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一宿一飯にて

 暗がりになった一室で一人、小春は眠りについている。その頃、小春の眠る一室から紅のすだれをぬけたところにある、仄かな月明かりに照らしだされた比較的広い部屋の中で、二人の男女はこそこそと話していた。


「ハシャク……あの小娘がもし、神に選ばれた者であった場合、〝ここ〟に置いておくことは出来ない」


 透き通った声質である。――これは、他ならぬ水魔の声だった。


「それは勿論ですとも。なにせ、この城の地下に、月の剣が眠っているのですからな。ですが、あの小娘を救ったのは他ならぬ死神でございますぞ。月の剣を狙っている邪神の下部が月の剣を手にするに選ばれし者を救うなど考えられませんぞ。……あの小娘が神に選ばれた者だとは、私はお思いませんな」


「だが、この世界に入ることが出来る者は神から選ばれた一人だけ。まあ、何らかの事故でここへ迷い込んだ可能性も考えられるが、やはり、キバは何ともあやしい……そう思わんか?」


「まさか、あの青年が死神に溶け込んで神に選ばれし者を守るスパイとでもおっしゃるつもりですかね? そんなことが、あるものか」


「まあ何にせよ、翌朝朝食をすませたのなら、直ぐにゲボーレンの小屋へ小娘を移動させるのだ」


「は!」


 ハシャクはそう言って、一礼をすると踵を返して、この部屋からそそくさと帰っていった。


 そうして、静寂に変化を遂げた部屋のなか、水魔はただ、ぼんやりと胴部の前にある机を見下ろしている。その上にぽっつりと置かれた燭台に灯しだされた(あかり)で、木の机は柑子(こうじ)色に染まっていた。

 机の上であぐらをかいていた両手は、僅かながら震えている。他ならぬ不安に襲われだしたのだ。それも、一人になった途端のことだった。――怖い。


 すると、両腕にさあっと異様な鳥肌がたった。丸で、この心の思いに応答したかのように。


 水魔は、恐る恐る、右腕の瓶覗(かめのぞき)――地平線の際の空の色のように淡い水色――に仕立てられた着物の袖をまくりあげてゆく。

 徐々に、現れてきたものは、ウミヘビのごとく黄褐(おうかっしょく)色や暗褐(あんかっしょく)色に染まっていたものなので、袖を掴む手の震えは止まることをしらなかった。――肌の色ではない。そう、これはウミヘビのごとく鱗そのものだった。さらに、違和感を感じたのは、右の首筋あたりと両方の頬骨(きょうこつ)部分。徐に彼女は、片方の手を震わせながら伸ばしていき、手の甲を首筋に触れた。それは、ひややかでヌルヌルとした鱗の感触だった。水魔は、眉をひそめだし、その手をすぐに離す。


 見下ろせば両手は、恐怖がゆえにひどく震え、痙攣していた。血管が浮き出て、猫の手のように曲がりくねった指は骨張るほど力が入っている。おまけに、この両手は自制心を忘れている感じまでした。

 この両手にも、気がつけば、ウミヘビ色の鱗が浮き上がっていたようなのだ……。


 だが、水魔が今と今に感じている恐怖心とは、この蛇の鱗肌のことではなかった。初めから、自分自身がすべてを操る神に作られた時から分かっていたことではある。それでも、怖かった。月の剣がなくなればこの自分が消え失せて跡形も失くなることが、死というものが……。

 恐怖を感じるといつも彼女は決まってこうなった。なぜなら、自制心を忘れると本当の姿が顕になってしまう癖というものが彼女には存在していたのである。だから、この鱗が見えた途端に、感じていた恐怖心は確実な恐怖に変わったことに〝それ〟はあったのだ。





 この深夜。暗がりの一室で、一人眠りにつく小春は、布団の中でせわしなく体を動かして、荒い吐き息をリフレインしていた。丸で、何かに苦しむように。


 ……夢の中、彼女は腐れ果てた場所というに相応しく気味の悪くて仄暗い中をさ迷っていた。

 二メートルほど離れた位置にあるそれぞれ左右の壁は古ぼけた煉瓦(れんが)。床の中央には、灯火が道しるべのようにずらりと並んでいる。灯火が滲み出す柑子色はこの暗闇を包み込み、この奇妙な場所全体が柑子色に染まり立てられている。その灯火無くしては、ただの暗闇だったろう。

 小春は、その灯火に沿って用心深く進んでいくと、目の先には、トンネルのように丸くぽっかりと空いた暗闇一色の道先が続いていた。すると、頭の中で何処からともなく低い唸り声が響きだした。これは、いびきだろうか? (息の音と共に唸り声が溢れだしたような声だった)――だとすれば、相当でかい化物がこの先にいるに違いない。

 だが、小春はそんなことを考えても見なかった。たぶん、眠気と疲れのおかげで朦朧としているからだろう。

 小春は目の色を失ったように、ぽてぽてとトンネルの中へ入り込んで、二、三歩進むと足を止めた。


「何かいる……」


 何かがそこにいる。目の先の暗闇にひそんでいる。小春はようよう気がついた。

 大きないびき、腐れたように強烈な異臭は鼻孔を満たす。奴の、どっしりとした重量の体が起き上がり、地面にざっくり足首まで埋まってしまった様子が暗がりの中でも、よく見えた。奴は、化物のごとく腐れ色を含む緑色の皮膚を有している。

 小春は、思わず砂利をする音を立てながら一歩、後ずさった。――まずい。

この音は、この空間にかなりのほど響き渡っている。

 すると、その化物はこちらに視線を向ける。目の前には、真っ赤なほおづきのような眼が十六ほどの数に溢れかえっているのが暗闇の中に浮かんでいた。音で、こちらに居る気配を感じとったのだろう。しかしながら、一体何体いるというのか? この答えは、すぐに分かった。……一体だ。

 奴は、ひとつの体で八つもの頭をにょきりととあげながら、こちらへ猛烈な勢いで急接近してきた。――接近して来たことにより一体である事が暗闇の中でも見えるようになっていた――小春は、思わず息が止まる。

 この少女の瞳の中には、恐ろしい化物の胸元が目と鼻の先にある姿が映し出されている。化物の頭は目の前に振り落ちて、避けるようにでかい口はあんぐりと開かれた。

 胸の奥では、心臓が意地のわるい小さなエンジンのように激しく動悸を刻んでいた。小春は悲鳴を振り絞った。ホラー映画でヒロインがあげるどんな悲鳴にもひけをとらないほど大きな悲鳴だった。なんと言っても、化物のぱっくりと開かれた口の中が、すぐ目の前にあるのだから。視界に覆い尽くされているのは、大量のだ液を含んだ大きな舌、ずらりと並んだ黄身を含む白色の鋭い牙だった。それに、かぐわしい香りは鼻孔を満たす。なぜなの? この蜜のように甘い香りは一体どこから……。

 すると突然、丸で映画のワンシーンが終わったあとのように視界がシャットダウンして、彼女は完全な暗黒に閉じ込められた。



 どれほど暗黒に包まれていたか、小春には判らなかった。彼女は奇妙な悪夢をみた後でもなお、疲れきっていたので、誰かが入って来ても、何も知らずにぐっすり眠っていた。何か妙にぽかぽかと温かくて気持ちがいいので、すぐには眼を開けなかった。余りの気持ちよさに、小春はまだ夢心地だったのだ。


「……私、目覚めなければいいと思うわ」


 まったくこれも夢だろう。ひたいこそ汗でしとどに濡れているが、温かい夜具もかかっているし、毛布の肌触りも感ぜられた。この夢から覚めまいと思って、一生懸命に眼を瞑っていたが、蜜のように甘い香りが相変わらず鼻孔を満たしていることを思うと、眼を開けずにはいられなくなった。

 眼を開けて見て、小春はまだ夢を見ているのだと思った。

 視界には、見知らぬ女性の顔が微笑みかけてこちらを見下ろしている。見た目は、三十歳前後といったところだろう。化粧っけは一つとない。真っ直ぐな黒いボブヘアは大人の女をより一層、際立てていた。彼女は、畳の上に膝をつき、寝台の上に両腕を組み立ててのせている。


「うまいの、出来てるよ」


 強い気に満ちた声で、この女の人はそう言った。


 驚いた小春は、忙しなく上体を起こして周囲を見渡した。――殺風景な部屋でありながら心地よく感じたのは、天窓から朝日の太陽に照らしだされた部屋の温かな感覚にあった。天窓の真下には、畳の上に膳がある。膳の上には茶碗や、小皿や、(きれ)をかけた料理のお皿などが並べてある。蜜のように甘い香りが鼻孔を満たすものは、きっと、そのお皿の中にあるに違いない。


 その女の人――月夜は、驚きの様子で部屋の中を見渡す小春を心配に眺めながら、訪ねた。


「それより、あんた大丈夫かい? 汗ばんでいるし、それに、苦しそうだった」いったんことばを切り、「と、思ったら微笑みを湛えていたりなんかしていたものだったよ。一体どんな夢を見ていらしったの?」


 ところが小春は、焦げ茶色の眼で不思議そうに月夜氏の眼を見つめるばかりだった。


「消えてなくなりもしないようね。こんな夢は、見たこともないわ」


 小春はそう言って、しばらく寝台の上に肱をついて、部屋の中を見ていたが、やがて、夜具を押しのけて、足を床に下ろした。


 月夜は、小春の言葉に衝撃を覚えたように眉を引き上げた。――なんて、可哀想な子。


「腹空いてるだろう?」


 足を床に下ろした小春に彼女はそう言うと、体を起こし、膳のところへ行き、腰を落として料理皿にかけた布を外して見せた。お皿の中には、食べても食べきれないほどの美味しそうなお味噌汁や、大きな紅色の焼き魚や、とろりとした肉のごろりとした塊などが入れてあった。

 すると、月夜はさっと腰をあげて、両手を腰に付けだした。


「朝早くから食料が送られたんだ。料理番にあんたの為に飛びっきりのうまい食い物作るように言ってさ、私も一緒に朝っぱらから手間かけて作ったんだよ。あんた、細いからね。でかくて良いやつ選んどいたよ」


 月夜が言葉を言い終えるまえに、小春は膳へ向い座りだして、それらを夢中で口の中につめこみ、貪り食うようにして食べていた。

 その姿が余りに夢中なもんで、ほんの少し経つと月夜はちらと視線を動かしだした。

 そこには、紅のすだれの向こう側からちらと覗いてはこそこそと言い合う二人の女の姿があった。その月夜の顔の、眉間(みけん)の皺は、刻み込まれたように深くなる。彼女は、ついに我慢ならなくなってしまうと、声を張り上げてこう言った。


「あんたらの仕事はまだ終わっちゃいないよ! さっさと戻るんだ!」


 すると、その二人の女は口に手を添えてくすくすと笑い出して、ちらとこちらを見てから、去っていった。ふすまが開かれて、ついで、閉ざされた微かな音が耳に届く。

 月夜は、綺麗な正座をして膳に向かい夢中になって食べている小春の方に眼を向けると、微笑みを湛えて言いだした。


「いつもああなんだよ。噂がちいと好きなものでね。女は噂が好きなものさ。この世界じゃあ、人間が珍しくてたまらないのさ」


 たらふく食べて、あっという間に完食を遂げた小春の眼はいよいよ大きくなって、月夜の顔を見上げだした。


「これは夢ではないようね。そうに違いないわ」


 夢だったら、こんなにも食物を美味しく感じることなどないだろうし、きっとそう、これは夢なんかではないわ。


「……あの、この世界とは?」


 小春は、月夜を穴が空くほど見つめながら訪ねた。


「あんたら人間の世界からは消して見えぬ世界さ。けんど、神の世界からも見えぬ世界だそうだけどね」いったんことばを切り、「ここは、影神界さ。そのまま字の如く神の世界の影に潜む世界」


「影……なぜなの?」


「知る必要のないことさ。余計なことには首を突っ込むんじゃアないよ」


 どういう訳か、月夜はこの世界の真相を教えたがらず、そう答えた。


「でも、それでは……私はどのように帰れば。あの、私がここの世界へ訪れたとき、この世界へ繋がる通路となっていた地下横断歩道が跡形もなく消えてしまったんです」


「地下横断歩道だって? そんなもの、この世界にある筈がない」


 月夜は、不機嫌そうに眉をひそめだして、そう言った。まさかそんな筈――いや、もし本当ならやはりこの子が……そうだというのか? だが、それでは辻褄(つじつま)が合わん。この小春を救ったのはほかならぬ邪神の下部である。まさか、あの男が神に選ばれし者の味方につくなど到底考えられなかった。きっと、この娘は何かの間違えで訪れた迷いもんだな。そうに違いない。


 小春は、肩の力が抜けて頭をうつ向かせた。思い切って家出をしたが、こんな事になるなど到底、思っても見なかったのだから。

 それでも、こんな私という私に立派な食物を与えてくだすったこの方には土下座をしたいと思うほどに感謝したい。

しかし、頭でそう思っていながら、身体と心は疲れきっていて、彼女はずっと遠くを見るような眼をして、頭をうつ向かせていた。無論、その疲れは、大半が辛さからくるものだ。

 そして、この一室の空気は妙に、気だるげで重たくなった。


 丁度、そのときドタバタと慌ただしくこの一室へ入り込んだのは、他ならぬハシャクだった。

 ハシャクは、月夜に詰め寄ると血走った目をひしと彼女に向けて、言いだした。


「何をのろのろとしておる。小娘が朝食をすませたのなら直ぐにゲボーレンの小屋へ移動させるとのことを調理場へ月夜が着く前から伝言していたはずだが?」


「ハシャクこそ、何をせかせかとしてるのさ。小春はねえ、昨夜気を失ってついさっき目を覚ましたばかりなんだよ? もう少し、ゆっくりさしてやってもいいじゃない」


「むむむ……。水魔様の命令に逆らうとは貴様いったい何ちゅう頭を」しておるのだ、とハシャクがいい終える前に、月夜は言葉をさえぎった。「私はねえ! 水魔君(スイマぎみ)などのお方の言いなりとして生まれた訳じゃないんだよ! ハシャクだってそうじゃアなかったの? え?!」


「何をこの、生意気なあ!」


 二人は、言えば言い返し、言えば言い返していた。

 この二人の喧嘩をどうしていいのか分からない小春は、目が点になり、額から、呆れた感情の汗を一雫垂らした。それと同時に、ある疑問が頭を通過する。それは、月夜が自分の名前を小春だと知っていたことである。何故、知っているのか? 全くもって分からない。



 その頃、三人のいる一室から紅のすだれを抜けた先の比較的広い水魔の部屋では、水魔が背もたれのついた木製椅子に座り込み、書類に黙々と物書きをしていた。――書類には、デミ族・狩人と縦書きで書き込まれた左の表にどういう訳か、《サンタカ タバサ スカー× アイシュワ×》といったものが書き込まれてある。水魔は、このとき丁度アイシュワと書いた名前の下に×印を描きこんだところであった。

 その矢先のこと、水魔のとんがり耳に騒がしい声が聞こえてきた。それが、他ならぬハシャクと月夜の声であることを直ぐにみとめた。

 いつものように、些細なことでまたしても、喧嘩をしたのだろう。呆れ果てた表情を顔に浮かばせて、水魔は小春と同じように、額から、呆れ果てた一雫の汗を垂らしていた。 



「木偶の坊!」  


「人間オタク!」


 月夜が悪口を言い放てば、ハシャクが悪口を言い放つ。それはきっと、昼下がりまで続くのではないかと思うほどだった。

 しかしその矢先、すらりとした美しい片手が紅のすだれを掴み上げ、ゆったりとした艶のある動作で一室へ入り込んだ女性の姿があった。それが他ならぬ水魔であることを月夜とハシャクが知ったのは、ぽんと二人の肩に水魔が添えたときのことだった。


「月夜。小春の朝食の金物を片付けなさい」


 水魔は、月夜に潤った瞳を向けてそう言うと、彼女からみて左側にボケらと立たずんだハシャクに、ついで、その瞳を向けだした。


「ハシャク。こんなところで胡座をかくのはやめにして、河合小春をゲボーレンの小屋へ案内して差し上げなさい」


 ハシャクは振り向いて、水魔の艶のある顔を間近に見ると、瞬時に頭を下げた。


「は、はあ」


 そのハシャクの返事は、突然彼女が目の前に現れたという驚きと、目上の人の前なのでしっかりしなくてはと言う思いの入り混じった声だった。


「何に関してもそなたは忙しない。だが、それが良い。だから、今回の件につきそなたを使命したというのに、まさか今だ、ぶつくさとしていたとは思っておらんよ」


 そして水魔は、ついで、膳の前で綺麗に正座をして座り込み、こちらを不安げに見つめている小春の方へ視線を動かした。


「そして、河合小春」


 水魔は、彼女の名を呼ぶと小春は水魔を見上げだす。そして、二人の目と目はぴたりと向かい合った。

すると、おもむろに水魔の顔全体が笑みに輝きだした。


「不安だったろう……。そなたが私の庭で気を失ったところ、キバという名の親切な紳士が私の元にそなたを泊めさせてくれるよう訪れたのだ。だが、こちらも事情が事情。一泊一晩といったまでだ。私の庭の西の西にはそなたの気を休めさせられるだろう美しき小屋がある。元の世界へ帰る手立てが見つかるまでの間は、そなたはそこで過ごしなさいな」


 そう言い放つと、水魔はゆったりと踵を返して紅のすだれの方へと歩んでゆく。だんだんと後ず去ってゆく水魔の姿を小春はひしと見つめていた。そのときに、あの疑問は頭を通過してきた。――なぜ、みな私の名を? そして、彼女は水魔に向かって言い放った。心のその声を伝えるために。


「あの!」


 水魔の足がぴたりと止まる。


「何かね?」


 水魔は、直ぐ目の前に有する紅のすだれから視線を外すことなく、そう言った。


「なぜ、私の名を……知っているんですか?」


「その言葉、そっくりそのまま、そなたを救ったキバという男に訪ねてたもれ」水魔は言う。「あの青年が、そなたの名を記したのでわたし達はそなたの名を知った」


 そう言い残して、水魔はすだれに片手をそっと添えてぬけ出ていった。


 水魔の出ていった紅いすだれを、まるで迫力ある映画に見入った人のような目をして見つめていた。どこに視線を外すこともなく。――小春は、昨夜あの水が海のように深く滴った後、体の力が抜け落ちて意識が遠のいていった。その後のことは無論、何も知らない。そして、気がつけば、この殺風景な部屋の寝床で目を覚ました。小春を救ったその青年が誰だったか、彼女は知らない。こんなにも、あのすだれから目を離せなくなっているのはその為だ。


 水魔が出ていって十五秒。ハシャクは彫刻のように固まって、紅のすだれを見つめている小春に詰め寄った。ついで、ハシャクは小春の枝のように細い片腕をぐいっと掴みあげて、小春を立たせる。


「ほら、立たないか。ひょろひょろ娘」


 小春は、よろよろと立ち上がり、しわがしっかり刻まれているハシャクの目元を澄んだ瞳で見つめた。


「外には既に馬車が用意されている。水魔様じきじきに用意して下さった馬車だぞ。人間風情、一人の為にわざわざ小屋へ移動するのに馬車を貸してくださっているのだ。せいぜい、感謝の意を持つことだな」


 ハシャクは顎をちょいと上げて、そう言い放った。

そして小春の片腕は、ハシャクのごつごつとした手にぎゅっと握られ、爪が腕のわずかな柔肉に食いこんでいる。


「人間……風情」


 小春は瞳をぐいっと広げて、眉をひそめながら震えたか細い声で思わず呟いた。


 すると、小春の背後から月夜はいいだした。――月夜は、小春が寝ていた寝床の前で、背筋を伸ばしてたっている。そこから、左前に小春と小春を掴み上げているハシャクがいる。


「好きだね、人間を下に見ることが。くだらんよ。人間を馬鹿にしていると今に痛い目にあうかもよ、ハシャク」


 それは、芯の通ったしっかりとした口調。


「お前は黙っとれ! ……はよ、行くぞ!」


 ハシャクは、さも月夜をウザがるようにして、そう言い放つと、小春の腕を引っ張ってすだれをぬけて行った。

そして、小春は、突然引っ張られた衝撃に転びそうになりながら、そのままごつごつとした手に引っ張られていた。


 この一室が静けさに漂ったころ。月夜は、ふうっと息を吐いて、片側の髪を耳にかけてから、腰を落とし膳をもちだした。

 

 ハシャクが力強く引っ張り続けていたもので、小春はやはり、コケそうになりながら歩きつづけていた。――そして、廊下では次々に辺りの者達がつめたい視線を小春に送った。それだけ人間が珍しいからなのか? それとも、もっと深い理由が潜んでいるというのか? 二つめの疑問が正しかったならば、きっと、私がこの世界へ訪れるべきでなかった気がしてならない。そう思う理由は、自分でもよく分からなかった。が、確実にときがくればそれも明らかとなる予感までもが、どういうわけか、彼女の胸の中で疼いていた。

 城の門をぬけたころ、小春はハシャクに向かって、遂にこう言いだした。


「あの。腕、痛いんですけど」


 しかし、無答である。ところが、一拍ほど間を置いたあと、ハシャクは口を開いた。


「ほら、あれさ。あれだよ」


 ちらちらと小春を見ながら、ハシャクは言う。


「なにが?」


「ばか者、あれだよ。あの馬車がそうさ」


 ハシャクは、自慢げに言った。


 ハシャクの視線のさきへ、小春は目を細くして合わせている。すると、すぐ目の前には、魔法のような馬車が佇んでいるではないか。

黄金(こがね)色の車輪、丸でお伽噺(とぎばなし)に登場するような黄金(こがね)色を有する(つぼ)型の車体である。それを引くのは他ならぬ白馬だ。この白馬は八本脚で、無論、雪の如く白い毛を有しているが、(たてがみ)と尾は黄金(こがね)色を有していた。

 そこに立つ白馬は、荒い鼻息で飛び跳ねていた。水しぶきが鎮まるまでしばらくかかった。二人が近づいてきたことを察知したのだろう。


「ほら、乗るんだ」


 ハシャクはそう言って、掴んでいた小春の腕を振り払い、小春の片側の肩を押して、片方の手でサッと開いた車体の中に買物袋を投げ入れるようにして、どっさりと乗せこんだ。その衝撃、小春の体は横に倒れ込む。ただ感じたのは、ふかふかとして温かな毛ざわりの床の感覚と、白馬から漂う獣の香り。


 この体勢の状態で、真っ直ぐ前の視界に広がるのは、馬の尻。ついで、馬車の外側の角に座って、手網を掴み出したハシャクの姿が目にはいった。


「それっ!」


 ハシャクは、かけ声を言い放ち、馬車を走らせはじめた。ふかふかの床が細かく振動して、小春の体が小刻みにブルブル震えだす。小春はそれ故、居心地が悪くなり、横に倒れた体を起きあがらせた。

 そして、まず目に入った目の前の光景に、思わず彼女は、瞼を開ききり、いよいよ目は大きくなった。ハシャクが頭をコクっと俯かせていることから、居眠りをしていることが想像ついたからだ。ハシャクは、あいかわらず手網をきしと手に掴んではいたものの、小春は心配でならなかった。それは、自分を乗せた車で居眠り運転を平気でこなす母を思い出したからに過ぎないが、それにしても、危なっかしい。彼女は、目をあいかわらず見開いて、片方の下瞼はピクリと痙攣しはじめていた。


「もしかして、寝ているんですか?!」確認しようと、彼女は叫んだ。


 返答はない。どうやら、本当にそうらしい。


 いよいよ車体は、矢の如く走る白馬により振動は大きくなり変化を遂げ、激しい振動の度に、彼女の体はわずかに浮きあがった。


「この馬、放っておいて大丈夫なの?!」


 やはり、返答はない。彼女の不満はますばかりだった。


 彼女は目をあいかわらず見開いたまま、ふと外を見渡した。そこには、浅い水の滴る景色とだんだんと遠ざかる城ばかりだった。他に何かあるかと聞かれたとすれば、どこまでも青い空を背景に赫々(かつかく)たる光炎を有した太陽で目を射ぬいてくるばかりだと言えよう。

 幼い頃から車酔いをしやすい小春は、やがて気分が悪くなっていった。が、いつまでも見開いた目は瞬きをする事も忘れているようにぐっと開ききっている。当然だ。このままでは、いつ事故にあっても不思議ではない。――少なくとも小春はそう思っていた。


 やがて、平均的な女性の手の大きさ程に城は小さくなり、地面に滴る水は消えていって、土の床に変貌を遂げた。と同時に、白馬の動きも段々と緩やかになっていく。

 彼女は、ふうっとため息をついて、ようやく肩の力を抜いた。抜くことができた。見開いていた目は、さも疲れたように、一瞬、とろりと細くなったものの、直ぐに正常を保ちだした。

 八本脚を有した白馬の足はやがて周囲に枯れ草を有し、その中央に創造された土道の中にぴたりと止まった。それと同時に、黄金(こがね)色の車輪もぴたりと止まった。


 行き着いた場所は、左手に木々が生い茂り、右手に岩山を背景として、その前の中央にぽっつりと佇んだ一軒の小屋だった。

 馬車の振動が消え失せて、静寂に変貌を遂げたことを感じとったからなのか、はたまた、単なる偶然だったのかは知れぬが、グットタイミングだ。丁度、ハシャクがのろのろと目を覚ましたのである。


「おお、もう着いたか」


 ハシャクは目を覚ますや否や、そう呟いた。


「ええ! もう、着いたわ。あなたが居眠り運転をしていたお陰様でね。白馬は八本脚を有しているがゆえに、暴走してしまっていた。以後気を付けることね、ハシャクさん」


 小春は、しっかりとした口調で言い放った。――このような声が出たことに自分で驚いてしまう。今まで、勇気を振り絞り、堂々たる態度で人に注意を言い放つことができるタイプではなかったからだ。小春は、どちらかと言えば、我慢強く、ちょっとやそっとのくらいで他人にあれこれと言い放つ子供なみのちっぽけな心は有していない。幼い頃からそうだった(だから、周囲の人達と温度差を感じたり、考え方が根っから違ったりして、その場所に居づらさを感じたのかもしれない。最も、周囲と共に子供らしい子供であったのならば、きっと、馴染めていたのだろう)。こうして、注意を言い放つことが彼女に出来たのは、こればかりは言うべきだと判断したからに過ぎない(万が一、事故になることは無論、十分にあり得る)が、このように熱が上がるほど情熱的になって、力強く言い放つ必要性はなかっただろう。そこにも、驚いた。なぜ、無駄に感情的になってしまったのか? それは、千古の謎である。


 すると、ハシャクは瞬時に小春のいる背後――馬車の中――をひしと振り向いた。


「偉そうに言い張りおって。何も知らない若者めが。この馬は、水魔様の魔法の力で動いている。放っておいても、勝手に動くわ! この馬はな、水魔の言うことしか聞かんぞ!」


 ハシャクの声は、唾が吐きでるほどに鋭かった。 


 すると、小春の目力は強くなり、眉間に皺をよせだした。

《なんですって? なんて酷いの。生き物をそのように扱うだなんて!》

 魔法の有無、それ以前の問題だろう。

 いつまでも、悪魔に取り憑かれたかのようにそんなことを考え込んでいると、ハシャクの声が突然右側から聞こえてきた。


「そこでいつまで座っているつもりか? 早よう降りなされ」


 ふと、風のごとく振り向けば、ふかふかの白茶の毛を有する車内からのぞく窓に、ハシャクの姿があった。

 我に返った小春は、車体から地へと足を下ろしてあたりの景色を見渡した。

 水魔という、妖精の如くとんがり耳を有したあの方が所有する白馬のお陰で、どこまでも空はまだ薄く青かった。たぶん、まだ昼前だろう。小春は時計の一つと持ってきていなかったため正確な時刻は分からなかった。が、この淡い空の色を見ると昼前だと思われた。――いつも、孤独だった小春は暇さえあれば美しき空を見上げて気持ちを落ち着かせていたものである。いつの日か、朝昼晩、それ位の三つの時間ならば、大体すぐに分かるようになっていた。

 目的地であった、確かゲボーレンといっていただろうか? その小屋は、古ぼけた材木で出来ている。古ぼけていることは、小春の目でも直ぐ分かった。屋根は、ウミヘビの如く黄褐色(おうかっしょく)を有している。丸で、蛇の鱗を剥いだものをそのまま使用しているかのようにも見えるほど、正にウロコ模様というにふさわしかった。

 景色を見渡すや否や小春は、ハシャクに小屋へと案内された。


 ぎしぎしと軋む音を立てながらハシャクの手により開かれた小屋の中は、正にファンタジーだった。

 右手側の壁端には、右から順に大所、焜炉、金の蓋に紺色のはだを有した牛乳瓶がある。牛乳瓶のすぐ左に有する床柱(とこばしら)についたフックには古ぼけた燈籠(カンテラ)がかけられている。――無論、昼前のゆえ火は付いていない。はたまた、無人の小屋ゆえに火をつける必要がないとも言える。

 さらに、左から真ん中の壁にかけて、材木の本棚がずらりと並んでいる。が、その中にごちゃごちゃと押し込められているのは、本ではなく、他ならぬ……これは、水晶か? 卵か? はたまた、たんなる飾り物だろうか? ――とにかく、それらは、水晶の如く透き通り妖精の如くその入れ物の内部から光炎を放っている丸いもの。――その光は、蛍のように点滅をし続けている。――さらに、ど派手(色は様々)で奇妙な模様を有した、卵の如く丸いものなんかもあり、中には、パックリと割れた卵なんかもあった(卵ということに絶対的な根拠はないが、丸で鶏の卵をパックリと割った姿そのものだった)。

 一体なんだというのか? 得体の知れない何かの卵なのではなかろうか、と彼女は頭をふくらませた。が、それ以上に、棚に押し込められているそれらの水晶は、美しかったため、小春は、夢みる子供のように小屋の中を眺めまわしていた。

 その棚のすぐ前に有するのは、白い寝床である。

 中央には、材木の長椅子が孤独そうに、ぽっつりと置かれている。長椅子は、傷一つなく背もたれもなかった。

 小春は、長椅子に座り込む、ついで、昨夜にいつの間にか着付けられていた着物の下半部を整えた。そこでようやく気が付いたが、薄らと薔薇の花模様が、大きく描かれていた(着物の全体の色である、貝殻のように黄身をおびた白の一、二つ回り濃い色)。――これを仕立てた職人はなかなかセンスがいい。

 乱れた着物を整えているや否やハシャクの声は上から降り注いできた。


「これからここが、お前さんの(うち)だ。城の働き手の代わりとなって、小春、お前さんがあの後ろにいるごちゃごちゃした奴らの面倒を見てやるんだ。生まれてしまえば放っておいてもいい。だが、卵から(かえ)るまでのあいだは見てやらんとな。死んでしまえば、この世界でも、自然に生命が生まれることの証明が、出来ん。わしは、この世界を誇りに思いたいのだよ。現世界のように、自然に生命が誕生するまでに、ようやく、たどり着いたのだ。……こんな世界でもな。それでは頼むぞ。(かわや)はあそこにあるし、食い物なら月夜が届けにやってくる。何も心配には及ばんよ」


 ざっくりと説明をすると、ハシャクは風のごとく小屋から立ち去っていってしまった。

 やがて、白馬のいくつも生えた脚がまたしても、猛烈な勢いで走りでていった音が聞こえた。


 この世界は、神の創造のみで成り立っている。――水魔も、ハシャクもみな、神のご意思のみで作られたという意味――その為、彼らに繁殖能力はなく、現世界のように、自然と生命を誕生させることは、長年研究を重ねても、なかなか到達しなかったのである。ようやく、ここまでたどり着いたこの〝宝〟をどうやら水の国の者達は、それゆえ、大切にしてるらしい。

 しかし、そんなことは知るよしもない小春には、ハシャクのざっくりとした言い回しでは、どうしていいのか全くもってちんぷんかんぷんだった。

 やがて小春は、そのまま、くたくたと横にたおれた。長椅子は、ソファーで居眠りする親父さんよろしく、後ろにきちんとした寝床があるというのにベッド代わりとなり、いつの間にか彼女は眠りについた。



 どこまでも、暗闇に包まれた世界の中、ぎしぎしと軋む音は聞こえてくる――戸があいた音だった。

 この瞬間に、心地よかった眠りは一瞬にして空虚な何処かへと、溶けてきえていった。

 小春はしばしばと目を覚ました。微かに開かれた戸のすき間から、顔を覗かせる一人の女の姿がぼんやりと見える。それが、他ならぬ月夜だと小春はすぐに認めて、おもむろに起き上がりだした。


「小春」と、月夜はいって、柔らかな笑みをたたえだした。


 はじめ、眠っている間に昼となり、月夜がまたしても美味しい料理を運んできてくださったのかと思っていた。が、木製の戸の開けたすき間からこちらをのぞき込む月夜が、小屋の中へ足を踏みいれたことで、まだ、眠りについてからそれほど時間はたっておらず、昼前だと言うことは明らかとなった。

 美しい絵が描かれた手鏡を片手に持っている他には、手ぶらだったからだ。


 月夜は、笑みをたたえながら長椅子へ――小春の右側に座り、小春につめよった(小春からすると、左隣であることは他ならない)。


「やっぱりあんただ! やっぱりあんただった!」


 月夜は、さも嬉しそうに声をあげた。



 月夜は、小春が小屋まで移動している間、本当に小春が〝選ばれし者〟であるのかどうか、どうしても知りたくなっていた。

 それゆえ、過去に――それも遥か昔に――赤魔様から頂いた守護鏡(しゅごかがみ)の一部である手鏡を使うことにした。――手鏡は、紅い布に黄金(こがね)色の刺繍の細工がほどこされている。


 月夜は、小春の朝食をのせていた膳を調理場へ片付けに行ったあと、すぐさま廊下へ進み出て、つるりとした木製の床板の先

で、ご立派に佇んだ床柱(とこばしら)によしかかった。すると、人の目を気にするように視線をめぐらせ、鉄紺色を有する着物の胸元に手を入れこむと例の手鏡をするりと取りだした。ついで、彼女が手鏡へ視線を向き直すや否や、他ならぬ彼女を映し出していたはずの鏡の中は、なんと、瞬時に背景が切り替わる。


 その鏡の中に映し出されているのは、古い家の中を背景に、他ならぬ小春の姿があった。彼女はまだ幼かった。しかし、この十歳ほどの年しかいかない少女にしては、あまりにも大き過ぎるストレスを抱いている。そんなことは見れば、分かるものだった。

 母親と思わしき人物は彼女の頬を何度も何度も手の甲でひっぱたいている。彼女の片側の頬ばかりが、痛々しく赤い血が滲んでいた。――すると、鏡の中に映りこむ画面はビデオ映像のように切り替わり――そこは学校だった。が、様々な人と罵声が混合していて、何がなんだか良く分からない映像だった。だが、これだけは確かにいえる。それは、あまりにもひどい言葉だと。

《いわない奴が悪いんだ!》《あいつ、下向いてる。くくっ、下向いてる》《あの人、可愛いけど……しゃべらない》〝私、いじめられているんです〟《君みたいな感じの子はノリが悪いと思われがちだから、虐められても仕方ないんじゃ? 無ザマな人生だね》《何、いまさら教室来てんの? 大人しく保健室に入れや!》それだけではない。様々な罵声が混合されて、なかなか一つ一つ、聞き取ることは困難な有様だった。と同時に、人の顔一つ一つ見分けることすら困難だった。子供も多くいるようだが、大人もいるように感じるし、それらが混合していて人間の顔と判別出来ることがやっとの有様である。月夜は、それゆえ吸い込まれるように鏡の中を見つめて、自然と口が開き前歯がのぞいた。――すると、またしても鏡の中に映りこむ画面はビデオ映像のように切り替わり――それは、絶望に満ちた小春の姿だった。服は、あのおんぼろ白ワンピースを着ているところを見ると、もしかすれば、つい、昨日の出来事だとも考えられる。彼女は、自分の手で自分の黒い髪を思う存分むしり取り、むしり取った。むしり取ってしまった手の中にある黒い髪を眺めると絶望したように、その髪を(たたみ)の床に散らばせた。それは、かなりの量だった。――少なくとも、月夜にはそう思えた。ついで、この明かりも付けず、仄暗い部屋の中。古臭い汚れが多だ見られる、和紙の壁に、彼女はよし掛からせて、全身の力を抜き、いくつもの傷あとが見られる両腕を摩りながら、華奢な体をへたへたと床の上に落とした。すると彼女は頭をこつりと、膝に付けだした。この衝撃、黒髪はさらさらと前方に流れる。

 ところがしばらくして小春は、重たくなった体をふらつかせながら、徐に立ち上がりだした。


 月夜は、ビクッとした。全身がぞくりとふるえ、両腕にさあっと鳥肌が立った。小春の目も、顔色も、表情も、この鏡で見てきたどの彼女の姿とも似つかわしくなかったからだ。彼女は、ここまで追い込まれているというのに、どこか、前向きで、どこか、僅かな一パーセントもの希望でも諦めずといった表情をしている。明らかに、まだ若い少女の出せる顔つきではない。

 こんな人間は、見たことがない。普通、ここまで追い込まれている人間は、立ち直ることすら困難なのに、この小春という一人の少女は明らかにほかのどの人間とも違っていた。もちろん、いい意味で。

 この瞬間――〝選ばれし者〟であると確信を抱いたかはべつに――〝ある確信〟を抱いた月夜は、矢の如く城をぬけて、小春のむかったゲボーレンの小屋へと走って来たという訳である。



 月夜が嬉しそうに声をあげても、小春は冷静沈着な表情を浮かべ、ただ彼女を見るばかりだった。


()いもの見せてやるよ」


 月夜はそう囁くと、手にもった手鏡を体の前にずらして、小春から見えるようにしてやった。


「きれい」


 小春は、それだけを口にして、瞳を輝かした。


守護鏡(しゅごかがみ)。かなり古いものだけれど」


「守護鏡、とは?」


 小春は、あいかわらず冷静沈着な表情を浮かべて、訪ねた。


 月夜は手鏡から一度も目を離すことなく、徐に、それも僅かに口角を上げだした。


「この鏡はね。赤魔様というお方の魔法によって、守護の力が与えられている。――その鏡こそ、この守護鏡なんだ。つまり、これで皆を見守ろうとして作られた宝なんだよ」


 彼女は、静かに言う。


「私は、それで知った。小春は特別な素質の人間であることを。ほうら、よく見てみなさい」


 小春は、自分たちと小屋の背景が当然のように鏡の中に映りこんでいたはずの画面がビデオ映像のように切り替わったのを見て、いよいよ目は大きくなった。


 その鏡の中、映し出されていたのは、楽に金を儲けようとしたあげく、犯罪者となり代わり、逮捕された男の姿だった。この男は、麻薬密売の罪を犯した(てい)だろう。警官から、取り調べを受けるが否やすぐに靴の中から白い粉末が見つかった。すぐさま、手錠を嵌められ、その後のことは言うまでもない。誰もが思う間抜けな人材だろう。しかし、小春だけには見るからに分かったことがある。それは、この男の驚くほどに細い体格と、驚くほどにぼろ臭い服を身につけていたことである。かなりのこと、金に追い込まれていたのだろう。そうに違いない。少なくとも小春には、小春だからこそ、それはよく分かることだった。――すると、鏡の中に映りこむ画面はビデオ映像のように切り替わり――つぎに映し出されたのは、いじめられたあげく、精神不安になり自ら命をたった若者の姿だった。若いゆえに、未来の希望はいくらでもあったはずだろう。無論、見苦しい(てい)だった。

 この中学生くらいの少年は、右手を震え上がらせながら遺書なるものを書き切ると、その机の上におかれた遺書の傍らに用意してあった包丁を両手にひしと持って、そのまま彼は包丁を胸元に近ずけていった。その後のことは言うまでもない。しかし、小春には理解が出来た。実際、そこまで陥って、自殺を図ろうとした経験が彼女にもある。苦しいほどよく分かった。《なんてこと……》小春は思う。

 その矢先、シャツの前を朱に染めていった姿に変貌を遂げた少年がぐったりと(ほろ)んでいる姿は瞬時に消え去った。丸い鏡の中の世界は、元の世界へと戻った(てい)である。


「でも、あんたは」月夜は、あることを言いかけた。ついで、視点を鏡からすぐ右隣に座っている小春へ移す。  


《どんなに金がなかろうと、いじめられようと、親に乱暴されたって、あんたは……》月夜は思う。《あんたは前向きだった》


 そうして、月夜は言うのだ。


「あんたは違う。努力もするし、苦に向き合って乗り越えてきたんだから」


 そして、月夜は〝確信〟を抱いたそのあることを彼女に告げた。


「あんた、人間達のいい見本だよ?」


 それこそが、人のあるべき姿だと言いたいのだろう。


 すると、目力を強めた瞳でこちらを見つめてくる月夜に、小春は、しっかりとした強い表情を浮かべた顔をひしと向けたまま言った。


「月夜さん。孤独は死ほどに苦しいものよ」


 強く、それでにて、口調までもがしっかりとしていた。いつの間にか、こんなに私は強くなっていたのか? いや、そんなことはない。強い振りをしていないと、いけないような気がしてならなかったに過ぎない。

 しばらくして、彼女の強い表情には似合わないものが現れた。小春の頬をつたって細い雨のような雫が流れ落ちていったのだ。――これが、その証明ともいえる。いままでの我慢を支えていた見えざる胸の風船が一気にはち切れたような感覚だった。見る見るうちに、涙は滝のように溢れ、滝のようにだらだらと流れ落ちていく。ついで、滝のように、この今の涙は止まることを知らなかった。

 たまらず、月夜の胸に顔を(うず)めた。一泊とたつ間もなく、月夜の鉄紺色を有した着物の胸元がみるみると涙にぬれ、染みていった。

 その気持ちに、衝撃をうけた月夜はうっかり、手鏡を材木の床板にすべり落とした。手鏡が床へ落ちた瞬間、甲高く心臓に悪い音が響き渡る。どことなく割れた音としか思いようがない音だ(食器をうっかり落として割れた音の、数倍は小さな音だった)。

 そして月夜は、まるで娘をみるような目をして、手ぶらとなったその柔らかな手先を、小春の背にのせた。そんなことをされる気持ちも小春は、まだ味わったことがない。月夜は、そのまま彼女の背を撫でさすりながら言った。


「あんたは、よく頑張ったよ」


 小春の細かく震えた体を、月夜は痛々しく感じていた。その小春を、なんとか慰めようと撫でさすり、ついでその手を小春の頭へずらして、添える。


 彼女のお腹を(みた)し、身体を暖めてくれたのは、食べ物や暖かな部屋ばかりではない。食べ物でも暖かな部屋でもなく、小春を養い暖めてくれたものは、もちろん月夜だった。いくら体が満たされても、彼女の心は満たされていなかった。――愛に飢えていたといえば分かりやすいだろうか。


 すると、このゲボーレンの小屋の中。何処からともなく、星もどきの光を放った小さな光の精霊、ルークス達が大量に床の方から湧き上がり、上空へとのぼり、二人の周りへふんわりと浮かぶと、美しきソプラノの声で歌いはじめた。


 小春はすぐ異変に気がついて、月夜の胸に埋めていた頭をおもむろに持ち上げ、ともに丸まっていた背中も元に戻っていった。

彼女は、何かの気配を感じた周囲へ、ぐるりと視線をめぐらせた。二人の周囲を舞っていたのは他ならぬ、あのときの光の精霊であることを小春は直ぐみとめた。その数、百、二百はいることだろう。


「これは……」


 彼女は、思わず呟いた。《そう、間違いない。あのときのお星さまがまたしても、私の元に来たのだわ》小春は思った。

さらに不思議なことに、辛いことも悲しいことも何もかも、消え去ってゆく感覚がした。それは、あのときの感覚とよく似ている。が、あのときの感覚とは比べようもないほどに完全に辛さが和らいでいるような、今はそんな感覚がする。


「光の精霊、ルークス」


 彼女のすぐ左隣に座る月夜は、ルークス達を眺めながら言った。


「……ルークス」


 小春は、声がかすれていた。


「そろそろだったんだ。もしかすると、小春が悲しんでいるのを感じて誕生が少し早まったのかも知れないよ」間。ついで「ようこそ、ゲボーレンの小屋へ。誕生という意味さ」


 無論、小春は不思議がって化粧っけ一つない月夜の顔を、ただ見つめるばかりだった。


「この世界のもの達は、神のご意思のみでつくられたもの達なんだ。それゆえ、繁殖能力がなく自然に生命を誕生させることは難しかった」


「それでは、この小屋は」


「うん。そうだよ、小春。生物を作り出すための容器が完成すると、水魔はここを作って下部に世話をさせることにした。それが、このゲボーレンの小屋なんだ」


「つくるって……そんなことが」


 月夜は彼女の言葉をさえぎった。


「出来るんだ。だが、どんな手を使っているのか私には分からない。施設は水の城の地下にある。以前、私はいつまでも地下から戻らないハシャクが心配になり、地下へと向かったんだが無関係者はたち入ることが出来ない。危うく殺されかけたよ」


 やはり、私は危険な世界へ訪れてきてしまったかもしれない。と小春は思った。美しい世界であり、恐ろしい世界だと感じてならなかったからだ。彼女の表情は固くなった。


 すると、何拍かして月夜は口を開いた。


「ああ、そうだった。小春、きて」


 さも何かを思い出したかのように月夜は、勢いよく立ち上がると踵を返して、背後に歩いていった。小春もあわてて立ち上がり、月夜のあとに続いた。


 その瞬間、ルークス達は驚いたように鼓膜を貫くほど甲高い悲鳴を上げだして、二人から避けて飛んでゆき、二人の通り道をつくった(通り道をつくる為ではなく、驚きのゆえに二人を避けたに過ぎない)――ルークスは現世界でいえば、触れただけで死んでしまう雪虫のようなものだ。


 そこは、その何らかの手でつくられた生命の入る容器が大量に詰め込まれた本棚だった。 


「きっと、あいつのことだ。ハシャクの説明ではちんぷんかんぷんだっただろう。簡単だよ!」


 そういうと、月夜は白い寝床の隅においてある白茶色の薄手素材の毛布を手に取りだして、目線の前に有する上から二段目(五段あるうち)の位置に大量に入れこまれた水晶の上にそっと被せてやった。


「ただ、温めてやればいいんだ。繊細な生き物だから傷つけさせないようにね」


 ついで、小春に振り向いた彼女は笑みをたたえてそう言った。


「それじゃあ、後はまかせたよ。昼になればまた来る」


 月夜はそう言い残すと、引き返し、長椅子の傍らで落ちっぱなしになっていた手鏡とそこから少しばかり欠けてしまった鏡の破片(二センチほどの大きさで、細いダイヤの形をしている)を腰を落として拾い上げると、すぐに腰を上げて歩いていき、古ぼけた小屋の戸を引いた。ぎしぎしと軋む音は相変わらずである。


「いい人……」小春は、月夜が出てゆく背中を見つめながら呟いた。


 軋む音がなり止んで、月夜が小屋をあとにするまでの間、ずっと小春は例の本棚を背景としたその場で立ち尽くし、戸から目を離すことは決してなかった。


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