第三章(1)
「なんでだよっ!」
絶望と焦燥、そして苛立ちの声が、ミラの小屋の中にむなしく響き渡った。
くそっと自分自身に悪態を漏らしながら、和馬が目の前でガラスの破片のように粉々になり、淡く煌めきながら降り注ぐルーン文字を睨みつける。その向こうには、チロチロと二股に分かれた舌を覗かせる朱色のトカゲ、火の精霊サラマンダーが、部屋の真ん中に置かれた椅子の上で、ルビーのように赤く小さな瞳に困惑の色を浮かべていた。
いや、サラマンダーだけではない。机に置かれた水瓶の中では、心配そうにウンディーネがその青い流体の身体を持ち上げ、ウンディーネからサラマンダーを挟んだ反対側の窓の傍には、蝶のような緑色の羽をゆっくりと羽ばたかせるシルフが、オロオロと口元に手を当てながら和馬のことを見守っている。部屋の壁際に置かれた鉢植えの土の上では、老人の姿をした小さなノームが、小石に腰掛けながら、悩むように唸っていた。
苛立ちに耐え切れず、和馬が床板を踏みつける。床板が抜けたんじゃないかと思うほど大きな音が響き、ミラの傍らにいたエイルが、ミラの影に隠れるように身を竦ませた。
ハァー……、ハァー……、と何とか自分を抑えようと和馬が肩で大きく息をする。でも、そんなことでこの焦燥感は拭えない。
冷静になる自分を待ちきれず、和馬は喉を大きく動かして唾を飲み込むと、乱れた自分自身の精神に語りかけた。
本来、乱れた精神で魔術を練るのは容易なことではない。だが、和馬には、絶対にブレない信念がある。
絶対に、レミナを助ける。
和馬が、浅く瞼を閉じる。ハァ……ハァ……スゥー…………と、ゆっくりと、乱れていた呼吸が整っていく。自分自身を個と自覚しながら、世界の全であることも自覚する。身体から零れるように不安定だった魔力が安定していき、胸の奥が、そこに小さな太陽が生まれたように熱くなる。
徐々に、確実に練り固められていく魔力。
静かにその様子を見守っているミラが、フムッと感心したように頷く。
魔術修行が始まって、2か月が経っていた。
和馬の魔術センスは、ミラも舌を巻くほどだった。
もともとの知識に加え、絵を学んでいたことにより、ルーン文字の技法を短期間に、しかも完璧にマスターした和馬。その成長速度だけなら、下手をすれば稀代の才女と呼ばれた、ミラ以上かもしれない。加えて、和馬には画家になるために磨いた感性の鋭さがある。感性の鋭い者、感受性の高い者は、とりわけ精霊に好かれやすい。それは、人見知りの激しいエミルがすぐ懐いたのを見ていればよくわかるし、まさか、四精霊の、サラマンダー、ウンディーネ、シルフ、ノームの四体を、これほど早く見つけ出してくるとは思わなかった。
正直、ミラも和馬の才能には嫉妬を覚えたほどだ。
だからこそ、和馬がこんなところで、こんなことで躓くなんて、ミラには思ってもいなかった。
精霊との契約。その筋の者なら、子供でもできるごくごく基礎の魔術。
今、その常識が、才気満ち溢れる和馬を押しつぶしていた。
自分を落ち着かせるように、ミラが煙草を一本咥え、火を付ける。だが、とても紫煙を味わう気になれず、結局ひと吸いもしないまま指で挟み、口から離した。
ミラ、そしてエイルの視線に一切意を貸さず、和馬は浅く息を吐きながら、ゆっくりと目開けた。体の中で、魔力が高まるのがわかる。体の中のさらに奥、自分の魂が熱を持つのがわかる。皮膚が敏感になり、微かな空気の動きさえ感じられる。耳が鋭くなり、今まで気に留めなかった自分やミラの息遣いや、心音が聞こえてくる。
「シルフ」
魔力を帯びた声で、和馬が静かに呟く。すると、窓際で不安そうに浮遊していたシルフが小さく頷き、ガラス細工のような羽を羽ばたかせて和馬の前にやってきた。
「たのむぞ……」
半ば無意識に和馬が零したその言葉は、シルフ、そして自分自身に向けられていた。
和馬が、自分自身の魔力に意識を集中する。ぎりぎりの、ぎりぎりの、ぎりぎり。あと、ほんの少しでも水滴を落とせば、表面張力で辛くもコップに留まっていた水が溢れるような、ほんとうのぎりぎりまで自分の魔力の練りを高める。
そして、もう、これ以上ないと和馬が判断した、その時。
和馬がゆっくりと、彼に残された唯一の左腕を持ち上げた。
人差し指の先端が淡く輝き、和馬が空中になぞった軌跡にルーンを刻んでゆく。
ルーン文字は完璧。それは、傍から見ているミラからも、文句のつけようのないものだ。
そう、さっきまでと同じように。
微かに、だが、確実に早まる鼓動。不安が足に纏わりつき、ほんの少しでも気を緩めれば、足が震えそうになる。
今にも折れてしまいそうな、繊細な和馬に、シルフも、他の精霊たちも、ミラも、エイルも、和馬の成功を祈る。
不安は、拭いきれない。だが、和馬は、前に進むことを決意した。
たとえ、そこにあるのが今ほど自分を打ち崩した絶望だとしても。
魔力を帯びた和馬の声が、静かな小屋に木霊した。
「古よりこの世界を旅する風よ
汝は世界の旅人なり
古よりこの世界の森羅を巡った風よ
汝は世界の娘なり」
詠唱と共に、和馬の魂が解き放たれ、個が全の租へと手を伸ばす。
「汝が翼は世界の息吹
その翼、我に貸し与えよ
我、黒木和馬の名において、今ここに盟約を結ばんっ!」
ルーンが輝き、和馬の魂がシルフへ伸びる。意識が身体を離れ、とても小さく、とても大きなものに包まれる。身体の重みが消失し、身体の隅々まで意識が伸びる。目の前の光景が大きく変わり、さまざまな色の光の奔流が和馬を飲み込む。
和馬は、その世界の意識の奔流の中で、必死に目を凝らし、緑色の小さな欠片を見つけた。
必死に、和馬がその欠片へと手を伸ばす。
あと……すこしっ!
和馬の意識の指先が、緑色の欠片に触れた、刹那。
和馬と緑色の欠片の間で何かがはじけ、和馬の意識は世界から和馬の身体へと叩きつけられた。
「ぅ……かはっ。んあっ、はぁっ! ……はぁっ……」
和馬が激しく息を吐く。戻ってくる感覚、身体の重み、息は苦しく、汗が止まらない。
絶望が押し寄せる。頭をガンっと殴られたかのような痛みが襲う。
和馬とシルフの間には、盟約が繋がれていなかった。
「なんで、だよ」
焦点の定まっていない目で、和馬は自分を呪うように呟いた。
またしても、和馬は精霊と契約が結べなかった。
一番初めは、ウンディーネと契約を結ぼうとした。それは、和馬が直感的に、ウンディーネが自分と一番波長が合うと思ったからだ。ミラも、その直感を押し、和馬は先ほどのシルフと同じようにウンディーネとの契約の儀式を行い、失敗した。
これが一体だけならば、相性が悪かったとでも片づけられただろう。だが、その後に試した、シルフ、ノーム、サラマンダー、そして、今試したシルフとの二度目の契約でも、結果は同じだった。そして、その原因は、ミラですら分からなかった。
焦燥が、不安が、和馬に襲いかかる。ルーンも、詠唱も完璧だったのに。なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?
「うっ!」
吐き気がこみ上げ、和馬が慌てて口を塞ぐ。酸っぱい味が口の中に広がり、鼻にツンとした匂いが抜ける。顔をしかめ、和馬は辛うじて口の中にせり上がったものを飲み込んだが、いつ第二波が襲ってきても不思議じゃない。
そんな和馬の肩を、いつも以上に優しいミラの手が、そっと叩いた。
「マスター……」
「すこし、休め」
「でもっ!」
「師匠命令だ」
優しさを含んで語尾を強め、ミラが引き寄せた椅子に向けて、和馬の肩を引く。和馬は踏ん張ろうとしたが、力の抜けた身体は、なんの抵抗もなく椅子に腰を落とした。
いや、次こそ! もう一度っ! と、和馬は立ち上がろうとしたが、身体に力が入らない。当然だ、この短時間に5回も精霊との契約を結ぼうとしたのだ。並みの人間なら、とっくに昏倒していてもおかしくない。和馬を突き動かしているのは、ただ、レミナを助けたいという意志力だけだ。
だが、いくら強固な意志があっても、身体は限界を超えていた。左腕はだらりと下がって、ピクリとも動かない。背中は椅子の背もたれに完全に寄り掛かり、少しでも左右にバランスを崩せば、そのまま椅子ごと倒れてしまう。
「少し、考えさせろ」
和馬の身体を椅子に座らせたミラは、自分も椅子を引き寄せ、指を組んだ両手に顎を乗せ、虚空を睨みながら自らの知識を探り出した。
ミラの横顔を見ながら、和馬が苦悶の表情を作る。
喉が激しく乾く。胃が痛い。汗が止めどなく噴き出す。
ぴちゃり、と和馬の唇に小指の先ほどの水滴が飛んだ。こくりと、わずかな滴が和馬の口に入り、ありったけの力で喉を潤す。おいしい、まるで何年振りかに飲んだ水の様だ。
和馬が視線を動かすと、水瓶で体を泳がせるウンディーネが、その手の平に小さな水玉を作り、精一杯の力で和馬に向けて水玉を飛ばしていた。ぴちゃり、と再び和馬の唇に滴が飛ぶ。
さわさわと、今度はささやかな風が、和馬の前髪を揺らした。ガラス細工のような羽が和馬の目先で揺れ、心配そうに目じりを下げたシルフが、小さな羽を大きく羽ばたかせて和馬に風を送っている。
和馬の両膝には、いつの間にかサラマンダーとノームが上って、元気づけるように和馬のことを見上げていた。じんわりと、土と火の温かさが、和馬の冷えた身体に染み込んでくる。その時、和馬の左手が、優しい何かに包まれた。再び視線だけ動かすと、椅子の傍らにちょこんと座りこんだエイルが、口を一文字に引き結びながら、一生懸命に和馬の左手を擦っている。
ありがとう
心から嬉しく、
なんでだよ
心から情けない。
どれくらい時間が経っただろうか?
「あくまで、仮定の話しだがな」
ふぅー……と、重い息を吐き出したミラが、ダークブラウンの双眸で和馬を射抜きながら、口を開いた。
「和馬、お前はこいつら精霊との契約以外に、世界と別の契約が結ばれている可能性がある」
「別の、契約?」
「そうだ。それも、私と出会う前に、だ」
「……なに、言ってんだ?」
ミラの言葉を、和馬は理解できなかった。それもそうだ、ミラと出会う前、それはつまり、和馬が魔術を学ぶ前ということになる。当然、精霊はおろかルーン文字だって学んでいない。
「別の契約なんて、した覚えもないし。第一、マスターに会う前に、どうやって魔術なんか使うんだよ」
「ああ、その通りだよ」
そう、だからこそ。ミラ自身も、あくまで仮定でしか話せず、そして、信じられないでいた。
ヒントは、ミラが垣間見た和馬の過去の記憶だった。
「和馬。お前は、吸血鬼に恋をし、そして、世界の節理に逆らうことを決めたな」
「世界の節理に逆らう?」
「そうだ。神が許さなくても、すなわち、世界が許さなくても、吸血鬼を愛する。『精霊』は『吸血鬼』、『ルーン文字』は『言葉』、そして、『媒体』は、あの『逆十字のネックレス』。そこに、お前の意志が加わり、魔術が発生し、世界との契約が成り立った。その結果として、和馬、お前は吸血鬼と同じ『階層』に至った。これなら、お前の魔術の伸びが以上に早いことも頷ける。初めから、お前は『こっちの世界の常識』のかなり奥の部屋に入ってしまっていたんだからな。だが、代償として、お前は世界との関係の一部を遮断した」
そこまで一気に言い切ったミラは、ようやく煙草に火を付けていたことを思い出し、火を付けた頃とほとんど長さが変わっていない煙草を咥えた。
その間に、和馬がミラの言葉の意味を咀嚼する。
だが、理解すれば理解するほど、和馬は理解できないとばかりに首を振った。
「ちょっと待てよ。『ルーン文字』が『言葉』で、『媒体』は『逆十字のネックレス』? そんな簡単に、結べるもんじゃないだろ。契約は」
「本来は、な。だが、ないとも言い切れん。魔術の歴史に関してもそうだが、突発的な発展や発見は、日常の些細なことから生まれることが少なくない」
「だからって、あれが、契約だってのか?」
「なんだ? お前にとって、あの言葉は本気じゃなかったのか?」
「んなわけあるかっ!」
思わず声を荒げ、和馬が腰を浮かせる。だが、自分の周りでビクッと身体を強張らせる精霊たちの姿に気付き、和馬は息を止め言葉を飲み込むと、ゆっくりと腰を椅子に戻した。
「本気だった。俺は、本気で言った」
目を逸らして、小さく口を動かす和馬に、ミラは少しだけ表情を和らげ、「だろうな」と言いながら煙草を吸った。
「でも、だからって、あれが契約になるなんて」
「だから、あくまで仮定の話だ。それに、私だって信じられんし、聞いたこともない。だがな、和馬。契約が達成されるかどうか、いや、契約そのものも、実際は私たちの手の中にはない。すべては、この世界のさじ加減でしかないのさ。大仰なロジックを組んで、ルーンを描き、精霊を集め、長い年月を掛けた魔術が失敗することもあれば、その辺でぱぱっと作った術式が成功することもある。『魔術の常識』が『世界の常識』の下にある以上、私たちは、世界から逃れられないのさ。望もうと、望まざると、な」
灰を灰皿に落とし、そのまま煙草を灰皿に置いたミラが腕を組む。
そして、しばし考えると、急に立ち上がって、玄関に掛けてあった紅色のコートに手を掛けた。
「マスター?」
「しばらく、家を空けるぞ。修行は一時中断。身体を休めて、英気を養え」
「え? マスターは?」
「私は、私の師匠にあってくる」
「マスターの、マスター?」
「そうだ。と言っても、ここ5年ほど顔も見てないし、正直生きてるかどうかも知らんがな。生きてるなら、かわいい弟子の相談だ。喜んで受けてくれるよ。老後の楽しみだと、いつも言っていたからな」
ミラが紅のコートの袖に腕を通し、無駄のない動きで必要なものをまとめ、小さな旅行バッグを用意する。
和馬が唖然としているうちに、ミラは玄関の扉を開いた。すっかりと落ちた夜の帳が、ドアの外に広がっている。
「じゃあな。ああ、そうそう。絶対に、エイルに手を出すんじゃないぞ」
最後まで憎まれ口を叩きながら、本当にあっという間に、そして颯爽とドアの向こうへ消えていったミラ。
「だから、手なんか出さねぇって」
そう言いながら、和馬はいつまでも左手を擦ってくれるエイルに甘える自分を、振り解くことができなかった。