第一章(3)
「なるほど」
新しい煙草に火を付け、魔術師は椅子に背中を預けた。紫煙を味わうように、魔術師がゆっくりと息を吐く。
ようやく、我に返る和馬。瞬間、頭の中がカッと熱くなった。本当に、あやうく魔術師に殴りかかるところだった。暴れだしそうになる身体を、左手で押さえつける。喉を押し上げてきた感情の渦を、和馬は熱湯を飲み込むような苦しさの中、それでも無理やり飲み込んだ。
ありったけの文句を吐き出してやりたかった。あれは、和馬の、和馬だけの記憶。他人に見られたいようなものじゃない。
でも、和馬はそうしなかった。
耐えること、それは、この魔女を探し続けたこの半年で嫌というほど学んだから。
魔女はさらに2、3回煙草を味わうと、ふと思い出したように和馬に尋ねた。
「事情はわかった。にしても、よりによって私のところに来たのはどうしてだ?」
「蛇の道は蛇。俺も、あの時まではエクソシストなんてもん、本当に信じちゃいなかったし、魔術師なんて、完全なおとぎ話の中のものだと思ってたよ」
「ククククク。吸血鬼は信じたのに、ずいぶんとご都合主義だな」
さも面白そうに、魔女が煙草の紫煙を弄びながら笑う。
そんな魔女の態度にも、和馬の意思は揺るがなかった。
和馬が大きく息を吸う。息を吐き出したとき、もう和馬に怒りの念はなかった。
「なんて言われても構わない。だから、俺に魔術を教えてくれ」
「なぜ、魔術なんだ? はっきり言わせてもらうが、下手な魔術なんかに頼るより、そこら辺の鉄砲玉の方がよっぽど威力も効果も費用も安くつくんだぞ。自分の手を汚すのが嫌なら、その辺の傭兵でも雇うんだな。こんなところにいる私を見つけ出せたんなら、腕利きの傭兵ぐらいすぐ見つかるだろ」
魔女の言うことはもっともだった。和馬が読み漁った古文書によると、魔術はその会得まで長い修行を要し、術の発動まではその準備だけでとてつもない費用が掛かる場合がある。割に合わないうえに、魔女の言っている方法の方が数倍成功率が高い。
そんなことは、わかってる。でも……
和馬は、魔女により鮮明に思い出した記憶を反芻し、絞り出すように呟いた。
「それじゃあ、もし仮にアイツを助けたとしても、アイツが安心できないんだよ」
そう、今回レミナがエクソシストに従ったのは、和馬が弱いからだ。和馬が強くなければ、いくらレミナを取り返しても、いつまた襲われ、レミナを奪われるかわからない。
それじゃあ、意味がない。それじゃあ、おんなじことの繰り返しだ。
それに、これ以上自分がレミナのお荷物になるなんて嫌だ。守られてばかりなんて、死んでもごめんだ。和馬には男の意地がある。
顔を上げた和馬の言葉には、触れれば火傷しそうなほどの熱が籠っていた。
「もう、アイツを離したくない。だから、俺は『力』がほしいんだ。見せかけだけじゃない、本当の力がっ!」
「ふ~ん、熱いねぇ。なんで、そこまで?」
「アイツが好きだから。アイツを、愛しているから。それじゃあ、理由にならないか?」
和馬の答えは明白だった。
だが、続く魔女の質問は、和馬のその自信を大きく揺るがした。
「坊や。邪眼て、知ってるかい」
「邪眼?」
「惑わしの眼、悪魔の目、忌むべき宝石。ほかにもいろんな呼び名があるが、要は、眼で相手に掛ける呪術だ。それで、吸血鬼ってやつはその邪眼を持ってる。その眼に囚われたものは、吸血鬼に隷属される」
「何が、言いたい」
自分でもわかるほど、和馬の声が強張った。
そう、それは魔術を調べる中で、和馬が目を逸らし続けてしまった、逸らさずにいられなかった現実。
魔女は口元に妖しい三日月を描き、鼻を鳴らして、和馬が目をそらしていた確信を突いた。
「だから、お前のその吸血鬼に対する恋慕も、奴らの邪眼に見せられたまやかしじゃないのか、と尋ねてるんだ」
楽しげに笑いながら放たれた魔女の言葉。
和馬はシーツを握りしめ、声を張り上げた。
「ふざっけんな!」
自分の声で耳を塞ぐように、和馬が吼え、握りしめたシーツを後ろへ押し出す。だが、鉛のように重い身体は魔女に届くことなく、そのままベッドから床へ倒れ込んだ。
「ぐっ」
ごつっと、顔面が床にぶつかり、嫌な音がする。でも、そんな痛みより、和馬の中で暴れる感情の炎の方が、ずっと熱く、痛かった。
低いうめき声を上げながら、和馬が目を血走らせ魔女を睨む。
「俺は、アイツを、レミナを本当に愛したんだ。レミナも、俺のことを愛してくれた。そんな、そんな邪眼なんて力、俺は受けてねぇ!」
「吸血鬼がお前を愛したという証拠はあるのか? 人の心なんて、わからないものだぞ。いや、吸血鬼は人じゃないか」
魔女が煙草を吸う。その紫煙を味わい、ゆっくりと吐き出した。
「なんで、受けてないと言えるんだ? ひとつ教えてやるが、邪眼の利点は、呪いを受けたものが呪いを受けたと感じないところにある。日常で目を合わせることは、対人関係の基本だからな。誰でも無意識にするもんだ。つまり、お前が邪眼をかけられていない保証なんて、どこにも……」
「俺自身が保証する。俺は、邪眼になんて掛かってないっ!」
和馬が片腕で身を持ち上げながら、魔女を睨みつける。強がりだってことはわかってる。でも、それが和馬自身の、和馬自身ができる、唯一の証明だ。
和馬の言葉に、魔女は思わず笑った。
「そんな、何の当てのない保証を信じろとでも」
「ああ、そうだ」
迷いのない回答だった。それは、おそらく魔女自身でなく、彼自身に向けられた言葉だったのかもしれない。口では虚勢を張るものの、魔女が射抜く和馬の目は、不安に揺れていた。
ダークブラウンの瞳と漆黒の瞳が空中で交わる。
不意に、魔女はふっと力を抜き、表情を和らげた。
「まぁ、いいさ。それは、その吸血鬼に会えばわかることだ」
「会えばわかるって……、じゃあっ!」
「あぁ。本当に面倒だが、面倒見てやるよ。お前の覚悟は見せてもらったしな。魔術師は、契約を決して裏切らない。と、その前に。身体、さっさとベッドに戻してもらおうか」
面倒と言いながら、何かを懐かしむように笑みを作り、魔女がコンッと音を立て、靴底で床を蹴る。
すると突然、木製の床から数本の枝が伸び始めた。一瞬にして柔らかな葉が生い茂り、そっと和馬の身体をベッドの上へと押し返す。
突然のことに、目を白黒させる和馬。
そんな和馬に、魔女は身をひるがえしながら、目を細めて笑った。
「何を驚いている? 魔術を学びに来たんだろ」
準備するから、もう少し寝てろ。と言い残し、魔女がドアノブに手をかける。
しかし、そこで魔女は思い出したように振り返ると、長い髪を払いながら、いやに勝気な表情を浮かべて、和馬に言った。
「そうだ、改めて私の名前を教えておこう。と言っても、偽名だがな。私の名は、シュティン・L・ミラ。まぁ、ここではマスターと呼べばいい」
再び振り返り、ミラがドアの向こうへと消える。
その背中を見送り、和馬は小さく拳を振り上げた。
「まってろよ、レミナ。俺が必ず」
突き上げた拳の中には、熱い決意が握られていた。