第3話
聖杯の間から離れた僕は、祭壇の敷地内にある広場に案内されている。
聖杯の近くほどではないが、緑一面の広場を揺らす風には清らかさを感じる。
家から聖都へ向かう途中の草原に、どこか似ている気がした。
「分からぬ。そもそも、洗礼の際にふたつの召喚符を授かった者は過去におらん」
ここに来る道中の星詠みのドルイドの言葉を思い出す。
だが僕の手には、現にふたつの召喚符がある。
もしかして、そのどちらかは元々聖杯の中に落ちていたもので、それを僕が誤って掬い上げたのでは?
はたまた人間と同じように、この二体の召喚獣は双子?
駄目だ、答えの出ない答え合わせをしている気分だ。
考えていてもキリがない。今から二体の召喚獣を喚び出せば、僕のこの疑問もいくらか晴れるだろう。
「ほう、そなたの姉も召喚師か」
星詠みのドルイドが自身の腰から下げていた水晶の数珠を外し、その輪に右手を通しながら言う。
「はい、銀狼《シルバーウォルフ》を喚び出します」
「銀狼、そうか、そなたはエスリンの弟か」
驚きだ。姉さんとフーちゃんは、僕が思っていたよりも遥かに名前が知られているらしい。
「そう驚くことはない。魔導学院の長なんてものをやっていると、優秀な生徒の名前ぐらいは、この皺の寄った頭でも覚えとるわい」
貴方が聖都魔導学院の長だというのも、僕にとっては大事なのですが。
「ならば尚の事、そなたの召喚獣にも期待が膨らむのう」
「はは、姉の顔に泥を塗らない結果なら良いんですけど」
泥を塗らない結果?そんなものは関係ない。
実に願ってもない機会だ。これで星詠みのドルイドの眼がねに適えば、魔導学院へと入る近道になるだろう。
先ずはひとつ、僕は透明な召喚符を右手に持ち、胸の前に翳す。
「さあ、そなたの魔力を召喚符に流し込んでみよ。なあに、先程聖杯に手を入れたときの、魔力が巡る感覚を思い出せばよい」
「わかりました、やってみます」
目を閉じ、自分の呼吸の元、体の中心部の在処を掴む。
そこから左手へと徐々に意識を歩かせる。指先すら漏らさずに通過し、脇腹を経て左足へ。爪先から駆け上がり、臍に達したなら今度は右足へ。
右半身を尽く踏破し、召喚符を持つ右手指先へとようやく辿り着く。
流し込む、というよりも、詰め込む、が正しいのか。
親指と人差し指に挟まれた召喚符に力が篭もる。
汗が一筋、額から頬を伝った。この魔力を巡らせる行為は思いの外、神経をすり減らす。
聖杯の中に触れたときの感覚が残っていなければ、恐らく、集中力は途中で途切れていただろう。
「ふむ、中々筋が良い」
星詠みのドルイドの言葉を聞き、僕は両目を開いた。
喜ぶのも束の間、透明な召喚符から、鼓動が聞こえる。風の音でかき消されそうなくらい小さな小さな心音。
それが次第に大きくなるにつれて、同時に僕の耳には、緊張で張り裂けそうな自分の鼓動が聞こえ始めていた。両の耳を覆うふたつの音。段々と重なり合い、より一層激しさを増す。
喚ぶ、喚び出てくる。僕の、初めての召喚獣!
指先で召喚符が弾け飛んだように見えて、僕は左手で顔を覆った。
その左の手のひらが触れる、温かい、柔らかい感触。
もしかして!
「小さい、、」
手のひらの上できょろきょろと辺りを見回す赤い姿。ちんまりとした尻尾。
四つの手足に付いた爪が、動く度に僕の手のひらをくすぐる。
自分が地面から遥か上空にいると思ったのか、背中の翼を忙しなく羽ばたかせている。
その召喚獣の全身が、僕の左の手のひらにすっぽり納まっていた。
「火蜥蜴《サラマンダー》、その亜種、じゃな」
火蜥蜴、火の魔力を餌にする『下等召喚獣』。
民衆に広まっている、ごく一般的な召喚獣であり亜種も多い。その特徴の一つとして対魔術、対召喚獣の能力は、無いに等しい。
都市の治安維持を取り仕切る召喚師にとってその特徴は、致命的。
そんな、、それじゃあ、
足元が震えて倒れそうになる。額からの汗が止まらない。
体中に魔力を巡らせた反動、それだけではない。
「クロウ」
きっと僕は、これ以上ない程の呆然とした顔で立ち尽くしていたんだと思う。
星詠みのドルイドに名前を呼ばれたが、唇が震えて返事ができない。
その眼を見ることができない。
「落ち着いて聞いてほしい。そなたにとって、これ以上ない過酷な話かもしれん」
嫌だ。それ以上聞きたくない。
受け入れなくてはならない現実から逃げようと、全身に怖気がはしる。
僕は、姉さんみたいなドルイドに、、
「儂の手に掛かった数珠、ここに、そなたの洗礼名が記されておる筈であった」
ドルイドが何を話しているのかが分からない。
僕に話しかけている?
これ以上、僕に、何を?
「辛いとは思う。だが儂からは、そなたに掛けてやれる言葉が見つからぬ」
ドルイドの水晶の数珠は、一点の曇りもなく透き通っていた。
そこにあるはずの僕の洗礼名を、どれだけ目を凝らして探しても見つけられないくらいに。