乗る気力も出るかもしれないし。だから僕は、ここからは一人で」
一つ息をついて、若干微笑むように佐由利を見て、磯原は締めくくった。
「歩くなんて言ったら心配かけるって思って……でも結局言っちゃいました。大丈夫、帰ったら、無事ですってホテルの内線を入れますよ」
佐由利は少し目を吊り上げて、決意をこめた眼差しを演出してみた。
「私がいたら邪魔ですか? 本音でいいですよ。ほんとは一人になりたいなら、それは磯原さんの自由です。でも私は、私の自由でいいって言ってもらえるなら磯原さんと歩きたい」
「え――だって、こんな炎天下、二十キロ歩くなんて正気の沙汰じゃないですよ」
「自分はやろうと思ってるのに?」
「あなたは女性でしょう」
「そういう女性扱いは好きじゃありません。私、健脚なんですよ。今日のイベントを満足に楽しめなかった分、磯原さんが私のわがままを聞いてくれたっていいじゃないですか」
磯原はしばらく言葉を探して表情をあれこれ変えていた。だがやがて、眉を下げて、次に上げて、結局は笑った。
「仲本さんはほんとに物好きです。僕が途中で具合悪くなって倒れたら、ますます迷惑をかけるんですよ」
「そんなことになったら、ますます私がいたほうがいいでしょう? けっこう、頼りになるんですよ、私」
「……それは今日、よくわかりましたよ」
二人は突き出した半島を歩いて市街地に向かった。磯原は時々、遠慮することなく休憩を求めた。日差しは強烈すぎるほど強烈で、佐由利は荷物から折りたたみの日傘を出して、磯原にまたショールを譲った。磯原はショールで日よけをしながら、佐由利は日傘をさして、ただただ歩いた。