第一章(1)
黒木和馬が目を覚ますと、そこは見慣れない天井だった。
また、大学のアトリエで居眠りでもしたのか、と鈍った思考で考えたが、一瞬遅れて蘇った記憶がその全てを打ち砕いた。
腕にロープを巻きつけた映像、血の止まった腕を切り飛ばした時の激痛が蘇る。胃がねじ切れるような痛みが走り、反射的に口を覆おうとする。だが、口を覆うはずの手が持ち上がらない。持ち上げようとした右腕の感触がない。
吐き気すら忘れ、感触のある左手で右の肩を触ってみる。
口元に歪んだ笑みが浮かんだ。
「あるわけ、ねぇよな」
そうだ、和馬の夢ともいえる右腕は、ほかでもない和馬が切り落としたのだ。
正直に言えば、後悔も、未練もある。できることなら、ほかの手を探したかった。
けど、生半可な覚悟では、彼女を助けられないことを知っていた。そして、自分には力がないことを、 あの時、レミナを奪われたあの夜、嫌というほど思い知らされた。
「起きたか」
不意に掛けられた声は、不思議と和馬の頭から余計な思考を排除した。。
声の方に目を向けてみる。そこには、和馬に「覚悟を見せてみろ」と言った、背高の女性、和馬が調べた限りでは、本物の魔術を扱える数少ない魔術師が、細い煙草を咥えながら立っていた。
口に咥えていた煙草を指先で挟み、その先端を和馬に向ける。
「感謝しろよ。この三日間、エイルが付きっきりで看病してたんだからな」
「エイル?」
煙草の指す方を目で追うと、和馬の太ももを枕に寝息を立てる子供の姿があった。まだまだ顔つきはあどけなくて、寝顔を見るだけで無意識のうちに微笑んでしまう。
「そうか、ありがとうな」
起さないように小声で礼を言いながら、和馬がエイルの柔らかな髪を撫ぜる。エイルはくすぐったそうに微笑むと、軽く身じろぎしながら、和馬に掛けてある毛布の裾をギュッと握った。
エイルの頭か手を離し、和馬が虚空の右腕を抱きしめる。何度触れようとしても、そこには何もない。もう、和馬は引き返せない。
和馬は、大きく息を吸うと、木製のドアに寄り掛かる魔女の方を向いた。
「頼む、俺に魔術を……」
「待て。まずは、お前の名前と、生年月日を教えてもらおうか」
和馬の勢いを即座に殺し、魔女が和馬に尋ねる。
魔女の言葉に、和馬はぐっと高まる思いを飲み込んだ。
「黒木和馬。19××年、9月1日」
魔女の質問のとおり、自分の名前と生まれ年を答える和馬。
そんな和馬に、魔女は「フッ」と小ばかにするように笑った。
「なんだよ」
思わずムッとした和馬が、口を尖らせる。
そんな和馬に、魔女は「そんなことじゃ、命がいくつあっても足りないぞ」と、皮肉ぽく笑いながら、手近にあった椅子を引き寄せ、ゆっくりと腰を下ろした。足を組むその姿は、まるで映画のポスターの様だ。
椅子に腰かけながら、魔女はどこか危険な匂いを漂わせながら、言った。
「坊や、魔術を習いに来たんなら、基礎ぐらいは覚えておけ。魔術師に名前を知られることは、今の自分を握られる。魔術師に生まれ年を生まれ年を知られることは、過去と未来を握られる。あとは髪の毛一本か爪の端さえあれば、私はいつでも坊やのことを、私の傀儡にすることもできるんだぞ。例えば、坊やが使ってる、その枕に残った髪の毛、とかでも、な」
妖しい笑みとともに、魔女がつい今まで和馬が使っていた枕を煙草で指す。
和馬に、ぞくっとした寒気が走る。と、同時に、自分がどうしてもこの魔女に魔術を教わらなければならないことを、改めて自覚した。
魔術の知識。それが、和馬には圧倒的になかった。
和馬が身体を捻り、残った左手をシーツに押し付け、続けて頭を魔女に向かって下げる。
「頼む、俺に魔術を教えてくれ」
懇願、そして沈黙。
魔女が再び煙草を咥える。煙草の先端の火が強く燃えた。
味わうように、考えるように、細く、長く、魔女が紫煙を吐き出す。
「レミナ」
魔女の口から洩れたその名前に、和馬の肩が俄かに反応した。
「お前が、この三日間中呼び続けていた名前だ」
推し量るように向けられる魔女の言葉。和馬の体の中で、熱い何かが暴れまわる。背筋に走るのは、奴らと、そして自分に対する怒り。体中がざわめく。知らず知らずに、開いた状態でシーツに押し付けていた左手が、クシャクシャになるほどシーツを握りしめていた。
「頼む」
暴れる感情をどうにか押さえて、和馬が絞り出せたのはその言葉だけだった。
そんな和馬に、魔女の表情がふっと和らいだ。
「まぁ、ともかくまずは事情を説明……いや、見せてもらうか」
魔女が椅子から立ち上がり、ベッドに歩み寄る。そして、その細い指先で和馬の顎を掴むと、ぐいっと無理やり自分の方を向かせた。
おもわずドキッとする魔女の秀麗に、和馬が息を飲む。同時に、和馬の黒眸が、魔女のダークブラウンの双眸に囚われる。
ふわっと和馬の鼻孔を、少し苦みのある香りがくすぐり……
和馬の意識は深い暗闇へと落ちた。