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第五章 闇との戦い

 暗黒の扉から出たカンバルは、そのまま颯爽と歩いていた。

 壮麗(そうれい)な夕焼けの空は、一面黒雲に覆われて、辺りは暗がりに包まれていた。

 風が吹いている。

 樹々が低く(ささや)きあうように揺れ、何かから逃れて枯れ葉が飛ぶ。事実を知ったクライ魔がやはり、相当お怒りなさっているのだろう。

 カンバルは、かきあげた質の良い黒髪を風に揺れ動かしながら、黒い靴の音をこだました。

 そこへ突然にも、何かが続けざまに彼の身をかすめ、間もなく、硬い物へ突き刺さる音が鳴った。

 (いや)な予感がした。

 カンバルは反射的に音のした方を見やった。雑木林にある一本の木に、鋭く尖った二本のヤム(手裏剣の四つ尖った花びらの一つ分のようなもの。生前、鍛冶屋だったデミ族が開発した武器)が刺さっている。

 明らかに、この俺を狙ったに違いない。

 カンバルは、傍らの大鎌をひしと持ち直して、振り返った。

 五メートルほど先から、力強い眼力で手馴れた手つきで肩に槍を担いだ銀髪の青年が、近づいて来ている。それは、怒り、憎しみのみで形成された眼力であった。

 銀髪の青年、キバが叫んだ。


「月の剣は無事か!」


 火の城の図書室に保管されていた古い書(闇の国の歴史)によれば、闇の手に月の剣が渡れば、またたく間に、災いがもたらされ、陽もささぬ黒き空に覆い尽くされるだろう、とある。だから、この天候を見て、彼は不安になっていたのだろう。


「ああ、無事だ」カンバルは、立ち尽くしたまま言った。「ただ、クライ魔が怒り狂っているのさ。……それだけのことだよ」


 カンバルは卑劣な笑みを浮かべる。


「私も、いつかは、こんな日がおとずれることと思っていた」


 キバは足を進めながら、低く、それでも落ち着いた口調で言葉をつづけた。


「……あの夜、そなたの息の根を止めなかったことには」


《やはり……聞かれていたか》とカンバルは思った。

 ぎらつかせた瞳でこちらを眺めるカンバルの目の前へ近づいたキバは、隙もなく、槍を鋭い刃のように振り下ろした。しかし、相手の胸に到達する前に、反射的に、素早くカンバルが大鎌を振るい、キバの槍を受け止めた。

 キバはそのまま、


「小春の守護神がもし、私ではなかったら、そなたの手によって、とうの昔に彼女の命はなかった。だが、そなたの息の根を止めず、そなたを私は生かした」いったん言葉を切って、「なぜだか分かるか?」

 

 若い二人の青年の間に、しばし沈黙が漂っていた。双方は、睨み合っている。先に口を開いたのは、キバだった。


「今まで、一人の人間のために多くの者と戦っている内に、そなたのようにただの残酷な、ちっぽけな男の息の根を止めることが馬鹿馬鹿しいと思ったからだ!」


 カンバルが、一気にまるで強風のように力強く相手の槍を大鎌で押し払った。


「ちっぽけだと? 俺は邪神様に、忠誠を誓っているんだよ! 故のことをしたまでだ!」カンバルは言った。「邪神が月の剣が欲しいというのなら、そのためなら、どんな命も俺は奪う。たとえ、月の剣を手にするに相応しき者がいても、その者が最も邪神にとって大きな壁となっているならば、その壁を取り除こうと、試みたまでのこと!」


 カンバルが、鉄のように重たい大鎌を振り下ろすと、キバの槍が目にも止まらぬ速さでカンバルの大鎌を受け止めた。短い槍と大鎌が、唸りを上げながら激しく打ち合い、打ち合っている。二人の青年の髪がその衝撃の風で、揺れ動いていた。


「それに、当然ながら、邪神の(しもべ)となった死神が人を殺すことをためらってはいけない」


 カンバルはそう言って駆けていき、キバの(ふところ)にサッと移動した。

《しまった》

 キバは冷や汗をかいた。そう、槍は距離がないと扱いにくい。カンバルはそこを狙った。

 鋭い刃のように向けられた大鎌の先は、キバの脇腹へ見事突き刺さった。  

 キバは、初めてうめき声を漏らしていた。

 カンバルが大鎌を引き抜くと、キバの脇腹からどっと血が溢れ出し、衣服のその部位が朱に染まっていった。

 キバは槍を片手に、今一方の手を傷ついた脇腹に伸ばした。

 彼は、さも苦しそうに喉から直接出したような声で言った。


「そんな生き方をして辛くないのか?」ついで、しっかりと顔を上げ、強い眼力でカンバルを見すえた。「そなたは、(なさけ)を感じたことはないのか?」


 しかし、歯を強く噛み締めるほど、焼けるような痛みを感じていた身体は、すぐ持ち(こた)えらなくなり、みるみると眼力を失った。とろりと細まった瞳は蒼白になり、やがて彼は、力なく地面に倒れたこんでいった。


「情を感じるには、人の命を奪い過ぎた。……それだけだ」


 カンバルはそう言って、地面にくずおれた哀れなキバの姿を見下ろしながら、不敵な笑みを浮かべた。 

 意識は朦朧としている。

 キバは、それでも動きを止めることはなかった。気力を絞って、掌一つ分ほど先で転がった短い槍へ、血に塗れたその手を伸ばし、(つか)んだ。たちまち、全身に力がみなぎってきた。眼力が火のように、みるみる強まっていく。

 気を取り直したキバは、素早く立ち上がり、カンバルに突進した。疾風のような勢いでキバの槍が大鎌を跳ねあげ、八の字を描き唸りを上げて回転する。大きな鉄がはるか天から落とされたような、鋭い響きが地面に轟いた。

 カンバルは、突然の想定外の出来事に呆然としながら二、三歩ほど後ずさっていた。

 そうしているうちに、だんだんとキバは迫っている。

 このままでは、やられてしまう事を悟ったカンバルは、素早く踵を返し、水の国の方角(北部)へ向かい、周囲の景色が黒い影にみえるほどはやく、()け走っていった。


「……変わらないな」と、キバが呟いた。


 しかし、このまま放っておく理由などはなかった。

 朝晩働くデミ族の者のために、仕事を手伝ってやったあと、闇の国(火の国から南西部に位置する)へ戻ろうと、していたときのことだった。暗黒の扉に近づくにつれて、女の――おぞましきクライ魔の轟き声が聞こえてきたのである。

 その内容、クライ魔とカンバルの密談はそこで一からすべてに至るまで聞いた。邪神に忠実なカンバルが、選ばれし者(小春)の見方につく彼自身を不幸に落とそうと企んでいることは、密談の内容を聞けばありありと分かるものであった。

 キバは、水の国へ向かい、ゆっくりと足を進めだした。

 その気持ちは、憎しみを晴らす為ではない。七年前に、カンバルから小春を守ろうとしていたときの忠実な気持ちでもない。ただ嫌いだという理由でもなく、警察が当たり前のように、悪い者を捕まえることと同じく、目の前で起きている悪事を、客観的に捉えた者が行動しようと試みる、その気持ちでもない。

 この悪天候……ただ単純に、何かこの身に、クライ魔が苦しみを与えるに越したことはないのだ。

 カンバルには、一つ、あと一つ、聞きたいことがあるのみだった。

《わたしに与えられる、罰の実行日時をききたい》

 それだけだ。

 やがて、力強い足取りで歩き続けていると、地面は浅い水に滴りだし、黒い背中が目に見えてきた。槍が唸りを上げている。キバは反射的にそこへ突進した。しかし同時に、カンバルが身軽に体の向きをこちらへ向け、腹に近づく槍の鋭い先から、身軽に右へよけた。

 カンバルがよけた槍が左の脇の下に入るや否や、キバが槍をねじるように回転させた。


「この腕が巻き込まれ……外れ」と、カンバルが(おのの)く。


 関節を決められたカンバルは円を描いて背中から地面に叩きつけられた。


「腕の骨が……」


 喉を締め付けられたような彼のうめき声を聞いたキバが、確認するかのように近づいた。

 だが、カンバルは傷ついた腕をもろともせず、腰にはいていた短剣を抜きとり、下から風のように短剣を投げ飛ばした。短剣は見事キバの弱まった脇腹に突き刺さった。キバの手から槍が滑り落ち、浅い水面に水しぶきが上がった。

 キバは激しい痛みに耐え、痙攣する手を短剣に伸ばし、唸り声と共にぬき取った。血に(まみ)れた短剣を地面に捨てると、身の毛もよだつほど鋭い眼力で、すでに立ち上がっていたカンバルを見すえた。

 キバは、目にも止まらぬ速さで自分の槍を地面から掴みとり、横から残酷な死神カンバルのこめかみを強打した。和太鼓のように鋭い音が鳴っている。この時、自分の腕の血管が浮き出ているような気さえした。カンバルはぐらつき、背中から地面に落ちた。

 彼は動かなかった。

 この大格闘は、長いように感じるが、実際は短かった。

 キバは、全身力を使ったような感じさえしていたため、それだけの吐き息が何度も出た。だが、すぐに地面にしゃがみ、槍を脇に置いた。

 意識を失ったカンバルへ視線を移しながら、思考を巡らせていた。やり過ぎだったのか、それとも、こいつの腕が前より落ちただけのことか、というものである。しかし、(おおむ)ねそんなことを気にしている場合ではないことも分かっていた。

 キバはカンバルの頬を平手でパシパシと叩いて、肩をゆさぶった。


「おい、カンバル! しっかりしろ!」


 カンバルは、か細い声で(うな)って、わずかに目を開けた。

 

「私に与えられる、罰の実行日時はいつだ」


 それが一番手っ取り早い。彼が完全に力尽きる前に聞き出さなくてはならない。

 カンバルは薄らと開いた赤紫色の瞳を懸命に彼に向けた。


「……なぜ、そんなことが起きると思うんだ、選ばれし者の守護神よ」掠れた声だった。


「最後の最後まで、(とぼ)けているつもりならば、仕方あるまい」キバは囁いた。「だが、お前はそんな男ではないはずだ。もう一度聞く。私に与えられる、罰の実行日時はいつだ」


 カンバルは、気違いのように笑い声を上げた。それが収まったころ、彼は口を開いた。


「……その予見通りだ。キバ、クライ魔はお前を死ぬまで、深い闇に誘おうとしていることは、この天候をみれば言うまでもないだろう。よく聞け、夜明けだ。夜明けに、お前の罰は実行に移る」カンバルのその言葉に、空気が緊迫した。

 キバは、いささか石像のように固まっていたが、直ぐに論理思考に取り直した。

 カンバルの蒼白な顔を見下ろすその瞳は、恐怖の念と強い力に満ちている。彼は立ち上がった。血に塗れた衣服のまま、おぼつかぬ足取りでその場から立ち去った。

 しかし、カンバルの姿も気配すらも背後になくなった頃、ついに彼の身体はくず折れて、浅い水面の上に両膝をついた。

 それは、体力的な問題ではない。恐怖心の問題でもない。絶望的な状況ゆえの問題でさえない。

 ただ、悔しい。それだけの心情だった。

 いつの間に、瞼の底から熱湯の水が溢れ出していた。結局のところ、私には何も出来ないのか? 出来ることなど、初めから何一つ無かったのだろうか? それとも、まだ神界に生きていた頃から、小春の守護を任命されたその瞬間から、既に私には何も出来ないという運命を全能神が確定していたのだろうか?

 彼はひたすら頭の中で、自問自答を繰り返し、涙の川を流し続けていた。

 ふと、水面に目を向けると、数え切れぬほど多くのルークス(光の精霊)の姿が移り込んでいるのが見えた。

 彼ら、彼女らは、神秘の光を放ちながら一人の哀れな青年を癒そうと懸命に歌を歌っていた。

 彼らの歌うソプラノは、包み込まれるように優しい。確かに美しい声だった。しかし今のキバにはそんな癒しの歌も、耳には届かなかった。

 彼はいささか顔を上げると、一匹のルークスを強い眼力で見すえた。その目は、放っておけとでも言っているようにも、そなたらの力は必要ないと言っているようにも、見取ることができる。

 ルークスは怯えるように間もなく光を失い、今や黒檀のように黒く塗り立てられている。別の生き物のようだった。力尽きたルークスは水の中へ緩やかに落下すると、灰のような粉となって、跡形もなく消えた。

 怯えだした他のルークスの群れは、黒い風のように何処かへと去っていった。

 美しい音は空虚に消え去り、辺りはしんと静まり返っている。

 その一方で彼は俯いて、涙をたゆまず流し続けていた。胸が、なにか硬い物でつつかれたように傷んでいる。

 キバの胸に、それでも思い出が泉のように溢れてきた。

 ……全てのはじまりはあの日の夕方だったな。



 あの年、神界歴八〇八九年は冬の残党が根づよく勢力をはり、春の誕生は遅かった。だが、ひとたび生まれおちると、春は急速に成長して冬をおいはらい、神界首都マリルダの市街を花の群で飾りたてた。さらに季節はうつろって、花々が凋落(ちょうらく)のきざしをみせはじめると、密度の濃い新緑が神々の視界を塗りかえていった。

 彼の人生を、根元から大きくゆるがすことになったのはそんな時期である。

 キバは、神界の最強権力(コントロール)を握るジン王宮の官職についていた。神界首都マリルダのなかで、彼の武力の高さを知らぬ者はひとりといない。彼の噂はこの年の春、ついに護国五大神様(ごこくごだいしんさま)の元まで届くようになっていた。

北護神(きたごしん)》《南護神(なんごしん)》《東護神(ひがしごしん)》《西護神(にしごしん)》と、全ての中心にたつ《宝護神(たからごしん)》の全員が揃っている状態を【護国五大神】と呼ぶのである。

 神界の東西南北、それぞれの地域の守護をしているのが《北護神》《南護神》《東護神》《西護神》で、その四神を統括しているのが、《宝護神》である。

 今年の春、宝護神を中心に護国五大神は、議論を繰りひろげていた。


「この時期の丁度来年だ、間に合わん」と、西護神が焦っていう。「月の剣を与えるに相応しい者が丁度来年に誕生するとなると……」


「まあ。西護神よ、そう焦るな。選ばれし者の守護神として、わたしがぜひ選考したい者がひとりおる」宝護神は穏やかにいった。


 すると、四神は一斉に宝護神に身をよせて聞く耳をたてはじめた。


「……その青年は、神界の最強権力を握るジン王宮の宮仕えだ。武力はそこらの神とは比べものにならないという。人となりも十分。わたしはその者を我々の使者としてむかえたい」


 北護神は心当たりがあるように、


「まさか、その青年とはキバ殿のことか?」と言った。


 彼を知るのはその筈で、ジン王宮は北護神が守護する神界の北部に位置していたのだ。

 宝護神は、黙って深くうなずいた。


 陽射しの強い初夏の太陽が沈みかけたころ、キバは、一匹の白馬の背中を平手でなでていた。馬小屋のなかだ。

 

「……ようやく、ヨーテ国との(いくさ)も終わったんだ。しばらく、そなたは休んでいろ」キバは白馬に囁いた。「それに、私もようやく自由になれたのだ。……今日くらいは、そなたの側に付き添うことも悪くはない」


 と……穏やかだった馬小屋の中へ、足音がこだました。

 キバが振り返ると、高貴な衣服に身を包んだ少年が入口にたたずんでいた。その身のこなしからすると北護神の臣下だろう。護国五大神の臣下は皆、分厚く硬い、さも動きにくそうな高貴な衣服を身に付けているからだ。

 目を合わせるや、臣下の少年がキバの元に駆け寄って、


「北護神さまからのお手紙が届いております。今すぐキバ殿に、これを読んで欲しいとのこと」


早口にそう言うと、馬小屋を慌てるように出て行った。若者の臣下ゆえに、与えられる役割も多いのだろう。

 キバは渡されるや、手紙の封印を破りその場で読みはじめた。

 手紙の文字を見下ろす表情は呆然としていたが、すぐに気を取り直し、手紙を懐にしまいながら彼もいそいで馬小屋を後にした。

 それでも、槍は念には念をと傍らにもったままである。いつでも、彼はそうだった。


 何段あるのか数える気さえ起こらない長い階段を(なか)以上昇(のぼ)ったキバは、風を感じてふと振り返った。

 風の吹いてきた方を追うように視線を流したので、自然と見据える先は空となる。

 ほんの数時間前までの沈みかけていた太陽が嘘に思えるほどに、全面の空をすでに柑子色に塗り替えていた。

 この時期にしては日が暮れるのが早い。結局、あまりナンシー(白馬)に付き添ってやる時間がなかったというわけだ。


「キバ殿!」


 思考を(さえぎ)るように段上から名を呼ばれ仕方なく見上げると、階段の最上で高貴な装いをした先ほどの少年臣下がこちらを見下ろしていた。


「お待ちしておりました。護国五大神様(ごこくごだいしんさま)がお待ちです!」


 張り上げるような声が、言外に早くと()き立てている。

 まだ双方の間にそれなりの距離があることに気を使い、聞き取りやすいようにと声を大きくしているのだろうが、(さえぎ)る物のないこの場所ではその努力は不必要なものだと、気付いてほしい。

 そう相手に告げるのも面倒だが、また頭に響く声を掛けられるのも願い下げなので、キバは残った階段を(のぼ)り始める。

 最上まで(のぼ)り切ると先程声を掛けてきた北護神の臣下が出迎えるように駆け寄ってきたが、キバは彼を一瞥(いちべつ)することもなく、豪奢(ごうしゃ)な建物に目を据えた。


「……あの、キバ殿?」


 ここまで来ておきながらなかなか先に進もうとしないキバに、遠慮がちに、だが不番そうな声が掛けられる。


「護国五大神様が」


 続けられるはずの言葉は、キバの視線により(さえぎ)られた。

 ようやく奥にむけて足を踏み出したキバに、少年臣下は軽く頭を下げて無言で見送ることにする。

 

 両側を重厚な壁に守られた回路を通り、キバは目的の場所へと向かっていた。

 五メートルも進まぬところで、キバの歩みが止まる。

 外の階段があれだけ長く、建物がこれほど大きく造られているにしては、意外にも短すぎる回路の突き当たり。

 目の前の過剰と言うより異常と言った方が正しく思えるほど重々しい扉が、キバの目的の場所だった。

 この先の室内が、護国五大神同士が話し合ったり、議論をしたりする場所なのである。

 手紙には、《我ら護国五大神は、そなたとの対面を今すぐ願う》と、必要最低限のことしか書かれていなかった。

 それは素っ気ないからではない。恐らく、直接話さなくてはならないほど重たい事情なのだろう。

 扉に手を添えたキバは意識してゆっくりと息を吸い、それと同じ量を吐き出す。

 護国五大神と、初めて対面する緊張感だった。

 心して、キバは扉に添えた手に力を込める。


「参上致しました。ご存知の通り、私は神界北部ジン王宮の官職につく、キバと申します」


 護国五大神はキバの入室時、椅子に腰を下ろした姿勢のまま迎えた。

 扉はキバの背後で自然と閉じられた。

 この部屋には内心感嘆させられる。壁一つは全面ステンドグラスのパネルになっている。石でできた床や壁は厚さ三一 センチメートルもある。

 部屋で圧倒的に場所を占めているのは長円形の広いテーブルで、そのテーブルを取り囲むように置かれた椅子に護国五大神が座っていた。彼は、誰かの指示を受ける前に自己判断をして、一つ空いている椅子に腰を下ろした。そして椅子に槍を立て掛けるや、着席している護国五大神を見た。

《皆、老いぼればかりだ》と、キバは思った。しかし、その標語は(こく)に過ぎるかもしれない。最年長の宝護神でも未だ百歳には達しておらず、最年少の南護神は三二歳でしかなかった。キバの方が若すぎるのである。


「さて、時間もないので単刀直入に話すが、今回、そなたをお呼び致したのは深い訳があります」


 一同を代表して宝護神が述べた。特徴のない中年男だが、キバが産まれる遥か以前から四神を統括し、(いくさ)にも人間界にも豊富な知識の経験を持っている。


「影神界に送られた月の剣を手にするに選ばれし者が来年、来年に人間界で誕生されます。誕生したその瞬間、様々な者がその者の命を狙うことでしょう」


「根拠は?」キバが聞いた。

 

「月の剣は幸福そのものです。過去、月の剣を狙う者同士の戦が起きたことをご存知ですか? キバ殿が産まれる遥か以前のことです。ゆえに、選ばれし者が誰なのか知れ渡ればその瞬間、選ばれし者の命を狙う者が確実に現れるということです。これは、一筋縄では解決しきれぬ問題であります」宝護神は丁寧に答えた。


 キバはゆっくりため息をついて、「それと私に何の関係があると?」


「キバ殿は、神界の最高権力を握るジン王宮の宮仕えであり、並以上の軍事的才がある。噂では、槍やら剣やら弓やら、どんな武器の扱いにも優れているそうではありませんか」宝護神は、褒め立てるように両腕を広げた。「そなたの圧倒的な力を見込み、選ばれし者の守護神をそなたに引き受けてもらいたい!」


「……話にならない。宮仕えが、そなたらの使人となり人間の守護神に移れと申し出ですか?」


 キバの言葉に宝護神は肩の力をぬくや、懐から布地の袋を取りだしてテーブルの上に落とした。


「これはその褒美じゃ、受け取れ」


 袋から覗いているのは、三千と輝く金貨であった。金を出せば何でも解決するだろうという考えだろうが、キバはこれを人間並みの知能でしかないと思っている。


「もし……受け取らなかったら?」キバが護国五大神らをにらんで尋ねた。「このまま、そなたたちの願いを引き受けなかったら、私をどうするつもりだ?」


「それは、どういう意味で?」ここで初めて北護神が口を開いた。


「無礼を(かえり)みず言わせていただければ、これはあまりに卑怯な仕打ちだ」キバは北護神をにらんで言った。「全能神の選んだ者を守護に引き受けるということは、この神界すべてを相手にすることになる。もし、そなた達の願いを引き受けなければ、そう……私の後ろに二人、宝護神様の後ろにも二人潜んでいる者達の相手をせねばならない。初めから、私が断れば殺すおつもりだったことは明白です」


 宝護神は目を見開いて、


「そなた……気づいておったのか。確かに我らは卑怯だな。だが、キバよ」


「はい」キバは、宝護神を眺めながら返事をする。


「我らにも他に選ぶ道はない。ここで死ぬか? それとも、選ばれし者を守り抜き、生きるか?」と、彼の問いは深刻で、その眼は、烱々(けいけい)として鋭い。

 

 キバは、短く笑った。


「……ここで死ぬのを選ぶはずがない。私は宮仕えです。今や元、ですがね。その者は引き受けます」


 そう言うと、キバは腰をあげて金貨の入った布袋を懐にしまい、椅子に立て掛けていた槍を手早く肩にかついだ。

 それを目にした護国五大神は、安堵のため息をついた。彼らは、扉がとじて青年の背中が見えなくなるまで見送った。

 そう、護国五大神との対面に足を進めた時点で、すでに彼は宮仕えでは、なくなったのである。

 一年の星霜(せいそう)が過ぎた浅春に、月の剣を手にするに選ばれし者が誕生し、キバは人間界、神界を行き来するほど忙しくなった。護国五大神(ごこくごだいしん)の想定どおりに、月の剣を欲しいままにする者たちが選ばれし者、小春の命を狙っていたからである。誰にも引けを取らぬほどの武力をもつ彼に、かなうものはやはり、いなかった。

 それから、いつか一〇年の星霜が過ぎていた。

 キバは、がやがやと沢山な人が行き交う神界首都マリルダの市街を淡々と歩いていた。昼食をとるのには、この辺りの料理店が一番食物(しょくもつ)にこくがあるのである。

 東方から歩くキバの横を、西方から歩くふたりの男が通り過ぎた。どちらも特徴のない中年男だが、一方は黒い髭が立派に生えていた。


 髭のない方の男が、牡丹(ぼたん)のような口を開いた。「邪神が、しもべを影神界(かげしんかい)に送ったんだとよ。なんでも、月の剣を狙っているっていう陰謀があるらしいぜ」


 キバは思わず、足を止めた。

 黒い髭の男が呆れるように肩をすくめると、その後は、ひたすら無言でふたりとも歩きつづけていた。

 しかし髭のない方の男が、背後から強い力に腕を取られて、凍ったように足の動きが止まった。黒い髭の男も思わず同時に止まっていた。ふたりが反射的に背後を振り向くと、若い青年がたっていた。

 シロカネ(銀)の髪、白い肌、どの角度から見ても整い過ぎた顔面は、今や鋭くなり変わっていた。

 キバは、男の腕をがっつり掴んだまま、「その話、じっくり聞かせてもらおうか」といった。


「おれは、ただ噂を聞いたまででして。これ以上のことは……」

 

「……そうか、悪かった」


 キバの表情が緩やかになると同時に、掴んでいた男の腕を離した。胸に釘を打たれたような気持ちになる。

 噂が本当なら、深刻な問題だった。少なくとも、選ばれし者とその守護を背負う者にとっては。

 二人の男が見えなくなったころ、これまで石像のように止まっていた足を動かした。方向は西ではなく北だった。ジン王宮のさらに北へ通ると、全能神の住まう場所につく。月の剣を手にするにふさわしい者が小春だと選択をした、他ならぬ全能神である。

 ある思いつきでしか無かったが、それでも小春の守護神として行動すべきことはしたかった。


 石で出来た長すぎる階段を登りきった先には、比較的広い石造りの床がどこまでも広がっていた。

 歩く度、ところどころに大岩がある。通り過ぎて行くとやがて、彫刻のように彫られた顔の付いた、目にも奪われるほど奇怪な大岩があった。全能神の片割れである。

 キバは大岩の前に、(ひざまず)いた。


「全知全能神さま。僭越(せんえつ)ながら、(わたくし)から頼みがあり、この地へ参りました」


 大岩に彫られた重たい(くち)は、細やかなひびを入れながら開かれた。


「汝、その内を話してたもれ」


 その低い声は、床を響かせるように大きかった。まるでバスドラムのようだ。


「はい。先ほど、神界首都マリルダの市街で、すれ違った百姓から小耳に挟んだ噂話が、放っておいて良い話ごととは思えませんでした。……邪神が月の剣を手にすべく、しもべを影神界に送った、との噂。これは、我が守護神として見過ごすことの出来ないこと。私からの頼みはただひとつ、私を、影神界に行かせてください!」


「ならぬ」


 全能神は簡潔にそう答えた。


 では、なぜだ、とでも言うような眼で、彼は全能神を無言で見つめていた。

 その表情に圧倒されたのか、全能神は口を開いた。


「影神界は、月の剣を守る者たちが生きる場所。そして、月の剣が選ばれし者の手に渡れば、彼らの存在は無用となる。その、影神界に行くということは、お主も彼らと同じ立場になるのだぞ! 彼らとともに、永久に、影神界に留まり、終期を迎えたいと言うのか!」


「それは分かっています! ……しかし、守らなければならない月の剣が、邪神の手に渡れば元も子もありません。だから、邪神の陰謀を防ぐために、私が影神界へ向かいたいと申しているのです!」


「では、お主は(あるじ)の一生を見届ける事は出来なくなるのだぞ! お主は、(あるじ)が月の剣を手にした(のち)を見守り続けることが出来なくなるのだぞ! それでもよいというのか!」


 キバは、喉の奥で笑った。そして妙に落ち着きがあった。


「……その必要はない。月の剣を手にするということは、幸福を手にするも同じ。すでに、主にとって、私の力はお役御免となります。だから、それまでの間、彼女を守護する身として出来ることはただひとつなのです。月の剣を確実に主に渡るよう、邪神の野望を止めることにある、と。……違いますか」

 

 眉間に深い皺を作っていた全能神の表情は、彼の言葉と気持ちに圧倒されたのか、無表情に戻っていった。  


「……では、お主の心の準備次第、お主を影神界へ送ろう」


「ありがとうございます。私は一度、(あるじ)の元へ寄り、それから、ここへ戻ることにします」


 キバは、うやうやしく一礼すると、全能神の片割れのほうへ、後ろ姿を見せて、寛々(かんかん)と歩いてゆく。

 天降(あめくだ)り人間界へ入るや、クラリネットのようなすすり泣きが聞こえてきた。

《また、酷い目にあったのだろう》

 わずか一〇歳にして、その有り様はあまりに哀れであった。笑顔になれ、そう願う度、彼は小春がすぐにでも月の剣を手にすれば、と思うのであった。

 畳の床に足を踏み入れたとき、彼は、息が止まった。

 小春の小さな両手に握られたハサミは、自らの胸に突きつけられていた。

 だが、思わず息が止まったのは、それが原因ではなく、今、小春をそういった気持ちに陥れている正体の方であった。

《……死神か》

 キバは部屋の入口の方へ後ずさりした。のみならずそれと同時に、顔を布で覆った。

 そして、ある思考が過ぎった。もう少し、用心してあの地へ足を踏み入れるべきであったのだ。世の中が歪みだした今、邪神のしもべは選ばれし者が誰であるか分かるものならば、殺しに行くに違いなかった。幾つもあった大岩のどこかに、身を隠して我々の話を聞いていたのだとすれば……。私が何者で、そして、その小春がどういった人材なのか、それを知ったに違いない。《しくじった》と彼は思った。

 銀色に鋭く光った大鎌の影は、小春の肩口に振り落とそうとゆらゆら動き出した。

 だが、止まった。

 彼の気配に感ずいた、残酷な死神――カンバルが、おもむろに気配のする方へ顔を向けたのである。赤紫色の瞳が怪しくぎらついていた。

 そして、キバの姿を目にするや疾風のように走り、逃げ出した。

 それを食い止めるように、カンバルの目の前へ、槍が横向きに突き出された。

 キバは横向きにして行く手を阻んだその短い槍で、相手の額を強打した。カンバルは後ろに崩れ、床に落ちた。

 カンバルの後頭部は、床に落としたスイカが砕けるのと同等の痛みが走っている。だが、血はさほど出ていない。 

 キバは、素顔を隠していた布を解くや、カンバルに馬乗りし、槍の先端を彼の喉に突きつけた。腕の血管が脈打っているのが分かるほど、力が入っている。

 カンバルは息が止まった。眼前には、夜目にも目立つシロカネ(銀)の髪をした青年が、睨んだ眼で自分を見下ろしていた。


「動くと、槍がそなたを貫く」キバは、そう言って彼を脅した。


 カンバルは絶叫の汗を流し、絶叫の吐き息を漏らしているが、声は絶叫どころか、無言であった。


「人の守護神を甘く見るな!」槍を突きつけたまま、キバが叫んだ。「簡単に、彼女は殺せない。簡単に、邪神の手に月の剣が渡ると思うな!」 


 キバは(あら)く息をついたが、すぐ落ち着きを取り戻し、


「……この私の言葉を胸に刻み込んでおくんだ、死神よ」


 と言って、槍を彼の首から離した。

 その瞬間、カンバルは起き上がるのが早いか、窓の外へ出て、闇夜へ溶け込み疾走した。

 カーテンのレースがゆらゆら揺れる。

 また、クラリネットのようなすすり泣きが聞こえてきた。いや、他の升目(ますめ)に意識を伸ばし、耳に入らなかっただけだろう。

 力なく倒れこみ、ひたすらに涙を流し続けている少女の姿を見下ろしながら、キバは足を進め、その少女の前に跪いた。


 そして腹を決めたような声色で、


「……幾年後に、また会おう」と言って、素早く腰を上げ、窓の外へ姿を眩ませた。


 またしても、カーテンのレースがゆらゆら揺れる他には、静寂とすすり泣きばかりが部屋の中に漂っているのであった。


 彼は小春の守護神として、小春にこれ以上の苦労をさせないためにも、影神界へ行くことを決意したが、その為の別れなら、それは素っ気ない別れ方だったかも知れない。だが、それで良いと、彼は思っていた。

 人間という者に、神の存在が見えることなど決して叶わぬこと。

 己がいくら感情的になっても、その思いや、気持ちをいくら伝えようとしても、それが伝わることは決して叶わない。

 人間の守護を引き受けた神は皆、そんな当たり前のことを知っていながら、感情的になる。彼にとっては、その取るに足らぬことをしなかっただけでしか無かった。

 住む場所も、地位も違う人間という生き物を守護することは、実に孤独な仕事である。

 彼は、それを知った上で、不服も言わずその者に忠誠を誓い、守り戦って来たのである。

 キバは複雑な心情のまま、石造りの床を歩いていた。彼の靴音が石に響いている。幾つもの大岩を横切り、全能神の片割れの前へ戻ると、再び、跪いた。しかし、今回は非常に厳威さがある。


「……心構えは、出来ています」


 全能神の片割れの(くち)が再び開かれることはなく、無言の代わり、あまりにも強い眼差しで彼を見つめている。キバは心の中でパニックを起こしていた。

 心を落ち着かせる間もなく、彼の周囲に地鳴りが轟き始めた。のみならずそれと同時に、石で造られた地面は泥のように溶けていき、渦巻いた。

 何事かと思ったのも束の間、キバは急に意識が遠のきバタッと倒れてしまった。まるで、開かずの扉に閉ざされたような感覚である。

 石造りの地面は、やがて水溜りのように浅い水面に変化した。

 死んだように眠り込むキバ。

 彼が横たわるなか、何かの蹄がこだます音は、段々と近ずき、やがてひとつの人影が現れた。


 偶然にも水の国へ通りかかった、赤魔王は、鎧に身を包み、目元にできた黒い傷は、まだ、小さな切り傷程度でしか無かった。

 赤魔は馬の脚を止めさせた。気を失った青年が眼下で倒れ込んでいるのに、放っておく者などどこにいるものか。いや、いるな。水魔ほど身勝手で、そして死を恐れている女人なら、己の国で倒れているよそ者をそう簡単には、歓迎しないだろう。

 赤魔は馬の背から降り、青年の前にしゃがみ込むと、引き締まった片腕で楽に青年を抱えながら、再び馬の背に跨った。

 ついで、東の方角へ馬首を向けると、彼は黒馬を走らせた。


 焼けつくような喉の(かわ)きで目が覚めた。

 かすれたうめきを漏らしながら目を開けようとすると、目やにが()がれる音がした。暖かい布団に手の甲が触れている。

 昨夜、決意して、今は影神界に私はいるはずだ。

《昨夜……?》

 あれは、本当に、昨夜だったのだろうか。

 どうも時の感覚が定かに感じられない。自分がどのくらい眠っていたのか、わからないのだ。ひどく長い夢を見ていたような気もするが、空白の中に落ち込んでいたような、奇妙に頼りない感じもしていた。

《腹が減った……》

 いや、腹が減るなどという生易しい感覚ではなかった。腹の内側から、とろ火で炙られているような激しい飢えが、刻一刻とひどくなってきている。小刻みに手が震えていた。早く何か食わねば、気を失うかもしれない。

 自分の槍が立て掛けている壁の方を向いていた身体を反転させ、目に飛び込んできた光景に、キバは顔色を変えた。

 人影がちらりと動くのが見えた。その者は、背丈が高く、黒い鎧に身を包んでいた。そういう武装者は大抵、己の国のために戦へ赴く騎士か歩兵である。明らかにどこか怪しい。間違えはない。

 宮使えの本能が唸り始め、立ち上がり槍を手に持つと、これもまた宮使えの本能的なものなのか、人影のある方向へ突進した。

 鋭い勢いで、槍の先端を相手の厚い胸元へ向けた。腕どころか眼にまで、自然と力が入っている感覚がする。

 その男は、正統な顔立ちで、美男といってもよかったが、片目には刺青のような黒い傷があり、絹と宝石の礼服よりはるかに甲冑姿が似あうであろう。 

 背高い男はキバを見下ろすや、眉間に深いしわを作って、


「王に刃物を向けるとはどういう了見だ!」と、叫んだ。


 その言葉に顔色を変えたキバは、肩の力をぬいて、槍を赤魔王の胸元から離した。

 宮使えだった頃に自然とついた癖がまたしても失敗を生んでしまったのだ。こんなことは、一度や二度ではなかった。守護神となり、すでに敵ではなくなった異国の武人に何度もこのようなことをした覚えが、赤面するほどはっきりとあった。

 キバはその場に跪いて、口を開いた。


「これは、失礼しました。私は月の剣を手にするに選ばれし人間の守護神として仕えていた、キバという者です。確実に、主へ月の剣が渡るよう、この地へまいった次第でございます」


「そういう訳だったか」


 赤魔は、安堵が混じった穏やかな表情を見せて、言った。

 直後、キバの腹がぐぐっと音を立てた。

 赤魔は陽気に笑った。


「無理もない。お前さんは、一週間も眠りについていたからな。使人に支度をさせてあったから、そろそろ昼飯が食卓に並んでいる頃だろう」


 キバは無言のまま、一礼して感謝を伝えた。


 蝋燭の仄かな明かりに灯された食卓には、ライ麦のパンや粥が用意されていた。

 キバは夢中で食べた。食べ物がお腹に入ると、じんわりと身体が温かくなった。これほど、食える物がある有り難みを感じたことはない。

 人心地つくと、自分がなにをしようとしていたのかを思い出した。影神界に到着した後は、闇の国へ向かうつもりでいたのである。

 すると向かえ側に座り、自分が食事する姿を見守っていた赤魔へ、視線を向けた。


「赤魔さま。短い期間でしたが、ありがとうございます。私は、直ぐにでも闇の国へ立たなくてはいけませんので」  


 赤魔は自分の耳を疑った。


「何だって? 一体、何のためにそんな危険な国へ向おうとするのだ。闇の国が何を企んでいるのか、お前は知っているのか」


「はい。だから向かうのです」キバは言った。「私は、選ばれし者に忠誠を誓う者です。闇へ、月の剣を渡すわけにはいかない。邪神の手に、月の剣を渡らせるわけにはいかないのです。ですが、私が闇の国へ溶け込めば、彼らの途方もない陰謀のお防ぎも出来ましょう」


 すると、赤魔は顔色を変えた。眉間に深い皺をつくっている。


「ならん」赤魔はそう言った。


「どうして」直座にキバが聞いた。


「確かにある程度防ぐことは出来よう。だが、万一のことを考えたか?」

 キバは、口を開かずにただ真剣な眼差しで赤魔を見つめた。


「闇の国へ溶け込むということは、死神のふりをして過ごすということだ。万一、お前の本当の正体を、クライ魔や他の死神に知られたら、奴らが何をするかは目に見えている。そう……騙した罰として、最悪の場合は殺されることもあろう。それでも、その国へ行きたいって言うなら、我輩が、お前の(のち)の責任を負うつもりはないぞ!」


「かまいません」キバが言った。「選ばれし者を守り、そして、月の剣を確実に彼女へ渡るよう尽くすのが我が守護神の務め。そのためなら、己の命など!」


「本当に、ゆくつもりなのか」


 と赤魔が尋ねると、キバは頷いた。

 改めて決意したキバは、席を立ち、部屋を横切ると、外へつづく樫の扉を押した。


「だが」赤魔が警告する声は、背後から聞こえてきた。「そこには、お前の主を殺そうとした男もいるはずだ。実は、お前が眠りにつく間に、我がしもべ(麒麟)から情報が入ってな。その男には、気をつけた方がいい。邪神のためなら、どんな命も容赦しないだろう」 


 そして彼は、幾日前のことを思い返した。赤魔様は、あの夜の、卑怯な死神のことを言っているのだろう。


「ええ、分かっていますとも」


 キバは、それだけを言って、外へ足を踏み入れた。もう、後戻りは出来ないのだ。

 彼の背中が丁度外へ出ると、樫の扉は自然と閉ざされた。



 今でも健在の引き締まった胴体は、ずきずきと痛み、気付けば、瞼に痛みが走っていた。それでも、涙は、川のように止まることがないことが不思議だった。


「また泣き虫こいているのか、若造よ」声が聞こえた。


 顔を上げると、それは赤魔だった。キバは驚いた。最近の様子を見ると、かなり体調を崩されていたはずだったからだ。

 赤魔は何も言わずに、引き締まった腕でキバを立ち上がらせると、そのまま、キバに肩を貸して歩き出した。まるで、息子を心配する父親のようだった。 

 赤魔にもたれながらキバが言った。


「……お身体の調子が悪かったのでは」


「なあに、こんなくらい」と言って、赤魔は笑みを浮かべた。


 そのまま城内へ進み、部屋へ入ると、赤魔はテーブルの前に設置されていた樫の椅子を引いて、キバを座らせた。ついで、部屋を横切り、小棚からティーカップを取り出して、お茶を注ぎながら言った。


「人心地ついてからで構わないから、事情を話しなさい」


 赤魔は、キバの後方からテーブルの上にティーカップを置くと、キバの向かえ側に設置された樫の椅子に腰を下ろした。さも身体が重たそうだ。やはり具合は良くなかったのだ。

 キバの瞳は蒼白で、唇は乾ききりっている。しかし、涙はやっと止まった。俯いたままで、一向に顔を上げる気配はないが、乾いた唇をぱきぱきいわせながら、口を開いた。


「……私が、あの子の守護神であることがばれたのです。私は罰を受けることになったのです。ですが、このことを、あの子には、小春には、言わないでください」


 いささか沈黙が漂った(のち)、再び、抑えきらなくなった涙が溢れてきて、キバは両手の平を両眼に覆った。  


「カンバルが」キバは、たまらず震えた声で叫んだ。いつものキバとはまったく似つかわしくない、激烈きわまる口調だった。「……カンバルが言いやがったんだ! クライ魔に!」


「……そうだったか」赤魔が言った。「しかし、影神界へ来る以前からお前は分かっていたのではないのか? 何故、その夜、息の根を止めなかった?」  


「鹿馬鹿しくなったのです」キバは答えた。「長らく、あの子の守護を背負っていると、あのような男の息の根を止めることが鹿馬鹿しいと思うようになったのです」

  

 赤魔は、キバがその事実を明かしながらも涙を流し続けている姿を見て、言葉を失った。


「処刑かも分かりませんが、罰の実行日時は、夜明け。私は今直ぐにでもここから去らねばなりません。小春の(のち)は赤魔さま、そしてサンタカに委ねます」  


 キバは、そう言うと腰を上げ、部屋を横切り外へ通じる扉を押し開けた。


「待て、早まるな。一度小春に会いに行ってからでも遅くはあるまい」


 急き立てる赤魔の声が聞こえた。


「私は、罪を犯した身。それも初めから承知の上でした。私は既に、彼女に会えるような身ではなくなったのです」 


 キバは扉から目を離さぬまま、そう説得すると、決意とともに、扉の外へ足を踏み入れて行った。



 影神界へきて、一体、何日が立ったことだろう。だが、それよりも彼女が心配していることは、何日もキバの姿がなかったことである。

 小春とサンタカは、城の裏から小さな村落(コタン)へと続く材木の橋の上で、コタンを眺めていた。

 小春はゆっくりため息をついて、


「ずっと……キバ、来ないね」と言った。


「昨日も、その昨日も、そのまた、昨日も言ったはずだ。キバはきっと忙しいんだよ、ってさ」


 サンタカはそう言うも、表情が浮かないことに変わりなかった。どうも、嫌な胸騒ぎがするのである。小春も同じだった。

 キバの姿を目にしなくなった頃から、悪天候が続いている。最後に太陽を目にしたのは、一体、いつの昔のことだろう。この悪天候は、二人の子供の心まで曇らせてしまった。

 しばらくの間、無人の如く沈黙が漂っていたが、やがて、小春が口を開いた。


「……赤魔さまなら、知っているかもしれない」ついでコタンからサンタカへ視線を移した。「私、赤魔さまに聞いてくる。他に術があるとは思えない。来れる時は、必ずと言ってもいいほど、私に顔を見せていた。そのキバが、ある日突然、姿を見せなくなった。……やっぱり、私は、不自然だと思うわ」


 すると、サンタカは不安げに眉を歪ませて、


「でも、いまの赤魔さまは、身体の調子が悪いんだよ?」と言って、小春をふりあおいだ。


 だが、小春は意を決していた。サンタカに背中を向け、足を動かし出した。


「あっ、小春……」


 サンタカは、矢のように走っていく小春の背中から肩時も目を離さずに、そう呟いた。

 目を離せるはずがなかった。赤魔の体調は日に日に悪化しているのだ。今、そんなことを聞けば、余計に気分を妨げるのではないか。サンタカは、それが心配だった。

 同時に、不明な点も浮き上していた。それは、ここ最近の悩みでもあった。

 サンタカは、小春の背中が城壁に隠されると、眼下に広がるコタンへ視線を戻した。ついで欄干へ全体重をかけるように両腕を乗せて、その点を考えだした。

 

「でも、どうして、体調を崩されたのだろう……」 


 長屋風の建物が並ぶ道を歩いていた男は、茶毛の馬を引いていたが、少年の呟き声が聞こえて、ふりあおぎながら足を止めた。橋の上には、サンタカが悩むようすが目に映る。


「そりゃあ、水魔に決まってるだろう」男は親切のつもりで、言った。「水魔の呪詛で、日に日に、赤魔さまのお身体の調子が悪くなっていたに違いねえ。……吸い取ってんだよう! 赤魔さまの美貌だか、体力だかをな」  


「……そんな」


 サンタカは、心を痛めたように眉を歪ませた。


「お前、本が好きなのにそんなことも知らないのかい?」


 サンタカは何も言わなかった。ただ、余計に頭を悩ませた。

 知らなかったわけではない。ただ信じなかった。本に書いてあることばかりが、正しいとは限らないと思っていた。そして何より、憎むべき水魔が赤魔を苦しめている事実を直視したくなかった。妹が自らの意思で、兄を苦しめているだなんて、残酷だとしか思わない。

 だから、信じなかった。そして考えた。他に何か原因があるのではないか、と。

 本当に、本の内容が間違いではなかったなら、これ以上の心の痛みはない。

 この国一番に信頼できる人であり、王である赤魔が、水魔なんかに苦しめられているのかと思うだけで、心が痛んでしまう。

 それでも確かに、土妻の合う話しである。

 水魔が化物であり、赤魔が美男だとすれば、確かに、ワカ族である妹が、デミ族であるのに美しさを持つ兄を妬み、苦しめようとするのは分からないでもないことだ。 

 しかし……仕事へ向かわなければ。

 サンタカは、考え深い表情を浮かべたまま、欄干から腕を離し、橋の上を歩いた。静けさの中、長靴の音がこだました。



 赤魔の手の間には、小春の心を表す青水晶が浮かんでいた。やはり歪な形であることに変わりない。

 赤魔は、小さく唸った。  

《どうしたものか》と思った。《一体、あの子になにが足りていないというのか? これでは、いつまでも小春は影神界から抜け出すことが出来ない》

 と……廊下に、騒がしい足音が響きわたった。

 赤魔はそれに気がつくと、ふっと背後を振り返った。同時に、青いオーロラが音もなくゆれ、水晶の気配が消えていった。

 それと入れ違いに姿を現したのは、小春だった。

 黒い影のように部屋へ入った小春の背後で、樫の扉が自然と閉ざされた。

 その、あまりに素早い動きに赤魔は、


「はははは。まるで猫のような素早い動きだ」


 と言って、穏やかな笑みをつくった。

 小春も、思わず笑みを浮かべていた。

 赤魔の笑顔は、国王らしいとは言い難く、どちらかと言えば、わが子を見て微笑む父親のような顔色である。それが、彼の最大の長所でもあり、民が彼をしたいたがる理由でもあった。

 だが、小春の笑みはすぐに消えていき、真剣な表情に成り代わった。


「赤魔さま。お身体が不調のなか、僭越かもしれませんが、お聞きしたいことがあります」


 あまり真剣な小春の表情を見た赤魔は、気を引き締めるように、眉を歪ませた。


「……キバはなぜ、最近、私たちに姿を見せないのでしょう。なぜ、最近になって、闇の国から出て来なくなってしまったのでしょう」


 赤魔は考え込んだが、長いことではなかった。


「……そろそろ、話す時かも知れないな」


 赤魔は、小春に背中を向けて、小棚に歩み寄り、なかに仕舞われていた二つのティーカップを取り出してお茶を注いだ。一方のティーカップには、大量の砂糖とルージュが投入された。ついで、彼女に振り返った。その表情は、体調を崩しているとは思えぬほど穏やかだった。


「まず、話が少し長くなるだろうから、紅茶を一杯飲みながらどうかな?」 


 その陽気な言葉で、だんだんと小春の表情が緩やかになっていった。

 そしてティーカップの方に視線をずらして、「……それ、お腹、こわしませんか」と言った。


「はははは。なあに、様々な味を組み合わせることにより新たな味が楽しめる」

 赤魔はそう答えた。


 樫の椅子に腰を下ろした少女は、樫のテーブルを挟んだ向かえ側に着席した赤髪の男を強い眼差しで眺めていた。

 赤髪の男の方は、落ち着いた風であったが、決心を固めたように口を開いた。


「キバは小春の守護神だ。それにしても、これを我輩の口からいう羽目になろうとはな」


 小春は、大きく目を見開いた。

 真実と宿命を伝えるために、自分を洞窟へ連れて行ってくれたときのキバのことが思い出されてきた。

《私はそなたが幼い頃から知っている》あのときキバはそういった。

 意味がわからず、そのときは、キバを変わり者なんだとばかりに思っていた小春だが、この瞬間に、言葉の意味がとけ、現世界でも自分の見方がいたのだということに気がついた。そして、過去の自分に忸怩たらざることを得なかった。勝手にひとりぼっちなのだと思い込み、泣き崩れていた日々に、嘲笑いたくなった。


「私、現世界ではずっと一人だと思ってた。そうではなかったのですね」


 赤魔は、小春の強い眼差しをひしと眺めながら頷いた。


「キバは、元は、神界に住むどこにでもある平凡な神でしかなかった。ただ、神界の最強権力を握るジン王宮の官職につき、並外れの軍事的才を持っていた。それだけで、神界の地域を守護する護国五大神様(ごこくごだいしんさま)といわれる神々の使者に飛ばされ、君の守護を背負うことになってしまった」

  

 赤魔は息を吸って、言葉をつけ足した。


「護国五大神様は、神界の地域のみならず、君のいた現世界も見守る方々だ」


「しまった。っということは、はじめは受け入れなかったのですか?」


「はじめ、君の守護を受けもって間もないころは複雑な心情だったと聞いたことがある。……無理もない。王宮に仕える神だったのだから」


 赤魔は、いささか焦げ茶色のテーブルに視線をおとして、再び小春に視線を戻した。


「そして今、そのキバは、闇の国を支配する女王クライ魔の手により罰を受けている。あいつが影神界へ訪れ、闇の国へ溶けこみ、邪神の陰謀を足止めしていたことを知っていたカンバルという男の企みにより、クライ魔にそのことがばれてしまったのだ」


 長い沈黙が流れてから、


「……全て私のせいであることは、わかりました。ならば、彼を放って置くわけにもいきません」と、彼女の声音と表情は、決心を固めたように力強い。

 

「あいつは、深い闇にも精通しきっている。君は、心配する必要のないことだ」


 だが、赤魔がそう言い終える前に、小春は立ち上がっていた。

 小春は振り向き、扉のほうへ向かった。その瞬間、赤魔が、

「こら、待ちなさい」と言っていたが、時は遅し、すでに小春は城を抜け出していた。 

 彼女が二インチの厚さの扉を後ろ手でしめた音ばかりが、こだました。

 赤魔は、ゆっくりため息をついて、


「……やっぱりな」


 彼女の出ていった扉を見つめながら、そう小さく呟いた。



 時、ダーニャ(狩場)の川は水晶のように透き通り、緑草豊かであったが、黒雲に覆われた空が緑を影らしていた。

 弓をたずさえたまでは良かったが、気が沈み、石像のように立ち尽くしたまま、一向に動く気配すらなかった。

 赤魔さまへの心配、キバへの心配、そして何より小春の心配に胸が膨れ上がっている。

 サンタカは、ただ呆然と、清らかな川の流れを見つめていた。


「私、はじめにこの世界へ来たときは夢だと思ってた」突然、声があった。


 小さなブーツの音がこだましている。その音が止まると、サンタカの左側に人影が現れた。

 サンタカは、すぐに誰だか察した。笑みをつくって、振り向くと口を開いた。


「僕からすれば、そちらの世界の方がずっと夢だと思っていた。ずっとこのまま、この世界は平凡に続いて、終わりなんてないんじゃないかって」


 息を吸って、サンタカは続けた。


「でも、君が訪れたとき、そうじゃない事にようやく気が付いたんだ。そのとき、ただならぬ恐怖心も一緒に芽生えた。ワカ族の気持ちもよく分かるよ」


「私がここに居ずけば、あなた達は消えずに済むのね。……だけど、そうもいかないわ。私には、宿命があるそうなの。いずれ、出て行かなければならない」


 サンタカが考えこんでいるような表情で、川の流れへ視線をもどした。

 長い沈黙が流れ、そよ風ばかりが二人を包み込んでいた。木の実や花々の匂いが漂ってくる。

 サンタカは、何か思い立ったように口を開いた。


「一度、キバから聞いたことがあるんだけれど……小春は、影神界にくる以前は、僕なんか想像もできないほど、とても辛い思いを積み重ねていたそうだね」


 サンタカは、優しさが混じったような笑みを浮かべて、彼女を見上げた。


「この世界のほうが好きなら、このまま居ずいていればいいんだよ」


「はじめは、確かに、私ばかりなぜこんな目に? って思ってた。でも、気がついたの。この世界の洞窟にて、宿命を知ったとき、私だからこそ私にしか出来ないことがあるんだって」


 まったく表情を変えず、小春は言った。どんな苦難や苦境にも折れない、芯の強さを持っているのだ。


「だから、悪いけれどあなたの願いは受け入れられないわ」


 と、小春は、かぶりをふって見せているが、胸は誰かの拳で叩きつけられたように傷んでもいた。

 サンタカは眉を下げた。川の流れへ視線をもどすと、いつも清らなかはずの水面もにごんでいるようにさえ見えた。

 サンタカは、肩の力をぬきながら、小春をふりあおいだ。


「だけど、それを伝えるためだけに、ここへ来た訳ではないだろう?」


「……実は、私のせいでキバが闇の国で罰を受けていることがわかって、それでここへ来たのよ。それは、私の守護神だったことがばれたからよ。彼は、月の剣が私へ渡るよう、闇の国へ溶けこんで、邪神のしもべを足止めさせていた。でも、それを知っていた死神が、クライ魔に伝えてしまったの。彼の本当の正体を。やっぱり、キバは死神なんかじゃなかった」


 サンタカは、彼女の言葉を聞いて安堵した。キバが死神じゃないことがわかったからだ。

 同時に、小春が手を震わせながら短槍(たんそう)を片手に握っていることに気がついた。そして、安堵に満たされた風船が一瞬で轟音を立てて割れてしまった。わずかな風船の破片は、不安という感情として残された。

 サンタカは、強い眼差しで見つめている小春から一時も目を離さずに、こう言った。


「まさか、行くつもりじゃないだろう?」


「そのまさかよ。私は行くわ」小春は、直座に答えた。


「やめておいた方がいい」


 いつものサンタカとはまったく似つかわしくない、堅固きわまる口調だった。その一言で、空気が緊迫するほどだった。

 だが小春も、曲げず頑固だった。


「じゃあ、あなたはキバが死んでもいいの? このまま彼を見殺しにするつもり?」


 なにも死ぬと決まったわけではない。それは自分でもよくわかっていた。しかし、可能性があるかぎり、一寸も迷っている暇などない。それが、小春の考えだった。


「私は嫌よ」小春は、言った。


 小春は、未だかつて無いほど堅固な表情で、見つめてくるサンタカを気にも止めずに踵を返して、歩き出した。……早く行かなくては。


「……君の正体が、闇の国に知れた今」


 声がした。数センチも進まぬ間のことだった。

 選択の余地がなかった。足が止まった。小春は振り向いて友人のほうを見た。表情も変わらず、立ち尽くしたままだった。しかし、榛色の瞳がより一層濃く塗り替えられているようにも思えた。


「君が、そこへ足を踏み入れることは危険すぎる」サンタカはつづけた。「自殺行為だよ。闇の国は、君の命を狙う死神で覆い尽くされているはずさ」


「……」


「それでも行くっていうなら、その代わり僕も連れていってくれ。君ひとりは、あまりにも危険過ぎるからね」


 小春は考え込んだ。そして自分が、不用心過ぎだったことに気がついた。  

 しばらく石のように開かなかった口を、おもむろに開いた。


「……わかったわ」


 だがその声も、石のように重い口調だった。

 キバを助けたかったことは言うまでもない。

 言うまでもないが、今まで感じたことのない恐怖心にかられていた。だが、かつて中学校の同じ部活動生が、自分にした嫌がらせ。――この自分ひとりでは到底運ぶことは困難な、ビブラフォンの小型楽器を無理やりよこされて、《パーカッションのくせに、これくらいも持てないの?》と言われたことがある――あの時に、心ノ蔵へ襲いかかった傷みと比べたら、死神ごとき屁でもない。  

 小春は、すぐに踵を返して歩き出した。サンタカも後に続く。

 コタンを抜け、巨大な城を横切った。

 小春は踏みならされた道を、サンタカと並んで歩き続けていた。小春はサンタカのほうを、かつては感じたことのなかった感謝の気持ちをもって見た。あんな風に進んで自分のために申し出るなんて、到底信じられなかった。本当の友達か、兄弟を見つけたような気がした。闇の国で、何に直面することになっても、サンタカが一緒なのが嬉しかった。

 宮廷の門から、歩きでは遠く離れた闇の国の境界線に向かって、果てしない道を歩き続けている。


「闇の国まではあとどれくらいあるの?」沈黙を破り、小春が尋ねた。


「そんなに遠くない」サンタカが答えた。


 その矢先、暗黒の扉が迫ってきたことが分かった。気づくと地面は、土から平面的な石造りに変わっており、眼前に広がっている光景に、小春は息が止まりそうだった。強風のためではなく。

 そこでは、周囲に木立が散乱していた。決して綺麗な景色ではない。歩き続けると、それらの木立が、暗黒の扉を縁っていることに気がついた。あまりに不気味で、全身に鳥肌が立つのが感じられた。

 風がひゅうひゅうと音をたてて、木々を吹き抜ける。小春のひとつに束ねた髪からほつれた細い黒髪が、激しく揺れていた。

 暗黒の扉は、全体が錆びれており、匂いを嗅ごうとせずとも、風に乗って錆びた鉄の匂いが漂ってきた。酷く不快な匂いだ。

 暗黒の扉の前に着くと、二人は同時に足を止めた。扉はそれを察したように、耳障りな金属の音を立てながら、ひとりでに開かれていった。

 サンタカは、甲高くて汚らしい金属音を聞くや否や、両手で両耳を塞いだ。眉を歪ませている。

 小春は脈拍が速くなるのを感じた。姿勢も崩さず、瞬きもせず、扉の先にある暗闇が顕になっていくのを見届ける。心の準備ができているかどうか自分でもわからない。向こう側で自分を待ち受けているものなどを、小春はあまり考えないようにしていた。《自分たちは戻ってこられるだろうか》と、小春は考えた。キバを助けるためにいくのに、自分たちが闇の力に負ければ、一貫の終わりだろう。

 だが、何よりも気になっていたのはこの場所が持つ感覚だった。それが音を立てる風なのか、それとも空の広さあるいは黒雲の闇なのかは見分けられなかった。だが、この場所の持つ何か、それはすごく異様だった。

 二人が意を決して、扉の向こう側へ足を踏み入れた時、その異様さは、息が止まるほど増していた。見えざる何かが二人を包んだ。重い闇のエネルギーが自分にのしかかっているのを感じた。ただ単に国を横切るだけでなく、死神が住む別の世界へと入るような感覚があった。

 扉は二人の背後で自然と閉じられた。またしても耳障りな金属音が鳴り終わった頃には、あたり一面が天鵞絨(びろうど)めいた闇に包まれていた。互いの顔を見るのも困難になった。小春は、槍の柄を強く握り締めたあまり、こぶしが白くなった。サンタカも武器を握っていた。

 二人は、足を慎重に運んでいく。どこに何があり、何が潜んでいるのかもわからない。

 ゆっくりとだが、順調に進んでいると思えた。だが、突然、二人が同時に足を止めたかと思うと、二人とも(うずくま)ってしまった。

 二人は混乱していた。何かが、二人を足止めしているようだった。

 少年――サンタカは、両手で頭を抱えていた。だが、明らかに様子がおかしかったのはそれではない。彼は猫のように爪をたてて、自分の頭部を引っかき続けているのだ。そんなにも、彼を苦しめているものはなんだというのか。

 水魔が訪れる以前、共に遊んだ子供たちのことが頭に浮かぶ。

 だが、突然、悲劇が起こった。

 全能神につくられた水魔が、影神界へ訪れ、彼女が子供たちをさらった。

 サンタカは、水魔のしもべ――ワカ族に牢屋の中へ入れこまれようとしていた。

 しかし、サンタカは傍らに持った弓で矢を放った。

 その男は、唸った。

 サンタカの放った矢が、脇の肉に喰い込んだのである。

 その隙に、サンタカは逃げた。

 逃げて、逃げて、逃げ続けた。

 涙が、絶え間なく溢れていた。

 助かったのは、自分だけだ。ほかの皆は、助けられなかった。

 ……何という失態だろう。

 この瞬間、ある思考が脳裏を掠めた。

 それを思い出されたのは、闇の力のせいだ。

 そうに違いない。そうに決まってる。

 それに気がついた瞬間、彼の眼前は元の暗闇一色に戻っていた。

 サンタカは、立ち上がった。

 しかし、小春はまだ、戻れていないようだ。

 まだ闇の力に苦しめられている。

 彼女は(うずくま)って、クラリネットのようなすすり泣きを続けていた。サンタカは小春よりも子供で体も小さい。それでも自分の恐怖に負けていなかった。こうしてみると、彼女もか弱き乙女である。

 それを見たサンタカは、使命感がみなぎってきた。

 サンタカは、弓を強く握りしめて、辺りを用心深く見回す。何者も出現していない――もしくは、隠れ潜んでいる――ため、再び小春に視線を戻した。

 小春に襲いかかったのは、苦境の記憶である。

 ステレオのボリュームを上げたみたいに、沢山の声が聞こえていた。

 雷鳴をはらんだ母の声、生徒からの罵声、先生からの呆れ声。

 たまらず、小春は両耳を強く塞ぎ込んだ。

 だが、それと引き替えに、闇は次の策を使ったようだ。

 彼女の眼前は、元の家の中に変わっていた。

 母が引き攣った表情を浮かべて、自分を見下ろしている。

 目を合わせると、母は気に食わぬ顔をして、自分の頬をひっぱたいた。

 彼女は、泣いた。

 またしても、母はひっぱたく。

 彼女の涙は止まらなくなった。

 気がつけば、声を上げて泣いていた。

 その時、誰かが自分の二の腕を、小さな手でつかんだ。ついで、その声が聞こえてきた。


「小春」少年の声だった。安心感があり、聞き覚えのあるこの声は、そう、サンタカに違いない。


「小春、よく聞いて。ここは闇そのものの世界。君は、闇の中にいるんだ。今君が見たり、感じたりしていることは、すべて幻だ。だから、目を覚ませ!」


「……でも」小春は、震えた声で言う。「お母さんがっ」


「過去は過去、今は今だろ!」サンタカの叫ぶ声が、すぐ背後に聞こえた。


 その声で我に返った小春は、両目を大きく見開いた――《これは、幻なんだ》。

 気がついた時には、辺りが元の暗闇になっていた。

 小春が振り向いてサンタカを見ると、彼は戦っていた。暗くてよく見えないが、相手は死神だろう。

 サンタカは手馴れた手つきで狙いを付け、確実に一体ずつ射貫いていった。


「邪魔しないでもらえる? こっちは忙しいんだ」


 最後の一体を射貫いてサンタカは言った。

 ついで、サンタカはこちらに振り向いた。


「真っ暗で、何も見えやしないだろう?」サンタカはこんな時でも、陽気な口調で言った。「邪神との契約を結んだ者だけが、この闇から解放できるんだ」


「じゃあ、キバはこの辺りの景色が見えるの?」小春が聞いた。


「さあ、どうかな」サンタカは肩をすくめて、言った。「キバが死神じゃないってばれて、罰を受けているのなら、契約破棄も同然だからね」 


 サンタカが再び、慎重に足を進めていった。小春はサンタカの後に続く。


「……まるで、闇の迷宮ね」


 無窮のような暗黒間を進み続けていると小春は、思わず、そう呟いてしまった。

 多数の死神の軍が、その声に呼び寄せられてきた。

 サンタカは、彼らが攻撃を仕掛ける間を与えず、射貫く。


「……必要以上に喋らない方がいい。僕は、ここへ来る前から、危険だと忠告したはずだよ」


 言いながら、サンタカは続けざまに矢を番え、射っていった。見事に的を当てていったサンタカのおかげで、敵の数が激減した。

 それでも、まだ数体いた。

 肩越しに彼らを見やった小春は、身体の向きを変え、狙い定める。

 今度は、小春が槍を高く揭げて突進し、相手の心臓目がけて槍を突いた。

 死神は痛みに叫び声を上げた。小春が柄まで槍を深く突き刺すと、小春の手に血がしたたった。

 死神はそれでも死なない。小春は驚いた。無敵だ。

 そして、見当違いだったことが分かった。サンタカが射貫いて死んだと思われた彼らは、死んでいるわけではない。ただ弱まっているだけだということを。  

 それを悟った二人は、叫び声を上げながら、全速力で闇の中を突っ走って行った。

 走りながら、小春は背後を振り返った。

 だが、真っ暗で、死神が追いかけているのかも分からなかった。

 どこまで走ればいいのだろう。小春がそう思ったのは、一瞬の内だった。それと引き替えに現れた感情は、恐怖と驚愕である。



 絶叫の声が響き渡っていた。

 嫌でも耳に入るその声に、青年は、おもむろに顔を上げる。

 黒い蜘蛛の巣のような繊維が、彼の、身体全体にまとわりついており、この繊維が彼を闇の底まで追い込む如し、美しい思い出を吸いとって苦しみばかりを与え続けているのだ。

 苦しみに追いやられたこの青年は、死んでいるように俯いていたが、聞き覚えのある絶叫の声が彼を呼び覚ましたのである。


「……小春だろうか」

 

 あの子なら、やりそうなことだ。赤魔さまから聞き取りだし、私の正体や今の状態を知れば、簡単なことだ。問題なのは、今の状況で彼女が闇の国へ訪れれば確実に、千体もの死神が彼女の命を狙うことだろう。なんと、無茶なことをしたものか。と、彼が思っていると、これを見下すように女王の声が轟いた。


『無駄口を叩くんじゃないよ、哀れな青年よ。そうだったとしても、娘は来られない』と、当然のように言う。     


 それと同時に聞こえてきたのは、誰かの足音だった。凄まじく早い速度で駆けていることが想像できる、音である。


「……いや、来る」確信とともに、青年――キバは言った。



 一瞬、心臓が止まりそうだった。

 それでも、二人は矢のように走っている。敵ばかりがいる場所で、足を止めるわけにはいかなかった。

 驚愕したのは、眼前の向こうに、蜘蛛の巣ともいえず黒い繊維というにはあまりにも気味が悪すぎるものに、キバと思われる青年が埋もれるように巻きつかれていたことである。〝思われる〟といったのは、青年は死人のように顔をうつむかせているばかりか、頭をのぞくほとんどの身体の部位が、意地の悪い黒ミミズのせいで、すっかり隠されていたため、判断がつかないのだ。ただ、唯一見えた、夜目にも目立つシロカネ(銀)の髪が、他ならなぬキバだろうと、判断する手がかりだった。

 果てしなくつづいた闇の端へ、たどり着いた少年は足を止めて、注意深く周囲を見回す。一方、少女は、迷いなく、捕らわれた青年のもとへ駆けつけた。


「キバ!」


 小春は、叫びながら、うじゃうじゃといる黒ミミズのような物体を掻き分けて、彼の頬に手をそえた。彼の頬は、驚くほどに冷たかった。


「……」


 返事はない。かわりに、両眼がぎらついたかと思うと、瞬く間に、黒ミミズが汚らしい泥水のように溶け落ちていった。

 小春は何が起きたのか、判断できなかった。驚きのあまり、二、三歩ほど後ずさりする。

 青年――キバが、解放されるや否や、風のごとく、小春の頭へ黒いマントがかけられる。


「……身を隠すものも用意せずに来るとは、不用心すぎる」


 マントの外から、声が聞こえた。

 キバの声だった。

 小春は、マントの中に身を隠したまま、安堵のため息をついた。

 しかし、それは束の間だった。


『おのれ、おのれ、闇の手から抜けだすとはいい性分をしている』


 恐ろしいクライ魔の声である。それでもキバは、表情をまったく変えなかった。それどころか、声のする方へ、ゆっくり足を進めていく。


「でも、キバ。どうやってあいつを倒すんだ……」


 青年の背中へ振り向いたときの衝撃でみだれた茶髪の中に、榛色の瞳をひからせてサンタカは青年にたずねた。


「倒すことは無理だ」キバは振り向きもせずに、言った。「だが……閉じ込めることなら可能だ」


「閉じ込めるって……まさか」


 サンタカは、嫌な予感がして呟いた。

 子供二人は、本に書かれていたことを思い出していた――《殺すことはできないが、己のなかに閉じ込められるだろう》。

 二人は不安な眼で、青年の背中を見つめることしかできなかった。小春は、それすらも苛立ちを感じていた。何も出来ないことが悔しかった。そして、闇を倒す手は本当に他にないのだろうかと考えた。

 暗黒の地面のうえに、小さな光りがうねうねとくねりながら、キバの足へ近づいているのを確認したサンタカは、気を取り直した。

 すぐ弓に矢を番え、放つ。

 見事に貫かれた黒ミミズの身体は、息を吹きかけた灰のように散って、消えさった。

 キバは、岩になったようにその場から動かないばかりか、黒ミミズにも気づかないほどクライ魔に意識を向けていた。

 が、背後に視線を感じた。

 刺すようなその視線の方向を見る。

 死神が大鎌を高く揭げて突進してくる。お馴染みの黒ずくめだが、大柄で、暗がりでも目を奪われてしまう男だ。

《まったく、暗闇の中では、どこに何がいるかも分かったものではないな》

 キバは、ため息をつく。


「……面倒な奴だ。だが、いい時に来た」


 そして、企みの笑みを浮かべた。

 闇の中、獣のごとく吠える声が轟き、銀色の刃が眼前に現れた。

 死神は、両眼を爛々と光らせながら、大鎌を振り落とす。

 キバは右に避けた。

 金属が床につく耳ざわりな音がなった。

 的を外した死神は、身体をキバの正面に向き直す。

 目にも止まらぬ速さで、またしても死神の刃がキバの頭部に振り落とされてきた。

 この暗闇では、キバの方が圧倒的に不利であることは認めざるを得ない。ついでに、武器さえ持っていなかった。

 ずっと背後で見守っていたサンタカは、恐怖に顔を歪ませた。弓を持つ手が、震えている。

 射っても、あの生物を倒せないことは、実際にためして知っている。今、矢を番えても意味がない。

 小春は、マントから顔を覗かせた。そのまま立ち尽くし、固まっていた。何もできないことが悔しかった。

 キバに、どんどん迫る、大鎌の先を見ていた小春はつかのま目を閉じ、すぐに瞼をひらいた。

 キバは、素手で大鎌の刃を受け止めた。指の間から、生々しい血の雫がダラリと垂れている。

 キバは受け止めた大鎌を、そのまま奪い取り、大鎌の柄を使って横から死神の頭を打った。死神はぐらつき、すごい勢いで回った後、頭から地面に落ちた。

 死神は動かなかった。

 この男が目覚める前に片付けてしまいたい。キバは、意識を失った死神を確認すると、天井に視線をもどした。

 そして思考を巡らせた。――クライ魔は、死神と同じ邪神のしもべである。闇は闇で攻撃を仕掛けるべきではないか。この大鎌であれば……。――だが、この思考は、確実なものではない。一か八かである。

 キバは深呼吸して、全身全霊で神に祈った。

 キバはためらうことなく二歩前に進み出て、手を後ろに引くと大鎌を投げた。

 空中を飛んでいく大鎌を息を止めて見つめた。――たのむ。

 大鎌はどんよりとした沈黙と闇の中を貫き、どこまでも続く天井の闇へ消えていった。そして、永遠にも思える時間が過ぎた後、声がした。間違いなく、大鎌がクライ魔にささった唸り声だ。これで確信が持てた。

 彼の大鎌投げは、二人の子供の眼に、機械のような正確さに映っていた。

 キバは、二人の方を振り向いて叫んだ。


「死神の武器を奪い取れ! はやく!」


 二人は、ここではじめて身体が動いた。使命感に満ちている。

 踵を返すと、目の前に、再び死神の群れが現れた。

 クライ魔の声を聞きつけたのか、それとも、小春が動いたので、その匂いを嗅ぎとったのかは定かでない。

 死神が襲いかかった。死んだように血の気のない手が、小春に伸びてくる。

 サンタカは反射的に身体が動き、死神の片足を蹴った。

 死神が今度はサンタカに襲いかかってきた。

 しかし、サンタカは素早く身を交わして、弓に矢を番えた。

 急所の首元を狙い定め、放つ。

 瞬く間に、真紅の噴水が吹き上がった。

 死神は、唸りながら患部に手を添える。

 すきを狙ったサンタカは、あっさりと大鎌を奪い取った。

 振り向いて、叫ぶ。


「キバ!」


 大鎌がサンタカからキバに投げ渡された。丁寧に、受け渡しが出来る余裕などない。

 キバは受け取った大鎌を、空中に投げた。

 再び聞こえたのは、女のうなり声。  

《……この調子だ》

 キバは、心のなかで呟いた。

 死神の群れは、クライ魔に大鎌が当たるたびに、激しく襲いかかって来た。

 小春を狙うものが、やはり多い。

 死神は、凄まじい勢いで突進してきた。

 小春は、タイミングを待っていた。

 死神が目の前に接近したところで、槍を突く。

 小春は、突いた穂先を見下ろした。相手の腹部から、汚らしい血がダラダラ垂れている。

 一瞬、その手が震えてしまった。

 だが、唾を飲み込みたくなる衝動をおさえこんで、槍を引き抜く。

 死神は、出血多量で気絶した。

 小春は素早く腰を下ろして、大鎌を奪い取った。

 そして大鎌の想像絶する重さに、驚いた。あのビブラフォン十個でも、足りない重さだ、と思った。

 小春は踵を返し、走ってキバに大鎌を手渡した。

 そのときキバが身軽に持ち上げたのに、内心見事に思う。


「よくやった」


 キバがそう言ったときには、すでに小春は走っていた。

 キバもすぐに気を取り直し、どこまでも闇が続く天井をふりあおいだ。

 小春が戦場へ着くと同時に、後方からクライ魔のうなり声が響いた。

 小春は、思わずほくそ笑む。

 クライ魔の苦しむ声が響き渡ると、かならず、死神の群れが湧いて出る。

 小春の顔から、笑みが消えた。 


「きりがないわ」


「いい手がある」


 振り向いて、そう言ったのはサンタカだ。

 彼の矢はすでに切らしている。他に手がなくなったと言わんばかりに、自分のズボンのポケットを探った。


「隠れて」


 サンタカは言った。

 手にしているのは油の塗った木の板だ。

 それを二つに割って擦り合わせると、投げる。


「どこに隠れろと? そんな場所はないわ」


 火の付いた木の板は、山となった死神の群れへと転がった。


「じゃあ、走れ!」


 サンタカが叫んだ。

 二人は踵を返し、キバのところまで駆けていく。

 燃え広がった炎と共に、奴らの皮膚が溶け落ちた。

 物音がすべて消え、一瞬静寂が暗闇の中を支配した。

 キバは二人を見下ろした。その顔は、マネキン人形のように表情がない。

 だが、口は開いた。


「一体何をした」


「いや、その」サンタカは不安を感じ、瞳をキバの視線から、左下に流した。「足止めだよ、敵の量が多過ぎたんだ。それに、攻撃はどんどん激しくなる。だから……そうするしかなかった」


 サンタカは、小声で正直にそう答えた。

 キバは、無言で、サンタカが背負っている矢筒を見やった。中身は空だ。 

 ついで、ため息をつきながら、


「仕方がない。どちらにしても、すでにクライ魔の体力はそこを尽きる頃だろう」


 キバは、サンタカから視線をずらし、すっかりマントから顔を出していた小春を見る。


「顔を隠せ、小春。何度も言わせるな。死神がいつ戻ってくるかも分からないのに、不用心だぞ」


「……ごめん」小春は言った。


「死神の軍が再び追ってくる前に、済ませられる事を祈ろう……」ついで、サンタカへ視線を戻した。「サンタカ、そなたは再び死神の軍が姿を現した時のために、見張るんだ」


「了解」


 サンタカは言うや、キバの方に背を向けて、五歩ほど足を進めた。どこまでも続く、暗黒の天鵞絨を睨む。この方向は、自分が起こした火のお陰で、微かに焦げ臭かった。しかし何処にも、火の明かりが見えない。気にもしなかったが、かなりのこと走っていたのだろう。思っていたよりこの国は、遥か広いようだ。

 武器をとうに切らしたサンタカは、そう言われても実は、どうしたらいいのか分からなかった。《弓そのものを武器にでもしようか》と、思考をめぐらして、仕方なく矢の番えもない弓を、両手に抱え持った。

 同時にその頃、小春はマントの中に、大人しく身を隠した。マントの中も、辺りの景色とさほど変わらなかったため、気がつけば顔を出しているという、始末であった。だが今回は、そんな事がないように、ひしとマントの生地を指で掴んでいる。それ以外に、マントの中と外の違いを理解できるのは、匂いだけだ。マントの生地は、芳醇な酒の香りが染み付いている。

 小春は目を細めて、マントの生地から外を見やると、キバが眼前に側面を向いて、立ち尽くしていた。その方向に、クライ魔の唸り声が聞こえていたことを小春は考え、理解した。

 だが、キバはただ立ち尽くしていた訳ではなかった。全身から、色も匂いもない瘴気が勢いよく発せられている。やがて、それは暗灰色の色を現した。小春は驚いた。


『おのれ、僭越も度が過ぎるぞ、死神もどきめっ』


 それと同時に、聞こえてきた毒のまじる声はクライ魔だ。

 目に見えない蛇が勢いよく彼女の、闇の塊でしかない身体にまとわりつき、絞めあげてきたのである。クライ魔は苦痛の呻きをあげ、その呻きに恐怖と嫌悪がこもった。ようやく、彼女はキバの力を知ったのだ。

「目に見えぬ蛇」というのは比喩ではなかった。実際に、そこには蛇が存在して、クライ魔の身に見えない胴体(闇の塊)を巻きつけ、強く強く絞めあげてくるのである。邪神の僕の驚愕するさまを感じて、選ばれし者の守護神は心地よげに笑った。


「私の身に危険が及ぶことを想定して、赤魔さまから与えられし術のひとつだ。空気が蛇となり、この身に、人の魂を吸い尽くしてくれよう。たとえ、人でなくともな」


 恐怖を圧倒するほどの怒りに駆られて彼女は身体を動かそうとしたが、目に見えぬ蛇はさらに強く巻きつき、クライ魔(闇の塊)をどんどん吸い取っていた。

 その度、キバの全身にかかった暗灰色(闇)のオーロラが、炎の如く吹き上がる。それもその筈で、吸い取られた魂が彼の中に入っている証であった。 

 その間、死神の気配はなく、どんよりとした沈黙の中にクライ魔の呻き声ばかりが響いていた。

 だが、彼女の呻き声は直ぐ終わった。

 それと引き換え、キバの体内中が高熱が出たときのように調子を崩し、暗灰色のオーロラは消え去った。吐き気が襲い、気持ちが悪くなった。しかしそれも束の間、キバは一瞬よろめいた身体を直立し直そうとした。その時、猫のように素早い動きで、肩に腕を回された。

 振り向くと、脇には小春がいた。


「ご無理をなさらずに」小春が笑って言った。


 この場に訪れ、無事であった小春の姿を見たキバは、安堵して一気に緊張が溶けていった。

 だが和らいだかと思われた空気は、再び緊張と化した。天井から床に至るまで、みしりと音を立てていることに三人は気がついたのである。この闇の国が崩れ落ちる、音だ。


「だが、ここでぶつくさしている暇も無いようだね」


 武器を下ろしながら、サンタカは、かえりみて言った。


「……そのようだ」


 キバは、はるか天井から墨色の塵が大量に降ってきたのを見上げながら、呟いた。

 三人は踵を返し、同時に全速力で走り出した。

 周囲は汚らしい塵の雨と、黒いペンキで塗りたてられたような木の板がそこら中で、崩れ落ち、倒れていく。それも、ひとりの青年の手によって、クライ魔の魔力が途絶えたためである。

 三人の衣服は、既に黒い汚れで覆いつくされていた。顔に至るまで、黒い斑模様となっていたが、それを拭っている暇など一寸(いっすん)もない。

 小春は、ブーツの底をすり減らしながら走っていた。少年の方も同じである。理由は、体調を崩した一人の青年を、二人が汗水たらし、腕で支えながら進んでいるからである。

 青年の方は、無理もない。罰を受けた上に、死神どもと戦い、さらに闇の女王をこの身に吸い取ったとなると。二人は、その事を百も承知である。それでも青年は、このまま二人に任せて、身体を休ませようとなど考えてはいなかった。

 キバは、二人の腕を振り払って、


「手を貸す必要はない」と、言い出し、この先の暗黒間へおぼつかぬ足取りで走り出した。


 二人は、慌ててキバの背中を追う。


「そんな、だって、顔色がっ」


 そう言うサンタカにつづき、小春も口を開いた。


「このまま私達に任せていれば、負担はあまり掛からないのに」


「守護神が主に守護されるなど、無ざまなものだ」


 キバが振り向きもせず、言い返した。

 すると小春は、沈黙してしまった。何も彼の気持ちを考えず手を貸していたことに、恥じらいを覚えていた。時間が戻ればいいのに、とまで思う。だがぐずぐずしている暇はなかった。

 三人は走る。

 彼らの足音とともに、崩れ落ちる闇の破片の数も増していた。

 四面暗闇の通路を進み、やがて耳障りな金属音が鳴りはじめた。

 これぞ神の恵とばかりな聡明な光が、天鵞絨めいた闇の中へ射し込んでくる。

 すでに闇になれた三人の目が眩んだ。

 それと同時に、強風と何かを殴りつけるように大きな物音もなり始める。

 四面姿形もなくならんばかりに崩れ落ちる闇の壁が、三人へ迫っていた。

 手遅れになれば、暗黒のベールの中に永遠に閉じ込められてしまうかもしれない。

 三人は眼前の白光へ向かい、走る。

 汚れた闇から逃れるために、走り続ける。扉のところまであと少しだ。一メートルもない。その扉の縁をキバは掴み、外へ抜け出して行った。サンタカと小春も同時にその直ぐ後へ続いた。

 間一髪のところ、背後で今までいた暗黒間が泥のように崩れていくのを感じた。雪崩のような激しい音がなっている。

 小春は慌てた拍子に石造りの地面に出た途端、つまづき倒れた。そこは冷たい石造りの地面ではなく、青年の身体の上だった。彼も同じくつまずいたか、はたまた体力の限界だったに違いない。

 小春が身体を起き上がらせると、キバは見上げていた。キバは小春の顔についた黒い汚れを素手でふき取って、


「本来、守護神である私が逆に人間である君と、そして、子供に救われるとは」


「助けるのは当たり前。あなたは私を助けてくれたのに、私が何もしないんじゃ顔も上げられません」  


 小春はそう言って立ち上がり、キバの身体から降りた。

 暗黒の扉は、どこかの廃墟地にある扉のように寂れ、容赦なくバターを抉りとったようにほとんどの形が失われていた。

 小春は、空をふりあおいだ。雲ひとつない。ただ太陽が沈みかけ、夕方になろうとしていた。一日のほとんどを闇の国で過ごしていたことを小春は知り、驚いた。

 サンタカは、自分の弓を弄びながら、


「それにしても、なぜ死神の姿がなくなったんだ。まさか僕がおこした炎程度で焼け死ぬような奴らじゃないだろう」と、扉を抜け出してから、ようやく疑問を打ち明けた。


 キバは身体を起き上がらせ、立ち上がりながら、

「恐らく、元の世界へ帰ったのだろう」と言った。

 サンタカは、気がついた時にはキバが眼前にいて、自分を白眼で見下ろしていることに気がついた。あまりに鋭い視線だったため、サンタカは背筋が寒くなった。何年も前に似たようなことがあった。サンタカが狩猟の仕事をさぼり、もう一度狩人仲間の子供を助けに行こうと試みて、水の城へ向かったことがあった。その時も、キバは今と同じ表情で自分を見下ろしていた。  

 キバは手を伸ばし、サンタカの顔を手の甲で叩いた。

 刺すような痛みを感じ、あまりのショックでキバを見上げた。


「ごめん……」


「なぜ謝る」キバが言った。「全ては私の犯したことだ。お前に罪はない」


「じゃあ、どうして引っぱたいたんですか?」サンタカはなるべく礼儀正しくしようと思い、敬語を使って尋ねた。


「無茶をするな、と言っているんだ」


 キバは、真剣な表情で言った。

 サンタカは心配してくれていたことが分かり、胸が高鳴った。それは小春も同じだった。

 二人は呆然と立ち尽くし、キバが歩き出して行く後ろ姿を、ただ眺めていた。二人から五メートルほど先まで進んだころ、突然彼の足が止まった。何かを思い出したように。

 

「だが、ありがとうは言わなくてはいけないな」 


 キバは振り向きもせずに言うと、再び歩きだしていった。火の国へ向かって。   

 呆然と立ち尽くしていた小春とサンタカは、太陽のように満面の笑みをつくるや、彼の元へと駆けていく。

 小春はキバに突進し、両腕を伸ばして彼の背中を押した。キバは倒れることなくバランスを保つと、やれやれと声を漏らしながら歩みを進めた。

 キバを無事助けたことで気持ちが舞いあがっていた小春だが、城が近づくにつれ不安になった。城を出る前、赤魔が自分の行動を止めようとしていたことを思い出したからだ。《きっと叱られる》小春はそう思った。すると小春は歩きながら肩の力をぬき、腕を組みはじめた。笑みはすっかり消えている。

 三人は石造りの地面を過ぎ、乾いた土の地面を横切った。小春は、ますます緊張に膨れ上がってきた。彼を助けに行ったことは間違えではなかったと思う。だが、自分の命を落す危険性がある行動であったことは言うまでもない。赤魔が自分を止めようとしたのは故あってのことなのだと、小春は分かっていた。分かっていたが、彼を見殺しにするほうがもっと嫌だった。小春は、赤魔がむしろ褒めてくださることを心して祈りながら歩いた。

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