救いの手
すぐに着くと思っていたが、意外と城までの距離は長かった。どうやら、巨大な水たまりの中にいると感覚が狂うようだ。
小春の足の裏は、痛みが走っていた。だんだんと歩くペースがダウンする。それでも、足は止めまいと、進み続ける。
ここで止まってしまうと、いつにぶっ倒れるか分かったものではない。……あと、たぶん、二メートルくらいではないか。――この矢先のこと。水面が突然暴れるように蠢き始めた。大荒れの天気の日の海のように、大きく波を打ちながらみるみるうちに、足首のしたほどの深さだったはずの水面が腰のあたりまで一気に溢れていった。――これでは丸で、城に入るなとでも、水そのものが言っているみたいではないか。
こうしている間にも、水は命を宿したかのように、大きく波を打ちながらみるみるうちに小春の胸元まで深さを増した。邪魔をしているのだろうか? ――そうだとすれば、この水は化物だ。――今度はどうする? このまま溺れさせるのか? それとも、私を困らせて遊んでいるだけか?
小春は身動きがとれなくなっていた。仕方がないので、このまま“彼ら”が治まることを待つとしよう。――そうするしかない。
このとき、背後から物凄い勢いで水の波が動く音が聞こえた。しかし、身動きがとれない小春は背後で何が起こっているのか、見ることが出来なかった。
二
暗黒の扉から出てきた若者が一人、いた。この若者は、ワカ族でなければデミ族でもないキバといった名の者。
暗黒の扉とは、その先に広がる邪神がお作りになられた闇の国につながる扉である。闇の国は、邪神の下部である死神たちの棲家だ。キバは、彼らにとけ込み暮らしている。
キバは、暗黒の扉のまえのだだっ広いつるりとした灰色の石の道をすたすた歩いていた所、とある客が目の前にいることにすぐ、気がついた。黄色い火をまとい、きれいにずらりと並んだ白い牙、雷のようなオーラをもつ麒麟が手紙を喰わえて、この先の岩の橋のうえに立たずんでいる。
キバは腰を落として、片方の掌を麒麟の目の前に差し出した。彼が着た、白いシャツは袖をまくり上げており、そこから覗いた手首は血の気を一切感じぬ色白だった。
麒麟は、すぐにそれを認めると喰わえていた手紙を彼の掌の上に差し上げる。
キバは、真剣な瞳を麒麟に向けてから手紙の方に瞳を向けて、手紙を持った手を自分の元に近づけた。
そして、受け取った手紙の封印を破り、その場で読み始めた。
《キバ、我輩だ。とても大事な話になる。元の主がこの世界へおとずれてきた。ただならぬオーラをまとっているのを感じることからおそらく間違えはない。しかし、彼女の体力はかなり限界に近づいているのだ。すぐに水の国へ行っておくれ》
読み終えた突如、手紙に炎が灯された。みるみると手紙は炎に焼き付けられてゆき、燃えて灰となり、そよ風と共に流されながら消え失せていった……。
これは、赤魔からの伝言だった。
彼には、この言葉のいみが理解できる。
そして、すぐに目線をまえに戻した。しかし、そこにはもう麒麟の姿はなかった。それは、いつものことである。奴は、赤魔の忠実な犬なのだ。
キバは、立ち上がるとすぐに目のまえの岩の上に足を進めだした。一つ一つ、縦に立ち並ぶ岩のうえを進んでいる。岩の橋の周囲は湖だ。そこには怪物が潜むという言い伝えがある。たしかに、ときどき黒い影が湖のそこから覗いたところを見たことがあったが、それが怪物であると自信をもっていえることは程遠い。第一、その姿を見たという者はいないのだ。
岩の橋を過ぎて水の国へつくと、キバは、深々とあふれる透明の海が体に溶け込まりそうになり、手をかざして水を押しやる動きを見せた。
「君たち、やめるんだ」
誰の仕業かは、すぐに分かった。この水の国をこのように自由に操ることが出来るのは“あのお方”だけだ。
あのお方とは、水魔のこと。彼女はこの国を治める女王である。
どうやら、彼女はあの子の存在に気がついているようだ。そして、できる限りあの子をこさせぬように邪魔している。――これは、一目瞭然だ。
水を押しやれば押しやるほど、彼から避けるように離れる水。物凄い勢いで波の動く音は鳴っていた。そこから現れた、湿った地面の上をキバは進んでいる。
足を一つ一つ踏みいれて進んでいくと、向こう側で身動きが取れなくなってしまっているあの子の姿があった。
心ノ臓が、ドンドンと激しく打っている。
キバが水を押しやり続けていると、ついに、彼女の周りに溶け込んでいた水の塊も波を打ちながら、彼女を避けるように離れていった。
小春は、自由になった拍子に、今まで耐えていた体が持ちこたえられなくなってしまった。彼女の全身の力は抜け、湿った地面へ体が倒れていく……。意識も、遠のいていき視界は雲のようにぼやけていった。そして、地面に倒れた衝撃の感覚が襲ってくる。しかし、それは湿った冷ややかな地面の感覚とは違い、心地がよく温かみがあり優しく包み込まれたような感覚だった。
一面にぼやけた視界、白い煙のように映りこむ景色の中央には、白い髪を有した、目鼻立ちの整った若い青年の姿が微かに覗いた。
三
ただならぬ気配に、隙間を大人の指二本分ほどに開けた窓からのぞく外を見下ろしている女が一人いた。
この女とは、水の国を治める女王、水魔である。妖精のようにとんがった耳、透き通った白い肌、癖のついた長い黒髪は川のように艶めいていた。
彼女が見下ろす先には、すっかり意識を失った一人の娘を、青年が、優しく抱きかかえている様子が目に映りこむ。――当然、あんな細い体つきの娘を持ち上げることに苦労はせんだろう。
青年は、焦った表情をあらわにして、その場所から、たぶん、二メートルほど離れたこの建物へ近づいて来ていた。
青年が足を踏みこむ度に、慌ただしげに弾く水の音が微かに耳の中へ入ってくる。
青年の白い髪は、旗のように風に揺れ動いている。青年はこの城の門の前に立ち止まると、風に揺れ動いていた髪もピタリと止んだ。ここからでも良く分かるほど、焦っているようすだった。彼は、一泊と時間をたたせる余裕などないといった表情を浮かばせており、落ち着きのない動きで門にべったりと手を付けた。この拍子に門は、大人一人が入れるほどのすき間が出来た。途端に青年は、忍者のような素早い動きでするりと城の中へ入っていった。
「あの小娘、この世界の者ではあるまい」
水魔は、窓の隙間から微かにのぞく外から目を離すことなく、呟いた。
同時に、水の城に仕える者たちが騒ぎ立てはじめた音が、彼女のとんがり耳に届いてきた。
四
キバが、木の門をするりとぬけた途端のことである。鼻の下から顎にかけて黒髭が生えた一人の男は、ぎょろりと目を見開いて足を滑らせた。床に両手がつき、尻がついたまま、この男は二人の姿を見ていた。
門に入ったばかりの位置で、キバは思わずこの落ち着きのない男のおかげで足を止めた。
すると、男は気力を絞って立ち上がると落ち着きなく、この先の廊下をかけ走っていった。
キバは、すぐに小春に目線を向けた。彼女の顔は蒼白で、唇は白く変色している。両手には、彼女の冷えきった体温が伝わってくる。急がなくては……。
彼は、比較的広いこの建物の中、再び足を進めだした。
本当なら、火の城へ連れていきたいところだった。でも、彼女のこの様子なら、あそこまで行くまでにからだが持ちこたえられなくなってしまう。だから、仕方がなかった。しかし、一晩くらいならあのお方でも、お許しいただけることだろう。ワカ族の女王という地位をお持ちのお方なのだ。そこまでの馬鹿ではあるまい。
キバは左手へ曲がり、つるりとした木の床を急ぎ足で進んでいる。――なるほど……あの落ち着きのない黒髭男がすってんころりんした訳もこれで、よく分かった。
和式の広くつづく窓を通りすぎ、ど派手な馬が二匹描かれた趣味の悪い正方形の絵柄を通りすぎた。
すると、和式のエレベーターが右手にある。それの下半身には、大人しい浮世絵が描かれてあった。
キバは、すぐさまエレベーターに乗り込んだ。左腕一杯に、小春を抱えて、一番上の《八》のボタンを右の人差し指で押した。エレベーターが動き出したのを確認すると、直ぐに右手を小春の背中へ戻して、ついで、左手を太ももへ戻した。このときには、エレベーターは三階へ上がっていた。
左腕は僅かながら痺れている。こんなものだろう。かなりの華奢な……いや、窶れた少女だが、気を失っているのだ。このくらいは、体が重くなっても仕方あるまい。
五階まで上がったところ、エレベーターは止まった。目の前には、離れ目のさかな顔小男が立たずんでいる。小男が、エレベーターにのったので、キバは尋ねた。
「何階ですか?」
「一階だよ。いやいや……悪いね」
小男は、申し訳なさそうな表情を浮かべている。
たぶん、気を失ったこの子の姿と、私の焦る表情をみて悪いと感じたのだろう。
「かまいませんよ」
一階につくと小男は一言、いった。
「その娘、人間なのだろう。気をつけなさい。きっと、天辺のその奥では物騒ぎが繰り広げられているでしょうからね。それでは、僕はこれで」
小男は、一度頭を下げるとエレベーターを出ていった。
エレベーターが閉まると、再び、左腕一杯に、小春を抱えて、一番上の《八》のボタンを右の人差し指で押した。そしてまた、直ぐに右手を小春の背中へ戻して、ついで、左手を太ももへ戻した。
一番上の八階までつくと、エレベーターは止まり、とびらが開いた。
直ぐに、キバはエレベーターから出ると、水魔のいる奥へと向かうために、足を進めだした。
少しの間、進んでいくと、水魔に仕える大勢の下部たちが人の壁を作って、行く手をはざんでいた。
冷えた視線、人間かもしれない恐怖心。彼らには、そういったものを強く感じる。……厄介だ。
五
鼻の下から顎にかけて黒髭が生えた一人の男、ハシャクは、ぎょろりと目を見開いて足を滑らせてしまった。
床に両手がつき、尻がついたまま、ハシャクは二人の姿を見る。
この男は確か、死神のキバだな。そして、奴に抱きかかえられている娘は、異様な匂いがする。この、醤油を獣に垂らしたような独特な匂い……もしや人間か!? ――これは、まずい。水魔様にお伝え申し上げねば。
ハシャクは、気力を絞って立ち上がると心中穏やかでいられないまま、この先、左手のつるりとした木の床の廊下を駆けばしってゆく。ハシャクの足は、普通の人より二十倍ほど細やかに足を動かして、それを同じリズムで走り続けるマラソンランナーのようだった。
ところが実際に、これだけ足を動かしているのに、たった数メートルしか進んでいない。焦るとよくないとは、正にこれである。しかもハシャクは、つるりとした木の床に足を滑らせるように走っていた。
エレベーターに入り、ふうっと一息ついて、天辺の八階にエレベーターが止まると、直ぐに足を進めだす。
その先では、人々が物騒がしく群がっていた。たぶん、三十から四十人はいることだろう。
この中で、化粧っけ一つない女、月夜は大勢の人々に、命令をくだしていた。
「気を引締めろ! あ奴を通さぬように行く手を阻むのだ」
彼らの背後に、水魔の部屋がある。彼らは、行く手を阻んで水魔の部屋には入れさせんと騒ぎ立てているのだ。
人と、人と、人との壁が出来上がっている。彼らはびくりとも動かず、ただ、あ奴がくれば道は通さんと、いわんばかりの表情を浮かべていた。
しかし、そんなことはどうでもいい。今は、あのお方に、急ぎお伝えせねばならんのだ。あれは人間かもしれない。あれが人間だとしたら、みんな消えちまうっ! ――少なくとも、あんな小娘が幸運にも月の剣を手に入れてしまったとすればの話だが。
ハシャクは、人の壁の中を突っ走っていった。このときに、女の悲鳴に近い声が聞こえた気がしたが、一々気にしている余裕もないといった表情を浮かべてる。そして、水魔の部屋へ続くふすまを勢いよく開いて足を踏み入れていった。
月夜は、ハシャクのいる背後を振り向いて、腕を組み、ハシャクがふすまの戸を締めて、彼がかんぜんに見えなくなるまで呆れた表情を浮かべていた。
「あー……ハシャクのせいだわ」
悲鳴に近いこえを上げていた女は、いった。
すると月夜は、右端にいる彼女をみつめた。長々とした黒い髪はいつまで伸ばす気かしら? ――少なくとも月夜には、このストレートボブヘアで十分だったため、髪を長くしたい女の気持ちが、ちっとも、分からなかった。
女は、皆に左のつま先を見せびらかせている。別になんてことない、ただ、少しだけほんのりと赤みがさしているだけだった。
周囲にいた別の女は、「まあ、なんてひどい」と、言っていた。
本当は、踏まれてできたものではない可能性さえ思い浮かんで、月夜は再び、腕を組み、呆れた表情を浮かばせた。
ふすまの先は、つるりとした木の床で広がった部屋に、ど派手な趣味の悪い大きな壺がこの先に繋がるふすまの端と端にたたずむ柱の上に置かれていた。ふすまは、まだ続いている。ハシャクは走るペースを崩すことなく直ぐに、ふすまの戸を、今度は腰を低くしながら開いた。
その部屋の左端に水魔は座っていた。
水魔は、大人の指二本分ほど開かれた窓に涼みながら、そこから見える黒い空の景色をみつめている。
「水魔様」
そういって、ハシャクはその場で正座をして頭を深く下げた。
「キバが連れ入ってきた娘は、もしや人間かもしれませぬ」
「そろそろだとは思っていた。死神たちの動きが怪しかったからな……だが、ぴたりとやんだ。あの小娘ではないかもしれぬということさ」
これを聞いたハシャクは、ふうっと息をついた。
死神は、邪神が密かにすべてを操る神の目を盗んで送り込ませた者たちである。つまり、闇の国は元々、存在していなかったのだ。
邪神と闇の国には、陰謀が存在し、闇の国の者たちは密かに邪神との間で、何かを企んでいる。
その陰謀とは、月の剣を狙っているとしか考えがつかなかった。
しかし、その剣を狙っている可能性のある死神の動きが、ぴたりとやんだ。つまり、剣を手にする者が、あの小娘ではないと判断したのではないかと、水魔が考えてのことだった。
そして、男たち女たちの騒がしい声がこの部屋の中まで、届いてきた。外からの物騒ぎは一層、激しいものになっているらしい。
この直後、ふすまの戸は静かに開かれた。
顔を覗かせたのは、他ならぬ月夜である。
彼女は、ゆっくりとした動作でこの部屋の中へ入ると、腰を落として正座の格好になり、ふすまの戸を静かに閉めてから、くるりと体の向きを変えた。
月夜は、一度ふかく頭を下げた頭をそのまま少しあげた状態で話だした。
「水魔様! キバが人間と思われる娘を連れてこちらへ来ております。何とか、私達で食い止めている所ですが、この物騒ぎの有様でございます」
「月夜、もうよいぞ」
水魔は、低い声を響かせた。
月夜は、目を丸くする。
「あの若者と気を失った小娘をここへ連れて来なさい」
そう言うと、水魔は立ち上がり月夜に背を向けて奥へと歩いていった。水魔はその奥にある机の前に敷かれた座布団の上に座り込んだ。この座布団は高貴な紫色がよく映えている。
そして、水魔は着物の胸元にすらりとした手を入れ込んで何かの紙を取り出した。その紙を、目の前の木の机の上にそっと、置く。
「......しかし、水魔様」
月夜は困り果てた顔を浮かべて、そう言った。
「水魔様のご命令だぞ。早うせい!」
そう言ったのは、ハシャクだった。彼は、月夜に近づくと、月夜の片腕を持ち上げて起き上がらせる。
月夜は一泊の間、ハシャクを睨みつけていた。
ところが、ハシャク。直ぐに、ふすまの方へ彼女の背中をグイグイ押してゆき、ついで、もう片方の手でふすまの戸を開いた。
「ちょ、ちょっと」
だが、月夜がこの口をついた頃にはもう遅い。
あっという間に、月夜は部屋の外へ突き出されてしまった。
目の前を見ると、そこには、続いてのふすまの戸が待ちうけていた。耳に届いてくる音は、全て、人々の嵐のような罵声、人々の轟音に叫ぶ声で潰されている。
彼女は、気合を入れるようにして目力を強めると、すぐに足を進めだしていった。ふすまの戸をしずしずと開いて廊下へ出ると、ついで、ふすまの戸をしずしずと閉める。
前に視線を向けると、そこには、人の壁におおい尽くされて人々の背中しか見えぬ世界が視界に広がっていた。
激しい声に溢れかえる中、月夜は大きな声で言い放った。
「皆の者、もうよい!」
ところが彼女の声は、彼らの罵声にかき消されてしまった。無論、彼らの耳には届かない。
いや、一人のおかっぱ頭の娘、花にはしっかり届いたようだ。そりゃあ、月夜のすぐ目の前にこの娘がいたのだから、当然と言えよう。
「今、もうよいと言いまして?」
「水魔様からのご命令です」
月夜は、首をかしげた花にそう言った。
「では、私にも手伝わせて下さい。なにせ、この有様ですからね」
そう言った花は、すぐに前へ視線を戻して、高く声を張り上げた。
「皆さん、聞いてくだしって!」
彼らの轟音なる声に、かき消されて、かき消されても諦めずに二人は大声を張り上げ続けていた。
月夜は、強い目力で彼らを眺めながら、気力を絞って言いはなった。
「水魔様のご命令だ! キバと娘を通せ!!」
そうして、この彼女の一声はようやく彼らの声を超えたのだった。それは、天井を突き抜けるように大きな声だった。
すると、辺りは一気にざわめき始めた。
「水魔様のご命令だって?!」
「そんなら、早う皆んな避けんとなア」
「でも本当に大丈夫なのかしら? あの子、人間かも知れないのに……」
通せんぼをしていた者達は、様々な言葉を呟きながら、ようやく動きはじめたのだった……。
六
目の前にあるのは、人の壁。行く手を阻む者達に多い尽くされた目の前は、殺気に満ちていた。
「たのむ。……ここを通してくれ」
キバは、小春をひしと抱きながら、行く手を阻む彼らを真っ直ぐに見つめている。
「キバ、何を考えておる! それがどういった行為なのか分かっているのか!!」
背の高く骨張った体つきをした男は、低い唸り声を上げた。
他の行く手を阻んでいる者達も同様。激しい罵声を言い放っている。
それでもキバの持つ、黒い瞳の強い正規と真っ直ぐな表情が変わる様子は一切感じられなかった。
こうして闘っている間にも、小春の身体は見る見ると冷たくなっていくのをキバは、嫌なほどに感じていた。
轟音なる声の嵐の中、キバが微かの希望に満ちた、ただ一つの声が耳に届いた。ようやく、届いた。
「水魔様のご命令だ! キバと娘を通せ!!」
女か。強い気に満ち溢れたこの声には何処かで聞き覚えがある。この声の女はたしか、月夜と言ったろうか? 彼女は、かなりのしっかりものであり良き友だったと、赤魔様に聞いたことがあった。そうだ、月夜だ。そうに違いない。
七年前に、私がこの世界へ来たときに、偶然にも暗黒の扉へ向かっている姿を見られてしまったことがある。確実に、あの時の女の声であることから、これは明らかといえた。――そういや、私が死神だと水の国で噂をされ始めたのも、あの日からだったような……。
彼らは、ざわざわと動きはじめていた。彼らの表情は、どこか不安げで、どこか心配げに陥っている様子がキバには、見て取れた。この時は、全く情けないと思ったものだ。
ざわざわと足音が鳴り響きながら、通り道が一直線に作られてゆく。彼らは、周辺が架け橋となっている端と端によって行き、よって行った。ようやっと通り道が作られると、その向こう側のふすまの戸の前に立たずむ一人の化粧っけ一つない女、月夜の姿があった。……やはりそうか。君だったのか。
彼女の顔を見るなり、キバは安心感を覚えた。理由として、この水の国の者の中で、最も心も考え方も折れないお人であると、キバは確信していたからだ。そんなことは、目を見れば直ぐにわかる。このお人は、いいお人だ。これを、赤魔様も感じていたから、赤魔様からも最も信頼を得ていたのだろう。そうなお人が、水魔の下で仕えているとは……まことに残念なものだ。
キバは、一つ一つ足を進めている。この度に、周囲から針のような視線を感じたが、そんなことはどうでもいい。とにかくキバは、小春が無事でいて欲しいのだった。ほかに理由などないのだ。彼女を救おうと手を差し伸べたのも、彼女を救おうとこの世界へ来たのも、全てがそうだから。
ふすまの戸の前へ着くと、月夜は凛とした表情をたもったまま言いだした。
「水の国へようこそ、お出でで」
七
水魔は、目の前の机の上に置いたお札のような形をしてサイズをした紙をじっと見つめていた。
この紙は、客人の名を記すためのものである。しかし、今まで使ったことは一度もなかった。影神界へお客が来るなど、すべてを操る神から選ばれし一人の者である他には、絶対に有り得ないからだ。それ以外のものは、皆、ここで生まれたのだ。同時に、我々はここで人生が終わる運命をもつことを意味している。だから、この紙を目の前の机に今と今に、置かれてあることが、事実、信じられないという気持ちに膨らみ上がっており、この紙から目を離すことがどうしても、水魔には出来なかったのである。
その時、ようやくふすまの戸が開かれた音が聞こえて、水魔は我に返った。
ふすまの戸をしずしずと開けた月夜はその場で、背中を低くした。
「水魔様。お連れまいりました」
ついで背後を振り向き、
「ほれ、中へお上がりなしって」
キバは、月夜に言われると小春をひしと抱きながら部屋の中へおもむろに上がる。
奥方で、恐ろしく美貌をかねそなえた水魔がゆったりと座る姿が目に入った。彼女は、優雅な美貌をかねそなえた持ち主といえるだろう。
「そこの若僧よ、おいで」
水魔がそう言った瞬間のことである。ふすまの前に立たずんでいたキバは、銃から発射されたような猛烈な速さで奥方にいた水魔の目の前へ突っ込んでいった。
キバは、思わず一泊ほど息が止まった。なんだ、この力は? どうやって操ったんだ? 水魔よ。キバの頭は、水魔のすらりとした鼻のすぐ真ん前だった。危なくあと少しでキスを為出かすところである。つい、小春が腕から落っこちてしまうところよろしく、彼の両腕はわずかながらに震えていた。
月夜は、しずしずとふすまの戸を閉めると、その場で正座をする。
「近すぎではあるまいか? レディーに突然接近するとは紳士のすることかね」
水魔は、鼻の真ん前に有するキバに言葉を突きつけた。
キバは、唇を噛み締めて水魔を見つめながら、身体を真っ直ぐに起き上がらせると、持ち前の黒い瞳の強い正規で水魔を見詰めだした。
水魔は、微かな笑みを浮かべると若僧の腕に抱かれた蒼白な小娘をきっと見つめて、言った。
「月夜、その娘を寝床へ」
月夜はすぐさま立ち上がり、床をするような足音をたてて、キバの傍へしずしずと歩んでいくと両手を差し伸ばして、丸く柔らかい声で言った。
「さあ、その子を」
そうすると、キバは黙ったまま丁寧に小春をその柔らかく暖かそうな手へ差し出した。
右手を娘の背中へ、ついで、左手を娘の太ももへもっていき月夜が抱き上げた瞬間のこと、キバは突然にも小春を抱えていたその手を引っ込めた。月夜は思わず唸り声を上げる。この娘は、華奢な身体つきにして想像ぜつするほど、重たかったのだ。
たぶん、服が多くの水を吸っていることと、気を失っているために、重量が増しているのだと思えた。
それにしても、男はいいわね。だって、こんなくらい、ひょいと持ち上げられるんですから。何故、女の私に? あそこの窓際に暇そうにただ突っ立っている男が一人いるではないか。ときどき水魔様は、まったくもって理解不能なときがあった。
月夜は気を絞って、右手の紅のすだれがかかった一室へとおぼつかない足取りで入っていった。
「キバよ。お前は客人の名をここに記すのだ」
水魔は、すらりとした右手をお札のような紙に添えて、キバのいる前方へと擦ってずらしていった。
だが、キバは身動き一つせず、ただお札のようなその白紙の紙を見つめていた。
窓際にぼさっと突っ立っているハシャクは、キバを眺めながら片方の眉を大幅に上げだした。
キバは、どういう訳か、陶器のようにつるりとなだらかな額に左手の先をそっと添えて、ついで、目を瞑った。
ハシャクは、キバの行動がまったくもって理解不能だと言わんばかりの表情を浮かべて、唾が飛ぶような声を吐き出した。
「一体、何をしてやがる」
ハシャクが声を出すや否や、キバの両まぶたはぐいっと開かれて、黒い瞳が丸裸になった。そして、キバは顎を少し引いて糸に引っ張られているように口角をもちあげた。
この瞬間、そのお札のような紙からただならぬ炎が灯りはじめた。それは焚き火のように温かく、暖炉の前で毛布を被って寝込んでいるときのように微かに焦げの匂いが漂っている。
水魔は、怪訝そうに眉をひそめだした。
すると、キバは左手を額から離す。共に、鉄分によって赤く染まられた赤水晶のように真紅色をした燃え盛る炎は瞬時に消え失せていった。――魔法のように。
キバの目の先に置かれてあるその紙は、黒焦げになっているかと思いきや、雪のように真っ白い。さらに、その紙には、暗褐色の焦げが中央に広がっている。
ハシャクは、その焦げを眺めると一度開いた口は閉じることを忘れてしまっていた。何でったって、その焦げがハンコのように極揃った文字を記していたからだ。それには、こんな文字が記されている。
《河合 小春》
「なんとっ!」
思わず、ハシャクの声は漏れだした。
「彼女の名だ。それでは、私はこれで失礼するよ」
真っ直ぐに水魔を見詰めながら、キバは言った。
そして、彼は踵を返して颯爽と歩きだす。大胆にすっきりふすまの戸が開き、ついで、同じく大胆にすっきりふすまの戸が閉ざされた。
貝殻の色のようにくすむ黄身を帯びた白い着物を着こませて、小春を寝床に寝かし付けると、ぬくぬくとした布団をかけてやり、月夜はその場で正座をして、肩の力をぬいた。そして、彼女は魂がぬけたように空虚な表情をした小春の寝顔を眺めながら、労働の疲れがまとった吐き息とともに、呟いた。
「どうやって、ここの世界さ来たんだい……」
一泊、二拍、眉を下げながら小春の寝姿を眺めていた。月夜は、着物を小春に着付けていたときに顕になった両腕の傷のことと、その時にこの子の体はろっ骨が浮き出るほど華奢であったという事実を思いだしていたのだ。
そのときに、読み取れてしまったのは、きっと、そうとう頭のいった人の家で暮らしていたのだろう、ということだった。――これは、嫌でも見れば分かる事実であり、事実であった。
《よおし、明日は飛びっきりのうまい食い物を用意するからね》――胸の内で月夜は、そう決めると、労働の疲れがたまり込んで重たくなった腰を気を絞りながら上げていき、やっとのことで立ち上がる。ついで、枕元においていた燭台を片手にもちあげて、部屋からしずしずと歩み出ていった。
私も長いこと面倒を見ていられるわけじゃアない。疲れは極上まで高まっているのだから、早いところ寝床につかなけりゃいかんだろう。……今日はいろいろあり過ぎだった。
八
針が突くような強風が漂う、この真夜中。湖は浅くゆれ動き、かぎりなく黒に近い瑠璃色の空に点灯される三日月は、悩み事を抱えた人間の心のように灰色にくすむ雲に多いかぶされてゆく。
この湖の近くに位置する大理石のようにつるりとした灰色の石の地面の上で、リズミカルな早足の音は鳴っている。大きな音ではない――だがこの真夜中の静寂のなかではよく響いた。
この若者は、マント風の黒装束に身を包んでいる。そのため、真っ白な髪は一層、よく映えていた。マントは、強い夜風によって旗のように大きく揺れ動いている。
湖から一ブロックほど先の場所にある、孤独にたたずんだ暗黒の扉の前まで歩むと、扉は彼を待っていたかのように独りでに開き、彼を招き入れる。
そのまま、歩むリズムを崩さずに彼は、扉の先に続いている洞窟のような暗闇の中へと吸い込まれるように入っていった。
『おかえり……キバ』
その奥から、邪神から愛された舌っ足らずのウィスパーボイスで言った女の声のみが聞こえてきた。
彼が、闇の中へ入り込むや否や、暗黒の扉は用はもう足したのだというように、閉ざされてゆく。独りでに、扉の鍵の役割をもつ金具たちが次々にゴトゴトとした物音を立ててゆき、暗黒の扉は完全に閉ざされた。