第三章 宿命と真実
闇の国では、朝早くからこの国仕切るクライ魔を中心として議論が繰り広げられていた。それは、他ならぬ影神界へ訪れて来た人間、小春のことである。
そこは薄暗く、コンクリートのように灰色を帯びた石材の床に壁、その床の上に立ち尽すのは、他ならぬ死神達だった。皆、黒ずくめの服を身につけて、なかには、傍らに大鎌を有するものもいた。壁には光を通す窓なるものは一つもない故に、辺り一面、朝とは思えぬような暗がりに包まれている。
暗黒の扉から入ってすぐの左側に、一人は十分に寛げるだろう凹みが創造されている。この壁一面には、闇の象徴とされる紋章が記されていた。紋章は、輪の中に、なんの柄とも言い切れない奇妙な柄が記されている。
この紋章が記された石造りの壁の方へ誰よりも前へ歩みでて何処へ視線を外すことなくひしと見つめている青年があった。他の死神は、彼の背を見つめているばかりである。
『昨夜、この影神界へ来たりし者が、例の者ではあらんとそなたは言ったな』
忽然と、この仄暗い空間の中へ背筋も凍るほど低い女の声のみが響き渡る。
女の姿は何処にもない。しかし、紋章の前か、はたまた紋章が記された壁の有する天井からか、その辺りの場所に、女のいる気配ばかりが感じて止まない。
ところが、どの者も怯むことなく、当たり前のように彼女の声をひしと聞いている。
そう、この声の主こそが唯一邪神の野望ゆえに作られた闇そのものでありし者、他ならぬクライ魔である。
「はい。あの者は体が弱く、人間から傷を負いぽっかり空いた心の完治はできる保証もない……。さらに、あの者には自殺を犯そうとした過去があるところから見とっても、あの者が全能の神に許されし例の者であるような保証は一切ない」
青年は、丁寧に、しかしはっきりと答えた。
そうして、この青年こそが河合小春を救った他ならぬキバである。
「なるほど」
背後で立ち尽くして、今まで二人の話を黙って聞くばかりだった一人の男は、顎に片手をあてがって納得する体であった。――そんなことを言えば、他の死神一同も共に二人の話を黙って聞いているばかりであることには、他ならなかった。
ようは、クライ魔は訪れて来た人間の件において、議論に必要ある人材が、その人間を救ったキバの他ならないのだろう。
『間違いないな?』
寒気が立つように低く、それでにてウィスパーボイスの声は再び、仄暗い空間の中に響き渡った。
キバは、無表情に、ひしと紋章を見つめるばかりで返答はしなかった。必要なかった。これ以上に議論を進めても、はっきりとした答えがそれ以上にもそれ以下にも出ることは消してない――そう思った。
それ故、曖昧な形で議論の幕は閉ざされた。辺りは、いつも通りの光景に瞬く間に戻っていった。
ある死神は議論なんぞめんどくさかったと言わんばかりの疲れた表情を浮かべだし、またある死神は、石造りの壁際に置かれた銀の入れ物の中に傘の如く四、五本の大鎌がしまい込まれたうち一つを探り出すと、早速大鎌を磨きはじめていた。――それは、大鎌が鋭ければ鋭いほど、人の命を奪うことはいとも簡単である為であった。しかし、ここにいる死神はクライ魔を含めて皆、邪神のために行動する。あくまでも、邪神が月の剣を手にする為に、邪魔者を排除することが仕事であり、身勝手な理由で人を殺すわけではない――そして、またある死神は議論中の頃から石造りの壁に背中をよし掛からせて佇んだままであった。
この死神は、名をカンバルといって、この闇の国一の残酷な青年だった。いままでに、一体何十人、いや、何百人もの人間の命を奪ったことだろう。しかし、そんなことはどうでもいい。どうだっていいじゃないか、カンバル(俺様)よ。
カンバルは、他の死神共と同じように、石造りの壁際に置かれた銀の箱の中に傘のごとく入れこまれた一つの大鎌を取り出すと、大鎌を片手で器用に一回転させた。その一回転の最後には柄尻を床に力強く叩きつけ、大きな音を立たててみせた。それは、餅を杵で付いたときの音とどことなく似ている。ついで、銀の箱の傍らに置かれた錆びのよく目立った椅子に腰かけた。そして、砥石を使って、さも雑な手つきで適当に鎌を磨きだした。磨きながらも、彼の鋭い視線の先にあるものは鎌ではなく、他ならぬキバの後姿のみだった(カンバルの視点からだと、キバは左斜めまえに立たずんでいる)。
《一体、キバは何を思ってあんな嘘を言ったんだ》と思った。《今の内、はっきりと言っちまった方が身の為だろう。まあ、この場所で、事実を知っている奴は俺様カンバルと、与太郎自身のみではあるが……嘘のばれた終いに、あの恐ろしきクライ魔から一体どんな罰が下るか分かったものじゃないさ》
その頃キバは、そんな風に視線を送ってきている者がいることは、一切気が付いていなかった。
彼は、議論が終わっても尚、紋章を前にして佇んでおり、身に着けていたマント風の黒服をその場で大胆に脱ぎ捨てた。古いシャツがあからさまになる。ついで、風のごとく腰に佩いた一本の短剣を手で探って確認する。万一に備えるための武器である。恐らくは、それほど時が流れぬ間にも必要になるかもしれなかった。
彼は、短剣から手を離すや否や左手へ踵を返して真っ直ぐ先に佇む巨大な暗黒の扉へと進んでいく。
「大鎌の手入れはいいのかい?」
一人の中年くらいの外見をした男が、こちらにいった。出て行こうとするキバに気が付いたのだろう。
「あいにく急いでいる」
暗黒の扉へ視線向けて歩くまま、キバはそう答えた――そんな暇はないし、そんなことをする必要性もない。わたしには大鎌を使う必要性はなかった。必要性を無理くりつくったならば、これから立ち向かう事になるだろう獣に対しては、多少なりと役に立つという事だけである。しかし、獣など弓や短剣のみで十分だ。そうに決まってる。――しかし、彼がこの気持ちを表に出すことは決してなかった。
扉は、自動扉のように彼が近づいたことを感じ取り、独りでに開いた――扉の金具部分のゴトゴトという喧しい音は相変わらずである。
開いた扉から、外の世界に有する太陽の日差しで、暗がりの空間の中は太長い台形の光に照らされた。が、それも束の間。最後の一歩の足が外へ進み出るが否や、光はやがて細くなり虚空などこかへと消え去っていった――しかし、最後の一歩を踏み出していった足は、キバの履いていた使い古しのブーツとは丸で違い、黒い生地を帯びた見事な靴を履いていた。
実に爽やかな朝の景色は広がっていた――どこまでも淡く青い空、その中にかかった赫々(かっかく)たる光炎を有した太陽、微かな風に揺れ動く湖の水面、カラリと乾いた石造りの床――暗黒の扉をぬけ出た彼は、そのまま石造りの床の上へ足を踏み入れていく。ところが、いくつか歩くたびに、寒気がした。寒さのせいではない。何か別の理由によるものだ。何とも言えないもの。何かに見られている、そんな感覚が。
「このままうそを貫き通すことが出来るとでも思ってるのかい?」
いきなり、背後から男の声がキバの耳に飛びこんできた。瞬時に足が止まった。この、低くはっきりとした色男を思わせる声、聞き覚えがある。背中全体に予感を感じながら、キバは後ろを振り返った。《やはりか》と思った。が、表情は相変わらずいつもの事ながら無表情を保っている。
振り返った先には、雑草が生い茂り波乱に木々がへし折れた場所を背景として、大きな丸太の上に黒ずくめの男は座り込んでいた。黒いシャツに黒いズボン、黒い髪、ついで黒い靴。男は、こちらをさも悪巧みを抱いた若者のようにギラついた眼で見つめていた。その血のような赤紫色の目は、鋭い眼力をより際立てる――そこは、暗黒の扉の端だった。
「キバの正体、例の人間がどんな人材かも俺は全て知っている」男は立ち上がりながら、上から物を言うようにいった。「クライ魔に知れたら、どうするつもりだ」
答えは、どうするつもりもないと言えよう。だが、少なくともこいつには、言う必要性はない。しかし、その代わりに言いたいことならあった。
「あの夜のことを許したわけではない。気安く話しかけるな! カンバル!!」
キバは叫んだ。片手はぎゅっと握られ、爪が手のひらの柔肉に食いこんでいる。このとき目線はカンバルから下ろして、石造りの地面へ向けていた。しばらく必死に自制心を押さえ込んだ後、何事もなかったように、キバは振り返るものかと思いながら、再び足を動かしはじめた。
《そうさ、お前の下らん話に付き合っている暇はない》キバは湖を背景に並んだ岩の上を歩きながら、そう思った。
湖を通り抜け、水の国へたどり着き、西へ西へと歩き続けている。この頃になると、午前中もなかばに入ろうとしていた。
ようやく見えてきたゲボーレンの小屋へ辿り着くと、キバは雪のごとく白い手で木製の戸の取っ手を回した。取っ手は寂れているせいか、重たかった。だが、そんなことは重大でない。
ギシギシと軋む音を立てながら、戸を開く。音を鳴らそうと思わなくとも、古びた戸は勝手に鳴っていた。
部屋の中へ視線をめぐらせると、一人の貧相な体格の少女が白い寝床でこちらに背を向け横になっていた。寝ているのか、はたまた横になっているだけなのか、それは分からなかった。キバは、静かに小屋の中へ立ち入ると、少女のそばへ寄り、静かに腰を下ろした。彼女の息の浅さで、すぐ分かった――寝ている訳ではないのだろう。ただ、見ず知らずの男が突然訪れてきて、驚いてしまったのかも知れない。
「突然、失礼いたしました。我が名はキバ。真実を知りたければ来なさい」
彼は、静かにそういうと軽やかに腰を上げて小屋から静かに立ち去っていった。
キバは、取っ手から手を外すと、振り返ってただ、どこまでも続く水晶のような浅い水面ばかりの方へ体の向きを変えた――後は、あの子自信の意志に任せよう。
二
見知らぬ誰かの気配に驚いたゆえ、小春は直ぐに寝具へ身体を滑りこませた。と同時に、誰かが小屋の中へ足を踏み入れる微かな足音が耳に飛び込んでくる。
《起き上がるものか。起き上がるものか。起き上がってはいけない》小春は自分に言い聞かせ、必死に寝ているふりを演じる。
小春は怖かった。見ず知らずの世界へ訪れて、見ず知らずの小屋で私は寝床へ付き、ついで、見ず知らずの誰かがこちらへだんだんと近づいて来るとなっては――無理もない。
しかし、すでに演じていることは、ばれている体だった。
「突然、失礼いたしました。我が名はキバ。真実を知りたければ来なさい」
優しい口調のささやき声が耳をくすぐった。ついで、戸の軋む音がなり、青年(青年のだす若い声音だったため、それがわかった)がしずしずと小屋を後にしたことが分かると小春は肩の力をぬいた。
そして、疑問は頭をよぎった。名はキバ? 真実? ――まず、一つ目の疑問において、小春はふと、水魔のいっていた言葉を思い出していた。
《そなたが私の庭で気を失ったところ、キバという名の親切な紳士が私の元にそなたを泊めさせてくれるよう訪れたのだ》ついで、《その言葉、そっくりそのまま、そなたを救ったキバという男に訪ねてたもれ。あの青年が、そなたの名を記したのでわたし達はそなたの名を知った》そうか、あの人が私を救ってくれたに違いない。私の名前をご存知であるならば、その件において訪ねるために小屋をでる必要性があるだろう。
二つ目の疑問は何度考えても、一体なんの〝真実〟だというのか小春には分からなかった。しかし、わざわざそれを伝えるために私の元へ来たというならば、とても無視は出来ないことでもあった。直感も、行ったほうがいいと訴えてくるような感覚がある。
小春は、ひしと心に決めると寝具を押しのけて体を起こし、小屋の戸まで進んだ。ついで、取っ手を掴んでねじり開けた。あいかわらず、ギシギシと軋む音が立つ戸を、ゆっくりと開く。この瞬間に、外の綺麗な空気が頬をつついて来た。そのまま、小春は土の道の上に、足を踏み入れだした。ところが、すぐに足が止まった。
直ぐ、右側で白い髪が印象的な目鼻立ちの整った青年が立ち尽くして待っていたのである。
「来なさい」
彼はこちらに目を合わせると、それだけを口にし、くるりと踵を返して歩きだして行った。
小春は、キバと名乗る青年の後を追う。
キバは、小屋の後ろへ回って右手に佇んだ岩山の方へと進んでいる。
小春は、後に続きながら訪ねた。
「あなたが私を助けてくれたのですよね?」
しかし、彼はひたすら歩くばかりで無答だった。そこで、単刀直入に尋ねることにした。
「なぜ、私の名前を?」
すると、目線は岩山の方を離さなかったものの、ようやくキバの口は開かれた。
「私は、そなたが幼い頃から知っている」
小春は、目を見開いた。幼い頃から? ――小春には分からなかった。この青年のことは、今初めて知ったのだから。
「さっぱり分かりませんが……真実とは、一体なんのことです?」
「そなたの宿命は重要なのだ」キバは答えた。
宿命だの、重要だの、この人は一体何が言いたいのだろう? ――と小春は思い、そして力強くこう言い張った。
「まったく分かりません」
「理解し得るために、案内進ぜよう」
キバが言うが否や、いつの間にか目の前には、大きな岩山を周囲に縁取った空洞が佇んでいた。すなわち、洞窟である。
小春は、錯乱していたおかげで我に返った時には、すでに洞窟を前にしていた体だった。
洞窟の入口付近には、いくつもの古ぼけて煤けた燈籠が散乱している。この瞬間、小春は様々な思考や想像が過ぎって恐怖心が芽生えだし、眉をひそめだした。
そして、キバはそのいくつもの燈籠が散乱されているのを見て何事かひらめくと、しゃがみこみ、燈籠の一つを掴みとりながら言った。
「使えるな」
ついで、キバは膝をばね仕掛けのように動かして立ちあがると、暗黒に包まれた洞窟の中へさも慣れているような足取りで歩いて行った。
小春は、風の如く先に行ってしまったキバを追い、暗黒に染まり立てられた中へ飛び込んだ。飛び込んでしまった。
四辺一面は無論、暗闇に包まれている。小春は足をゆっくりと進め、キバの姿を探そうと目を細めた。やがてしっかりとした背中が、微かに揺れ動いているのがぼんやりと見えだした。小春はすぐ駆けてゆき、キバの背後に続く。
そして、キバは歩きながら片手に持った燈籠にもう一方の手をかざしだした。すると、魔法の如く細くした火が灯されるではないか。火はあかあかと燃えている。
小春は目を見開き、思わず呆気に取られてしまった。ついで、四辺へ視線をめぐらせる。
一体、これはなんだろう? ――暗闇に包まれて全く気づくことがなかった周囲の景色は、今や燈籠の仄かな燈火により、目が眩むほどの煌めきを放っていた。天井に満天の星空のように輝く、美しすぎるブルーの光。この完璧な美しさは、なにか人工物にも思えてしまう。
これらは、光の精霊ルークスとはまた違う輝きであるため、小春には正体が掴めなかった。
「これは……」
「土ボタルだ、ライトではない。青白い光をたたえ、獲物をおびき寄せる。天井から垂れ下がってみえるのも、獲物をとるために出す透明な粘着性の糸のお陰だよ」と、キバは説明した。
「きれい」
小春はそういって、周囲へ視線をめぐらせながら、相変わらずキバの背中の後ろに続いていた。
そこから、二メートルばかり進むと土ボタルの姿は全く見当たらなくなっていた。その代わり、二人が横切ってゆくと、洞窟に横たわる岩の隙間で十数匹ものコウモリが羽根をばたつかせ蠢いていた。
道先は、やぶになった先に不安定な細い吊り橋がかかっていた。やぶになった先はぽっかりと丸い空洞が出来ているためであることは、言うまでもないだろう。ここは洞窟の中、どんな所が有ろうとおかしくは無い。
キバは、さも当然のことのように吊り橋を進んでゆく。小春は心臓の鼓動が細かく振動していたが、行きにくい学校へ入る直前にいつも感じていたあの心臓の爆発音よりはるかにましだったため、すんなりと木材の吊り橋の上に足を踏み入れることが出来た。それに、ここは美しい。吊り橋の中央まで来ると暖かくて眩い光が天井からさすのを身に感じ、いつの間にか、心地が良くなっていたのである(それはそのはず、その場所の天井は丸く空洞になっており外からの日差しが当たるのである)。
吊り橋を降りても尚、キバの足は止まることを知らないように進んでいた。恐らく、〝真実〟に繋がる何かがこの先にあるのだろう。そうに違いない――と小春は思いながら、相変わらずキバの後に続いていた。
すると、下りの階段が現れてきた。それもかなり急の坂になった階段だった。土色の景色の中に佇んだその階段は、同じ土色であり、手すりを支えている部分は、Sの文字の形となった弓なりの細い棒がドミノのように並んでいる。
そこをキバは相変わらずの足取りで進んでゆく。ついで、小春も相変わらずキバの背中について足を踏み入れていった。かなり急な階段である事は見るからにも分かったが、実際に足を踏み入れて見るとかなりエネルギーが消費されるような感覚に襲われた。ところが、キバはこれまでとなんら変わらぬ足取りで進んでいる。慣れているのか、はたまた、それだけ急ぐ必要があるのか――それは、まだ小春には分からなかった。
階段を下りて、さらに、同じ下り階段の続いた左手へと、くるりと足先の方向を変え、キバは階段を下りてゆく。小春も続く。止ることを知らないキバの足へついてゆくことは、かなり体力が消費され、いつも考え込みすぎる癖のある小春らしからぬ、何かを考えることも減っていた。それでも、止めじと小春の足はキバへ続いている。
やがて、いくつかの階段を下りきると、キバの足はだんだんと緩やかになっていった。
この先は、とあるホール並の広さを有した洞窟の空間が広がっていた。
そこへ突如、何処からともなく高い声がこちらに話しかけてきた。
「やあ、キバ! 待ってたよ」
キバの足元から見上げていたのは他ならぬこの声の主、布切れ姿に団子っぱなとくるくるよく動く目の洞守、アルである。洞守たちは、小人と呼ばれ、皆背丈は、通常の手持ちサイズ五百ミリリットルのペットボトル三分の二程しかない。
その小人の姿を目にして、小春は思わず二歩ほどあとじさっていた。しかし、ある絶対的な思考が脳内を横切っていった――いえ、これは絶対に信じられないことでも何でもないのよ。確実にいまの私なら夢とは思わない。これまで、さんざんと目にして来たのよ。
不思議としか言えざるものでも、この世界では確実に現実的。非現実的とは、異世界をいうものであり、最早、小春のいま居る世界はいま有る世界なのだから、現実といえるのだ。
はじめは、確かに自分の中に広がる空想か夢、はたまた、ただ単に頭がラリってるのだと思っていた。でも、だんだんと彼女はそのことに気がついていったのである。
「すまない、アル。クライ魔のお陰で議論が長引いてしまった」
キバは見下ろして、そう言った。
「そうか。クライ魔は邪神様のただの言いなりだし、邪神様の造り上げた闇そのものなんだからさ、余り手こずるなよ」と、足元でアルが見上げる。気さくな口調だった。
「ああ、分かっている」と、キバは答えた。
そして、辺りは一気にざわめき始めた。様々な声音が二人の周りに響き渡っている。
小春は、見開いた目で辺りをめぐらせはじめた。すると、いつの間に、洞守達は二人の周りを囲って群がっていた。皆がやがやと、さも嬉しそうに話している。キバを敬意した言葉やキバに会えたことで喜ぶ洞守の姿が多々見られる。
しかし、小春はそれを図々しいより、むしろ愛らしく思った。何しろ、こんなにも小さな人達が皆、一人の青年の到来に喜んでいる体なのだから。それでも、彼らが一体何者なのかという疑問は勿論ある。
小春は、小人達を見下ろしながら、キバの耳元へ顔を寄せて質問をささやいた。
「キバ、これは何?」
「洞守だよ」と、キバは答えた――目線の先は洞守達へ向けたままだった。
「洞守……」小春は呟いた。
やがて、何処からか、ふいに年配と思われる男性の声が洞窟中に大きく響き渡った。
「しずまれ!」
この瞬間、辺りの洞守達の声音がぴたりと止み、視線を二人の立ち尽くす向こう側、一点に巡らせはじめた。
すると、二人の遥か先に(少なくとも、この仄暗い洞窟の中ではそう感じた)平で横に伸びひろがった岩の上で、結跏趺坐で座禅を組んでいる一人の年老った洞守の姿があった。
伸びっぱなしの白髪頭。濃い茶色い皺だらけの顔。そして、その洞守はゆっくりと立ち上がり、ゆっくりと前進しながら、和み豊かな老人の口調でいった。
「さて、あなた様のお力無しではいけませんな」ついで、キバから小春へ視線を移す。「あそうそう、小春や。ようこそ、こんな洞窟の奥深くまでよくお出でなさった」
小春は、自然と口が開き前歯が覗いた。ついで一度、小さく頭をうなずかせた。
「さて」キバはいった。さものろのろとこの場を過ごすことを、避けているような雰囲気をただよわせている。「取り掛かろう」
辺りの洞守達は承知したように、キバが足を進めだす度、通り道をつくってゆく。
キバは、数歩前進すると右に折れて足を進めた。その先には、平に伸びひろがった黄褐色の岩で出来たホールの中央壁付近に、黄褐色を帯び巨大な長方形(横の方が長く縦が短い)の形をしたものが佇んでいる。ホール上の大はんがそれを覆い尽くさんばかりであることから、それが主役で、それの為のみのホールである事は見当がつく。ホール上の左端には、弓なりの幾つもの木の棒が生えており、ホールの右先の壁には一つの木の棒がうねるように張り付いていた。さらに、ホールの端を囲うかの如く、あかあかと灯った三つのかがり火が、適当な位置に佇んでいる。
キバは、浅い四段の広い円状の形となっている階段を進み、ホールの上に佇んだ。
小春は、その場にしばし佇んでいたが、この時分となりようやくキバの佇んだホールの場所へと徐に足を進めだしていった。
ついでキバは、長方形の岩壁の前に佇むとしゃがみ、燈籠を床に置いた――その音は、微かな音ながらこの洞窟の中にはよく響いていた。ついで、キバは膝をばね仕掛けのように動かして立ちあがり、そのまま岩壁を前にして、佇んだ。
洞守達は皆、階段の下からキバを見守りながら口々にいった。
「魔法を使えるのはキバだけだからね」
「ありがたや。キバ様」ついで、さも人柄の良さそうな洞守がいった。
「一体、何を」小春は、目の前のキバの背中を見つめながら呟いた。
すると時分、平で横に伸びひろがった岩の上(この空間の中、左側の壁の位置にあり、その壁に平な岩がくっ付いている。また、岩造りのホールより左手の前方に位置する)で、再び結跏趺坐で座禅を組んでいる老人の洞守は小春の言葉をさえぎった。
「このニナイめが、影神界の真実とあなた様の神に与えられし宿命を教えるとしよう」老人――ニナイ長老は、一度呼吸を置いてから再び口を開いた。「ですがな、その為には『真実』の記された壁画を映し出す必要があるのだ。それが出来るのは、魔法を使うことが出来るキバの他ないのであります故」
「壁画?」
ニナイ長老の方を振り返った小春は、そういいながら長方形の大きな岩壁の方へ再び向き直した。
その岩壁の前に佇むキバは、だらりと肩からぶら下げていた両腕を――まるで時間がスローモーションになったように――ゆっくりと肘を曲げてゆくと共に両外へ広げていった。
その矢先、ただの大きな岩壁だったそれに、さも古めかしい壁画が徐々に、魔法の如く現れてゆくではないか。
映し出されたこれらの壁画は、恐らく五千年もの昔の何者かによって描かれていたのではないだろうか(材料として、赤土・木炭を獣脂・血・樹液で溶かして混ぜ、黒・赤・黄・茶・褐色の顔料を作る。顔料はくぼんだ石等に貯蔵して、こけ、動物の毛、木の枝をブラシがわりに、または指を使いながら壁画を塗って描いたのではないだろうか)――この、太古の壁画を見れば誰もがそう思うほどだ。
小春は、岩のホールの上に立ち尽くしたまま、映し出された壁画から、吸い込まれるように目を離すことができなくなっていた。小春の瞳の中には、壁画の中に動く黒き人々が映し出されていた。
さらに、頭の中に直接、彼らのクラリネットのような叫び声が轟音に鳴り響いてくる。
この瞬間、どういう訳か胸の内で悲しみが込み上げてくる感覚がした。
そうして、ニナイ長老は語り出した――中央の一番上に描かれてある壁画の黒き人々は相変わらず蠢いている。
《全知全能の神は人間達を作りあげた。本来、人間とはせっせと努力をして苦をやり抜いてゆくものである。ところがどうじゃ? 世の人間達を見渡せばどの者も楽して生活をしたいと思い立ち、ずるをしたりなんぞしたり簡単に生活をして、金を儲けたりしている者に世は溢れかえっておる。
それではいかん。このままでは、世界の全体が纏まらなくなってしまうからな》
すると、今までじっとこちらを見守っていた洞守達は口々にいい始めた。
「大変だ! 世界が纏まらなくなっては、世界は汚い人間達のせいで汚れていってしまう!」と、アルがいった。
「人間達は、なんて酷いんだ!」
黒き人々――人間達――が蠢く下の中央には、赤子のシルエットの腹部に青い光をたたえた壁画が描かれてあった。
《そうして、呆れ果てた全知全能の神は、世界を纏めるために、百年に一度、選んだ一人の人間にある宿命を与えたることにした。それが、世の人間達の見本となる人間として生活をするというものだったのじゃ》間。ついで、《よく聞いておくのじゃよ。ここからが本題なのじゃ》
赤子のシルエットの下には、中央に一本の剣が、その左右にそれぞれ黒色で描かれてある人々があった。
《むかし、神の世界には太古からの月の剣が眠られていた。その剣には、夢や望み、願いや幸せを全て思いのまま手にすることが出来る力が封じられているのじゃ。やがて、それを知った者と者で、月の剣を廻る戦争がはじまってしまった》
ニナイ長老がそういった矢先、剣の左右にいた黒き人々はエレキギターのような叫び声を上げながら動きはじめた。彼ら同士の、槍と槍がぶつかり合い、ぶつかり合っている。
戦争の真っ只中の壁画の下には、神とやらの人物が描かれており(白い衣服を着け、長い黒髪をされていた)、その神は、無の地へ(薄暗い影のような地でもあった)矛を突き刺し、鍋の中をかきまぜるように、ぐるぐるまわした。
かきまぜるにつれて、無は有へと姿を変え、やがて矛を引き上げると、矛の先から一滴一滴したたり落ちたものが、重なり積もり、新たな世界ができあがった。
《全知全能の神は、月の剣を守るために、神の世界であり神の世界でない、神界の見えざる影に新たなる世界を作り上げた。それが、この影神界なのじゃ》ニナイ長老は尚、座禅を組むまま語り続けた。《全知全能の神は、月の剣を与えるに相応しき者が、月の剣をその手に治めるまで、剣を守るための世界として影神界をなり立てた。剣があり影神界は生き、剣がなくなれば影神界は消え去るようにと、全知全能の神は運命の書に記した。
つまり影神界は、いつしか、必ず消え去る運命をさだめられた世界なのじゃよ》
そして、一番右上(黒色で描かれた人間の右隣)に描かれてあるのは、月の剣を手に持った全知全能の神の姿であった。またしても、神は動きはじめ、神は月の剣を手から離し、剣はそのまま地底に突き刺さった。ついで、ひとりでにヤマタノオロチが魔法の如く新たに描き出されていった。
さらにその下には、赤い髪をなびかせた美男子が黒馬に乗る姿と、その青年を取り囲む黒き人々が描かれてある。
《全知全能の神が、月の剣を送った場所は、影神界の遥か地の底。そこで神は、作り上げたヤマタノオロチを地の底に送った。呑みならず、そこから東の地に位置する火の国を創造し、火の国を治める国王、赤魔とその僕をお作りになられた》ついで、《ところが、赤魔王は不完全の神だったのじゃ。この世界では、そういう者をデミ族というのじゃが……神はどうやらそれを思ってしたかは定かではないが、それから早二年のこと》
赤魔とその僕の下に描かれてあるのは、城にも引けを取らぬほど大きな海蛇が、水の城にぐるりと巻きつき、うねうねと体を波打っている姿だった。
すると、徐々に色を増しながら黒き人々が東方面から水の魔物の周囲へと駆けてきた。
《剣を送った位置の地上に水の国を造り上げ、水の国を治める水の魔物をお作りになられた。水の魔物は、神の存在に等しかったため、赤魔より地位を高め、デミ族の者を火の国へ取り残し、他の者は全て自らの僕としたのじゃ。そうして、水の国は今に至る。つまりは、この世界にも人間の世界と同様、種族の違いが存在したがゆえに、差別というものが起こってしまっとるという訳じゃ》
水の国の右斜め下には、女の横顔のシルエットが描かれて、その中の中心に、青白い光が讃えられてある。さらに、青き光の上を突き抜けるように、銀色に煌めく鋭い剣が斜めに傾いて描かれてあった。
《それから何千年もの歳月が経ち、一方、人間の世界は、新たに人間達の見本となる宿命を与えられた子ができた。ところが、その者の運命は過酷だったのじゃ。人々の見本にならねばならない故に、人と違うことがあざとなり苦に追い込まれる時がやって来る。と、全知全能の神は定められた子の未来を見ぬき、ある決意を下したのじゃ。今回、人間達の見本となる子には、必ず時が来れば、月の剣を求めよ、さらば与えられんと》――つまりは、月の剣――幸福――を与えられるのをただ待つのではなく、自ら積極的に努力すれば、必ずその者には月の剣が得られるということを意味していた。
それらを語り終えると、ニナイ長老は乾いた口を閉じた。
小春は、ふと、一番上の左側に描かれている壁画を一度見ると、磁石に引っ張られているようにその絵から目を離すことができなくなった。
石造りの床の上に佇む巨大な岩が描かれ、そこには岩を削って作られた人の顔面(左側に顔の正面を向かせている)が薄らと描かれている。巨大な岩の左側には、岩の方面に土下座をして、繰り返し何度も何度も頭を下げている白い髪が印象深い青年の姿が描かれてあった。――それは、誰かにどことなく似通っている。
その下には、浅い水が滴る地の上で目を瞑り倒れ込んだ同じ白い髪の青年の姿が描かれてあった。やがて、段々と色を増しながら、黒馬に乗った赤魔が東方面から歩んで来ると、青年を見下ろした。
そして小春は、左前方にいる背を向けたキバのシロカネ(銀)の如く白い髪を吸い込まれるように見つめた。と同時に、視界の中は壁画がぼんやりとして見える。
「……あなたは、一体」
小春が、思わず声を漏らすが否や、壁画はじんわりと消えてゆき、元の岩壁に戻っていった。
「それは、お主の他ならぬ」
ニナイ長老の声が背後に聞こえ、小春は我に返り、その言葉の意味をすぐ理解した。
そして、小春はニナイ長老の方を振り返り、いった。
「私が一番辛かったのは、理解者が何処にもいなかったことでした」
「うん。幼い頃から周囲の人と温度差を感じるのも、小春が異質だからだよ。勿論、いい意味でね」キバは、小春の方を振り返ると瞬時にそういった。
「もしくは」ニナイ長老は、座禅を組むまま遮った。「小春がそういう子だからこそ、神が宿命を定めたのやも知れぬ」
ついでキバは、小春の目の前に来るとしゃがみ、片膝を立て、頭を下げた。
「小春様、この洞窟の奥は水の城の地下へと続いております。水の城の地下にこそ、例の『月の剣』が眠られているのです。しかし、そこには真実の壁画の通り、オロチが見張り番についております」キバは、城に仕える者のように丁寧にいった。ついで、僅かに頭を上げ、小春を見上げると、いつもと同じ口調で言いだした。「だから、私達がおとりとなっている隙に、君が剣を抜くんだ」
小春はかぶりを振った。
「お言葉ですが、そんなことをすればあなた達が」
死んでしまう――と、真実をしった彼女がそう言い終える前に、それを遮ったのはニナイ長老だった。
「侮ってはならん! お主は選ばれたのじゃ。速やかに行動をとりなさい。ワカ族達に気付かれる前に剣を手にするのだ。さもなくば、この世界から抜け出すことは難しくなるだろう」
「え?」小春は、自然と口が開き呆然と立ち尽くした。
「ワカ族とは、完全なる神を意味する。端的に言えば、水の国の者達のことだ。彼らは自らが亡びることを恐れている。それ故、そなたの正体がバレると面倒だぞ」
キバは立ち上がると、そう言った。
「僕らもいくよ」
ホールの外にいるアルの声を聞いたキバは、ホールの外でこちらを見上げている洞守一同へ視線を巡らせた。そして、キバは黙ってひしと頷いた。
「キバ、ちょいと来なさい」ニナイ長老は、相変わらず座禅を組むまま、そう言った。
すると、キバは速やかにホールを降り、ニナイ長老の前に来ると、半分しゃがんだ――背の低いニナイ長老が弓と幾つかの弓矢が入った矢筒を両手に持っていたため、自分を呼び寄せた理由が想像ついたからだ(恐らくは、背後に隠し持っていたのだろう)。
「これを使いなさい」ニナイ長老はそう言って、彼の想像通り、手に持った弓と矢筒を彼に差し出した。
「ありがたい」
キバはそう言うと、ひしと弓と矢筒を受け取った。その瞬間、掌に冷たさと重みを感じ、僅かながら弓と矢筒を手にした両手が下に降りた。
ついで、キバが体勢を戻すが否や小春はニナイ長老へ視線を向け、言いだした。
「ですが、ですが、それでは……あなた達は一体、何者なのですか?」
その瞬間、皆がホール上に佇む小春に注目をした。
「僕らは、ここを皆守っているのさ。影神界の歴史と真実が刻まれているのはこの壁画だけだからね」と、ホールの下から、さも優しそうな顔立ちをした一人の洞守が、ニナイ長老が口を開く前にそういった。
「さあ、行こう」
キバはそう言い切ると、足を進めだしながら、弓と矢筒を背中に背負った。
ホール付近まで進むと、右へ折れ、ホールの縁に沿って足を進めていた。承知した洞守達は彼の後に続いていく。その先は、岩壁を背景に枯れ葉で作られたすだれがあり、近づくにつれて、葉と土の入り交じる香りが鼻孔を満たした。ついで、キバは振り返りざま、ホールの上に佇む小春に向けて、左側の人差し指、中指をぴたりと密着させたその指先を、素早く二回カーブさせてカモンの合図をよこすと、すぐにまた、枯れ葉のすだれの方に顔を戻して足を進めた。
枯れ葉のすだれを掴みあげると、その瞬間に葉と土の匂いが数十倍膨れ上がっていたものの、そのまますだれをくぐり抜けて行けば、すぐにまた、香りは仄かな自然の醸し出す香気へ戻っていった。
一方、小春は只ならぬ空気感に押しつぶされた挙句、行かねばならぬことなのだと実感をし、素直に彼らのいうことに従うことにして、足を進めだした。どちらにせよ、面倒な事に、この異界の如し神界からぬけ出すためには、彼らにしたがう他ならない事もまた事実だった。
岩のホールの階段を降りて、左へ折れると、ホールの縁にそって歩いていき、やがて、キバの後へ続く洞守達の元までたどり着いた。が、小春の足は止まることなく、そのまま枯れ葉のすだれを掴みあげた。この瞬間、葉と土の入り交じる強烈な香りが鼻孔を満たし、思わず、彼女は鼻をつまみながら枯れ葉のすだれをくぐりぬけた。
その先は、比較的広い城の地下と洞窟の狭間であった。四メートルほど先に煉瓦で出来たトンネルの縁があり、その入り口付近の右角の床に、灯火の明かりが蛍のように光っている。故に、内部は仄かな柑子色に染まっていた。
そのトンネルへ向けて足を進めている洞守達についで、先頭につくキバの姿があり、小春はすぐに早歩きでキバのそばへと近づいて行った。
キバは振り返ることなく、足を進め続けつつも、その気配を察知したのかこう言った。
「小春の周りへ付き、確実に彼女を守るんだ」
すると、小春の左右にそれぞれ二人の洞守が、縦にぴたりと並びながら歩きはじめ、背後には数人洞守がいたが、一番彼女の近くにいた一人の洞守が、小春のすぐ後ろへぴたりと付き添いながら歩きはじめた。
そこまでする必要があるほど、ここから先は危険なのだろうかという思いを抱きつつ、今はただ、足を進み続ける他なかった。
やがて、トンネル内へ入り、辺りは暗がりに包まれたものの、特に異常は見られず、二メートルも進めばすぐに元の柑子色の景色に戻っていた。さらに、続いての煉瓦で出来たトンネルが二メートルほど先に佇んでいる。丸で、そう、巨大なミルフィーユの中を突き進んでいるような感覚に彼女は襲われた。今回のトンネルの縁には、両方の角の床に蛍のような灯火の明かりが灯されていた。やがて瞬時に小春の瞳孔は大きくなり、景色は暗がりとなった。ついで、柑子色の景色に再び戻ると瞳孔の大きさはすぐに正常を取り戻した。
この先にはもうトンネルはなく、小春は内心ほっとした。ミルフィーユの中を突き進んでいるような奇妙な気分からすぐに解放されたかったのだ。しかし、同時に何ともいえない異臭が鼻をついた。
左を振り向くと、背もたれのない木の長椅子が煉瓦の壁際に定着されていた。木の長椅子のすぐ先の壁際には縦にやや長さのある長方形の照明器具が月のような光を放っている。
ついで、右を振り向いたその瞬間、小春の両腕にさあっと鳥肌が立った。その右先にある場所こそ、異臭の原因なる現場だったからだ。
「なんだいこりゃ」キバは歩きながら――はじめてこの道を歩いている小春同様――怪訝そうに言った。
「亡骸の匂いだ……」ついで、キバの背後で歩くアルは、情けなくそう言った。
いや、正式には亡骸と鉄が混ぜあわさった香りだ――と、キバは思う。
その入口の縁には、壁に定着された灯り本体を包む鉄製の器具がちらりとのぞかせていた。
ついで牢獄の鉄格子と、天からぶら下がった鉄の鎖が三本ちらりと見えると共に、一番近くにある鉄の鎖(そのため、一番長さのあるように感じた)の傍らから、宙ぶらりんの生足が僅かに覗いていた。
小春は、眉をひそめた。そうなったのは、キバも同じである。
それでも、キバはテンポを崩さずに歩き続けていたため、一同は、すぐに例の異臭から解放されていた。しかし、小春だけはまだ、深い底で不快感が眠っていた。一体、あの宙ぶらりんとなってしまった人に何があったというのか? ――そればかりは、小春の思考を離さなかった。それでも、同時に自分がいま心配しなければならないことはそれではなくて、確実に別にあることもよくわかっていた。
やがて歩き進むと、二メートルほど離れた位置にあるそれぞれ左右の壁は古ぼけた煉瓦。土の床の中央には、灯火が道しるべのようにずらりと並んでいる。灯火が滲み出す柑子色はこの暗闇を包み込み、この奇妙な場所全体が柑子色に染まり立てられている。
そのどこかで見たこともあるような灯火に沿って、テンポは相変わらず崩さずに進んでいくと、目と鼻の先には、トンネルのように丸くぽっかりと空いた先に、石造りの床が続いていた。
「剣はこの先にある」キバは足を止めるとそう言った。
すると、突如、その奥からいびきともとらえられるような低い唸り声が響きだした。相当でかい化け物がこの先にいるに違いない――と、小春の直感は確実に知らせていた。小春は眉を下げ、体中は微かに震えだしている。
その様子をちらりと振り返ったキバは、小春の背中に腕を伸ばした。優しく触れられている感覚はしているが、心臓は今でもエンジン音のようになっていることに変わりはなかった。
「大丈夫。私たちがいる」キバは囁いた。
ついでキバは、モーメントの笑みを浮かばせると、小春の背中から腕をするりとほどき、目の前へ視線を戻した。
キバは、一寸たりとも石造りの先から目をそらさず、みるみると火がついたように眼力が強まってゆく。そして、キバはトンネルの中へ――それも、これまでと同じテンポの足取りで――入り込んでいってしまった。
小春もすぐに洞守達と共に後へ続き、煉瓦で出来たトンネルの先へ足を踏み入れていった。床は土からコンクリートのような石造りの床に変わると彼女は二、三歩進んで足を止めた。
そこは、比較的広く、床、壁、天井はコンクリートのような石造りで出来ている。ところどころに神殿にあるような柱も佇んでおり、奥方に佇んだ柱は、どれも蔓草が巻きついていた。
中央の奥方に、月のような銀色の光を帯びた剣が石造りの台に刺さっていた。しかし、その傍らには、緑色の肌を帯びた巨大な化け物が、地面に横たわり、耳障りな寝息を立てている。
すると奴の、どっしりとした重量の体が起き上がったと同時に、鼻をつまみたくなる、肉の腐ったようなイヤな臭いが漂ってきた。
その臭いが耐えられなくなるほど強烈になったとき、はじめは一つだった化け物の顔が、次々に増え、八つの顔が現れた。一同の気配を感ずいたのかも知れない。
小春は、思わず床をする音を立てながら一歩、後ずさった。大きな音ではない――だがこの静寂のなかではよく響いた。
すると化け物は、真っ赤なほおづきのような眼をギラギラと光らせ、小春に視線を向けると、ひとつの体で八つもの頭を支えながら、猛烈な勢いでこちらへ急接近してきた。近づいて来るその胴体は、苔むしてウネウネとくねっている。さらに近づいてくるにつれて、血膿にただれた汚らしい胴体があらわになった。
小春は、思わず息が止まった。
この少女の瞳の中には、恐ろしい化け物の胸元が目と鼻の先にある姿が映し出されている。化け物の頭は目の前に振り落ちて、避けるようにでかい口はあんぐりと開かれた。
胸の奥では、心臓が意地のわるい小さなエンジンのように激しく動悸を刻んでいた。小春は悲鳴を振り絞った。ホラー映画でヒロインがあげるどんな悲鳴にもひけをとらないほど大きな悲鳴だった。化け物のぱっくりと開かれた口の中が、すぐ目の前にある。視界に覆い尽くされているのは、大量のだ液を含んだ大きな舌、ずらりと並んだ黄身を含む白色の鋭い牙だった。
そのとき突然、目にも見えぬ速さで飛んできた一本の矢は、狙いを違わず見事化け物――ヤマタノオロチ――の首筋へと突き立った。
オロチは痛みに耐えながら首をくねらせた。すると、その先に、シロカネ(銀)の如く白い髪の青年が弓をひしと構えて、力強い目でジッと睨みつけてくる姿がぼんやりと見える。そこでオロチは、起きた事実に気がついた。矢を放たれたのだ。
オロチは、白い髪の青年を真っ赤なほおづきのような眼で睨みつけ、コントラバスにも引けを取らぬほどの低い唸り声を上げた。ついで頭を振り落とし、首筋の皮膚に突き刺さっている一本の矢を歯で抜きとると、その忌々しい矢を床に投げ捨てた。そして、頭をあげたオロチは、ズルズルと体を引きずる音を立てながら白い髪の青年――キバ――の方へ、体の向きを変えた。だんだんと彼に近づいていく。
キバは、オロチを目の当たりにして、話を聞いて想像していたよりも、さらにおぞましい化け物だと呆気に取られたが、ひるむ気持ちは一寸もなかった。
石のようにジッと佇み、弓に矢を番えてしっかりと狙いを定めながら、オロチの姿を強い眼力で見据えつづける。
オロチがあと数歩ほどまで近寄ってきたところに、キバは矢を放った。
矢は狙いを違わずオロチの弱点である常に血にただれている腹の部位を貫いた。
さて、オロチは深々と突き刺さった矢のもたらす激痛に耐えかね、咆哮と共に激しく身をよじった。
そのオロチの背後では、いまだ身動きが取れず、目を見開いたまま立ち尽くす小春の姿も瞳に映る。
オロチの動作を好機と見たキバは、続いての矢を取りだし、構えながら叫んだ。
「何をしている! 早く、月の剣を抜くんだよ!」
叫ぶや否や、続いての矢がオロチの腹の部位へと放たれた。
小春は、思わず足をくずし床に尻をついてしまったが、直ぐに立ち上がり、奥方へと走りだしていった。
激痛と共に強い怒りが火の如く燃え盛ったオロチは、二本の矢に突き刺さった腹部から、どろどろと血潮があふれだしていることなどは、どうでもいいことだった。
オロチは、その胴体を、ウネウネとくねらせながら――強い眼力を向ける青年には目もくれず――自らが守る剣の方へと進んでいった。
小春は、今も月の剣のほうへと走っている。
「小春!」キバが叫んだ。
しかし、オロチはすぐ先にいた少女の背後を横切り、その先に佇んでいる古めかしい柱に頭から激突した。
月の剣を守る定めを与えられているはずのヤマタノオロチが、激怒ゆえに、その剣を守ることを放置したその姿は正に、狂気の沙汰である。
この衝撃に耐えられず、柱は折れて、大きな岩石のように崩れ落ちていった。
「……狂ってる」と、キバは小さく呟いた。
同行した洞守達はパニックに陥り、「怖いよー」などと言って、騒ぎ立てていた。
しかし、キバは相変わらず無表情ながら、オロチを眺めて佇んでいた。《ならば好都合。この状態なら、あとは小春が月の剣を手にするまでだ》確信と共にそう思っていたのだ。
月の剣を前にした小春は、きらきら輝く銀色の剣を見開いた目で見つめていた。そうして、小春は剣の柄を両手でひしと掴み、力をつけて引き抜こうと試みた。が、剣の柄を掴んだ掌の隙間からはまっ赤な鮮血がのぞきはじめるばかりである。引き抜くことは出来なかった。
それでも、必死に月の剣を引き抜こうと掌に血を滲ませ続ける彼女の姿を、一同は眺めていた。
「キバ、本当にあの子だったのかい?」キバの傍らにいたアルが訪ねた。
「神様まちがえた。神様ちがう子連れてきた」ついで、別の洞守がひょこひょこと石造りの床の上を歩きながら棒読みでいった。
しかし、キバは即座にさえぎった。「違う! そんなはずはない!」そう言いながら、片手に持つ弓を力強く横に振るった。
さて、オロチはしばらくの間、壊れた柱の傍らで石のように固まっていた。
ついで、ひたすら怒りに燃え、真っ赤なほおづきのような眼をギラギラと光らせながら、たった数センチしかない洞守の二人を見下ろした。二人は、オロチを見上げながら震え上がる。
この瞬間、オロチは怒りの腹いせに、二つの頭を振り落としながら、鋭い歯をむき出して洞守達に襲いかかった。
「ワッカ、イデア!」キバは二人の名を叫んだ。
だが、そのままオロチは、首筋をウネウネとくねらせながら二人を飲みこんでしまった。
それを見た、一同は息を飲んだ。
「ワッカとイデアを食べた!」一人の洞守は叫び声をあげる。
異様なまでの物騒ぎに、剣の柄を両手に抱えながらも小春はふと振り返っていた。が、振り返ってしまったことを後悔した。心の底で、怒りと悲しみがこみ上げていたからだ。
それでも、今のなすべき役目が目の前にある限り必死に気持ちを押さえ込み、汗に滴るひたいを拭うことも忘れ、再び視線を前に戻した。
三
そのころ、すでに水の城の者達は異変に気が付いていた。
一番上階にある水魔の部屋には、ハシャクが訪れている。木製の机を前方にして座る水魔を正面にして、ハシャクは佇んでいた。
「なにやら、騒がしいですなあ」ハシャクは言った。
「僕のものに行かせておいた。それで充分だろう」
水魔は濡れた唇を閉じると、机の上に肘をついた。その姿は落ち着いている。
それから一泊ほど間をおくと、水魔はハシャクを鋭い目で睨みつけた。まるで、何かに気がついたようにも見える。
この瞬間、ハシャクはぎくりとした。心臓が引きちぎれそうな気持ちになっている。
「い、いえ。ちゃんと小屋へ送りましたよ」
そうして、ハシャクは慌てて誤解を解こうと事実をのべた。
それを聞いた水魔は、そのまま蛇のように鋭く目を細めてから、机の上に視線を移した。
四
「やばいよ。このままじゃ剣もぬけず、皆殺しだよ」アルは、剣を前にして佇む小春と、次々に柱を押したおしながら暴れ回るオロチを眺めながら言った。
小春は、痺れる両手を剣の柄からついに離した。両手は痙攣をし、掌には真っ赤な血が滲んでいる。
「なぜ抜けないの……」
困り果てた小春は、眉を下げた。
その小春の遥か後ろには、ついにキバがお手上げ状態となって、ひたいに片方の手をあてていた。
「こんなことなら、半分にしておけばよかったか……仕方ない」
キバは、シャツの内に入れていた小さな瓶を取り出した。
この瓶の中に入る酒は、八回繰り返し醸したかなり強い酒であり、この頃の不安定な気持ちを落ち着かせるためには不可欠な必要品だった。
しかしこの状況には、やむを得ず、キバはシャツの内から取りだした小さな瓶の蓋を開けると、すぐに暴れ狂うオロチへ向かって瓶を放り投げた。
すると、オロチは芳醇な香りのする瓶にすぐに目を留め、ためらうことなく、八つのうち一つの頭が鋭い歯をむき出して、放り投げられた瓶を咥えると、中の酒をゴクゴクと飲み始めた。
酒は、またたく間に飲み干されてしまった。しかし、この酒は何度も醸し出した強い酒だ。さすがのオロチもすっかり酔いがまわって、真っ赤な眼はうつろになり、ついには八つの頭すべてが、石造りの地面に横たわり、耳障りな寝息を立てはじめた。
一同は、ようやく肩の力をぬいた。
その矢先、固いクッキーの山が砕け落ちたような音が背後から聞こえ、緊張感を取り戻した一同は後ろを振り向いた。
城壁は一部、豪快に壊されている。壊された壁から地下の中は、細長い台形の太陽の光に照らされていた。
そこには、真っ赤な髪で黄金の仮面をつけた男が、艶めかしい毛並みの黒馬にのっており、黒馬は、怒りに燃えた目つきで壊された城壁のくずの上に乗るとぴたりと足を止めた。その硬い蹄で壁を突き破ったに違いない。小春はそう思った。と同時に、嫌な思考も過ぎっていた。《あの馬も魔法で操られているのだろうか?》気がつくと、小屋へ向かうために出会った馬車を引いていた白馬がちらりと脳裡をかすめていった。小春は眉を下げて、またしても哀れんだ。《魔法なんてクソ食らえだわ》そう思いつつも、小春は声に出さぬように口を閉じていた。
「赤魔様」キバは安堵のため息をついて言った。「城壁を壊したのですか?」
「我輩ではない。馬に言ってくれ」赤魔はそう言って、片方の手を額にあてた。
「しかし赤魔さっ」キバは何かを言いかけたが、赤魔が唇に指をあてがって、息の交じった声を漏らした。「シー」
その矢先、忙しない足音が響き渡ってきた。人ではない、蹄の音だった。城の上階へ続く西側から、傍らに弓を持った八人の水魔の僕達が、白馬の背に乗って、一同の元へどんどん押し寄せて来ている様子だった。
それは赤魔の黒馬と同様、何処にでもいる普通の白馬である。馬車を引いていた時のたくさん脚があった白馬とは違った。たぶん、馬車を引いていたあの白馬が特別のものだったのだろう。
そして、赤魔は足音のする側へ視線を走らせながら、低い声で言いだした。
「来なさい」
やがて、どっしりとした厚みがある服を身にまとった水の女王の僕達は真剣な血相で、こちらへ押し寄せてきた。
キバと小春の足は反射的に動きだし、赤魔のいる壊れた城壁へとかけて行った。
小春は、最早ただの岩くずでしかない城壁の残骸の手前でぴたりと足を止めた。
その様子をちらりと振り返ったキバも足を止めだした。キバが心配気に小春の様子を見ている中、小春は背後を振り返って、口を開いた。
「あなた達は?」
それは、洞守達に向けられた言葉である。
「僕らは平気さ。洞窟の道のりは知り尽くしている」アルが明るい表情でそう答えた。
ついで背中から赤魔の声が聞こえて、小春は前方に顔を戻した。
「あの者達の狙いは君なのだ。彼らではない」
その言葉を聞いて承知した小春が再び足を進めていくと、赤魔がのる黒馬の方向は側面を向いた。
小春はその意味をすぐに理解して、黒馬に近づいていくと、艶めかしい毛並みが素晴らしい黒馬に手を伸ばして触れた。その毛ざわりは柔らかく、癖ひとつなかった。
そして黒馬の傍らにはもう一頭、茶色の毛並みの馬が用意されていた。
このとき同時に、キバは茶色の馬にまたがった。
小春が黒馬に触れた直後に、背後から、今までただ見守るばかりであった全洞守を統率する長老ニナイの声が聞こえて、小春は振り向いた。
「わしらは見方じゃ。忘れるなよ」
小春はうなずいた。そして、前に向き直り黒馬にまたがった。赤魔の広い背中が視界に広がる。それにしても、ニナイ長老の言葉は胸の中を覆い尽くすように耳からはなれなかった。
《……この私に見方?》
「二人の洞守が食べられました」キバは、左側で黒馬にのる赤魔に静かに伝えた。
すると、赤魔は黙ったままどこか遠くをを眺めた。丸で、何か思いつめているようにも見える。
ひどい殺気と、幾つもの蹄の足音が、すぐそこに迫っていた。
そうして、一行は、東へ向かって馬を走らせ、洞守らと別れた。東には赤魔治める火の国があるのだ。
キバは、追っ手から遠ざけるように、馬を矢のごとく走らせながら、左側の赤魔にいった。
「後は私が。先に行ってください」
すると、キバは背後に馬を転回させた。馬は、よく通る声で鳴き声をあげている。
その間に、赤魔は迷いなく先を急ぎ、東へ黒馬を走らせて行った。
キバは、背中に背負う武器を、すぐに取り出して、弓に矢をつがえた。すぐそこまで接近した、追っ手の男に狙いを定めると、容赦なく、射がけた。
放たれた矢は見事、相手の胸を貫き、その男はすぐに意識を失った。
やがて、男は白馬の背中から、ずるずると滑り落ちていき、力なく地面の上に倒れ込んでいった。
続けざまに、他の二人の追っ手へ矢が放たれた。その矢の速さは凄まじかった。眺める間は、一時とない。
一人は右腕を、もう一人は首を矢に貫かれた。重傷を負った二人は、白馬からずるずると滑り落ち、倒れ込んだ。
次々と、残り五人の追っ手たちが押し寄せて来ているが、オロチとの対戦で必要な矢はすべて切らしてしまっていた。
《已むを得まい》
キバは、馬を東へ転回させて、再び馬を走らせていく。
「またれ! 貴様、我々を騙しおって!」
背後から、怒りに満ちた男の声が聞こえてきた。
《諦めの悪い連中のようだ……仕方がない》
一手を打つとしよう。
間もなく、風のように右側へ、その男は白馬を滑り込ませてきた。
「騙したわけでは」
キバはそう言って、腰に佩いた短剣を抜き取ると、男の方へ、風のように短剣を向かせてゆく。
「ない!」
短剣は狙いを違わず、男の横腹をプスりと突き刺した。男は声にならない、うめき声を上げる。
この、大格闘は一瞬の間であった。
男を短剣で突き刺したとき、同時に、茶毛の馬の脚は、ぴたりと止まっていた。
短剣を引き抜くと、その男は血潮をどろどろと流しながら、喉を潰したように細い声を上げて、血走った目で見つめてきた。
それでも、キバは無表情を保ち、低く静かに言いだした。
「そなたらが、狂気の沙汰なだけだ……」
《そう。彼らは一体、誰のためにある剣だと思っているのだろう》
やがて男は、白馬から滑り落ちていった。
銀色に輝く短剣からは、まっ赤な血がだらだらと滴り落ちていく。
それを目にした、他の追っ手たちの顔色は蒼白になり、エレキギターのような叫びを上げた。そうして、あまりの恐怖にたまらなくなった彼らは、城へ引き返して行った。
キバは短剣をおさめると、馬を背後に転回させた。
「遣り合う前に引き返すとは、的確な判断だ」
キバは、追っ手たちの背中を眺めながら満足そうに、にやりと笑った。
そうして、キバは馬を再び東へ転回させ、先を急いだ二人を追い、馬を走らせた。目的地は、火の城の他ならない。
一方、赤魔はひたすら、矢のごとく黒馬を走らせ続けていた。
この頃になると、昼はすっかり過ぎて、すでに地面は土に変わっていた。小春は、赤魔の硬い腹に腕をしっかりと巻き付けている。
「この馬も魔法で操られているのですか?」
小春は、今まで便秘のように溜め込んでいた疑問を赤魔に聞いた。
「あんな残忍な妹と、一緒にしないでくれたまえ」赤魔はそう答えた。「それに、この私がそんなことをすると思うか?」
「そんなことをすると思います」小春はきっぱり言い返した。「あなた、怪しいです。とくにその仮面なんか」
「この件においては、後でじっくり話をするとしよう」
赤魔のその声は、落ち着いた口調であった。
やがて、新たな蹄の走る音が背後から聞こえてきた。
その音がだんだんと大きくなると、馬を走らせて、ようやく追いついてきたキバの姿がスッと右に現れた。
「もう追っ手はいません」と、もう聞きなれて来たキバの声は言った。
すると、彼らをのせた二頭の馬は緩やかに歩きはじめた。コッ、コツンと蹄が土を打つ音が鳴っている。
向こうに赤い光が見える。
硬い土の地面の上に蹄を踏みしめながら、二頭の馬はそれでもぐんぐんと進んでいた。
「全員を切ったのか」赤魔がそう言った。
「いえ、私が一人を短剣で刺し殺すと、それを目にした全員が引き返して行ったんです」
「ほう」
そして、赤魔は感心したように顎に指をあてがった。
やがて、赤い光はありありと形を見せ始める。それは、炎を身にまとったフランス王宮のような城であった。
小春は内心驚いた。それは、壁画に描かれたものは出鱈目ではないこと、地下横断歩道の景色と影神界に成り立つ二国の特徴が一致することにある。
この瞬間に、水に濡れた背景と火に満たされた背景が蘇りそうになった。それを抑えて、小春は、これからの思案に気持ちを引き戻した。
《私はあの剣を抜けなかった。いつ元の世界へ戻れるだろう》
城の前まで辿り着くと、辺りは暖炉のように仄かに暖かくなっていた。
二頭の馬の脚は、硬い土の上にぴたりと止まった。
二人が同時に馬から降りたのを見ると、小春も足を地面の上につけた。
キバは、ようやく仕事を終えて、疲れただろう茶毛の馬の前に移動すると、顔を撫でてやった。馬はさも喜ぶように鼻息を鳴らしている。
ところが小春は、地面に足をつけるとただぼんやりと立ち尽くしていた。言葉に出来ない疲れがたまっている。同等の経験をする余地もない現世界の人間には、千古に渡ってもこの疲れは分かるまい。
赤魔は、小春の前に歩み寄ると意を決したように言った。
「そろそろ、対面といこうか」
〝素顔〟を隠してしまっては対面にはなるまい。
小春は、目の前の背高い赤魔をふりあおいだ。
仮面に、不信な表情を浮かべる自分の顔が、鏡のように映っている。
小春を見下ろしながら、赤魔は片方の手を仮面に持っていき、その手で仮面を外して見せた。
小春は、はっとした声を漏らして、思わず二歩ほど後じさっていた。
すると、黒馬が甲高い声で鳴きだした。背中が黒馬の胴体についた衝撃に驚いたのだろう。
仮面の下は不気味だった。
正当な顔立ちの上を切り裂いているのは、真っ黒で入れ墨のようにも見える。しかし、よく見れば焼いたように皮膚がすり減らしていることが傍目にもありありと映りこんだ。
黒い傷は、左眼を縦に走っている。
キバは、茶色の馬を撫でていた手を思わず止めて振り返った。だが、その様子を見たキバはすぐに微笑んでいた。
「赤魔様。初対面の者に素顔をさらけ出すとは珍しいですね」
「いや、挨拶だ。それに、この子にはこの素顔の真実を打ち明ける権利がある」
「そう……ですね」
キバは、赤魔から小春へ視線を移して言った。
「赤魔様の顔の傷は、呪いなんだ。だから、一生かけても消えるものじゃない」
「もしや、その傷は水魔にやられたのでは?」
小春は赤魔をふりあおぎながら、そう言った。
「さすが、感が鋭いな」
褒めたてるように言った赤魔の言葉に、釘を打たれたように胸が傷み、小春は眉を下げた。
《なぜ、この人はそれでも平然でいられるのだろう……》
その後、小春はキバに連れられて城内へ向かった。
一方、赤魔は、城の脇にぽつりと竚む馬小屋の中へ馬たちを連れ入れていた。
この馬小屋は、何千年も昔に立てられたものだ。ゆえに、今はもう古ぼけているが、それでも馬たちが過ごしやすいように工夫がされていた。
火の国の土地は、夏のような暑さに襲われる日もしばしある。その為、生き物たちは暑さにやられ、死んでしまうこともこの辺りでは珍しくはなかった。それを防ぐために馬小屋の壁は冷木製で出来ている。
冷木とは、水の国の北にしか見られることのない木のことである。北に精霊の命が尽きた時にのみ冷木は生える。精霊の亡骸が北の水に沈むと、初めて北の水は精霊の命を宿し、その形として木となったと言われていた(その精霊は水の国の者ではなく、神により自然に作られた)。その為、大変貴重な木材としてデミ族は扱っているのだ。
赤魔は、この黒馬が最も嫌っている頭絡を外してやると、ため息をついて言った。
「獰猛さも程々にしたまえ、ヘイマー」
水の城の城壁の一部を、この馬は、またしても壊してしまった。お陰で、二人を救うことは出来たものの……さて、どうしたものか。
《やれやれ、仕事が増えるぞ》
ヘイマーは言葉の意味が分かるのか、子供のように唇をぶるぶる鳴らして、落ち込むように俯いてしまった。
城内の食卓には、蝋燭の火があかあかと灯されて、粥、目玉焼きにベーコンが並べられている。
水の国と比べると、極一般的な食物であるが、それでも、赤魔やデミ族の人民達は食えるものがあるだけ、それで十分に満足していた。
小春は、目玉焼きを器用にどけて、下敷きのようになっていたベーコンを、一口頬張った。目玉焼きは、どうも食べる気にならない。この味を思い出す度、胸に刺す痛みが蘇りそうになるのだ。
正面側に座っているキバは、粥を匙で掬うと、口を開いた。
「赤魔様……。なぜ、小春は月の剣を引き抜くことが出来なかったのでしょう」
「何か、足りてないのかもしれない」
二人の間のテーブルの端に着いている赤魔はそう呟くと、胸の前に両手をだした。両手の指はすべて、弓なりに曲げている。
すると、両手に挟まれた中央から、ぼんやりと青い光が見えてきた。
「これは……」
キバは、海のような青い光を吸い込まれるように見つめた。
青い光は、段々はっきりとして見えてきた。丸い水晶体のようだが、それでも、弓なりの波が立つ形は歪だった。
小春は、粥を匙で掬って食べようとした手を、思わず止めていた。
「この水晶体は、小春の心だ」
小春は眉をひそめながら、口を開いた。
「形が歪……」
それでも、赤魔は落ち着いて言葉を継いだ。
「形が歪なのは、君自身の何かがまだ足りていないのだろう」
青水晶はやがて、色の無い空気に溶け込むように消え失せていった。
「まだ、小春に足りていないものがあると?」
そう言いだしたのは、キバだった。
赤魔は黙って、キバを見つめている。
キバは、それを気にする風もなく、言葉を継いだ。
「小春は、これまで多くの苦の道のりを乗り越えてきました。神とて、試し過ぎなんじゃ」
しばし黙っていた赤魔だが、これにはさすがに、口を開いて、遮った。
「やめなさい! 一体、お前のどこに全能神を見下す権利がある。神のご意思にそぐう行いだぞ。もう少し、心得なさい」
キバは粥へ目をそらしたが、やがて、ふと、口の端を歪めた。
「すいません」
少しの間、静けさが漂っていたが、やがてキバが口を開いた。
「……小春を、コタンへ案内したい。それが今は一番的確かと」
「確かに、そうかもしれない。それに、恐らく水魔には彼女の正体が知れている。水晶が成熟したとしても、もう一度あそこへ戻ることは難しい。これまで通り、とはいかんだろうな。あそこなら、きっと水晶を成熟させるまでの時間は十分に稼げるだろう」
それには、赤魔も納得の体であり、そう言った。
地下横断歩道が消えたのは、小春が全能神に、選ばれたからであることは他ならないのだ。それゆえ、これから小春は、彼らのいう通りに、過ごしてゆかねばならなかった。
小春は、そうして火の城の裏側にある細い木製の橋の通路へ、赤魔とキバに連れられていった。
その橋の下を見下ろせば、土の地面に覆われた貧相な村落は広がっていた。
まず彼女の目に飛び込んできたのは、大木を伐採して組んだ監視櫓だった。そこには、すっかり日に焼けた肌の、中年くらいの見かけの男が凛と立っている。その脇に並んでいる長屋風の建物は、何の職につく者かは不明だが、デミ族たちの住居だろう。
その建物の近辺へ西側から、見た目は十四歳くらいで、地味なチュニックを着た、明るい茶髪をした少年が、のんびりと歩いてきていた。
西側には、ずらりと色々な店が並んでいる。最も武器屋、鍛冶屋などが大半を占めている。その辺には、ちらほら人が流れていた。
北側には、大きな木製の建物が広がっている。
「現世界で言えば村落のようなもの。コタンは、我輩が治めている領土だ。皆、朝から晩まで働いている者達ばかりだが、それでも、何とか上手くやっているよ」
小春は、コタンを見下ろしてあることを思うと、赤魔を見上げた。
「僭越なれど、水の国の綺麗な景色とは大きく違いのあるように感じますが」
しかし、赤魔は気にせず答えてくれた。
「妹の水魔が訪れてから、族の違い故に権力を奪われてしまってなあ。デミ族はいらんとして、取り残されたのが我々火の国の住人なのさ」
「じゃあ、やっぱり真実の壁画に描かれてあったことは本当なのですね」
「まことの……」
すぐに赤魔は、小春のさらに右に佇んだキバの方を見つめて、尋ねた。
「あの壁画を映しだせたというのか」
「はい。赤魔様が私に、術を教えてくれたからですよ」
「そうか」
赤魔は、なにか思い詰めるように、コタンをぼんやりと眺めだした。
小春は、やがて貧相なコタンを眺めている内に、ある事に気がついて、口を開いた。
「奴隷制度」
「ああ。だが、君の世界のいう奴隷制度よりもっとたちが悪い。権力などの為ではなく、水魔は自らの野望ゆえに彼らを奴隷としている」
「なんのために?」
小春は、コタンから目を離すことなく尋ねた。
「分からん。だが、妹は昔から自己中心的な人であったのは確かだ」
「だけれど、国は違いますよね?」
その質問に、赤魔が答える前に口を開いたのは、キバだった。
「国は違えど、この世界は瓶の中のように狭苦しい。小春、君のように巨大な現世界に住む人間という者には分かり得ぬことがあるだろう。だが、その知識を身に付ける事は出来る」
ついでキバは、コタンの方へ視線を移した。
「サンタカ! お前、本を読む友達が欲しかったと言っていたな」
すると、こちらへふりあおいだのは、先ほど西側から歩いて来ていた、見た目が十四歳くらいで、明るい茶髪の、地味なチュニックを着た少年であった。少年が、不思議そうな、そして、ぎくりとした表情をしているのは、ここからでも見下ろせた。
「え、ああ。まあ」
「では、決まりだな」
「人手が減っているところで、丁度よかった。それから、小春に狩人の仕事を教え込んでおけ。分かったな? サンタカ」
キバの後に続いて、赤魔は満足そうにそう言った。
キバと赤魔がそう言ったのを聞いて、ますますぎくりとした少年――サンタカ――は奇妙な声をだして、思わず足を崩し、地面に尻をついてしまった。
その様子を眺めたキバは、さも愉快そうに笑みを浮かべていた。
その後、一行は再び城の中へ戻った。この頃になると、陽は沈み、外は夕闇に包まれていた。
小春は、昼どき(それも昼と夕方の間ごろのときであったが)と同じように、二人と一しょにテーブルに着いた。
食卓は、乾酪とライ麦のパンが用意されている。
どうやらこれが、火の国では一般の夕餉らしかった。
しんと静まり返った城の中、三人は食卓に着きながら、乾酪と麦のパンを食べ、かぶりついていた。乾酪は、まずくはなかったが、小春には、少しコクが足りないように思えた。
ふと、小春は、二人の食事を見て、唖然とした。
キバは、杯に酒を一ぱい注いで、グッと一気に飲みほしてはまた、杯に酒を注いでいる。
何が問題かというと、それは、ヤマタノオロチも酔いつぶれてしまう、あの強いお酒の香りに、間違いなかったことである。
赤魔は、味覚がおかしいのか、ルージュ(唐辛子をつぶして作った真っ赤なソース)と蜂蜜を麦のパンの上に載せたものを食べていた。
それゆえか、赤魔は席から立ち上がった。
しかし、小春はそれを引き止めるように口を開いた。
「ひとつ質問してもいいですか?」
赤魔はひたと足を止めた。
「なんなりと」
「仮面は素顔を隠すためだけですか? それとも水の国の人達から身分を隠すためですか?」
「その、両方だ。少なくとも今日は、そうであった」
赤魔は静かにそう言うと、背後の厠へ足を踏み入れていった。
そして、その隙に、小春は厠を眺めながら心配げに言いだした。
「あの人、大丈夫?」
キバは杯を片手に持ったまま、
「さあ、どうかな。極度の甘党なのか極度の辛党なのか、それとも味覚がおかしいのか」
やがて赤魔が席へ戻ると、今度は、キバが勢いよく立ち上がった。彼は、紅色の絨毯を踏みしめていき、ついで木の戸を引いた。すると、ひんやりとした一陣の風が、部屋の中に入りこんだ。
小春は、彼の背中を眺めながら口を開いた。
「どこへ行くんですか?」
「闇の国、私の家だ」
キバは、戸の先から目をそらさずに答えると、闇夜の外へ足を踏み入れていった。
ついで、戸の閉まる音がなり終わる。小春は両腕に両手を交差してさすりだした。ふっと腕を見おろすと、その肌は一面びっしりと鳥肌に覆われていた。
「闇の……国。キバって何者なんですか?」
小春は目を大きく開いた。
「キバの正体を知るものは我輩と、洞守たち、あいつ自身と、あともう一人、カンバルという男だけだ」
息を吸って、赤魔は言った。
「あまり、あいつの噂が広まってはいけない。今は知る必要の無いことだ。しかし、時が来れば、あいつが自分の口で言うだろう」
赤魔は落ち着いた風でそう答えると、子を見るような目で小春を見つめた。ところが、そのとき小春は、ただ呆然と木の戸を眺め続けていた。
やがて、蝋燭に灯った焔は暗くなり、それから身悶えするように、左右にうごいて、一瞬大きく、あかるくなり、それから、じじと音を立てて、みるみる小さくいじけて行って、消えた。
その晩。小春は城の中、寝具に身体を滑りこませてからずっと、一人ぼんやり考えていた。
「私に……足りてないもの」
ところが、ベッドの材木の天井を、いつまでも眺めているうちに、くたくたと眠たくなっていった。
眠りにただよい落ちはじめ、心が意識の軛を離れはじめると、頭のなかで女神が子守り唄を――小春を眠りへといざなう子守り唄を歌いはじめた。
《宿命与えられし子よ
ともある人の子であれ
さすれば、目覚め
月の剣、手にするなり
……信じたほうが身のためよ……だってあなたは大物だから……》
ついで、暗闇と夜がおとずれた。それも、悪夢をまったく見ない夜が。