第八章 勇往邁進
火の国の乾燥した大地と、浅い水たまりの狭間に、デミの軍隊が待機していた。
乗り馬の前足の向こう側は、水の国──浅瀬に満ちている。
「声でカササギだとすぐに分かるんだよ。刺青もちゃんと隠せよな」
「あい、分かったって。黙ってるよ」
みながカササギをまるで小春だと騒ぐなか、サンタカは、なにげなく、空をふりあおいだ。
強烈な陽射しを浴びて、線状の雲があばら骨のようにならんでいる。
見たことのない形の雲だったので、サンタカは顔を歪ませた。
「なあ、あれを見ろよ」
「⋯⋯ああ。気味の悪い雲だな」
マカゼは、ぼんやりと宙を見据えているサンタカにふりむいて応答する。
「あの雲をみると、いやな予感がするんだ」
と、サンタカ。
「どんな?」
「この世界が消えてなくなる、とか」
「怖えこというなよ。こんなときに⋯⋯」
だが、そんなことを気にしているヒマさえなくなった。
ホルンのような音が、二人の会話をさえぎったのだ。紛れもない、戦合図の角笛の音であった。
「談判は失敗か⋯⋯」
「だから言ったろう? 分かってたよ、こうなることくらい」
近くにいる若い兵士の声に、サンタカが答えた。
「ああ。あれは話の分かる相手じゃないぞ。和解など、奇跡でも起きないかぎりは⋯⋯」
マカゼが呟いた。
「このまま水魔の独裁を許すわけにはいかない。それは確かなことだ」
と、カラバ隊長が馬上から声を張りあげる。
「いま、戦って勝たねば、デミの未来は変わらない。ずっと虐げられたままなんだ。この戦争は小春のためだけじゃない。火の民のための戦いでもある。現実を受け入れた上でできることを探す。それがこの世界を変えていく術だ!」
カラバの外見には老いの影が灰色の靄をただよわせているが、眼光にも声にも、奏者を圧する活力があった。
「その通りだ⋯⋯。くたばれ水魔。真の王は、赤魔さまなり! 忌々しい黒傷の呪いを解け! 秩序、領土をとりもどせ!」
と、デミの兵士たちが怒鳴った。
力強い熱唱のさなかでも、サンタカは、地平線のほうをじっと睨んだ。
とたん、数百騎のワカ軍が視界に入った。
つぎの瞬間、大量の蹄に蹴りとばされた浅瀬の水飛沫の音が鳴り響き、ついにワカ軍は東進してきた。
完全武装のたくましいワカの騎士たち。
そんな彼らに混ざっても、先頭をきるジライはなお目立つ。大柄。鍛え上げた筋肉に、彫りの深い顔立ち。岩石を組み上げて人間の形にしたかのような、厳つい存在感を放つ男──。
「敵がだんだん近づいてくる⋯⋯」
「当たり前だ、遠ざかってどうする」
「只者ではないようだね。顔を見ただけで気圧されてしまう」
と、サンタカも怖がった。
敵軍は、まもなく、浅瀬と大地の狭間に到着した。
分厚く着飾った馬の群れが、デミたちの眼前の浅瀬のうえで、ひたっと止まった。
デミ軍の身体に、緊張のさざなみが走る。
「お前たちは⋯⋯」
と、サンタカ。
ジライの左右にはそれぞれ、総髪の少年と、薄く淹れた紅茶のような髪をした女人がいる。
「おうおう、笑っちまうぜ。これっぽっちの人数で勝てると本気で思ってんのかよ?」
そう叫んだ総髪の目の前を、ジライが横にふった剣が制圧した。
ジライはデミ兵を見据えると、威圧的に要件を言った。
「血迷った反逆者どもめ。よくこの程度の数で我々と戦う気になったものだ。俺の名は、ジライ。ワカ軍隊長をつとめている。穏便にすめばいいが、抵抗されるようであれば、手段を選んでいられない⋯⋯。
いまなら、まだ間に合う。降伏せよ」
「⋯⋯⋯⋯」
デミの誰ひとり口をきかない。
「この戦力差、戦うのはおすすめしません」
と、紅茶色の髪の女──モミジが言った。
なだらかで豊満な、女らしい身体つきであるが、声は太かった。
「⋯⋯⋯⋯」
それでも頑なに口をとざすデミ軍に、モミジは我慢できずに、もういちど言った。
「気は確かですか? たかだか三十騎の騎兵が、一万の騎兵を相手にするのですよ?」
「そりゃ反乱なんてすべきじゃないさ。国が混乱するし、多くの血も流れる。結局、犠牲になるのは、ぼくたちだ。けど⋯⋯それでは何ひとつ変わらない。独裁政権も、小春も、デミも! ぼくらが立ち上がるしかないんだ!」
サンタカは、敵兵のモミジから目をそらすことなく、声をだいにして言った。
「なら、勝算はあるの? 決意だけで勝てるなら誰も苦労はしないわ!」
と、モミジが叫ぶ。
イライラしている女兵士をなだめるように、ジライは剣を片手でふりあげた。
「よく考えてみよ。デミの頭数で、影神界の九割を相手に戦争をやろうというのか。戦術的に至難であり、戦略的には不可能である。ネズミたるそなたらとて、それを理解しえぬはずはなかろうぞ。心より忠告する。反旗をおろすのだ。いまならまだ間に合う」
「そなたらの考えが弓なりなのだ!」
と、デミ兵の一人が言った。強い意思は盾となり、どんな言葉も、はねかえす。
「理解できないね。これだから頭の悪い連中はめんどうっすよ。水魔さまに歯向かう者の末路は、無駄死にだと決まっているのに」
と、総髪のうら若いワカの兵士──トクサが言った。
「だーからデミ族は、反抗的で愚か、そのうえ怠惰な民が集まるといわれるんすよ。いえいえ、奴隷族でしたね」
「あ?! 戦死とは、無駄死にのことではない!」
いつもは温厚なはずのマカゼが、鋭い一声をあげる。
「いちいち、あんなやつに反応するなよ。本当の低脳は、敵を怒らせることしか言えない総髪のほうさ」
隣のサンタカが、口をすぼめて、ささやいた。サンタカのほうが、敵兵のトクサを貶しているような口ぶりである。
「ゔうん。ぼくからも、一言いいかい?」
そして、サンタカの純粋な心に炎がともった。
「水魔がきてから、影神界はおかしくなった。すべては水魔の独裁体制のせいだ。君たちは、なんのために生まれたんだ。この世界がなぜ創造され、ぼくらが生まれたか、まさか忘れたわけではないはずだ。生きる意味と目的は明らかじゃないか。⋯⋯それが、異なことだな。君たちワカは、おのれを自ら価値のないものにしていることになるんだけど。一体全体どういうことだい? 理解不能だな。ひねくれ者の猫みたいでさ。真の反逆者とは、はて誰か。全能神の教えに背いているのは、君たちのほうじゃないか」
サンタカは、にやりと笑い、皮肉たっぷりに言い返してみせた。
「よくぞ言った」
と、カラバが満足げにうなずいた。
カラバがサンタカを指で小突くので、サンタカはウザそうにふりはらう。
とはいえ演出だった。
ワカ族とは正義こそ違えど、本心から理解不能だったわけではない。サンタカにも、滅びと死の恐怖くらいわかる。だが、ここはわざと胆力を見せ、弱みを見せぬのがスジというものだろう、と。彼は利発だった。
「はっ! 愚民の偽神がよくいうわ!!」
そう叫んだトクサの目の前を、ジライの横にふった剣が制圧した。
「愚民とか言うのもよくない。ひとは平等なはずだ」
と、モミジが小さな声で言った。
「モミジ、お前は一体どちらの味方なんだ?」
トクサが、今にも仲間に飛びかかりそうな声で吠えた。
「ワカ族としての誇りは最期まで持つ。だが、種族の違いを傷つける発言をすることは私が断じて許さない!」
ジライは、つづけられる双璧のケンカを打ち消すほどの大声をしぼった。
「残る道は一つ! 月の剣を葬ることだと! けれど、それすら叶わなかった。月の剣の周辺には眼に見えぬ刃陣が張られ、ふれることすらできなかったからだ」
ジライ隊長が、息を吸って、つづける。
「水魔さまが、この世に生まれ落ちて、絶望の叫びをあげたとき。われわれは、水魔さまに忠誠を誓った。この世の道理をくつがえし、終わりなき世界を築き上げようぞと!」
「死ぬのが怖いのに、戦にくるのか」
サンタカが吐き捨てた。
「消滅を回避するために、小春をこの世界に閉じ込めたいだって? 大事なのは、永さではなく、どう生きるかだ」
「勇敢なセリフだな。いいだろう。ならば全員まとめて始末してやる」
ジライの大声に、トクサが応じる。
「退かないのならば、仕方がないね」
殺気に満ちた二人の男を、モミジの冷静な声がさえぎった。
「その前に、ひとつだけ聞きたい。どうして、お前たちはそこまでできる。そこまでして、戦うのはなにゆえか! 死ぬのが、怖くないのか?」
モミジは、ひしと、デミの兵士たちを睨んだ。
「たとえ、私たちの宿命が月の剣を守ることだとしても。生きている人が、死ぬことを恐れぬはずがありません。なぜです。なぜ、そこまでして、滅亡の爆弾ともあろう小春という少女に、味方をするのですか!」
「そりゃ、怖いさ」
と、サンタカが答えた。
「怖くてたまらない。だけど、小春がこの世界にいつまでも留まっている事のほうが、もっと怖いんだ。ここは、小春の本当の居場所じゃない。あくまで、全能神が、小春の試練のために与えた世界でしかないんだよ。ぼくらだってちっぽけな存在だろ⋯⋯」
カラバじいさんが声を張り上げる。
「⋯⋯生きているかぎり、もちろん、消滅の予言を恐れない奴なんていない。ここにいる三十人は、心の迷いのさなか、闘うことを決めたんだ。それは選ばれし者だからじゃない。ひとりの人間として、切実に幸福を手にして欲しいからだ。心無しの選ばれし者だったら、わしらだって、こうはしていなかっただろう」
「いい度胸だ。気に入った」
モミジの、野太い声が轟いた。
「まっすぐな言葉だな。迷いがない。いや⋯⋯たとえ迷いがあっても前に進もうとする者の言葉だ。お前たちが気に入った。心が強き者は、戦いがいがあるというものだ」
冷えきった氷のように、しん、と静まり返った。
もう、これ以上の文句は必要ない。
サンタカは一途にジライを見た。
それから、デミとワカの間に睨み合いがはじまった。
ややあって、ジライの傍らにいるトクサのうら若い顔が崩れた。
「どうした? いつまで睨み合っているつもりだ?」
サンタカの隣で、マカゼが叫んだ。
とたん、敵のトクサが、刀を片手に捧げる。
「ウオー!」
トクサは、馬のいななきと共に、整列したデミ軍の陣形を切り崩すように突進していった。
彼の突撃につられるように、両軍とも武器を手にし、咆哮のような声をあげる。
馬の蹄と水しぶきの音がいり混じると、耳をつんざくような金属音がまたたく間に鳴りだした。
「バカめ。我慢できんのか。第一撃を始めるだけの勇気があった、というより、あれでは、ただの猪ではないか⋯⋯」
遠目でモミジは仲間をけなしながら、馬の歩をゆるやかに進めてゆく。
光の精霊ルークスたちが、戦場から、わっと逃げだした。
戦いが開始されたのは、あばらのような形の雲の上で、太陽が中天に達した時刻である。
ジライ隊長のひきいる騎士団が三日月刀を振りかざして突入し、斬りまくると、デミ軍は押されぎみとなり、後退しはじめた。
しばしば逆撃をこころみ、槍や弓矢で応戦するのだが、それもワカ軍の鋭鋒の前には、くずれやすい土の壁でしかない。
「カサ⋯⋯小春を囲むように陣を! 前の敵だけに集中しよう!」
「わかった!」
サンタカのかけ声に、デミ兵たちが馬を移動させた。小春の影武者であるカササギを、とり囲んで円陣ができあがった。
「少数でも、一塊になれば折り難い!」
カラバも、熱意をふるう。
が、つぎの瞬間、思わぬことがおきた。突然、デミ兵の馬たちがいななきはじめたのだ。
それは危険の予兆だった。
「ほう。みずから罠にはまったか」
ジライは不敵な笑みを浮かべた。
「今だ、伏兵! 出てこい!」
ジライが伏せてあった歩兵が、次つぎに、火の国のコタンのすき間からも、水の城の隅のほうからも、湧くようにぬるりと姿を現した。かれらは巨大な盾をにぎり持っている。
「こいつら、四方からきたぞ!」
「伏兵だと? いつから潜んでいたんだ⋯⋯」
「きっと、談判がはじまる前だよ」
サンタカは吐き捨てるように、みんなに教えた。
「くそっ、水魔ははじめっから、和平交渉する気なんてなかったんだ。監視櫓のモユクは、いったい何をしていたんだろ」
「あんの死神のせいで、集中力がきれたんだろうよ」
マカゼが、愚痴を言った。
歩兵が湧き出たとたん、ワカの騎兵たちは、タイミングを待ちかまえるように、武器の手をやめ、馬の足をとめた。
「一兵も逃がすな!」
ジライ隊長の号令は、大気を鞭うつように響きわたった。自ら陣頭に馬を駆りながら、さらに声をはげました。
「選ばれし者の首をとれ!」
ついで、デミ軍に守り固められている影武者をじろっと睨んだ。
「奴は影神界を破滅にみちびく存在。爆弾だ。生死を問わぬ、奴の首に金貨千枚の懸賞をかけるぞ!」
「せこいっすね」
トクサは鞘から槍を抜き放ち、爛々と目を輝かせていた。
ついに、歩兵部隊がデミ軍を包囲するや、ワカの騎兵たちが、浅瀬を踏みつつ、槍を向けてせまってゆく。
「あとのことは考えなくていい。何があっても小春を打ち倒せ。この世界の未来はそれで決まる!」
ジライが叫ぶ。
不意をつかれたサンタカたちは、ワカ兵の盾と槍に、身体ごと潰されそうになっていた。
「なんだ、この状況⋯⋯」
と、サンタカ。
「このままでは動きもとれぬまま、血の海になって、討ち滅ぼされる⋯⋯」
じりじりと、敵との間合いが縮まっていく。
歩兵の足が一歩進んでは、とまる。
ゆっくりと迫ってくる巨大な盾のすき間から、騎士団の槍が器用な縫い糸のように突きだされる。
サンタカの腕の衣がやぶけてしまった。
デミの兵士たちは、恐怖を胸に、キツく目をつむった。
二
馬小屋には、ヘイマーの一頭と小春とカンバルだけがいる。ほかの馬が、戦闘準備へ向かったためだ。
「戦がはじまった」
馬小屋の、窓辺の壁にもたれるように立ち、ずっと外を覗きみていたカンバルが言った。
「いま、デミ軍は一塊となった。いっせいに影武者のまわりにつく陣形だ。これは、数倍の力を発揮できるいっぽうで、敵の視界を影武者に集中させやすくもなる。かれらの本当の目的は、小春の囮になることだろう。つまり、今が出陣の合図だ」
小春は、ヘイマーの頭を撫でることをやめようとしない。言葉の重みが、どきっと胸にささったことを隠すように。
「しかし、火の国に敵の伏兵が隠れていたとはな。俺を縄でしばりくくった監視櫓の野郎は、いったい何をしてやがったんだ⋯⋯」
カンバルは吐き出すように言って、小春のほうを振り向いた。
「いよいよ、だな。一緒に戦うことで禊させてくれ」
「禊? 罪、罪⋯⋯」
と、小春はつぶやいた。
すでに疲れきった顔をヘイマーの黒い毛皮に、べったりと伏せてしまった。
「おい、大丈夫か?」
「やっぱり、赤魔と水魔の兄妹喧嘩を見過ごせない⋯⋯。なんだか、水魔がすごく可哀想です」
小春は、気にかけてくる死神のほうに、顔をあげて答えた。
「水魔が可哀想? キバを、お前の守護神を、喰おうとしたんだぞ。あんの、頭んネジぶっ飛んだ蛇女⋯⋯」
カンバルは、ヘイマーの装具に取り掛かりながら言った。
「分かってるけど。あんな話をきいたら⋯⋯」
小春は、水魔の境遇を、どういうわけか他人事という気がしなくなっていた。苦境のせいで、自分責めをしてしまうクセとか。妙な共通点が、小春の心をかき乱すのだ。
ふいごのように息を吸っては吐いて、
「平常心⋯⋯平常心⋯⋯。小春、シャキッとしなさい。あんまり無様な姿をみせると、みんなに笑われるよ!」
小春は、そう自分に言い聞かせる。
心ノ臓が、ドクドクッと脈打った。
「どうした? 気もそぞろだぞ。怖いか、小春」
カンバルは、ゆっくりとした口ぶりで様子を覗く。
「⋯⋯いえ、怖くなんかありません!」
「見栄を張るのは、けっこうなことだ。さいしょは大きすぎる服でも、成長すれば身体に合うようになる。勇気もおなじことだ」
カンバルが、アドバイスを終えるや、とたんに顔色を変える。平然とした表情と口調に戻っていた。
「ふん、なに緊張してるんだ。今からそんな気い張り詰めてると、開戦直後にあの世行きだぞ」
カンバルが、ヘイマーを仕切りの部屋から紐で引っ張り出した。
次の瞬間、黒豹のような甲冑をひしと被る。
彼はてきぱきとヘイマーをひき連れ、馬小屋から外へと向かって歩きだした。
「ぶ、ぶっそうなこと言わないで」
慌てて、小春はカンバルの後に続き、馬小屋から外に出る。
一陣の風が吹いた。生ぬるい風が肌身にふれるや、カンバルの冗談にくすぐられ、不安が柔和になってゆく。
《大丈夫。全能神が、月の剣をゆずり渡すために、影神界へ私を導いたというのなら、私はきっと死なないはずよ⋯⋯》
覚悟が整うと同時に、緊張感が高ぶる。
黒豹と化したカンバルは、すでに、小春の眼前でヘイマーの背中に跨っていた。
「はい、行きましょう!」
小春がカンバルの帯革につかまって馬に乗るや否や、ヘイマーは駆け出し、耳元を風が切った。
デミ族たちがワカの兵士に潰されかけている戦場までは、すぐ間近であった。
三
「かれら、狼の群れの中に放り出された子羊のようですね。やはり殺るのはたやすい」
モミジがジライのほうに駆け寄るや、地獄絵図のような円陣を、氷のような目で射抜いていた。
「ところでジライ隊長。弓使いの少年がいることを、どう解釈します?」
トクサが三日月刀を片手に、素早くジライの隣まで馬をよせた。
「地下に潜入をはかった狩人たちは、俺のほうで掃討している。だが、子供をひとり取り逃したという話を、ハシャクから聞いたことがあった。⋯⋯すばしっこいガキで、弓矢の腕前が大人顔負けだったとか」
「それじゃ。あいつが例の子供ってことで間違いないっすね」
トクサは納得したように、勇敢な弓使いの少年のほうを見物客のように馬上から眺めていた。
敵軍の矛と盾に、誰よりも耐え忍んでいたサンタカの顔にも、とうとう汗が滲んでくる。
トクサが、こんどはジライの作戦のほうに刃を放つ。
「それにしても、惨いことしますね。これも水魔さまのため、とか言うんですか」
「まさに」
ジライの短い応答に、はっ、とトクサが笑って、馬首を返すや、デミの円陣のそとをワカの歩兵の壁が覆いつくしているマトリョーシカを、みやった。
争いは、不和を染み渡らせるのみ。
それでも、とまることのないワカ軍の勢いが、デミの勇敢な戦士たちに重くのしかかった。
ワカ兵の槍は、すでに血まみれだった。
円陣の中央にいる者たちは悲鳴をあげ、外側にいる者たちは、自分たちの命が助かりたいがためにやけくそだった。
いわずもがな、火の国の、無茶な決意による苦戦である。
デミ軍の彼らは、運命に翻弄される屍のように、固く目を瞑った。死の覚悟であった。
と⋯⋯飛ぶ鳥を落とす勢いで、馬のいななき声が轟いた。
それは、ワカたちの槍の穂先が、肌に軽く当たるか当たらないかの瞬間だった。
サンタカが、するどい馬の発声に、はっと目を覚ました。ほかのデミ族たちも、驚きのあまり目を見開く。
彼らの視線の先には、カササギという機織り師に化けた小春と、かつて敵対していた死神のカンバルが、ともにヘイマーを通じて馳せ参じてくるのがみえた。
ついに初陣した小春は、心ノ臓が、マリンバのごとくゴロゴロと脈打った。