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第四章(11)

「……っ!」

 さまざまな感情が、言葉が和馬の中を駆け巡り、その思考を麻痺させる。

 困惑の中で弾けたのは、ミラの師匠、カラの言葉だった。

『その吸血鬼は、おそらく無事ではおるまい』

 吸血鬼を殺す方法。それは一年間、陽の下に晒すことだった。

 和馬が、周囲の壁に目を凝らす。そこには、何重にもルーンが刻まれていた。刻まれるルーンは二種類。この吹き抜けの天井からレミナを逃がさないようにするための結界。そして、もう一つは、陽の光を増幅させるためのルーンだ。

 ごくりと音を立てて和馬が唾を飲み込み、再び視線をレミナに戻す。

 ただそこだけ変わらない、レミナの紫紺の瞳。まるで、そこだけが時を超えているようだ。

 いったい、どれほど見つめ合っていたのだろうか。

 不意に、レミナが微笑んだ。とても悲しく、空虚な笑みで。

「ふふ、滑稽だろ」

 レミナが腕を持ち上げる。腕には骨に辛うじてしわくちゃの皮が付いているだけで、あの頃の瑞々しい肌は、もうない。

「醜悪。まさに、吸血鬼に、今の私にぴったりの言葉じゃないか」

 苦しげに言葉を紡ぐ唇は渇き切り、あの艶やかさは、もうない。

「もう、笑うしかないな。はは、あはははははははは」

 空虚な、乾いた笑い声が狭い部屋に木霊する。その声に、あの頃聞き惚れた音色は、もうない。

「あははははははははは、はは、あははは、あははははははははは」

 大口を開けて、ミラが声高らかに笑う。あの頃の尊厳に満ちた、そしてどこか処女のような初々しさを持った姿は、もうない。

 和馬が過ごした、あの頃のレミナは、もういない。

 でも、

 そんなこと、関係ない。

 和馬の左手は、まるで光に吸い寄せられる虫のようにレミナへと伸び、その身体をそっと抱き寄せた。

「っ!」

 レミナのガラスのように薄く脆い笑い声が止み、その身体がびくっと震える。 弱り切った身体は、冷たかった。抱きしめれば折れてしまいそうな、小さな背中。カサつき、乱れ、伸びきった髪。その細い体は、和馬を目にした時から震え続けていた。それを、レミナは必死に押し殺していただけだ。

 和馬の身体を押しのけようと、レミナが小枝のように細い腕で、和馬の胸を押す。でも、片腕とはいえ、和馬が抱きしめる力の方がずっと、ずっと強い。

 もう、離さない。

 和馬の左腕は、そう告げていた。

 絶対に、もう二度と、死ぬまで、死んでも。

「レミナ、一つだけ教えてくれ」

 深く皺が刻まれるレミナの耳に口を寄せ、和馬が囁く。

「レミナは、俺に邪眼をかけていたのか?」

 ぺちん

 部屋の中に、肌と肌が打ち合う、小さな音が響き……

「和馬っ!」

 レミナの怒号が、吹き抜けの天井を抜け、暗い闇夜に轟いた。

 和馬の頬を叩いたレミナが、先ほどのか弱さなど一切感じられない、鋭い視線で和馬を睨みつける。その双眸は、怒りに満ちていた。

「馬鹿なこと、いうなっ! 私は、私は和馬に邪眼なんて、使ってないっ! 私は、本気で、本気でお前をっ!」

「レミナ、今、怒ってるか?」

「当たり前だっ!」

「じゃあ、これでおあいこだな」

 和馬は頬を擦る手を再びレミナへ伸ばし、そっと抱き寄せて、その乾いた唇に自分の唇を重ねた。

「むぅっ……!?」

 レミナが目を見開き、全身を強張らせる。でも、その硬直は一瞬。すぐにその固さは取れ、全身が弛緩し、眼が細まり、和馬へとその身体を預けていた。

 長いキスが終わり、和馬がゆっくりと唇をレミナから離す。

 ぼぅっとした表情で言葉を失うレミナに、今度は和馬の方が口を尖らせ、レミナに言った。

「レミナ。俺は、すごく怒ってるんだぞ。なんでか、分かるか?」

「な、なふぃを?」

 ろれつの回らないレミナが、無垢な少女のように無防備に、和馬の方を向く。

 再び抱きしめたい衝動に駆られながらも、和馬はぐっと我慢し、厳しい口調で言った。

「あのとき、よくも俺を置いていきやがったな。あれは、本当に傷ついたぞ。んで、本当にムカついた。だから、俺はめっちゃくちゃ怒ってる。だから……」

 和馬は、レミナの額に自分の額を重ね、穏やかな笑みを浮かべて、続けた。

「これで、おあいこだ。いいな」

 レミナは自分に邪眼を使っていなかったこと、そして、あの時の悔しさを晴らせた和馬が、清々しい笑みでレミナに笑いかける。

 だが、レミナは浮かない顔で、和馬の方を見ようとはしなかった。

「本当に、それだけか?」

「レミナ?」

「本当に、もう怒っていないのか? 嘘、つくなよ」

「いや、だから俺は」

「私は、私はこんな姿になってしまったんだぞ……」

 その声は、悲痛に満ち、声を聞いた者の心を刺した。

 レミナが、和馬を睨みつける。その双眸は、確かにあの頃と変わらない。だが、

「この身体を見ろ、声を聞け。この顔を、この髪を、この手を、この足を……。もう、戻れない。あの頃の私は、もういない」

 レミナが、両手で胸を抱き、自分の身体を抱きしめる。吐き出す息には、嗚咽が混じっていた。

「なんで、なんでここまで来たんだ? 和馬。こんな姿、見られたくなかった。こんな、醜い姿、お前にだけは見られたくなかったのに。なんでっ!」

 苦しみや悲しみは叫びとなり、怒りは涙に変わる。まるで、子供のようにレミナは泣きじゃくり始めた。ひざを折り、両手で顔を覆い、声が枯れるのを厭わずレミナが泣く。

 そんなレミナを包み込んだのは、やはり和馬の暖かな腕だった。

「レミナ、顔を上げろよ。泣いてたら、綺麗な顔が台無しだぞ」

「だから、うそ、つくな。お前も、本当は思ってるんだろ。こんな醜い女なんて、助けに来なきゃよかったって」

「違う」

「違わない」

「違う」

「違わない」

「違う」

「違わないっ!」

 冷静に声をかける和馬に対し、レミナの声はどんどん大きくなる。おそらく、ただの言葉じゃ、いくら和馬が声をかけてもミラの耳には、心には届かないだろう。

 だから、和馬は話すのをやめた。説得するのをやめた。そんなうわべだけの言葉で、レミナを慰めるのをやめた。

 その代わりに、和馬はそっと、レミナの胸元に手を伸ばした。首から下がる銀の鎖。その鎖を指先でなぞりながら、和馬がその先端にあったネックレスを掴む。

 それは、逆十字のネックレス。あの日、和馬がレミナに送ったものだ。

「和馬、何を?」

「黙ってろ」

 レミナの声を優しくさえぎり、和馬が逆十字のネックレスを持ったまま人差し指を立て、ルーンを刻む。柔らかく、温かな光を放ちながら、丁寧にルーンが刻まれていく。そのルーンは、世界と和馬を繋ぐルーン。あの時のように、出来合いの契約じゃなく、魔術に則った、和馬が手にした力の結集。

 和馬に、迷いはなかった。

「黒木和馬が、ここに誓う。その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くす」

 レミナと和馬の間で刻まれたルーンが輝き出し、光と共に二人の中に染み込み、二人の魂を一つに繋ぐ。その命約を見守るのは世界の租。和馬は、世界の根源を前に、まっさらな心で、ほかの一切の念を抱かず、最後の祝詞を口にした。

「死が、二人を分かつまで」

 その一言で、何かが和馬とレミナの中に満ち、光が二人を包み込んだ。溢れる光は周囲の結界やルーンすらも巻き込み、一切の穢れや悪意を取り除く。エクソシストによって張られた結界や、和馬たちが感じられないエクソシストの精霊までもが、二人のことを祝福していた。

 その身に世界を感じながら、和馬はレミナに微笑んだ。

「約束するぞ。たとえ、お前がどんな姿になっても……、俺はお前を離さない」

「和馬……」

 レミナの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。その涙を、和馬が指先で拭った、その時。

 ぱちぱち

 小さな拍手が、部屋の中に木霊した。

「でもさ、死んだら離すんだよね。おにぃ~さん」

 その獣は、両手両足に光の輪を嵌め、燦々と輝く光の牙と爪を携え、和馬とレミナに笑いかけた。


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