第4話
もう朝だろうか。そう思って目を開けると、宵闇が広がっている。
時計を見ると時刻は深夜。
疲れていたのだが、妙な時間に目覚めてしまったみたいだ。
あのあとの事は、よく覚えていない。
自分がどうやって帰ってきたのかすら、はっきり覚えてない。
聖都から歩いて帰ってきた筈。だが、今朝フーちゃんの背に姉さんと乗せてもらった時と同じ、いやそれよりも遥かに早く片道を帰ってきた気がした。
銀狼と人間、どちらが早く動けるかなんて、普段なら比べる気にもならないのに。
星詠みのドルイドから「身の振り方を考える時間」だとか「もう一体の召喚獣は魔力が回復し落ち着いた後、改めて」とか、そんなことを言われていた気がする。
日が落ちて姉さんが家に帰ってくると、その手には大きな紙袋が抱かれていた。
そういえば帰ったらお祝いって言ってたな。笑顔で扉の前に立っていた姉さんと目が合うと、朝のやりとりを思い出した。
僕は心配を掛けまいと、笑顔を作って帰りを待っていた。姉さんの前でだけは、笑顔で居たかった。
けれども目が合った姉さんの顔に、ほんの一瞬、陰が指したのを見てしまった。気づいてしまった。
姉さんが鋭いのか、僕が嘘をつくのが下手なのか、おそらく両方だろう。
夕食はご馳走が並べられた。
聖都で起こっている事件の犯人が、まだ捕まっていない。おかげで連日帰るのが遅くなったと、向かいに座る姉さんから聞かされた。
洗礼名が貰えなくても、と励まされもした。
僕は味のしないご馳走を口に運びながら、姉さんの話を聞いていた。
姉さんの料理は絶品な筈なのだが、今日ばかりは、味も匂いも感じることができない。泥の塊をほおばっている気分だった。
「クロウ、その、、」
夕食を半分以上残し、二階の部屋に戻ろうとする僕に、姉さんが話しかけてくる。歩みを止め、僕は振り返る。
「朝のこと、、ごめん、ごめんね、クロウ、、」
「、、姉さんが気にすることじゃないよ」
「ごめんね、、」
伏し目がちに言葉をこぼす姉さんに背を向ける。言葉を返すことができなかった。
朝に洗礼名を貰えなかった場合、って話したこと、姉さんは食事の間じゅう、ずっと気にしていたんだと思う。
なんだ、僕も結構鋭いじゃないか、それとも姉さんが嘘をつくのが下手なのか。
僕はドアを開き、足早に自室へ戻る。何よりも、家族の涙を、それ以上見ていられなかったから。
「そういえば、君を姉さんに紹介できなかったな」
暗い部屋の中、ふと風に当たりたくなった僕は窓を開けて、召喚符を月明かりに翳す。
窓から身を乗り出すと満天の星空が広がっており、僕は祭壇で出会った聖杯の中を思い出した。
ただひとつ違っているのは、煌煌と光を放つ三日月が、星の群れの真っ只中に憮然とたたずんでいることだ。
不意に、持っていた召喚符から鼓動を感じた。何かと思い、それに魔力を込めてみる。
召喚符はガタガタと揺れ、広場のときと同じく火蜥蜴が僕の手のひらに現れた。
不安なのか、辺りをきょろきょろと見回す火蜥蜴。
ここは僕の家、心配いらないよ、という意思をこめて、その小さな頭を撫でてみる。
しかし、どうにも違ったらしい。
指先ほどの大きさしかない翼を必死に羽ばたかせ、僕の目の前で滞空している。
つぶらな瞳が、僕の歪んだ顔を捉えて離さない。
もしかして、自分のせいだと思ってる?
「心配、してる?」
火蜥蜴が小さくうつむく。自分のせいで召喚者が落ち込んでいるのではないかと、主の僕に問いかけるように。
召喚獣と言葉を交わせるわけではない。だが月の光に照らされた小さな相棒の姿に、夕食のときの姉さんが重なって見えた。
「大丈夫、君のせいじゃないよ」
再び右手で火蜥蜴の頭を撫でる。ぷるぷると短い両足を震わせていた相棒は、撫でていた僕の右手を掴んでよじ登ってきた。
安心した。大切な相棒に、そう言われた気がした。
「姉さんのせいでも、君のせいでもない。僕が、僕は姉さんの力になれない、それだけなんだ」
小さな頃から「似てない」と周りからよく言われていた。姉さんと、母さんと。
血が繋がっていないと告げられたのは6年前、姉さんが12歳、僕が8歳のときだ。
聖都から北へ少し離れた、この家に住んでいた父と母には子供がいなかった。
ある朝、聖都から母の元へ届いた報。ここより更に北の地、国境付近で父が変わり果てた姿となって見つかったらしい。
人に害を成す獣の討伐に出ていた父が、返り討ちに遭ったか、はたまた別の何かに遭ったのかはわからない。
同日、雨の降る夜、悲しみに暮れる母に姉さんが助けを求めてきたそうだ。
余程の目に遭ったのだろう。両足から血を流し、エスリンという名前以外その記憶に鍵が掛けられ、生後間もない、見ず知らずの僕を抱きかかえて。
「風が強くなってきたかな」
窓を閉めようとする僕の頬を、火蜥蜴がその小さな前足でぺしりと叩く。
「励ましてくれたんだ、ありがとう。ごめんね、こんな召喚者で」
耳元で、ふん、と火蜥蜴が鼻を鳴らしたのが聞こえた。
草原を風が揺らす。草木のざわめきは、物心ついた頃から変わらない。
だから気づくことができたのだろうか。緑の中に混じり、風にのって聞こえてくる微かな異音。
再び身体を乗り出した僕の前を、闇に紛れて飛び去る黒い人影。
慌てて屋根の方に目を向ける。火蜥蜴が翼を羽ばたかせ、僅かに唸る。
降り立っただろうか。僕は恐怖心に駆られつつ、窓を伝って屋根へと静かによじ登る。
「誰だ!」
後ろから、うずくまる影の肩を掴む。生温かい、柔らかい感触。
その人影は僕に気づいていなかったのか、振り向き様に左手が払われる。宙にいる火蜥蜴は低く唸って警戒を崩さないでいた。
(物盗り?誘拐?)
嫌な予感が頭をよぎる。
屋根の上で対峙していた相手は、僕を一瞥しただけだった。猫のように屋根を飛び降り、疾風の如く北へと駆けてゆく。
僕は胸をなでおろしていた。影が向かったのは国境へと続く街道だろうか。
後になって考えてみると、僕は何と臆病者だったのだろうと思う。召喚師である姉さんを呼んでいれば、聖都への報告も迅速に叶った筈。
月光に照らされた相手の顔は、切れ長の眼が麗しい、女性だった。
隣で未だに唸る相棒に中てられたか、はたまたその綺麗な顔を忘れられなかったのだろうか。
僕という臆病者は、愚かにも彼女の後を追いかけていた。
本当に、なぜ姉さんを起こさなかったのだろう。
先程、彼女の肩を掴んだ左手。
その手のひらにべったりと着いた鮮血が、僕に考える暇を与えなかった。