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第一章 苦境

 むかし、神の世界には太古からの月の剣が眠られていた。

  


宿命与えられし子よ

今、目覚めよ

さすれば、全知全能神創造の地にて

月の剣を与えん



※※※※ ※※※※




「もう……死にたい」


 この言葉を呟いた時、初めて私はこの世を憎んだ。


 死のう、死のう、今日こそは死のう、何が何でも絶対に、どんなことがあろうと死なねばならぬことよと、ずっとずっと思い続けていながらも、ずるずると、この日まで生きてきたのだ。


 騙されたり、冷たくされたり、虐められたり。


 誰もが苦しみや辛さを抱いて生きているが、私には、限界を感じている。心というものが、無ければいい――そんな思考が過った。



 幼女の頃から、私は周囲の人と何か違うと感じていた。それは、考え方が根っから違っていたり、周囲の人と温度差を感じる事により、その場所に居づらかったりした。人と違うことは、悪い事じゃないが、社会は当然、私を一つ奥へと置いていた。


 しかし、これまで、どんなに前向きに突き進んでいた事か。ここまで陥るのに、勿論、悩みは一つ二つと言った話しではなかった。だから、蓋をした。悩みその物に、蓋をした。そうでないと、前向きにはなれないからだ。今まで、私が、いくつ蓋を閉めてきたか、覚えてもいない。


 私は、どんな苦境も乗り越えて来た。でも、次から次へと新しい苦境と言うものが、必ずやって来ては、心が引きちぎれた。


 結局、神様からの褒美というものは私に届く事が無いようだ。



 まだ十歳といった年である少女、小春の目は真っ赤に腫れ上がり、ヒリヒリと傷んでいた。それでも、溢れ出す涙は止まらない。長い髪の先は、涙のおかげでべっちゃり濡れている。


 机の上を、疲れ切った虚ろの目で見渡す。そこにあるのは、大量に抜いた髪の毛と、テディベアのための、木で作られた小さな椅子だ。その椅子は、物に当たって落ち着こうとしていたお陰で、好き放題にぶっ壊れている。別に、好きで、そうした訳ではないのだが……。


 テディベアは、中でも気に入っていたぬいぐるみだった。このぬいぐるみは、自分で作った。言うならば、世界に一つだけのテディベア。テディベアに着せたシャツのボタンの種類は皆、バラバラ。第一ボタンのサイズは大きく、大胆な花柄も良く目立っている。それに対し、第二ボタンのサイズは極小で、色は地味な茶色だった。このアンバランスさがまた、可愛らしい。


 しかし、心のコントロールは効かなかった。


 お陰で、テディベアの座らせる椅子は、もう無い。


 心は、現実の苦しみにより、支配されていた。


 自分で抜いた大量の黒髪を見ては、ため息をついた。そんなつもりは無かったのだから。


 小春は、机の上の鉛筆たての中にしまわれてあるハサミを取りだすと、瞬時にそれの先っぽを胸元に付けた。ハサミの先っぽから、冷ややかな感覚が全身に伝うと、突然、緊張感が走りだした。


(小春の背後。暗闇の中、大ガマを振りかざそうとする影が、ちらりと動いた。しかし、この者。一瞬にして、何かから逃げる様に、姿を眩ませた。)


 徐ろに……胸元からハサミを引き離す。


 小春は、投げやりにハサミを机の上に置いた。


 結局、出来やしない。


 小春は、激しい目眩を起こし、全身の力が抜けた。彼女は、そのまま倒れ込んだ。


 ただ、溢れんばかりの涙は止まることを知らない。彼女は、眼球に激痛が走るまで、泣き続けた。


 今まで、辛くてならないことを、人に見破られるのがいやなので、きっと口をしめて我慢してきた。強い心をもっている訳ではないのに、いかに、平気なふりをすることが癖となっていたのだ。


 この癖は、小春があまりの苦しみを抱いたゆえに、自然とそうなってしまったものである。


 しかし、人は誰でも限界を感じる生き物なのだ。

 

 この頃すでに、小春は限界を感じており、感情のコントロールはきかなくなっていた。


 これほどにも、頑張り続けているというのに、見合った結果が一向にやって来ないのだから無論、仕方ない。


 そんな時、人は決まって神頼みの様に、幸せを願う。だからと言って、何かが変わるとは誰も、思っていない。

それでも、人は苦のどん底にいる時、決まって神頼みの様に、幸せを願っている。


 小春も、そんな人間の一人だった。


 神様......私は一体、どうしたら良いのですか?

 神様......どうか、どうかお願いです。

 私に......幸せというものを下さい。

 チャンスを下さい。


 私はもう......心がポッキリ折れてしまいました。



 あれから七年の月日が経ち、小春は十七の歳になっていた。

それでも、一向に現状は変わらない。


 時計は午後の七時を回り、ダイニングルームから夕飯には似合わず、ほんのりと目玉焼きの香りが漂っていた。毎日飽きるほど、同じ料理ばかりだが、仕方ない。



 元々、小春の実の父親であり冬美の婚約者だった板坂周作は、ずいぶんと自己中心的な性格だった。


 土曜日の真昼間に周作は、テレビを見て楽しんでいた。テレビの音は、耳が変になりそうな轟音だ。

 小春の実の母親である河合冬美は金曜日の夜から熱があった。――このとき、小春は母親のお腹の中にいる。

 つるりとした質感のソファーのうえにクッションを敷いて、二つの毛布をかぶって、彼女は寝込んでいた。かなりの寒気が体中をおそう。それにプラスして、このテレビの轟音……。頭もいたくなった。


「いい加減にして」と、冬美。


「うるさい。聞こえなくなるだろう?」


 周作は険しい表情を浮かべて、言った。


 テレビの世界しかこの男の中にはないのか? ――もちろん、そうに決まってる。


 私とテレビ、あなたはどっちが大事なの? ――この言葉は言うまでもないだろう。この男はごみだ。体調が戻ったらすぐに出て行ってやるわ。少なくとも、この男よりマシな男はそこら中にごろごろ転がっているだろうからね。


 それを理由として、冬美は出ていった。

 それから冬美の中で、怒りと悲しみが同時にならぶようになった。

 お金は僅かのうえ、お腹に子供がいるというのに、あの男は……。――冬美は思うたび、お腹を撫でさすって、ため息をついた。


 半年も経つと、許せないという怒りの感情のほうが、強まっていった。

 そんな時期のことである。

 桜が咲きはじめたこの季節、無事に赤ん坊が誕生した。少し癖のついた黒い髪、父によく似た澄んだ瞳を持つ女の子だった。

春生まれにちなんで、赤ん坊は小春と名付けられた。


 子供がすくすく成長していき、当時、三歳という年だった小春は、吸い込まれるほど美しく澄んだ瞳が魅力的な幼女となっていた。

 しかし冬美は、実の娘の愛らしいはずの目元が、あの父親に瓜二つだったことが気に食わず、いとおしむ気持ちが憎らしい気持ちに成り変わった。小春と目が合う度、よく眉間にしわを寄せるようになり、ときには暴力をふるうこともあった。


 それは小春が十七にもなった今も変わらず、彼女はずっと苦しみを抱いていた。



 食卓には目玉焼きと白いご飯だけがならんでいる。

 小春は退屈な顔を浮かべながら、まだ温かな白いご飯を一口頬張った。いつもどおりのお米の味だった。


 その姿を、母は眉間にしわを寄せながら見ていた。――この時、母の一方の足は貧乏揺すりをしている。


 母は、遂に、イライラした感情を貧乏揺すりだけではおさえきれなくなると、小春の黒い髪を引っ張り上げて、怒鳴り声を上げた。


「おまえの顔を見ているとイライラするよ!」


 母に怒鳴りつけられる度、自分に自信がなくなることを小春は覚えた。



 学校では、この七年の間に何度も何度も、苦しさにぶち当たってきたことである。


 小春は、対人恐怖症をもっている。

 人前で話さなくてはいけない時、決まって声は小さくなった。

 酷い時は、出席確認のとき名前を呼ばれているのに、声が出ず、返事すら出来なかったものである。そんな時、先生は決まってこんな態度を取っていた。


「ああ、いないのね」……と。


 そういう日は、欠席とされてしまっていた。

 話せなくなってしまうことが有ることを先生にも、周囲の同級生らにも理解されなかった。だから、周りの人達も先生と同じように虐めてきた。


「聞こえません!」


「ちゃんと、聞こえるように話して」


 皆、声を張って言った。中にはため息混じりに言った者もいる。

この言葉を聞いた瞬間、毎回のように胸が裂ける思いをした。彼らが冷ややかな表情を浮かべているように見える。


 この言葉は、小春のように対人恐怖症の人や声が元々小さい人にとって、最低な言葉だ(自分が精一杯出している声だと言うのに文句を言われると嫌な気持ちになるということ)。

 だから、虐めとしか捉えようがなかった。さらに、小春のように繊細、言い返せない性格の人であるのならば尚更のことである。



 勿論、彼女は、それだけがきっかけで人が怖いと思うようになった訳ではないのだ。その数ありすぎて、忘れてしまっていた。対人恐怖症になったきっかけすら、覚えていない。



 もう……耐えられないと、分かっていた。


 引きちぎれた心は、更に引きちぎれ、涙というものを、忘れた。


 あの頃のように、泣く気力は、もうなかった。 



 明かりも付けず、仄暗い部屋の中。

 古臭い汚れが多だ見られる、和紙の壁に、彼女はよし掛からせて、全身の力を抜いた。

 小春は、母に痛み付けられた両腕を摩り、力が抜けた華奢な体をへたへたと床の上に落とした。


 その両腕。煙草を擦り付けられた跡がいくつも残されている。


 彼女の華奢な体もピタリと密着する、真っ白な半袖のワンピースは、端っこの紐は縺れ、頬の様に薄らと赤い下着は、微かに透けて見えた。安物であることが、物語っている。


 小春は頭をこつり、膝に付けた。この衝撃、黒髪がさらさらと前方に流れる。


 学校は、もう行きたくない。家にも、もう居たくない。


 学校へ行けば、また、虐められる。

 家に居れば……私は、笑顔になれない。


 どうすれば……?


 この時、ロウソクみたいに燃える熱さを心の内に感じた。小春の目は、真っ直ぐに成り代わる。丸で、スイッチでも入ったかのように。


 小春は、重たくなった体をふらつかせながら、徐に立ち上がった。


 背筋を真っ直ぐに伸ばすと、部屋の中。

 この真っ直ぐな瞳で、雑巾のように薄汚い窓の外を見やった。


 真っ暗闇だ。外に建ち並ぶ家々は明かりが灯されて、美味しそうな食物が食卓に並び、住人達は、賑やかで楽しそうに皆、笑っている。ここからでも、良く分かる程、大きな笑顔だった。何をして、楽しんでいるのか。

 小春は思わず下唇を噛み締めた。ああなりたい。あんな風に、暖炉のように暖かな人達に、囲まれたかった。


 だが小春は何時ものように、ため息はつかなかった。


 しっかりとした表情は、どこか、希望を抱いている。

 その顔の中、眼のまわりには黒いくまが出来ていた。このくまには、小春が今まで必死に苦しみぬいて来たことを物語っている。


 そして、何かを閃いたのか、気を紛らわしたいのか、小春は、机に取り付けられた三つの引き出しを次々と大雑把な動きで空けていった。一番下の段の仄暗い中に、ボールペン付きの小さなメモ帳が一つ、置かれてあり、直ぐに手に取った。

 それを机の上に置いて、ボールペンをノックすると悪魔のような見えぬ者に取り憑かれたように、筆を走らせていた。


 小春は書いた紙を手で切り離すと、いつもと違う、しっかりとした足取りでリビングに向かった。

 この時、母はバスルームにいたようで、リビングは静けさに漂っていた。小春は、目の前の殺風景なテーブルの上に、その紙切れを置く。そして踵を返すと、仄暗い玄関へ向かい、母の見ていないうちに歩き出した。


 ガチャ……。ドアがしまる音は静かな空間に鳴り響いた。それは、心が冷えきるほど微かな音だった。


 誰もいないリビングルームは、一層暗く、静まり返る。ただ、バスルームで小春の母親がシャワーを浴びている微かな水音が鳴っていた。


 小春が出て行く直前に、筆を走らせた紙切れには、こう、書かれてあった。


『お母さんへ。私は家を出ます。もう帰りませんから、そのおつもりで……。

追伸、小春より』


 雑な文字だ。筆記のとき、手が震えたのか、「おつもりで」の簡単な平仮名が、ぎこちなく歪んでいる。

 しかし最後の行の文字だけは、くっきりとしていた。この手で赤裸々な気持ちを綴ったことを、わざとらしく強調させている様な書き方である。



 家から逃げ出した小春は目的地も決めず、無我夢中に真夜中の細々と続くアスファルトの一本道をひたすら突き進んでいた。


 家出をする事ばかりが頭に回り、小春は針に刺されるような寒い夜に、パーカーも羽織ることすら忘れてワンピース一枚の格好で歩いていた。

 それでも引き返すつもりは一切なかった。これまで、小春は愛に飢え、苦しい日々を送らされていた。あそこいるより、断然マシであることは確実であることを、小春は何年も前から知っている。


 だが、そうすれば幸せになれると思っている訳ではない。何をしようとも無駄であり、どれだけの努力を積み重ねようとも、見合った結果は一向にやって来る気配すら感じなかったのだから。

 小春の中で、人は皆平等ということわざには疑問があった。では、どうして私ばかりがこのような目に合わなくてはいけないのか。当然のように、小春は感じた。


 これから、私はどうしていけばいいのか――この思考が一瞬、過ぎったが、彼女の足は止まることを知らなかった。


 周囲を見渡して見えるのは、真緑色の葉が生い茂ったまだ若々しい並木。ひんやりとしたアスファルトの地面を夕焼け色に薄らと灯す街灯。この街灯に止まったのは、不気味に目をギラつかせたカラスだった。

 他に面白いと思うものは何もなく、辺りに一軒の家すら見当たらなかった。人がこの辺りにいるような気配も全く感じれない。まさに、不審者でも出て来そうな雰囲気が漂っている。

 この通りは、初めて来た気がした。身に覚えがないからである。


 小春は、かなり長い間、歩き続けていたことに気がついて眉を下げた。歩くペースは、格段に落ちていった。両足の(かかと)肉刺(まめ)ができていたが、それも当然だろう――十一キロ以上歩いたにちがいないのだから。

 一人歩くこの細い一本道で、カラスが寂しく鳴いた声が耳に届く他には、相変わらず並木と夕焼け色にアスファルトを照らしだす街灯が並んでいる。


 ぼちぼちとした足取りで歩いていると、はなはだしく奇妙なものが目に入った。

 それは人気(ひとけ)が全くない細々とした並木道のど真ん中といった、設置されるには明らかに不自然なこの道先に、地下横断歩道が薄気味悪くあるのである。――何のためであるというのか?


 小春は重たい足取りで歩みよると仄暗い地下横断歩道の中を、恐る恐るのぞき込んだ。 

 泥のついた雪のように小汚い灰色の階段から始まる暗闇の中、ひんやりとした空間は広がっていた。どこにでもある、普通の地下横断歩道ではないか。


 しかしながら何処へ繋がるというのか? ――疑問は頭を過ぎる。


 小春の中で、この先に待っている場所がどんなものか見てみたいという好奇心と、不気味にもこのような場所に地下横断歩道が設置されているということの恐怖心とが入り混じった。

 小春はしばらく自分の中の心と闘った。しかし好奇心のほうが、ついにそれに打ち勝った。


 小春は、吸い込まれるような足取りで、地下横断歩道の暗闇に染まった中へ入っていった。


 彼女は、気を失いそうになった。針がつくように寒かった気温が一気に上がったのだ。暗かった辺りの景色は、鮮やかな真紅色に染まっている。


 これは夢か? 錯覚か? ――もしそうだとすれば、このまま進んだとしても害はない。しかし、それはまったくの外れであると言える。足裏の皮がはがれ落ちるような熱さを感じた瞬間に、これは明らかだった。


 足をおもむろに、一歩、前に進めた。このときに火花が当たったみたいに足が痺れた感覚がした。たぶん、この鮮やかに染まりあがった真紅色の絨毯は火の塊なのだ。そうとしか考えられない。違うとすれば、きっと、相当な足の疲れがきているに違いない。だが、明らかに一つ目の答えが正しいと言えた。そうでないというのなら、一体、目の前の景色はなんだと言えるのか? 私には分からない。


 炎燃え盛るように真っ赤な壁と床と天井。

 本当に、地下横断歩道なのだろうか? どこかの科学館にあるものなら、まだ理解ができる。だが、この地下横断歩道は全く人気(ひとけ)がない並木道といった、ある意味すらない場所に存在しているのだ。

 丸で、私を何処かの異世界へ引きずり込もうとしているようではないか。

 もしそうなら、そうして欲しい。少なくとも、あの家にはもう戻らないし、気の合う友人さえ一人もいないあの高等学校へ再び登校するのは勇気がいるのだ。

 もう少しマシな人生はないものか? ないのだろう。幸せなんて私には似合わない。私には、純白のウエディングドレスよりもこのおんぼろワンピース一着で充分だ。


 一歩一歩踏みだす度、床についた火が弾いては、必ず足首に顔が歪むほど熱い火花がかかった。だが、そんなことにも慣れたような足取りで彼女は進んでいく。

 額には、川のように流れる汗が溢れていた。それを拭き取るために、足をとめて枝のように華奢な腕でそれを拭き、同時に肺にたまっていた空気を出し切るように息をついた。

 このとき、風に揺れてゆがんだ焚き火のように真紅色の壁が凹んだように見えた。

 それがすむと、直ぐに足を進めていった。


 この瞬間、あたりの景色は再び一変して針に突かれたような寒さを全身で感じた。さっき大きく高まった温度がぐんと下がったようだ。

 きっと、明日は風邪をひいて熱が上がる。

 あたりの景色は赤から透き通った水の色に変色していた。ここは魔法でもあるのか? もしそうなら、きっとこの先は異世界に繋がっているに違いない。違うなら、ついにラリったか、もしくは、相当な疲れが全身にきているに違いない。いや、そうに決まっている。私は、現実世界の恐怖から逃避しているのだろう。


 床に浅く滴る水は歩く度、弾いた。この音は天井まで響いているような気がする。耳ではなく、頭の中に直接鳴りひびくような音だからだ。

 先程の汗は氷水のように冷たくなった。寒さは一層ますばかりだった。おかげですっかり鳥肌の立った全身は冷え切っている。

 彼女は、少しでも体を温めようと思って、華奢な両手を交差させて両腕をさすりながら歩きはじめた。


 それでも、学校のトイレに入っていた時に、いきなり凄まじい勢いでたっぷりの水が降ってきたあの時の寒さより、百倍ましだった。――それは、確実だ。

 

 かなりのこと、進んだ。目の先には出口に繋がる階段が見えている。この階段にも、変わらず水は滴っていた。


 そもそも、この水はどこから来た? あの燃え盛る炎はどこへ行った? ――いや、そんなことを考えているだけ時間の無駄だ。これは私が現実から逃れた空想の世界なのだ。でも違うなら、ここが本当の世界だとすれば、私は相当、ラリっている。――そう、思うことにしよう。


 階段の一段目に足を一歩踏み入れると、さっきの高温の熱が再び襲ってきた。踏み出した足の部分から真赤な色は、あっという間に広がった。


 足を進めるたび、床から火花が散るのは変わらない。その時に必ず、足首に顔が歪むほど熱い火花がつくことも、あの時(勿論、最初にこの地下横断歩道を歩いていた時の真紅色の景色の時という意味)と変わらなかった。


 小春は、このまま突き進んだ。足の裏を真っ赤に染めながら、突き進んでいた。目の先には、深夜の三日月が微かに灯っているのが見えてくる。



 この先、どんな場所が広がっているというのか? ――地下横断歩道に入る直前から、この疑問が頭を離れることは、一度もなかった。


 たぶん、これが現実ならこの先は平凡な人々と車が行き来をする道路か、同じく人の気配を感じない細っこい並木道へ出るのだろう。

 現実じゃないなら、変な魔法使いや怪物でも登場するのか? ――それはない。魔法使いなど、あまりにも非現実的ではないか。もし現れたら、私の空想の世界か夢だ。それか、ただ単に、私の頭がラリっているのだ。そうに決まってる。


 あと二段、小春の目と鼻の先には微かに灯った三日月が、変わらずまちぶせている。汗がだらだら流れている事はどうでもよかった。――彼女は、この奇妙な地下横断歩道を突き破っていった。


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