第七章 水魔の素顔
大館の小窓から差した、やさしい朝の光を浴びて、小春は目を覚ました。
ゆっくりと身を起こし、部屋を見回した。外套が、衣をまとった肌からずり落ちる。
だが、そこにあるのは沈黙だけだった。キバの姿も、機織り職人たちの気配も、まったくなかった。
みんな、すっかり起きているに違いない。小春はそう思った。
寝坊してしまったかと不安になったそのとき、そばの床の上に、手のひらサイズの酒瓶があることに気づいた。
瓶のかたわらには、紙切れがあって、
「生き物の殺生は好まぬのだろう?」
と流麗な字で書かれてあった。
小春は、瓶をつまみあげ、匂いをかいでみた。鼻が萎むほどツンとくる、強烈な酒の香りだ。
「これ、キバがヤマタノオロチを酔い眠らせるのにつかったお酒だ⋯⋯。好んでよく飲んでもいたけど」
すぐに小春は、気がついた。ふたたび、月の剣の在り処へ足を踏み入れたときの戦略として、やしおりの酒をくれたのだということに。生き物の殺生を好まぬ性格のおのれのために⋯⋯。
「キバ⋯⋯」小春は一人でつぶやいた。「ありがとう。私はあなたに助けられてばかりね⋯⋯」
酒瓶を懐にしまったとき、だれかが戸を開いた。機織り室に入ってきたその人は、すっぴんのカササギであった。ぱっと見には、鏡に映った自分のように感じられる。ただし目をこらすと、やはり若干の違いがあった。カササギのほうが唇が厚い。
「キバは、まだいらっしゃいますか?」
と、小春がたずねた。
「いいや。もう談判に行っちまったよ。ついさっき出ていったばかりなんだけどね」
「⋯⋯私。やっぱり寝坊したんでしょうか?」
彼女が、不安げに眉をひそめて見あげていると、カササギはにやっと笑った。
「ま、ちょいとね。小春を起こそうと思ってここへ来たわけだし。けんど、もう起きててくれてたから、助かったよ」
カササギは、静かに言い添えた。
「まんず。メシを、たんと食いなよ」
カササギは小春を導いて、筵をしいた廊下を通ってゆき、ついに大きな食事所へと案内した。
食卓は、炉を囲むように設えられていて、すでに、機織り職人や隊員たちが、食事をはじめていた。
どこに座ろうかと見まわしたとき、壁ぎわの食卓に座っていたサンタカが、さっと手をあげた。
「⋯⋯小春じゃん。こっちだよ!」
呼びかけてきた少年をみて、小春の顔が輝いた。
「サンタカ!」
小春はカササギをふりかえった。
「行っといで。食べ終わったら、すぐ化粧部屋まできておくれ。待ってっから」
そういって、カササギは食事所からでていった。
小春は歩いていき、サンタカの隣に腰を下ろした。ここの炉には、サンタカのほか、カンバルもいた。
「おはよう。ふたりは、よく眠れた?」
小春はほほえんで二人に挨拶したが、その笑みは戦前の緊張感をかくしきれてはいなかった。
「ああ、俺はぐっすり眠れた。丸太のようにな。小僧やほかのやつは、一睡もできなかったらしいが」
「君のイビキがうるさいからさ」
と、サンタカ。
それが冗談なのか本心なのかは、小春には検討がつかない。
とにかく、死神とともに食べているのにも関わらず、サンタカのくだんの皮肉っぽい口調だけは変わっていなかった。
「やっと受け入れたの?」
小春は、聞いてみることにした。
「カンバルのこと。だって一緒に食べてるじゃない」
「そりゃ違うよ、小春」
サンタカがピシャリといって、カンバルのほうをみた。
「君の監視と観察をするためさ。べつに受け入れたわけじゃないからな! 不利のデミ軍に加勢してもらえるのは有難いけど、君みたいな口さがないひとを警戒しないほどバカじゃないって」
「同じことを何度もいうな。⋯⋯そいつは耳にタコができるくらい聞いたぞ」
「そうだ、小春」
サンタカはてんでカンバルの言葉が聞こえないような調子でいった。
「きのう、君がキバと外出している間に、デミ軍隊長はカラバじいさんに決定したんだよ!」
「そうなんだ。カラバじいさんの意欲は人一倍だったわね」
と、小春は食事所を見まわしたけれど、カラバの姿はここにはなかった。
「そういえば、カラバじいさんはどこにいるんだろう⋯⋯」
「ふん。見事に無視したな。あのハツラツ親父は、味覚バカの獅子と飯を共にしているさ」
カンバルの言いぐさに、狩人の少年が応じた。
「赤魔さまのご体調は、なかなか優れないからね」
「え、その味覚バカって赤魔のこと?」
小春はびっくりして、サンタカに聞いた。
「うん、そうらしいよ」
「カンバルさん」小春は深刻そうにいった。「赤魔さまに聞かれたら、こっぴどく叱られますよ」
「かもな」
「私には、こんなときでさえ、ひとに変なあだ名をつけるカンバルの飄然さが羨ましいです」
「はは、そうかい⋯⋯」
カンバルは、ふと真剣な面もちになって、
「だが、あのふたりを見て分かったことがあるんだ。王位よりも健康のほうが価値がある。なぜなら、病気の王様より、健康な貧乏人のほうが幸福そうじゃねえか」
「ああ」サンタカが肩をすくめた。「確かに、カラバじいさんはいつ見ても元気そうだよね。ただ、ぼくは赤魔が一病息災であってほしいな」
おいしい朝餉を食べながら、三人の会話はよくはずんだ。おもに話しているのはサンタカとカンバルで、小春は、ときどき話に加わる程度だったが、おかげで、戦前の緊張をほぐすことができた。
小春は、朝餉のあと、廊下で待っていたカササギに、化粧部屋まで案内された。
「あたしが小春。あんたが、あたしなんだからね。意味、わかるでしょ?」
とカササギがいって、小春を、鏡台のまえの座布団に座らせた。りっぱな三面鏡だ。
「もちろん、分かりっ──」
とたん、肌がひやっとした。
カササギが、壺からすくった化粧水を、小春の顔にぬったくっている。
「あたしがあんたの影武者になって、敵の目をひく。小春があたしのふりをして、敵の目を誤魔化すってわけさ」
「はい。わかります」
小春が、やっと返事をした。
産まれてはじめてのお化粧で、なれていなかった。
「あんた、腕あたりの傷あとをのぞけば、肌もキレイだし。顔立ちも悪くないね」
頬紅は、うすべに色。そして、玉虫の光をふくんだ赤色をたっぷり唇にぬったくられた。
「ほら。真っ赤な口紅も、なかなか似合ってるし。いかが? ちょいと、あだっぽいけど。あんた大人っぽいからね」
小春は、鏡のなかの自分を、しげしげとみつめていた。血色がよくなって、明るくみえる。気持ちが高ぶって、しばらく鏡に映った自分をながめていたい衝動にかられた。
自分の目元が父に似ているという理由で責められてきたことで、外見に自信はなかったのだが、そう褒めたてられるとけして悪い気はしない。
「お化粧は、初めてで。とっても嬉しいです⋯⋯」
カササギは、小春の美しい微笑を見つめながら、こんどは髪を結いあげてくれた。
「あんた、笑ってた方がいいよ。けどね。お遊びとはちがうっから。気を引きしめなきゃいかんよ?」
「それは、もちろん、わかっています」
「さてと。小春が着るのは、鎧じゃなくて、あそこにかかった着物だよ」
カササギが両手を腰にあて、衣紋かけに飾られた着物をあごでしめした。
「ほんらい、あれはワカ族に売られる着物でね。そのほうが、城内には溶け込みやすいだろ。いかにもって感じの武装じゃ、かえってまずいからさ。こうすりゃ、見なれない顔の者でも、侵入してきたら警戒はするだろうけど、いきなり攻撃はしないでしょう? ようすを見るよね」
燃えるような紅い生地に、金模様のきれいな着物だった。
「助かります!」
彼女は、ふいに、こんな危険なマネはしないでもよくなることを祈った。
「キバは和平交渉、大丈夫かな⋯⋯」
小春は、紅い着物に着替えるために、服のひもをほどいているが、その手が何度もすべっていた。うわの空だ。
「あんた大丈夫かい? 手伝うから、ちょいと失礼するよ」
カササギが、小春の着物のひもを手早くほどいて、するっと脱がせてくれた。
《キバ⋯⋯》小春が心の中でいった。《あなたがそれを成し遂げるのは、簡単ではない。でも、私は信じてる。私が心を許したあなたなら、必ず最後までやり遂げると⋯⋯》
二
水の国まで、キバは、徒歩でおもむいた。馬を使わなかったのは、宣戦布告が打たれてしまったときの、デミ軍への配慮である。
水魔はキバの到来を待っていたらしく、城の門衛に来意を告げると、すぐに、城内へ通された。
キバは、和式のエレベーターに乗りこんでいた。
「相変わらず、趣味の悪い絵だ⋯⋯」
エレベーターの壁に描かれた浮世絵を、コッ、と拳でつついた。色彩は大人しいけれど、巨大な黒猫が親指のごとし小柄な踊り子たちを爛々とした目つきで見下ろすシルエットが気に入らない。
「それにしても、昨夜は大館で眠り込んでしまったとは。⋯⋯赤っ恥だな」
呟き声が苦々しげである。
五階まであがったとき、エレベーターの扉が開いて、魚顔の小男がそそくさと入ってきた。
気を失った小春をかかえて来たときにも、会った男だ。
「また、一階ですか?」
「そうです。いやいや、申し訳ありません。地下が仕事場なものですから」
ゆっくり扉がしまって、エレベーターは下へ下へと向かっている。最下階《一》のボタンに今なお指先をすえた状態のまま、キバは振り返った。
「地下に、なにがあると?」
「⋯⋯⋯⋯」
小男は答えない。さらわれたデミ族の子供と何か関連があるのかもしれない。キバは、ただならぬ疑いを、小男に持ちはじめていた。
「それにしても、意外にあっけないものでしたな。闇の国も」
小男が、はぐらかした。
「闇の国崩壊は、水の民のあいだに波紋をよんでいるのですよ。水魔さまが抱く不満も、いつに爆破するかしれません。こういった時期に、ここへ来ようとは大した勇気ですな」
小男は、キバの装いを、ちらっと見やった。
「あなたが、ここへふたたび訪れたのは、火種を撒きにきたからでしょう。あなたが現れるたびに、騒動が起こりますから」
キバは、黒地に金のはいった着物を身につけて、肩鎧を右側にだけ装着していた。あまり武装しすぎると、かえって不信感をよぶことになりかねないと思っていたのだ。
「そうかもしれませんが、必要なことですから」
「あの人間の、お嬢さんの、ためにか⋯⋯」
小男はつぶやくと、キバの端麗な顔をじっと見つめた。
「しかし、焦らずに。慎重に。あのお方には、ご用心を」
小男は重々しく、丁寧にいった。
それはキバが抱いていた疑いを、打ち消すには十分すぎる態度だった。
「水魔さまの一番こわい面は、ふだん猫をかぶっているところです。人の見る目が足りないお方なら、すぐに騙されてしまうような、危うさがある。驚くほど心がせまく、些細なことで死ぬほど恨む、甘やかされた危険な女王。憎悪に燃え、許すことも忘れることもできない。冬の湖面のごとく寂しく冷たい心をもっているのでしょう」
「肝にめいじる。⋯⋯あなたも、敵になってしまうのでしょうか」
キバは、親切な小男にいった。
そのとき、エレベーターが一階にたどり着いて、扉が開いた。
魚顔小男は、なにもいわずに頭をさげると、出ていった。
扉がとじ、キバは、一番上の《八》のボタンを人差し指で押した。
最上階までついて、扉が開く。
キバはエレベーターから降りると、身をひるがえし、奥の間へと向かった。
キバが廊下を歩いているだけで、あたりのワカ族たちは、蜘蛛の子を散らすようにさけていった。
「キバが、闇の国を壊したんですって」
「え。じゃあ、キバがクライ魔を。自分のあるじを殺したってこと?!」
「分からんよ。そんなことまで」
「恐ろしい御仁ね。くわばら、くわばら⋯⋯」
キバは、あたりの者どもの声を気にする風もなく、颯爽とあゆみを進めている。
心のなかでは、ののしった。
《どう思われようが、知ったことではないが。うわさ話をすき好むような人となりは、気に食わぬ。不安など覚えている暇がないな》
奥の間へたどり着くと、キバの目からみて、まともな人となりの女がそこに立っていた。
「おお、待っていたよ、さ、こちらへ」
赤魔の内通者、月夜である。
彼女は、人の背丈の二倍ほどもある大きな引き戸を開け、手招いた。
「赤魔は、やっぱ⋯⋯。やっぱ、来られなかったんだね」
月夜の顔がかすかにくもったことをキバは目ざとく見てとった。
「ああ、すまない。私は、そなたの期待を裏切ってしまったようだな」
ほんとうは他にも話したいことがあった。だが、この場では、たがいに敵対同士であることを装わなければならないのだ。
さいごの引き戸のまえに近づくと、透きとおった声が聞こえてきた。
「そっと開けておくれ。そこは、お寒うござんしょう。どんぞ」
キバは、女王のおおせに従った。
月夜は、部屋のなかには入らない。キバの背中を確かめると、一礼して襖の戸をしずしずとしめた。
三
キバが面前にあぐらをかいて座ると、水魔は、にやりとした。
「なんとまあ、赤魔の代理がそちとは」
壁にかかった紫色のつづれ織を背にして、豪奢な衣をまとった女王が、机の前にしゃんと座っていた。水魔の顔と身体には、蛇の鱗がそこかしこにありありと浮き上がっている。気を失った小春を連れてきたときの、卵のような肌は、原形をとどめていない。だが、キバは気にしなかった。見た目なんてどうでもいい。
ハシャクが熱い茶を盆に載せて入って来て、キバの前に置いた。
「とにかく、一服されよ」
茶を勧めながら、ハシャクはキバに問いかけた。
「近頃、闇の国が崩壊したようだが、あれは、お前がやったのだろう?」
キバはうなずいた。
「なんでクライ魔を裏切って、そんなことをしたんだ? え?」
ハシャクの目に苛立たしげな色が浮かんだ。
「⋯⋯ハシャク、後ろのほうに下がっておれ。そなたの出る幕ではあらぬだろうに」
ハシャクは、すっと立ちあがって、後方にさがっていった。
「いや、かまわぬ。私は、死神ではないからだ」
水魔は平然とした風を装っているが、後方の襖の前に控えているハシャクは、はっきりと青ざめていた。
「な、なんと⋯⋯」
「私は、選ばれし者の守護神です⋯⋯。小春の守護神としての責任をもって、神界から影神界へ来て、闇の国に溶け込んでいた。それだけだ」
「それは、すなわち、小春への邪魔者を取り払ったということだな」
水魔の問いかけに、キバは、そうだ、と言った。
「ここへ足を踏み入れたのは、他でもない。だが私の目的は、小春に月の剣をわたすのみではない。火の民を踏みつけてきた〝車輪〟を破壊したい」
いったん言葉を切り、少しためらってから、彼はまた、言葉を継いだ。
「デミとの戦争にならぬよう、いまの独裁政権を見直してください。ワカ同士でも、二つとして同じものはない。いろいろと考えたんだが、閉鎖的に支配しておいて、この世界が平和だなんて言い草は⋯⋯。欺瞞にもほどが──」
彼のうしろで、ハシャクが怒鳴った。
「⋯⋯閉鎖的な支配は欺瞞、か。けっ。つまりおめえは、小春に月の剣をわたすほか、影神界の身分制度をなきものにせよと言いたいわけだな。そんなもん⋯⋯俺はみとめんぞ。ワカ族をおちょくっておるのか!」
ため息をついたキバは、静観する水魔から目をそらすことなく続けた。
「兵は凶器。争ったって、ひとっつも、いいこともない⋯⋯。〝カグツチの餌食〟になるのがおちだとお思いにはなりませんか。私たちがやっているのは、鉢の中の金魚らが戦っているのと一緒です」
水魔が、いぶかしげな表情を浮かべた。
「カグツチの餌食とは⋯⋯一体なんじゃ?」
「カグツチは、全身炎におおわれた神のことで、ある古い物語があります。彼が生まれたとたん、母神に火傷を負わせて、殺してしまったアクシデント。〝カグツチの餌食〟とは、劫火が不本意にも、母の命を飲みこんでしまったように、戦も、数多のひとの命をまたたく間に奪う劫火だ。といった意味で、〝神界のことわざ〟なのです」
「わらわが、道理で、聞いたことのない言ノ葉であるわけじゃ」
「はじめから、そう言えば良かったな、思いつかず失礼を致した。私たちにとっては、戦といえば、カグツチの餌食だと言い表すので」
「おもしろう表現だのう。で、そなたは、この小さな世界の消滅より、やせっぽちの青臭い小娘をもとの世へ返すことのほうが大事だと?」
水魔の声がふるえている。
「滅亡の爆弾は小春だ。貴様は、生きることを諦めぬことが美しくないというのか? あの娘とて、不撓不屈ではあらぬだろうに。現世界へもどったところで、結局、幸福を手にしても、汚れた人間たちと共に生きてゆかねばならないのだ。あの娘をここにいずかせ、われらは生き延びられる。そのほうが幸せではないか。そなたは、あの小娘ひとりのために、影神界を切り捨てたいのか」
女王の、よく筋の通った意見だった。それでも、キバはひるまない。
「小春の守護神としての責任を果たす自信がなかったら、護国五大神からの命令を断って、あのまま殺されることを選んでいたでしょう。そのほうが、目的を果たせずして腐敗するよりかはマシです。⋯⋯それに。あの娘の泣き顔を、もうこれ以上、みたくない」
「⋯⋯そなた、神とて、どことなく人間味があるな。そんなに大事か⋯⋯。ならば、赤魔の体調が思わしくないことをよいことに、権勢を独占することができる、などという愚かな考えは毛ほどもないのだろうかのう」
水魔の表情と声音がきついものに変じたが、キバは、正直にみじかく言うだけだった。
「心外です」
水魔のけわしい目つきが、ふいにゆるやかになり、ついで笑いだした。
「そうだろう。まあ、試してみただけだ。⋯⋯分かりました。和平交渉を、お引き受けしましょう」
冷静な面もちの彼の背後で、ハシャクはびっくりして、裏切られたように顔をゆがませる。
「ええ?! す、水魔さま? まっことですか?!」
ハシャクの叫び声に、水魔はきっぱりといった。
「まっことでございまする。温情の大盤振る舞いだ。⋯⋯喜べキバ」
彼は、ほっとした表情になって、畳に額がつくほどひれ伏した。
「そうか⋯⋯。ありがとうございます」
水魔の薄いほほえみの奥で、何かがたゆたうのを、キバは、まだ気がついていなかった。
四
紅い着物を身につけた小春は、化粧部屋からでてくると、ホールで彼女を待っていたサンタカとカンバルに歩みよって声をかけた。
「サンタカ、カンバル⋯⋯」
「カササギ、どうしたの?」
サンタカが答えると、カンバルは何かに気づいたように、一瞬、硬質の唇をとざし、苦笑めいた光を両眼にたたえた。
「いや。刺青ねーちゃんの方なら、もう少し背が高いはずだ」
「私を、カササギだと思ったの?」
気品のある、心にしみわたるような声を聞いて、サンタカがはっとした。
まぎれもない小春の声だが、鈍感なひとならすぐには気がつかない。ばら色にそまった唇と頬が、そぼくな少女というより淑女の雰囲気をただよわせているのだから。
「こ、小春?! 口紅しただけでこんなに似るんだね」
「ああ、完璧じゃねえか」
カンバルは漆黒の鎧をまとい、指にいくつもの鉄の円盤が縫いつけられた手袋をはめた手で、剣の柄をにぎっていた。黒鉄でできた、身の丈ほどもある幅広の片刃剣だ。
「すごい大剣ですね。私にはとても振れない⋯⋯」
「ああ、鍛治屋のハツラツ親父からいただいたのさ。大鎌じゃ、素性がばれることは言うまでもないからな。こいつで〝何匹〟切れるかな⋯⋯」
カンバルが鉄塊のような剣をすんなりと担いで背中の鞘におさめたとき、ホールの中央から大声がした。
「われわれには戦う義務がある。いやしかし、命の惜しいものはここに残れ。その決断を咎めたりはしない。わしは、たとえ一人でも、火の国の命運と小春を守るため、戦地へ向かうつもりだ!」
彼の言う、〝ハツラツ親父〟ことカラバ隊長の熱弁である。
「威勢がいいのだけはいいがな」
カンバルがそう口を開いたが、小春は、隊長の声に導かれ、ふたりから他の人たちのほうへ目を移した。
カラバの、鍛冶職人を奏でる器用さはたしかなもので、〝火炎樽〟をつくる知恵があった。
おおきなテーブルを囲むようにして隊員たちは、その武具をつくりながら、声を張りあげる。
「全員、気持ちはおんなじなんです。わたしたち、地獄の果てまでだってお供しますよ!」
「戦地におもむきます。俺たちで小春と⋯⋯火の国を守りましょう。デミの本気をみせてやるんだ」
なまぐさい魚の油をひたした紙を、樽のなかにひょいと入れてフタをするだけで、火炎樽になる。
このシンプルな動作をくりかえしながら、カラバが言った。
「だれひとり退こうとしないとは、頼もしい限り。これまで虐げられてきたぶんだけの秩序を、取り戻そうではないか!」
「だれだって、口先だけならいくらでもああ言えるのさ⋯⋯。情熱家と歴戦の勇士との戦果の差は計りしれん。真の騎士っつーのは、おのれの力量を熟知しているやつのことだ。おちゃらけていやがる⋯⋯」
戦にウブなカラバ隊長を、歴戦の死神が蔑んだ。とはいえデミに戦を経験したことのある者などいない。しいても、闇の国で死神たちとの格闘を繰り広げたことのある、サンタカが一人いるくらいのものだ。
「だったら、そんなにご不満ならさ、君が隊長になればよかったじゃないか」
「バカ言え、花火小僧。俺とデミ軍との信頼関係が完全じゃねえことくらい知っているだろう。そんな状態で、異分子の俺が先陣をきってみろ。陣が乱れたら、敵にスキをつかれることになるのがオチだ。簡単に言うなよ? 仕方がねえことくらい分かっているんだ。ただ、しらびと共と一緒に戦うのは初めてでな⋯⋯。はらはらしてならねえんだよ⋯⋯」
カンバルの心配と、機織女たちの声がかさなった。
「この包帯を使わないですめばいいのに⋯⋯」
「そうね」
ふだん大館のホールは、できあがった着物を保管しているだけの質素な空間だ。この広いだけのスペースを、いまだけ、救護室としてそなえられている。隊員たちが火炎樽をつくるなかで、機織り職人たちは、いらぬ布をきり、巻いて、包帯をつくっていた。
「マカゼも、戦へおもむくのなら、わたくしも⋯⋯。わたくしも付いてまいります。いくら平和主義って言っても、黙って見ているわけにはいきません!」
マカゼは、おなじ薬屋ではたらく下っぱの乙女の声にふりかえった。薬草とその器を用意した丸テーブルから身をはなすと、しゃがんで乙女の腕をつかんだ。
「いいや、サヨ。開戦したらお前は、戦場でも大館でもなく、赤魔さまの介抱に当たるんだよ。かれもまた、奇病におそわれている⋯⋯。赤魔さまをお独りにしてはいけないよ」
「そうですわね。かしこまりましたわ。でも、気持ちはいっしょです」
サヨとよばれた乙女は、琥珀色のよく澄んだ瞳を光らせた。
その瞳をみて、小春は、ちくっと胸に針がささったような気がした。
「みんな、私のためにここまでしてくれてるっていうのが、なんだか、胸が苦しいっていうか⋯⋯」
「君だけのためじゃないさ。みんな、長い労働時間で疲れている。それなのにワカはいい気なものさ。この天びんの傾きを解消したいんだよ」
サンタカが小春の肩をぽんと叩いた。
小春は、サンタカに向き直り、願うようにいった。
「和平交渉に成功するかな⋯⋯」
「それは、有り得ないと思う」
ぴしゃりとサンタカ。
「ぜったい反対するんじゃないかな。この世界が無価値になることを、だれよりも恐れているのは水魔だからさ。水魔が、もし和平交渉に賛成してくれたとすれば、それは水魔自身がなんらかの罠を仕掛けていると考えるのが自然だろ? あの悪魔のことだ⋯⋯。そりゃ、水魔にしたって、ここまで築き上げてきたものを〝廃止しろ〟と言われて、〝はい、どうぞ〟なんて譲る気なんか、毛頭ないだろうさ」
とたん、カンバルが手をペチンとたたき、おどおどしい〝しらびと共〟を見渡しつつ、判断をくだした。
「ハッキリいうな、サンタカ。なら、今すぐ臨戦態勢をとるべきだ」
全軍が、といってもカンバルを含めてわずか三十人だが、手元の樽から、はっと頭をあげ、彼の赤紫色の鋭い目をみた。
「時間は限られている。みんな、すぐに移動するぞ。グズグズするな」
「ははっ!」
数人が返事をしたが、その者たちは慌てふためいていた。うち一人が手を滑らせ、樽がドンと太鼓のような音をたてて床に落ちた。
小春と、サンタカ、カンバルの三人は、顔を見合わせると、反射的に大きなテーブルのほうに歩みよった。
「ゆっくり急いで。こういう時だからこそ、落ち着いてください。焦っても仕方ないですよ?」
と小春が、手を滑らせた若い青年の背をなでさすった。
「やれやれ、こんなんで本当に大丈夫なのか」
カンバルは言うと、かがんで樽を拾い上げた。
「やるしかないだろ? 可能なら実行し、不可能でも断行するのさ。劣勢から勇気をとったらなにもない。⋯⋯カラバじいさん、それは裏返しだってば」
「おおう、そうだった」
サンタカの声にカラバじいさんが応じて、裏返しの足袋をもとに戻す。
「なあ、小春」
「はい。なんですか?」
ふりむくと、カンバルがしゃがんだまま樽をもてあそんでいた。
「俺が守り通すのは、水の城でお前が月夜と会えるまでの間だけだ。月夜に会ったらその後は、彼女が月の剣の在り処まで誘導してくれることになっているそうだ」
「月夜さんが!? ってことは、月夜さんが内通者になってくれたってことですよね」
「だろうな。危なくなっても、小春だけは死守できるようになんとかしたんだろう⋯⋯」
いつの間にほどこされていたことに、小春は驚いた。これは赤魔の手だろうか、キバだろうか⋯⋯。そういえば、いまキバは、無事でいるんだろうか。
小春の心の中で、不安の嵐が巻き起こり、衝動的にあることを思いついた。
「火の城に行って、守護鏡を覗いてきます。キバが心配なので」
「守護鏡?」
カンバルは、腰を上げ、小春の華々しい顔をじっと見た。
「はい。守護鏡って、離れているひとを見守れるみたいなんです」
「ならば俺も見に行こう。サンタカ、あとの準備は頼んだぞ」
彼は拾い上げた樽を、サンタカに手渡した。樽の中身はまだ空っぽだ。
小春は、サンタカがむっと口を曲げて不服を表明しているのをみたが、不安から談判を見守りたい気持ちにはさすがに勝てない。キバは今、茨に囲まれた危うい地に立っているのだから。
身をひるがえした小春とカンバルの二人は、チーターのような足取りで、無我夢中に戸口へと向かっていった。
「え、えええ⋯⋯。わかったよ!」
サンタカは諦めきって、二人の背中を見送った。
五
〝女王の間〟の襖のまえには、ワカ族たちが群がっていた。だれもが、キバの正体に驚きを隠せなかった。だが、それ以上にびっくりしていたのは、水魔があっさりと和平交渉を聞き入れたことである。
「純粋に頑張っているのは分かるけど、ちいと行き過ぎだよ⋯⋯。戦争が起きぬよう独裁政権を見直せ、って水魔にハッキリ意見したんだからさ。私ならありえない。どこぞの臓器からそんな勇気が湧くのか覗いてみとうござんす」
「ほんに。それを、あっさり受け入れた方も方だわ⋯⋯。私たちのだれもが死を望まんというに。これは、よほど水魔がキバをお気に召したと見えるわね」
「もうどうでもいい。知らん。全部あきらめれば楽になれるぜ。俺みたいにな⋯⋯。へへっ⋯⋯」
ひとりの陰気な面もちの男が、笑みを浮かばせて、女人たちに妙な助言をおくっている。
こういった、気力喪失したような印象の、投げやりな声も少なくなかったが、ワカたちの心の底にある〝死にたくない〟という想いは変わっていない。かれらは影神界滅亡の運命を信じきり、その恐怖や絶望と闘っている。
「よもや、水魔さまはキバに見惚れでもしているんでしょうか?」
みなが、ドラムのようにうるさく騒いでいる最中、襖にピタッと耳をあずけている月夜の肩を、おかっぱ頭の花が小突いた。一人だけ、シリアスな空気に似つかわしくない、さも呑気な口調だった。
「バカを言うんじゃないよ、花⋯⋯。それだけなら問題ないんだが。それだけならね」
くだらんこと言うなという顔の月夜が、花の愛くるしいほどぱっちりした瞳を見おろした。
「どういう意味でございますか?」
「キバを気に入って、和平交渉成立させてくれたっていうなら、もちろん、いいことさ。でも、あの水魔がそれだけの理由で、本当に快く和平交渉するつもりがあると思うのかい? それも簡単に⋯⋯。こいつは、嫌な予感しかしないよ⋯⋯。気味が悪いね⋯⋯」
月夜は前下がりの髪をかきあげた。
赤魔に忠義を誓い、小春の力量を信じている彼女にとって、本来こんなに喜ばしい結果はないはずだった。
だが、月夜は喜べなかった。直感に鋭い針が一本突き刺さったのだ。
つい昨夜まで、小春を敵視していたはずの水魔が、ふいにがらりと態度を変えるのはおかしい。不気味だ。あからさまに、和平を断られることより、もっと悪いことが起こりそうな気がして怖かった。交渉がスムーズに進んだことが、かえって彼女の警戒心に火をつけているのだ。
月夜は、紺色の袖をまくりあげ、決意をあらためると、緊張にさっぱりとした顔を強ばらせていた。
六
大汗をかきながら、へりくだった態度で、ハシャクが口火を切った。
「恐れながら、水魔さま⋯⋯。これまた、どういった気の変わりようで」
ほとほと参った側近をよそに、水魔はしびれきった足をストンと伸ばすや、キバに向かってほほえんだ。
「なぜ、承諾したと思う?」
キバは落ち着いたふうに腕を組んで、たずね返した。
「さあ⋯⋯。なんでですか?」
「ほかの欲に駆られ、ずるい手を使い、表面的には小娘のためにと偽善をかぶるようだったら、追い返すつもりだった。私が欲しいのは、心から信頼できる御仁だけじゃ」
《どういうことだ⋯⋯口実はともあれ、随分、手のひらを返すのが早いな⋯⋯》
歴戦のキバが、これに、油断するはずがない。
「怖い女人だな」
キバの顔色ひとつ変わることなく、言ノ葉の刃が放たれると、水魔は顎をあげて、鼻で笑いだした。
「キバ、そちが初めてだ。私のことを面と向かって独裁者と呼んだのは。美丈夫でまっすぐな目が気に入った」
ふいに、水魔の笑顔が消えると、かわりに伏し目がちになった。すだれのようなまつ毛が、彼女の物憂げな心を映しだすと、艶のある低い声がもれてきた。
「ここにもう少し休まれよ。話しとうことがある。⋯⋯だれにも、口が裂けてもいえなかったことだ」
「だれにも。秘密でもおありで?」
と、キバが聞いた。
「たくさんある」
水魔はおもむろに立ちあがると、キバの前を横切って、窓ぎわで歩みをとめた。拳ひとつぶんほど開かれた窓のすき間からのぞく、淡い空模様へ目を向けた。
「のう、キバよ。われらを束縛しているのは全能神じゃ。自由なき運命られた世界。月の剣を守ること。それ以外に生きている価値などないわれらを、哀れに思ったことはあらぬか?」
「⋯⋯⋯⋯」
キバは、狐につままれたような顔で、女王のほっそりとした背中を、ぽかんと眺めているだけだった。
「私はただただ、人間界がどんな世界か知りたくてのう。小春の守護神である、そちなら、知っておろう。人間界はどんな世界だった⋯⋯?」
キバは、これまで見知ったことを思い返しながら、ようやく口を開いた。
「大海原、川、山があり、大地にはあまたの住宅街が広がる。国の数は百以上。他国へおもむく手段には、飛行機といって空中を飛ぶ銀色の矢のような乗り物があって。夜になると、道々に光輝が自然とともされて、提灯は必要ない時代に変ってゆき──」
「もうよい。美しい世界じゃな⋯⋯」
水魔がさえぎった言葉には夢のニュアンスがある。だが、キバは現実を突きつけることにした。
「ああ。だが、ひとすじに美しいとは言いきれぬのが人間の残酷さ。戦争でもあらぬのに、薬になるはずの言葉を凶器に変え、他人の身や心を傷つけることを蜜の味にする下等がいることも、また事実。それを全能神が見兼ねて、小春には人々の見本、つまり『良心を忘れぬ』という宿命が与えられたのでしょう。それが今の人間界なのです⋯⋯。自殺も多く、夢に焦がれるほど、いい場所ではない」
「そうかもしれん。けれど、広い世界と自由、やりたいことができるのでしょう。行きたい場所へゆけるのでしょう。影神界の民にはそれができん。子を得る喜びも感ずることができぬ。私には、到底とどかぬ夢がそこにある⋯⋯」
水魔は、空模様から目をそらすことなく、コントラバスのような低い声で呟いた。
「こないな世界よりはマシじゃ」
小春や月の剣のことに必死すぎて、これまで間近には見えていなかったものが、見えたような気がした。影神界に生まれ落ちた者にしか分からぬ苦悶の叫びを、いま、聞いてしまったのだ。
「⋯⋯感傷的になって、悪うございました」
水魔はふりむくと、キバの傍らまでしずしずとあゆみよって座りなおした。
いまや、ふたりの間は、二寸ほどの隙間しかない。目の前にいる女王は、肌にうかぶ鱗をのぞけば、息を呑むような美人である。それでも、キバの凛とした表情は崩れることを知らなかった。
「それから、そちは、わらわの腕の鱗を目にしても、まったく恐れも気にしたりもせんかった。そのようなお人とは初めてじゃ。兄様とは違うのう⋯⋯。かつて、赤魔は私を封印した。醜い私が嫌だったのに決まっておる」
水魔は艶然と言ったが、キバは信じられぬ思いで見返した。
「ちょっと待ってください。あのご寛容な赤魔が、そのようなことをするとはとても──」
キバは、石のような固い表情になって、腰もとの剣の柄に、そろりと手をのばした。
後ろから、睨めつけるように監視をするハシャクが、
「ゔうん!」
と唸った。
「そうだったから、私が兄さんに呪詛をかけたとはお思いにはなれませぬか!! 兄様のふだんの善良的な態度を理由に、私の言葉を信じてくれないのですか?」
このことをキバが聞いたときには、身体中の血がいっぺんに、胸によってきたかと思うくらい驚いてしまった。
さっ、と剣の柄から手を離し、意識的に大きく息を吸うや、とっさに答える。
「そうは申しておりません⋯⋯。ただ⋯⋯」
ただ、予期しなかった事柄だ。信じるまでの時間が必要だった。
「ならよかった」
水魔の指先がゆるりと伸びてきて、頬に落ちかかるキバの髪を掬い上げようとした。
そのほっそりとした手を、キバはしっかり掴む。
「それより、かつて何が、あったのですか。赤魔との間に⋯⋯。先に、それを話してください。なんで兄妹喧嘩してるんですか?」
本当にそれを知りたいという気持ちもあるが、時間稼ぎのためでもあった。只ならぬ予感がするからだ。
水魔は、すっくと立ちあがって言った。
「分かりました。では、見てくださいまし」
「何を?」
水魔が、いぶかしげなキバに背中を向けるや、着物の帯をはだけさせた。
「この鱗をみると、どのような者でもお逃げになる⋯⋯」
あらわになったのは、背中にうかぶ鱗だけではない。はっきりと、爪跡がのこっていた。
ハシャクは汗水をたらしているが、キバは、動じなかった。
「鱗よりも、気になる傷のあとが」
水魔の、かれを見る目が、何かを考えているような鈍い光をたたえた。
「これは己の手でじゃ」
キバは驚かない。リスカとか、タバコの火をなすりつけられた跡とか、おのれを責めるためにつけた爪跡とか、さんざん見慣れているキバだからこそ、動じることもなく、当たり前の調子でこう言った。
「でも、なんで、それほど苦しんだんですか?」
「⋯⋯〝なんて、恐ろしい〟。それが、兄さんが私に発した最初の言葉」
はだけた衣を、さっと直した水魔は、言葉をついだ。
「私は孤独でした。かつて、私が影神界に生まれ落ちたとき、人々は私を怖がっておいでだった。それでもしばらくの間、私は、兄さんやデミ族とも共存していました。けれど、だんだんと、この世界の宿命というものが分かってくると、たまらなく嫌になったのでございまする。影神界で生きるということが⋯⋯」
水魔は、キバに背中を向けたまま、澄みきった声で続けた。
「人間界とちがって、この世界には自由がなさすぎることに気がつきましてな。私が赤魔に捕えられて、水の城の地下に封印されたのは、そんなときでした。兄さんを、死ぬほど憎みんしたよ。私は自力でダグルから逃げだすことに成功すると、兄さんに呪詛をかけ、ひきかえに綺麗な顔を手にいれたのです。〝この程度の見栄えにならんと、わらわの気持ちなんぞ、分からんのでしょう?〟と言い放ちましてのう。私は、そのあとすぐ、身分制度を開始しました。赤魔とデミ族らを火の国に取り残し、ワカ族をおのれの下僕にしたのです」
躊躇なく、すらすらと発せられた真実に、キバは顔をこわばらせた。
「デミ族の間では、こう言い伝えられてきた。兄を妬んでいた、という話は──」
キバの声に被せるように、水魔がさえぎった。
「馬鹿なことを⋯⋯。妬んでいたのではなく、ひとの外見をみて恐るような男を、許せなかったからだ」
今、キバの心は、情にゆらいでいた。兄妹喧嘩にしても、これでは水魔が理不尽すぎる。
七
気まずい雰囲気が部屋の中に充満する。小春は、バラバラだったパズルに最後のピースがはまったような気がした。
小春は、守護鏡の中にうつった、水魔の憂いな顔から目をそむけて、後ろをふりむいた。
赤魔は、氷のように蒼白な顔をして起きなおっていた。彼の、重ね合わせた手がふるえている。
何をいえばいいか分からない。
先に口をひらいたのは、カンバルであった。
彼は、赤魔のベッドの前で、ゆるりと跪く。
「⋯⋯赤魔さま。俺は、ほんとうに、ここにいてもよい身分でしょうか」
赤魔は、かすれた声をしぼった。
「我輩は、小春を信じている。その小春が信用してもいいと決めた者なら、そうなのだろう。お前も根は悪いやつじゃないということだ」
「ああ、俺も小春を信じている」
カンバルは、跪いたまま、小春の顔をふりあおいだ。
「小春は、守護鏡で聞いたことにおいて、赤魔をどう思うんだ」
小春は、急な問いかけに、オドオドした。
「お二人の間に、何があったのか、くわしく知らないので」
小春はカンバルの隣まで歩みでると、ホルンのように柔らかい声で言った。
「赤魔さま、教えてください。何があったのかを。水魔を封印したことは、ほんとうなんですか?」
赤魔は、うなずいた。
「どうして、封印なんて⋯⋯」
小春のきわめて小さくなった声に、赤魔のドスの効いた声が重なった。
「水魔をみて、恐ろしいと言ったのは事実だ。だが、恐ろしいと言っておどろいた理由は、見た目のことではない」
小春は、とたんに閃いた。
「⋯⋯もしかして、発狂ですか?」
「ああ。そのようにしか見えなかった」
短く答える赤魔に、小春はたたみかけた。
「話し合いで解決することはできなかったんですか?」
「彼女は、巨蛇の姿で、乱心していたのだ。話し合える状態でさえ、なかった。だから、やむを得ない決断にでた」
「あまちゃんだな。殺しはできないから、封印したってわけか。それで招かれたのが、水魔の独裁政治かよ」
カンバルの声は呆れているが、表情のほうは、苦い虫をかんでいた。
「そのとおりだ、カンバル。私は、殺しも、不和の解消も、できなかった無力な王だと。私は青かった」
赤魔は、目を閉じて思い出しながら、深く息を吸った。
「水魔は、影神界に生まれ落ちた日から、調子が悪そうだったが、数日後には急に苦しみ始め⋯⋯。最後には鬼子のように暴れ出した。黙ってようすをみるという方法は、巨大な魔物の身体では、危険で困難だった。あのままでは、あまたの民が犠牲になっていただろう。
私は、彼女を封印せざるを得なかった。なぜ乱心したのか、それは、いまだ分からん。
だが、あの処置が、彼女の傷心になりうるという細心の注意まで払えるほど、かつての私は大人ではなかったのだ。この真実を知る者は、我輩と月夜だけだ」
「それでは、水魔はおのれが暴れ出したことで封印されたとは思っていなくって。これまでの周囲からのひどい扱いによって、そのとき赤魔さまから放たれた言葉を、われが思うままに飲みこんでしまった。だから、おのれの外見が原因で封印されたと勘違いをしているということなんじゃ⋯⋯」
「とんだ誤解をうけたものだな。たんなる兄妹喧嘩を、呪いだの、身分制度だの、独裁政権にまで持ち込むとは」
カンバルは眉間にシワをよせ、フォルテシモの声で憤怒した。小春は、カンバルにも言い知れぬ影があると悟った。影の正体はわからないが、彼の目は悲しそうだった。
「この影神界は、ひとりの女王によって、ずいぶんと歪められている。だが、そうなった責任はすべてこの私にある」
赤魔は、頭に片方の手をあてがった。先ごろよりも、目のまわりの黒い傷が、首のほうまで、クモの巣のように広がっているような気がする。
「乱心とか言ったって、街を破壊し、害をなすことに喜びを覚える性分なのかもしれねえだろ」
カンバルが、さらりと言った。
「そのとき最善にできた、賢明な判断だったと思います」
小春は強い眼差しで、じっと赤魔の辛そうな顔を見ていた。
「⋯⋯そんなに、自分を責めないほうがいいです。まだ、すべてが終わったわけではないのだから。手は残っている。たしかに、ワカとデミには確執がある。でも、水魔さえ倒せば、共に歩み寄ることができるはずです。
ご自分を下卑しないでください。私は、はやく赤魔さまに元気になってほしいから。サンタカも、一病息災であってくれと」
「若者たちに心配をかけては、格好がつかんな」
赤魔は、苦笑いした。
王の顔色には、血の気がもどったかと思われた。
だが、数秒で、彼の面持ちが真っ青に変わる。
後ろから、コンガのようにドッドッと床や壁を叩きつける、大きな音が響いた。
小春はいやな予感がして、守護鏡のほうを振りかえった。
鏡の向こう側にいるのは、水魔という『ひと』ではない。少なくとも、小春のしる水魔の姿ではなかった。
かわりに見えたのは、鋭い眼光、太い牙、黒と黄の鱗、くねりくねりと動く⋯⋯巨大な海蛇のバケモノだった。
バケモノは、裂けるほどの大口をひらくと、瞬く間に、キバの頭に食らいつく。
巨大蛇が太すぎて、そのあとのキバの様子を見ることができない。身体中をヌメリと波たたせて動く鱗しか、鏡のわくには収まらなかった。
はっとして、小春は後ずさった。
小春は、赤魔が妹を封印するしかなかったという気持ちを、目にしみて理解した。
「⋯⋯これが、ほんとうの水魔の姿?」
やっと言葉がでた時には、跪いていたはずのカンバルも立ちあがって、小春のとなりまで来ていた。
「巨体のせいで、キバの様子がわからん⋯⋯。どうなった」
「時間がない。臨戦態勢に入れ」
背中から低い声音がきこえ、小春とカンバルは、王のほうに向き直った。
「我輩のこととか、水魔との不和とか、小春はよけいなことは何も考えなくていい。月の剣を手にするだけだ。それで君の旅は終わる」
赤魔は、冷汗をかいて、気がかりそうに、二人の顔を見あげている。
「カンバル、小春の護衛を頼む。私が自由に動ける身体なら、君らと行くところなのだが⋯⋯」
コンガのような大きな音は、後ろのほうで、うるさく鳴り続けていた。
小春の、化粧に華やいだ顔が、不安を隠しきれずに歪む。
「ご心配なく」
冷静なカンバルは、赤魔のごつごつとした手に軽く触れながら、小春の顔を見おろした。
「⋯⋯小春。赤魔の言う通りだ。ひとの心配をするくらいなら、自分の身を案じておけ。これは、命をかけた、人生の奪い合いの花札だ」
「分かってる。分かってるよ! 宿命のことも、元の世界へ帰ることも⋯⋯」
そして、ずっと胸につかえていた苦悶を、投げやりに言った。
「だけど、私が月の剣を引き抜いたとき、この世界の行く末はどうなるの?」
「誰にも、何も、分からん。だから戦うしかない。できることをするしかない。分からないから、その時はその時だと胸を張って行動すればいいんだ。後のことは全部、俺たちに任せろ」
カンバルは、すこし掠れたような、熱のこもった声で答えると、身をひるがえして部屋を横切ってゆく。
「キバのバカ野郎⋯⋯。油断したな」
彼は、ひたと立ち止まって、振り返らずに付け加える。
「⋯⋯早く、馬小屋へ向かうぞ」
小春はうなずいた。
「うん、わかった。赤魔さま、私はきっと大丈夫。絶対に生還してみせます。だから、頭を抱えずに、待っていてください」
小春は、一言そえると、不安な気持ちを押さえながら、歩みだした。
足音が消えさると、赤魔は、深いため息をついた。
二人が部屋を後にしてから、間もなく、うら若い乙女がいれ違いに姿を現した。
「あ、あの、サヨです。マカぜから、赤魔さまの介抱をせよと、申しつかりました。私は、小春みたいに丁寧じゃないし、月夜さんみたいにサバサバしてないので、足手まといになるだけですけど⋯⋯」
赤魔の曇りきった表情に、光のような笑みがさした。
「かまわん。いやはや助かった。こんなときに、一人きりで部屋に閉じこもって居なければならんと思っていたからな」
サヨが、ほっとした様子で、部屋の中央まで足を運ぶ。コンガを叩くような不快な音がきこえてきて、彼女は、そっと耳を塞いだ。
「本当こんなときに、ですよね。──あれは一体何ですか」
サヨは、守護鏡に映りこんだ化け物のほうに、すっかり目を奪われてしまった。
八
「しかも、その封印の仕方が尋常じゃなく、身体には鎖を何十にも巻いてあった。脱出するには、その鎖を一本一本外していかないと無理だった」
すべてを語り終えた水魔は、ひと息をついて、
「わらわに何が起きたのか。いま話したことが全てだ。そなたは優しい。だから話してもよいと思いました」
「そんなことが⋯⋯」
キバは、ただ、豪奢な衣をまとった水魔の背中を、静かに見つめていた。
「こないな世界のなかに、なぜ私は生まれ落ちて来なければいけなかったのか。化物扱いをうけ、月の剣を守るためだけに、生きなければならぬ窮屈な世界など、私は好きにはなれぬ」
水魔はゆるりと、振り向いた。
これまで気だるげだった瞳が熱に浮かされたように輝き、唇には磨きあげられた刀のような危うい笑みが浮かんでいる。別人のようだった。
「けれど、どうやってこの世界で過ごすか⋯⋯それだけは己の意志で決めることができる。私は、この世の道理をくつがえすことを目的として生きることに決めんした」
美しい皮をかぶった女王は、歯をむきだしにして、怒鳴った。
「⋯⋯そのためならどんな者でも苦しめようぞ!」
キバは、反射的に腰元の剣の柄に手をそえた。
「しかし、和平交渉は受け入れてくれたではありませんか⋯⋯。なぜです?」
「とんでもない、小春ごときのために」
ずるっ⋯⋯と水魔の足が動いた。
ぎりぎりのところで足の裏が床の上に接するか接しないかのような、とても妙な動き方で歩き出した。優雅な歩き方だ。けれど、厭らしく、おぞましい何かが床の上を這っているかのように映った。
ずるっ⋯⋯という身の毛もよだつ音が、キバのほうに、せまってくる。
「でもそなたは違う」
キバの、目と鼻の先に、鱗まみれの顔が近づいた。なまぬるい息が、頬にあたる。
「こんな私の姿を見ても、〝化け物だ〟などとは恐れず、ひとりの乙女として扱ってくださっている⋯⋯。談判を受け入れることは出来ぬが、だからといってそなたを取り逃がしたくもない。だから言いたでしょう。そなたが気に入ったと。食べてしまいたいほどに」
キバは、片時も、剣の柄から手を離すことなく、強い睨みを利かせている。
「仕組んでいたな」
水魔は鼻で笑った。
「これで分かった。貴様とて、えらそうなことは言えん。貴様は小娘のことばかりで、ろくに、われわれの命のことなど考えていない。そちは小春が大事なだけだ。そのためなら、この世界の民はどうなってもいい。そういうことだ」
「⋯⋯⋯⋯」
キバは、何も言い返せなかった。
口をひらかぬ間に、水魔が両の手で、彼の頭をするりと包みこんだ。
「まずは頭蓋骨を割る。この美しい顔がまるで卵のように割れるの」
女王の唇の端が、めきめきと裂けてゆく。
とたん、水魔の白い肌と美しい顔が、ボロボロの糸くずのように変化し、崩れ落ちた。
人型の皮の中にたまっていた、たえられぬほどの生臭さが、部屋じゅうに溢れだす。
またたく間に、黒と黄の縞模様をさらけだし、どっしりと重たい図体が、破れた皮袋から、ぬっと姿を現した。
もう、艶めかしい女王はいない。美しい女人のフリをしていた皮袋が、ガラスのような破片になり、消え去った。
彼を包みこんでいたはずの手には、水かきがつき、つぎの瞬間には灰となって霧散した。
キバが、剣の柄を鞘から引きぬこうとした。
とたん、目の前が暗くなった。
べとべとに湿った赤い舌と、研ぎ澄まさた刃のような歯牙が、頭上から、喰らいつかんとしゃしゃり出たのである。
キバはあえて、水魔の太いロープのような胴体の上にのった。
頭すれすれのところで、引き抜くことができた剣先を、巨蛇と化した水魔の歯ぐきに、奥深くまで突き刺した。
足でぐいっと蹴ると、歯牙がもげた。
怪物が金切り声を上げ、歯ぐきから血が川のように噴き出した。
そのすきに、キバは肩のほうからゴロリと着地した。
手のひらには、よだれが残っているが、気にしているヒマはない。
「喰って、隠滅させようという魂胆か。やられたな。はじめっから、和平交渉など、さらさらする気がなかったというわけか⋯⋯」
荒い息を吐きながら、キバは、ゆっくりと起きなおった。
「いい加減にしてくれ⋯⋯。ひとの守護神を、よくここまでバカにしてくれたな」
叫び声は、後ろからも聞こえてきた。
「ば、ば、バケモンが⋯⋯!」
とたん、泡を食ったハシャクは、転がるように廊下の外へと飛びだしていった。
まるで怯えた兎のように。
「側近が、あの体たらくとはな⋯⋯。彼だけが、談判の場にいずけたのは、水魔にもっとも贔屓されていたからではないのか。⋯⋯たいしたことのない腰巾着め」
キバは、臆病者をののしった。
次の瞬間、一人分のすき間がある引き戸を、思いっきり開く音が打ち鳴らされた。
「言わんこっちゃない⋯⋯。大丈夫かい、キバ?!」
月夜だった。
襖の向こうがわで盗み聞きしていた野次馬たちは、顔面蒼白になって五歩ほど後ずさった。
「手加減をすれば茶番になる。戦場に身を置く以上、案ずるな。温かい言葉をかけるのではなく、自分の役割を果たせ。談判は、失敗。あとは⋯⋯。小春を、月夜に、託すしかない⋯⋯。水魔は、私が倒す。私はこの剣で、影神界を独裁から解放する。私は無駄な血を流さないで影神界を変えたかったのだが⋯⋯」
「ここが天下分け目の戦いってわけだね」
月夜が応じた。
月夜は、さも、巨蛇に慣れているような調子で歩きだした。
まだ水魔は痛みに悶えているだけ。
今のうちにキバと水魔の間を、すんなりと通りぬけて、外廻縁への襖を開けた。
「⋯⋯さすが赤魔の元側近」
キバは、その月夜の態度におどろいた。
彼は、生まれてからあんな恐ろしい様子をした者を見たことがない。
「水魔も、ずいぶん、戦いずらくなる話を聞かせてくれる⋯⋯」
と、吐き捨てた。
目の前には、想像を絶する巨蛇が、ヌメリとした背なかで天井を突き破っている。
九
外廻縁まで出た月夜は、あたりの景色を望んだ。
目の前は、地平線まで、穏やかな浅瀬に満たされているが、空気のほうは緊迫していた。
東の、ずっと先の方で、小さなチェスのように数騎のデミ兵たちが待機しているのが見える。
月夜はイヤな顔を浮かべて、手すりに取りつけられた戦合図の角笛を、口にあてがい、吹いた。
雷のように、胸の奥まで響く低音だった。
角笛から唇をはなすや、舌打ちする。
「水魔⋯⋯。そういつまでも言いなりになっていると思ったら大間違えよ。見ていてごらんなさい」
月夜は、ゆるりと目を閉じた。
この瞬間、走馬灯のように赤魔との密談が、瞼の裏に蘇ってきた。
小春が水の国から火の国へ移動して間もない頃だ。月夜は、ゲボーレンの小屋にて、赤魔がくることを待ち望んでいた。
彼女は小春とゲボーレンにいたときに、守護鏡をうっかり落として割ってしまっていた。それを応用し、巻物に鏡の破片を取りつけるや、事を察したかのようにぬっと姿を現した麒麟に巻物をあずけたのである。けれど、それ以外では、まったく役に立たなくなったことは言うまでもない。小春や、火の国の様子も鑑賞できなくなってしまった。
月夜は、手にもつ鏡を、じっと見つめた。
割れた鏡のなかに映りこむ、おのれの顔が歪んでみえる。
「そんな縁起の悪いもの、捨ててしまえ。
代えのものならここにある。これで我輩や小春のことをふたたび見守ることができる」
ヒビだらけの手鏡が、大きな手に取り上げられ、樽の中に放って捨てられる。
新しい守護鏡を、おのれの手に与えられた。
月夜は、あきれたように王を見やった。
「呑気な。危険をおよぼしてここへ来たってことは、もし水魔にみつかったら、赤魔さまの命の灯火が減ることになる。黒い傷の広がりとともに。でも、そんなこと、どうでもいいって顔だな。⋯⋯信じられん」
遥々(はるばる)おとずれた赤魔は、気にも止めずに、小屋の長椅子にどっかりと座った。
「鼻がまがりそうなくらい、キツくてたまらん香水だったな。あれは腐ったハチミツをぬった木ノ実の匂いかね。それとも鹿の汗がまじったクチナシの匂いかね」
月夜は隣に腰掛けることもなく、仁王立ちで答えた。
「化粧濃おばさんのフリをしたんですよ。〝わざと〟。べつに、逢い引きのつもりじゃありませんよ」
月夜は、大きく息を吸った。
「洞窟は、いま警備が厳重になって危険だし、城壁も堅固になった。ワカの力なくして、小春が月の剣の在処へ行くことは容易じゃないことだろうと思ってね」
「ほう、内通者となる覚悟を決したと見える」
そう言って、赤魔は金の仮面を外す。
「身分制が下されたあの日よりも、黒い傷が酷くなったような⋯⋯」
月夜は、赤魔のはっきりした顔立ちの中に刻まれた黒い傷をみとめた。
「ああ、酷い顔だ⋯⋯。イヤになるだろう」
「焚火の如し、厳しくも暖かい心。そして、安定した人格と包容力⋯⋯。嫌いになるような相手だったら、内通者になりたいだなんて手紙は、はじめっから出してなかったよ。心配してるのは、見たくれより、身体のほうだよ」
励ましの言葉が、かえって棘と化することもある。赤魔は暗い光を、彫りの深い目元にたたえていた。
「⋯⋯我輩が妹にかけられた呪いの影響は、日に日に増すばかり。いつまで、この身体を保てるのか知れん。もし、その最悪の場合に陥ったとしても、小春が必ず影神界から出られるように、何らかの手配をしなくてはいけない。月夜には感謝している」
赤魔は、月夜の顔を見上げた。
「そこで月夜に、ひとつ聞きたいことがあってな。城の地下の出入口はいくつある。もし、洞守たちの洞窟の他に、小春でも安全に通れる道があるのなら教えてくれ」
「二つ、あります」
赤魔の瞳に希望の光が灯った。
「ワカが通常に使う、王城地下までつづく通路へ足を踏み入れることができるのは、水魔さまに信頼されている限られた者だけです。私はそこへ行くことを禁じられています。しかも、その通路の鍵を持っている者はハシャクだけ。妨害です」
赤魔はがっくりと肩の力を落とした。
「⋯⋯ですが、もうひとつだけ、秘密の抜け道もあります。水魔さまが本来のお姿になってしまっているとき。つまり⋯⋯ウミヘビでも通れる秘密の通路が、特別に造られてあるのです。水魔は、そのために隠し通路をつくり、女王の間から王城地下を繋いだんです。その道を、水魔にばれぬよう慎重に進めば、あるいは⋯⋯。
ウミヘビの抜け道に鍵はありません。なぜなら、水魔さまのコンプレックスは外見そのものだから。通路に警備をほどこすと、返って水魔のまことの姿に注目が集まりかねません。鍵をつくることも、警備されることも、好まぬようでございます」
「なるほどな。その手なら使えるやもしれん。見事な観察眼だ」
「毎日、水魔のかたわらに居てるからね。私は、水の城の全体像を自分の手のひらのように知っている。小春に案内くらいはできるさ」
月夜は、苦しい表情をうかべた。
「それでも、地下に行くことを禁止されているのは、私が、ハシャクほど水魔に信用されちゃいないってことさ。私を側近として仕えさせてんのは、赤魔さまを不快にさせたいからか、私を監視したいからか⋯⋯。とにかく、私が赤魔さまをゲボーレンにお呼びした時点で、危険すぎるんだ。これがどういうことか、分かるだろう? 私は、今、それだけ大きな決意をしているわけだ」
「しかし、心配だな。水魔が月夜を反乱分子としなければいいんだが⋯⋯。月夜⋯⋯。なんでお前はそこまで⋯⋯」
月夜は、ようやく赤魔の隣に座って、しずかに口を割った。
「⋯⋯私だって、小春と出会うまえは、ずっと選ばれし者なんかこないでほしい。死にたくなんかないって思ってたんだ。だけど、死は何もかも台無しにする代わりに、生を価値あるものにする。そう悪いものでもない。だって、小春のために、私たちが生まれたんだとしたら、それってとても美しいことだとさえ思えてくる。小春なら信じてもいい。彼女はきっと私たちを価値あるものにして、人間界を色のあるものに変えてくれるかもしれないだろ。そのために、私らがいるんだからさ。悪くない考えと選択だと思いたい。長いこと考えすぎて疲れちまったんだ⋯⋯。ああ、疲れたさ⋯⋯」
赤魔が、月夜の肩に両の手をそえた。
「どうやら、月夜の思いは、我輩とまったく同じようだな。デミたちも、暗黙のうちに、それがどのような結果でも、小春を信じると決めたわけだ。劣勢にはなるだろうが、小春がこの世界から脱出するためには味方がぜったいに必要なのだ。力になってくれるというのなら、誰だって歓迎する。味方は多ければ多いほどいい。我輩の長すぎた一生をえて、小春が本来の自分らしい生きかたを取り戻すはずだ」
こんどは、赤魔のほうが苦しい表情を浮かべていた。
「お前には、水魔を⋯⋯即刻地下牢に封印せよと伝えたな。間違った決断だったかもしれない。かりにも女王を罪人におとしめ、独断で投獄するなどと⋯⋯」
「民を守るために、止むを得ない決断だったんでしょう。きっと分かってもらえるよ」
けれど、月夜がそのときに放った言葉は、願望にすぎなかった。
数百年にもおよんだ不和を、解決することなどできるのだろうか。
「また仕えさせて下さい。昔のように⋯⋯」
澄みきった声が、ゲボーレンの小屋じゅうに響きわたった。月夜が下げた頭をもどしたときには、赤魔は深刻そうに唸っていた。
淡い記憶とともに、月夜は、ゆっくりと目をひらいた。
「みんなで決めたことだ。頑張ろう。もう少しだ、小春」
欄干に手をそえ、空をふりあおいで、月夜は、ボロっとつぶやく。
決戦は、目の前にせまっていた。