第二幕・南の島 十二 リゾートの夜
佐由利がホテルに戻ると、ロビーの隅にある観光案内カウンターに磯原の後ろ姿があった。うっとうしい印象を与えたら困ると思いつつも、ほとんど自動的に、気持ちが足を動かしていた。カウンターの係員は現地の人らしく、近づいていくと怪しい日本語と英単語を交えて大声で何かを説明していた。「シップ、バス、ドチラカ、ドッチモ」と聞こえたので、明日のことではないかと思った佐由利は、少し離れたところで話が終わるのを待ってから声をかけた。
「磯原さん、今……」
気配に気づいていたらしく、磯原は驚きもせずに答えた。
「明日のこと、調べておきましたよ。仲本さんも調べてるかもしれないけど、事情が変わってるといけないから、現地で前日に確認しようと思ってたんです」
楽しみにしてくれているように感じて、佐由利はぱっとうれしくなった。自分はこれから引率の添乗員さんにホテルの内線で問い合わせようと思っていた。
「少し半島みたいに伸びて曲がった先が保安船の港になっていて、そこでやるらしいんで……交通手段はバスか船があるみたいです。バスは、さっきも歩いててすれちがったと思いますけど、あのオープンなリゾートバス。一時間に一本、この先の角から半島の先まで行くバスが出てるそうです。湾をまっすぐ突っ切っていく水上バスもあるけど、それは三時間に一本で、しかも昼の十二時からしか動かないみたいです。もちろん、十二時にここを出て、午後から行ってもいいですけど。バスだと三十分くらいかかるみたい。船だと十五分くらい。どうしましょうか」
佐由利は「あわよくば、いいムードでサンセット、うまくしたらディナー、夜に一緒に飲みに行くとこまでいければ……」と思っていたので、そんなに早く出発するつもりはなかった。であれば、行きに船を選択するのを口実に十二時出発か。でも、それだと放水のショーが見られないかもしれない。確かそれは午前中だったはずだ。
いろんなことを天秤にかけ、戸惑っていると、磯原が佐由利の背後に視線を移し、何かを見つけたのか早口に言った。
「早く行って、早く帰ったほうが安心ですよね。夜にかからないほうが。朝十時に出るバスで行きましょう。ロビーだと人目につくから、角のバス停に十分前。バスの時間はルーズかもしれませんが、早い方向にルーズだったら困るから九時五十分でいいですか」
ロビーの自動ドアが開くかすかな音がして、大きな声がした。
「あれーっ、磯原くん……それから仲本さんじゃん」
大野だった。佐由利は振り返っておじぎをしてから、磯原に向けてさっと「わかりました」と答えた。午前十時の出発では、サンセットもディナーも期待薄だ。しかし、今の相談に大野に入られて「俺も行く」ということになるより、話を切り上げることのほうが大事だ。
(……もしかして、磯原さんも、邪魔に入ってほしくなかった……とか?)
方向とタイミングから、磯原の視線は大野を見つけたのだろう。途端に早口になったのは話を切り上げるためだろうか? それに「ロビーだと人目につくから」と言ったのも気になる。二人だけの秘密、という甘い雰囲気が佐由利を支配する。
(でもこの人の場合、仕事の邪魔になるとか、いちいち余計なことを言われたくないとか、そういう理由もあるか)
そうは思ってみたが、佐由利はどうしても何かを期待する気持ちを抑えられなかった。
大野は軽やかな足取りで二人のところにやってきた。
「何、これから二人でどこか行くの?」
若干意味深に問われて、磯原は苦笑して手を振ってみせた。
「僕はさっき一人で帰ってきたところです。この人は、今一人で帰ってきたとこ。僕はこの後、一人で山に登りに行きます」
佐由利は涼しい顔をしていたが、ことさら「一人」を強調する磯原にやっぱり違和感はおぼえた。今はともかく、明日は「二人でどこか」に行くというのに。
「仲本さんは? この後」
「私は、駒形さんと二人で、あちこち散策したりショッピングしたりします」
「俺、予定決めてないんだけど、一緒に行っちゃダメ~?」
背の高い大野があごを引いて一生懸命上目づかいになって佐由利を見つめてきた。佐由利は愛想よく一刀両断した。
「女性のショッピングについてきたりすると間違いなく後悔しますよ。大野課長のためにお断りします」
「ガッカリ」
元々どこかお調子者の大野だが、この社員旅行ではだいぶはしゃいでいる印象がある。佐由利は少し前に大野を「アリかも」と思ったことを思い出し、「プライベートがずっとこの調子だと、疲れるかな……」と考え直した。仕事中の大野は、軽口はきくものの基本的には「できる人」そのものだ。その中で少しおちゃらける分には「面白い人」で済むけれど……。
山辺、大野、そんな周囲の男性と比べてもやっぱり圧倒的に磯原は魅力的だ。佐由利はますます明日が楽しみになった。
「あれっ、皆さんお揃いで……」
そこに、さらに総務部の課長補佐と男性社員二人がやってきた。雑談の輪が大きくなり、観光案内カウンターの奥にあるエレベーターホールに向かう通路が微妙に塞がった。通れないわけではないが通りづらい。
(ほんのちょっと、こっちに寄って下がれば邪魔じゃないんだけど……)
だが、相手は課長、課長補佐という上役たちだ。佐由利は居心地の悪さを感じつつ、通路を空けようとも言えずにいた。
ホテルの入口に外から戻ってきたらしい人影が見えた途端、磯原がごくわずかに顔と視線を入口に向け、後ろに下がりつつ自分のほうに向けてそっと掌を振った。つられて、通路を塞ぎ気味だった上役たちが気づいたように背後を窺って少し寄り、通路が空いた。通行人は問題なく集団の背後を通っていった。
何事もなかったかのように会話は続いていた。佐由利は変に思われないよう細心の注意を払いつつ、ただただ磯原の存在だけを感じていた。これみよがしでない自然な気づかいができる、礼儀正しい常識人。しかも、会社の上役を相手にでも失礼でない小さなアクションだけで「邪魔ですよ」と伝えられる人。自分のできなかったことをやってくれる人。尊敬できる、素敵な人。
間もなく会話の輪はそれぞれの方向に散っていった。佐由利はエレベーターに向かいながら何度も振り返り、外に出ていく磯原の背中に憧れの視線を送った。
佐由利が部屋に戻ると、涼子はベッドに入ってよく眠っていた。時計を見るともうすぐ十五時半。買い物ができなくても夕飯を食べに出られればいいか、と思って佐由利はバルコニーに出た。まだ強い日差しが照りつける街を眼下に感じ、輝く海を遠くに眺めているだけで心が解放されていく気がする。到着直後はぐったり、げんなりすることが多かったが、前半の班が帰ってきたときに揃って「良かった」と言っていたのがわかる気がした。
ふと思い出して、佐由利はプールの営業時間を確認した。プールじたいは二十三時まで、併設されたバーはラストオーダーが二十二時。磯原が来るとしたら何時だろうと、仮定を織り交ぜながらロマンティックな時間を空想する。
三十分ほどそうして過ごし、佐由利は意を決して涼子を起こした。
「駒形さん、そろそろ起きないともったいないよ。滞在三日しかないのに、一日がそろそろ終わっちゃう」
涼子はけだるそうに目を覚ました。
「うん……寝て過ごしたらもったいないよね」
涼子が身支度をするのを待って、二人は外に出た。佐由利が一人で歩いたルートで景色を見ながら歩き、いろんな店を見て、「ここの“あの”クリームは美味しい」というパンケーキの店で一服した。お腹はすいていなかったのでパンケーキは二人で一つにした。それから海辺を離れてショッピングセンターを見て回った。少し暗くなってきた頃、昼に見つけた屋台に行ってみたが、現地の人でいっぱいだったのでウッドデッキの見晴らしのいいカフェで少し早めの夕食をとった。ここでも、ディナープレートは二人で一つにした。会話している間じゅう、佐由利は翌日磯原と出かけることが露呈しないように細心の注意を払った。
夜の海を眺めつつゆっくり歩いてホテルに戻ってくると、まもなく女子たちで示し合わせたプールの時刻だった。佐由利は過度に緊張しつつ、水着姿が綺麗に見えるよう必死で支度した。胸が大きいわけでもウエストが細いわけでも脚が美しいわけでもないが、なんとかビキニ姿でドキドキさせてみたい。何か特別な気持ちで明日を迎えてくれたら何かが変わるかもしれない。どう結んだら髪が色っぽく見えるかと、けなげな試行錯誤は当人比でそれなりの結果を出した。佐由利は自分で「けっこう可愛い」と思える仕上がりでプールに向かった。
プールはホテルの中庭にあった。人工の岩に観葉植物が渡してあり、ミストが幻想的な風景を演出している。ミストと照明の加減でところどころに虹ができている。プールそのものは普通の二十五メートルプールに正方形の深いプールが接していて、少し隔てたところにひょうたん型のジャグジー付き温水プール(ほぼ風呂)が設置されている。
正方形のプールのそばにバーカウンターがあった。待ち合わせは「夜の7時に、プールのバーみたいなところ」。その付近には白いパラソルを立てたテーブルがいくつもある。近づいて行くと女性の一団があって、「駒形さん、仲本さん、こっちこっち」と手招きされた。佐由利は涼子に任せて後をついていった。視線をさりげなく動かして、磯原の姿を探してみたが、どうやらいないようだ。
やがて、約束していた八人が合流した。皆でカクテルを頼み、しばらくおしゃべりに興じていたが、佐由利は磯原が来ないかとずっと気になって、口数が少なくなっていた。
とうとう待ちくたびれて、佐由利は泳ぐことにした。「来ないのかな」とガッカリもしたが、プールの営業時間はまだあと三時間以上ある。あまり人に会いたくなさそうだったから、遅くに来るのかもしれない。ならば持久戦だ。
脱いだパーカーとタオルを椅子に置いて、ビキニ姿になった佐由利は水の中に入った。二十五メートルプールより、隣の正方形の深いプールのほうが気に入った。深くて足がつかないから体中を水中に沈めていられる。磯原に対してアピールする気はあるが、そのほかの男性にまでサービスする気はないし、女性たちに自慢できるような体つきでもない。
他にも数名、女子が水着になってプールに入ってきて、しばらくめいめい漂ったが、最後には二十五メートルプールの片隅でおしゃべりをはじめた。佐由利はそれを聞くともなしに聞きながら時々会話に加わったりして、のんびりと深いプールを泳いだ。
遠目に見えるエレベーターホールに人の姿が現れ、佐由利ははっとした。だがシルエットは長身だ。大野のお出ましらしい。
男はプールサイドを歩いてきて、プールサイドでカクテルを飲んでいる女性たちに声をかけ、準備体操のような身振りをしつつプールにやってきた。
「おっ、女性陣、こっちにも来てるね!」
やはり人影は大野だった。そう悪くない外見なので、海パン姿で楽にしていてもそれなりに決まっていた。
「ここでは『おつかれさま』は変だから、こんばんはー」
「お一人で来たんですか?」
大野は二十五メートルプールの女性たちから挨拶され、そのまま水に入って話しはじめた。佐由利はぐるっと泳いできて目が合った瞬間に会釈して挨拶に代えた。
しばらく他愛ない話をした後、大野は二十五メートルプールの端のレーンに移って本格的に泳ぎはじめた。佐由利は深いプールから乗り出して、女性たちの会話に加わった。
「男は、来ねえなあ」
やがて泳ぐのを一旦やめた大野が会話に入ってきた。磯原はやはり来ないのかと思って佐由利は肩を落とした。だが大野の声は続いた。
「さっき磯原くんとすれ違った時、声かけたら来るって言ってたんだけどなあ」
佐由利は危なく態度や表情に喜びを出してしまいそうになり、慌ててまた泳ぎはじめた。足がつかないのをいいことに、口元まで喫水線を上げて沈み、表情を隠した。
だがそれから三十分あまりも磯原は来なかった。大野は「磯原くんは、あれこれ、どんくさいところがあるんだよ」と言って笑った。
女性陣が集まってから一時間以上が経ち、プールサイドでずっとカクテルを飲んでしゃべっていた二人が「寒い」と言って退散した。佐由利は断固、部屋に戻る気はなかった。プールサイドで、わずかに流れる風に当たって、氷の入ったカクテルを飲んでいれば当然冷える。体を冷やさないために、もうお酒は飲まないことに決めた。
しばらくすると、女性陣が交代でジャグジーに入りに行きはじめた。ただ水中にいるだけでは冷えるようだ。泳いでいる佐由利はあまり寒く感じなかった。
エレベーターホールに人影が見えた。佐由利は俄然気になったが、磯原を待ちかねていることを周囲に悟られてはいけない。周囲の誰かが声を上げるのを待った。
下りてきた人物は、誰もいないテーブルに荷物を置くと、迷ったようなそぶりを見せてからTシャツを脱いだ。それから遠慮がちに様子を窺い、大野を見つけると歩み寄って行った。
(……磯原さんだ。絶対)
佐由利はドキドキして動揺して、一歩間違えると溺れそうだったので、またプールの境界線にたどり着いて泳ぎを止めた。女性陣のジャグジー頻度はだいぶ高くなっていた。もし「寒いから、もう戻ろう」と言われたら何を理由に残ろうか、佐由利は考えはじめた。
磯原らしき人影は、二十五メートルプールの長いほうの辺に沿って歩いてきて、鉄製の足掛けからプールに入った。それから大野が先に立って水中を歩き、女性たちのところに二人でやってきた。長身の大野は腹の高さに水面があったが、背後の人物は胸元まで浸かっていた。視界の隅でそれを見た佐由利は「磯原さんだ」と確信した。
「ねえねえ、なかなか見られないものが来たよー。こんなカッコウの磯原くんとか、会社じゃ絶対見られないよー」
大野の声に弾かれたように装い、ずっと気づいていたくせに佐由利は驚いた顔で言われた方向を見た。
「大野さん、やめてくださいよ……」
伏し目がちで肩をすくめ、所在なさそうな磯原が、体を隠すように片腕を反対側の肩にかけて水の中に立っていた。佐由利はかなり動揺した。「見ちゃった」と思ってから、自分で自分を「小学生か!」と思って嗤った。そして、眼鏡をかけていない顔を見るのは珍しいので、体でなく顔のほうを眺めることにした。
「やだ! 旅先ならでは! 磯原さんが仕事の白いシャツじゃないの、初めて見た!」
「えっ、確か、日中は色のシャツみたいなの着てましたよね? 白ではなかったような」
女性たちが珍しがって口々に言うのを聞いていて、佐由利はつい笑ってしまった。
(外のシャツじたいは白ですー。細いダークグリーンの線が入ってるだけで。中のTシャツは淡いグレー。……皆さん、見てないんだなあ。磯原さんらしいな)
女性陣に面白がられて所在なさそうな磯原の様子が気の毒でしょうがない。助けてあげてほしくて、佐由利はちらっと大野に視線を送った。目が合い、空気を読んだのか、大野は話をまとめてくれた。
「はいはい、見世物じゃないですよ……って俺が見世物にしたのか。磯原くんゴメン、あとで一杯おごるよ。ね、俺たちも仲間に入れて。リゾートの夜にロマンティックなプールサイドで綺麗な女の子たちと過ごすなんて最高じゃん」
三十代の三人が、そこで「女の子たちね……」と微妙な顔をした。大野が「俺より年下は、みんな女の子」とフォローした。幸い、その場の全員がカバーされた。
しばらく、皆で雑談をしていた。磯原は時々一人で泳ぎに行って輪を離れ、戻ってきても相槌を打つ程度にしか会話に加わらなかったが、それなりに楽しんではいるようだった。佐由利は足のつかないプールで腕を使って体を支えるふりをして、めいっぱい胸が大きく見えるように腕で胸を寄せていた。
また何人かがぱらぱらとジャグジーに向かった。涼子と佐由利は同時に顔を見合わせたが、涼子と佐由利の思いは違っていた。
「そろそろ戻る?」
涼子に問われ、佐由利は「絶対ノー!」と心の中で腕をバツ印に交差させ、考えておいた口実を慌てて使った。
「私、さっきのピニャ・コラーダをもう一回飲もうかなって思ってたんだけど」
「えーっ! あれ、氷のつぶつぶで、すっごい体が冷えるよ? 仲本さん、寒くないの?」
それはもう、持久戦を考えていたから、体が冷えないために全力を尽くしてある。女の子たちの様子を見て、うかつにジャグジーで温まってしまうと逆にプールの寒さがこたえるらしいと推測して、一度も行っていない。
「私、泳いでばっかりで全然寒くない。もうちょっと、いようよ」
「うん、じゃあ、あとちょっとね」
涼子がそう答えた途端、他の女性たちはとうとうジャグジーでも温まりきらなくなったらしく、そのままひと声かけて部屋に戻っていった。女性では佐由利と涼子だけが残った。
佐由利はまだプールで磯原と言葉を交わしていなかった。だから、「もうちょっと、なんとか……」と必死だった。
「駒形さん、みんな戻っちゃったから、あとカクテル一杯分だけはつきあって」
「……うん、じゃあ一杯だけ」
涼子はそう答えてくれたが、女性陣が一気に減ったせいか口調は若干消極的だった。佐由利はこの場をあきらめた。
「ううん、やっぱり、寒そうだから……私も、戻るよ」
断腸の思いとはまさにこれだ、と佐由利は思った。プールの中に切れた腸を置いていってしまいそうなくらい惜しい。でも、自分の恋愛感情のために涼子に風邪を引かせるわけにはいかない。佐由利は涼子を追って水から上がった。
そこに背後から声がかかった。
「駒形さん、じゃあ、もうちょっとだけ仲本さん貸して。無事、ちゃんと帰すから」
大野が追ってきて、佐由利のそばに立つと涼子に手を合わせた。
「俺、社長賞のお礼するってずっと仲本さんに言ってたからさ。でも高級ディナーとかヤダって断られちゃったし、ここで、カクテル一杯くらいご馳走したいなと思って」
素晴らしい援護射撃だ。佐由利はこっそり目を見張った。社員旅行に来ることになった経緯も、磯原をプールに呼んでくれたことも、あれこれとまるで大野が磯原との時間を取り持ってくれているかのようだ。
「え、いえ、いいですよ。お礼なんて」
佐由利は一応遠慮してみせた。だがこのチャンスを逃したくはなかった。
「大丈夫だよ、磯原くんもいるし、二人っきりとか変なことじゃなくてさ、こんなタイミングでもないと、お礼できるチャンスないじゃん?」
「仲本さん、……嫌じゃない? 嫌なら言った方がいいよ?」
涼子は佐由利を一人で残すことをためらっているようだった。佐由利は細心の注意を払って言葉を選んだ。
「嫌とか、そういうのは全然ないよ。プール気持ちいいし、このまま一人で残って泳いでてもいいくらいだけど、駒形さんを一人で帰すのは悪いから私も戻る」
つまり涼子さえ「一人で戻る」と言ってくれればここにいたい、ということだ。
大野が、今度は佐由利に言った。
「でも仲本さん、二人部屋だと、同時に帰ったらシャワー一つしかないよね。キーは二人とも持ってるんでしょ。時間差で帰った方がいいんじゃない?」
おや、と佐由利は思った。大野の様子はいささか熱心すぎないか。自意識過剰、自信過剰かもしれないが、こういう違和感が後で「やっぱり……」になった例はいくつもある。
(それでも、磯原さんと一緒にいるためには、ここは断固残るでしょう!)
大野の熱意への警戒と、磯原への恋心を天秤にかけてみたが、比べるまでもなく磯原と一緒の時間のほうが大事だった。どう話を持っていこうと思っていると、涼子が先に決断した。
「うん、大野課長の言う通りです。早くシャワー浴びたい。でも仲本さんと一緒に帰ったら遠慮して譲り合いするか、仲本さん待たせて先にいただいちゃうか、だからちょっと気まずいかも。仲本さんがここに残っててくれる方が、実は、ゆっくりシャワー使えます」
佐由利は涼子に申し訳ない気分になったが、同時に「ナイス!」とも思った。
「あ、……ゴメン、だったら先に戻ってあったまってて。私、もうひと泳ぎしてもいいし、カクテルも……ご馳走になっちゃおうかな」
佐由利がそう言うと、涼子は笑顔で手を振り、荷物を抱えて長いショールを体に巻いてプールサイドを出ていった。後には佐由利と大野、磯原が残った。
「磯原くんもおいで。一杯おごるって言ったでしょ。女の子皆には無理だけど、二人なら、俺のオゴリで一杯やろう」
大野が声をかけると、磯原は案外素直に水から上がってきた。佐由利は「大野課長ナイス!」を心の中で連呼していた。
それから三十分くらい、三人でプールサイドで話をして過ごした。佐由利はパーカーを羽織ったが、正面にいる磯原から見えるように前は閉じなかった。逆に、左にいる大野からは見えづらいように左腕を軽く頬杖にした。お腹がたるんで見えないようにずっと力を入れているのはつらかったが、それよりも磯原とロマンティックな夜を過ごせることがハッピーだった。
「ねえ磯原くん、こんな夜だから突っ込んだこと聞いちゃうけどさあ、彼女とかいるの?」
大野が佐由利にとっての爆弾を会話に放り込んだ。佐由利は慌てて水を差した。
「大野課長! そういう話は、女が一人もいないときにしてあげてください! 磯原さんだって答えづらいだろうし……私はしないけど、そういうの聞くと言いふらす人がいるかもしれないじゃないですか!」
慌てる佐由利にちらっと「ありがとう」とでも言うかのような視線と会釈を投げて、磯原はあっさり答えた。
「いませんよ。そこまでは答えます、あとはなんにも答えません」
「すみません、すみません磯原さん」
佐由利は必死で「聞いちゃってすみません」と詫びてみせたが、内心では大野に抱きつきたいくらいうれしかった。彼女はいない。明日の勝負を前に、大収穫だ。大野が恋のキューピッドなのではないかという気がしてきた。
「磯原くん、独身の飲み会行かないっていうから、こっそり彼女持ちなのかと思った。商品開発の山辺くんとか、ITの宇川くんとかが、やってるじゃん独身飲み会。俺、あれに呼ばれたいんだけどね~。磯原くん行かない分、俺に席を回してくれればいいのにさー」
佐由利は黙っていたが、あの飲み会は「バツイチは独身と認めない」というルールもあるらしい。そこはしょうがないかな、と思った。
「磯原くんって人と関わりたくないと思ってるでしょ。今回の旅行、よく来たよね」
「いや、よく誤解されますけど、そんなことは全然ないですよ。飲み会も好きです。ただ、品定めをされるのは嫌だから、合コン的なものにはいっさい出ません」
「そんなんだと、男が磨かれないぞー。品定めで酷評されるのも経験のうちだよ?」
「いいですよ、人目につかないほうが楽ですから」
大野が明らかに「俺の方がいい男」と思って話しているのが口調から感じられて、佐由利はつい口をはさんだ。
「磯原さん、合コン行っても絶対に酷評なんてされないですよ。会社出る時に一緒になったりすると、すごく自然にドアを開けてくれたりするし、ちゃんと磨かれてますよね。日本の男性って、背後にきゃしゃな女性とか来てても、反動までつけて手動のコンビニのドア離したりするじゃないですか。私はそんなの跳ね返しますけど、可愛い女性が『キャー』みたいになるの、よく見ます。でも磯原さんってそのへん、女性の扱いが身についてる感じなんですよね」
一緒に食事に行った時に、という状況が露呈しないように佐由利は気をつかった。
「えー、俺も意識してそういうの、やってるけどー」
大野は口を尖らせた。佐由利はじっと上目づかいになって言い返した。
「磯原さんのはほんとに自然なんですよ。意識してやってるんじゃなくて、レディ・ファーストの国に生まれ育ったみたい」
いたたまれなくなったのか、磯原が割って入った。
「いや僕ね、これ、全然自慢にならない話なんです。新卒で入ったのが赤ちゃん用品の会社で、社長をはじめ社員の大半が女性で……。新社会人の若い男ってことで、徹底的に調教されました。ムチで打たれてハイヒールで踏まれるレベル。『磯原くん、こういう時は女性を先に通すのよ。ドア開けて、はいどうぞって』『なぜあなたが奥に座るの、そっち側は女性よ』って。できなければ『それじゃ、いい男になれないぞ』『まだまだレベル低いぞ』って上から目線で言われて、毎日がその繰り返し。『はい磯原くん、今日はランチ一緒に行こうね』って言われて、じゃあここは男が支払いをしろって話だなと思って『払います』って言ったら、『上司が払われたら立場ないでしょ』『女は稼ぎが少ないと思ってない? あなたの倍は稼いでるからご心配なく』……で、じゃあ払わない方が角が立たないのかと思ったら、『この子と、この子の分は出してあげなさいよ、男が払わないとメンツ立たないでしょ』。毎日が“男子力テスト”で……」
「うわーっ、いやだな、それ。勃たなくなりそう」
大野の下ネタリアクションを、磯原は聞かなかった体でさらっと流した。
「お姑さんに徹底的にやられて逃げ場がないから、お嫁さんが家事のプロになるしかない……みたいな状況で、自動的に反応するようになりました。パブロフの犬というか、悲惨な話です」
磯原は苦笑したが、佐由利はそうは思わなかった。
「あの、でも、……磯原さんには不本意でも、そういう気づかいをしてくれるのって女性はうれしいですよ。お姑さんのイジメでも、結果として自分のレベル上げられたらラッキーじゃないですか。男磨きをしてもらえたって思ってもいいんじゃないですか?」
磯原はパチパチッとまばたきをした。磯原のそのクセが、今日は眼鏡越しじゃないのを佐由利は不思議に思って見ていた。
「――僕は、その手の『レベルの高い男』になることを望んではいないんですが……でも、そういう小技が身についているくらいは、あってもいいのかもしれないですね。こういう時に、仲本さんが僕の味方をしてくれたりするし」
優しい笑顔で磯原は言った。佐由利はドキドキする気持ちが顔に出てしまいそうで、わざと大野に視線を向けた。
「なのに大野課長は……さっき下品なこと言ったの、私聞いてましたから。そういうのは男同士の時にしてください。ジェントルマンな磯原さんと、下ネタな大野課長だったら、女子からしてみれば勝負ありですよ。磯原さんに、女性の扱いを教わったらいかがですか?」
大野は白旗を揚げた。
「磯原くんが、そういうところで女性からポイント稼いでる人だなんて知らなかったー。マジで今度、教わろー」
全員のグラスが空になり、夜風がさらに冷たくなってきたところで三人はプールサイドのバーを後にした。磯原が自然に先頭を歩き、エレベーターホールに入るドアをすいっと開けて佐由利を通して「あっ」という顔をした。佐由利はうれしそうな笑顔を向け、その後から大野がえも言われぬ顔をしてドアを抜けた。
「なるほどねえ、磯原くん、かっこいいな」
磯原は恐縮した。
「すみません、これみよがしすぎますね。もう、こうなっちゃってるんです」
「ちくしょー、俺、今日から磯原くんをいい男認定するわー」
三人でエレベーターに乗り、男二人は先に降りていった。
佐由利が部屋に戻ると、涼子はすっかり湯上がりになっていた。
「ゆっくりだったね。物音しないから、いないと思ってゆっくりシャワー浴びてたー」
「一人で帰らせちゃってゴメン。これからシャワー使うね」
ユニットバスのドアを開けようとした佐由利に、涼子は含みのある声をかけた。
「私、実は、気をつかってあげたほうがいいのかな……って思って先に帰ったんだよ?」
佐由利は慌てて涼子を見た。やはり自分の磯原への態度は不審だっただろうか。白状したほうがいいのだろうか。どう対応したらいいだろう。
涼子は薄笑いの表情のまま、肩で笑ってみせた。
「知ってる? 大野課長の班分けへの回答、『仲本さんと同じ班』だよ。名目上は、社長賞のお礼をするチャンスが欲しいから……って総務に言ったみたいだけどね。この旅行自体、大野さんがまとめた話だから総務も許可したんだって。それって、何、考えてたのかなあ」
佐由利は、磯原のことが涼子に露呈したのではないとわかって胸をなでおろした。とはいえ、やっぱり「あれっ?」という違和感は自意識過剰ではないようだ。佐由利は取り繕って笑みを浮かべた。
「教えてくれてありがとう」
言われてみればいろいろなことに納得がいった。佐由利はなんともいえない表情を浮かべてユニットバスに入り、ドアを閉めた。