まれびとよ
雪の衣もほころび、繕う針も無くなって暫くが過ぎた。
湿り気を帯びていた山里の土が、陽光に当てられて硬く干上がっている上を、轍が二筋伸びている。
余程に重いものが通ったか、抉れてうず高くなった土の上には、甲羅を背負った虫が止まっていた。
春と呼ぶには遅い。梅雨にはまだ遠い。風に混ざる香は、浮ついた花のそれではなくて、若々しい青草の、噎せ返る程に濃いもの。それを胸一杯に吸い込みながら、女は荷車を引いていた。
「ねえ」
親しげな声は、虚空に投げ捨てられる。
女は一人、轍を刻みながら歩いている――旅人のようには見えない。
スニーカーは薄汚れているし、丈の長いズボンは、分厚い布地を選んでいる。軍手、額に汗、首に巻いたタオル――まるでその地に根付いたような姿だった。
「もう少しだからね」
女は、道の脇の木陰に荷車を寄せて、タオルで顔を拭いながら言った。
荷車には、彼女の荷物なのだろうナップザックが一つと――桶が積まれていた。
大きな桶である。
大の男が左右から腕を回せば、どうにか手が触れ合うだろうという程に、その桶は巨大であった。
高さも、女の背程は有る。
殆ど荷車は、この桶で一杯に埋まっていて、ナップザックは慎ましく痩せ細っていた。
女が歩いて行た方向には、彼女が最後に立ち寄った村から離れて、山の方へと続く道がある。風もまた、山から村へ、そよそよと流れていた。
木陰でその風を受けていると、きぃ、と荷車が鳴く。
「お姉ちゃん、何処に行くの」
桶の隣にならんで、子供が一人、荷車に腰掛けていた。
「どこへ行くと思う?」
女は、元よりの道連れに戯れ返すように、子供に問い返した。そうしてから、木陰を離れ、また荷車を引き始めた。
がら、がら、がら。
歩みが少し、遅くなる。
「知ってるよ、私」
地面に届かない足を振り子のように遊ばせながら、子供は女を見透かすように言った。
「お花畑が見たいんでしょう」
「お花畑?」
「お山の麓の、川から離れて、小さな林を抜けた先。雪が溶けてしまっても、雪より白いお花畑が、見たいんでしょう」
女は、振り向かないままの顔に、困ったような表情を浮かべた。
「そんなところ、聞いた事も無いわ」
「でも見たいんでしょう」
持論の根拠は示さぬまま、たんと自信を溢れさせて子供は断言する。それを「まさか」と否定するのも違う気がして、女は反論をしない。
「あたし知ってる。知ってるものは、そんなに欲しくならないの」
「そうかしら。慣れた場所は良いわよ」
「ううん、絶対に違うわ」
一方で子供は、見た目相応に子供じみた意地っ張りの様を見せる。首を左右に振ると、髪がでんでん太鼓のように靡いた。
「知らないものって、何処までもいいものにできるの。悪いところを知らないからよ。
自分が思う〝一番良い〟が、知らないものの顔をして、何処かにいるって思ったら楽しくならない」
「夢を見るようなお話ね」
「夢みたいでしょ」
確かに、白昼の夢のようだった。
その子供は、彼女が語った「雪より白いお花畑」のように、真っ白なワンピースを着て、五月の日差しを目一杯に浴びていた。
肩紐が少しずれると、日焼けしていない肌が、腕と違う色をして顔を覗かせる。
この子はきっと、無邪気に走って遊ぶ子供だ。女は、そう思った。
朝から昼まで野山を走り、昼食を済ませたら夕方まで川に遊ぶ。そういう子供の〝かたち〟がこの子だ。
大人のような口をして、夢のように人をはぐらかす声は、小さな体の何処から湧くのか、大きな大きなもので、
「おかしいわねぇ」
女はそう言って、笑った。
そうして、山の麓について、川の流れから離れて、林を歩いた。
人が踏み固めた道が、林の中に一本だけ伸びていたが、車輪を通すには少し手狭であった。石を車輪が踏み超える度、がくん、がくんと、子供と桶が二人して跳ね上がった。
「もうじき着くわ」
「楽しみ」
やがて、林の木がまばらになって、代わりにぽつぽつと、背の低い草が目につくようになった。
道の脇に追いやられた雑草達が、恭しい執事のようにずらりと並んで、荷車の行く道を飾っているのだ。
「着いたかなぁ」
女は初めて後ろを振り向き、子供を見た。
「ええ」
大きな桶を背凭れにして、子供は晴れやかに笑っていた。
丸く短い指が指し示す向こうには、小高い丘の一面を埋める、百合の花畑が広がっていた。
五月に咲く、鉄砲百合。
小さな白い花が、いくつも、いくつも並んで、風に体を預けて揺れている。
さらら、さら。
さらら、さら。
葉と、花弁と、茎が鳴っている。
隣の花と、その隣の花と、またその隣の花とが、柔らかくぶつかって鳴っている。
さらら、さら。
さらら、さら。
女には、百合の花畑が、風に合わせて歌っているように聞こえた。
「綺麗ね」
女は荷車から離れて、一番多くの花が集まっている所へ、ころんと背中から転がった。空気をたんまりと含んだ土は、女を花の仲間にした。
「見たかったでしょう?」
決めつけるように、子供は長い髪をばさりと羽ばたかせながら、女の体を跨いで立つ。
「あーあ、知っちゃった」
「そうね、知っちゃった」
女を此処まで導いた子供は、酷く退屈そうな顔をして、幸せそうに横たわる女を見下ろす。
「もうこれで、此処はつまらない場所。あなたやあたしが思う最高から、ずっと遠くに行っちゃったの」
「そう、可哀想に」
「そうでしょ。いっつも逃げるの、あとちょっとで届くのにあたしを置き去りにして、みんな知らない所に行っちゃうんだもの」
「どうしようかしら」
「知らないわ」
たった二人を招き入れても、花畑は顔を変えないで、百合の花達の歌を奏でている。
だから、変わったのはたった一人、その子供だけだった。
子供は誰も知らないものを見ようとして、目を丸く見開いて、女の顔を凝視した。それから、少女の愛らしさと、蜘蛛の欲深さで、
「ねえ、知ってる?」
女に覆いかぶさり、けだものの如く鋭い牙を突き立て、細首を食い破り、赤い飛沫で喉を満たさんと迫った。
小さな唇の奥に、紅を固めたような赤さの舌が、渇いてのたうっている。
「食べるのね」
そうよ、と、少女が言ったような気がして、
「違う、違うの」
女は陶酔に漂いながら、続ける。
「あなたなんかに、言ってないわ」
恋を知る唇は、優しくはなかった。
少女のか細い体は、背後からの衝撃に突き飛ばされて、地面に落ちる事も許されず、空を仰ぐように掲げられた。
めぎっ、と、鈍い音が鳴った。
少女の体に、蛇が巻きついていた。
少女の腕より太く、女の背丈を三つ並べたより長い体が、少女を絞め付けていた。
ぎしっ。
ごきっ。
呆気ない二つの音の後で、少女は牙を剝き出しにしたまま、両腕をだらりとぶら下げた。すると大蛇は、少女の体を白い花畑の上に落とし、顎を外して開くと、少女を頭から呑み始めた。
蛇体に人の形の膨らみが浮いて、それが喉元から腹へ、ずるぅり。
「綺麗ね」
女は、歪に膨れた蛇体に寄り添いながら呟いた。
蛇の尾が喜悦に震えながら纏わり付くのを、好きなように遊ばせたままで、女は一輪、花を摘む。
「やっぱり、見慣れたものが一番よね」
しゅう、しゅう、と息を吐く。相槌を打つ〝声〟であった。
「景色だけじゃなくって、全部」
胸一杯に花の香を吸い込んでから、女は蛇の頭を胸に抱いて、鼻先に軽く口付けた。
それから、「子供にはわからないわ」と鮮やかに笑うと、長く連れ添った恋人に手足を絡め、白い花弁を敷物にして、ころころと寝転がった。
幾百度目かの、夏が来る。