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第四章(1)

 霧の都、ロンドン。その中心地に聳える大時計台、ビック・ベンの双針が天上を仰ぐ頃、テムズ川に掛かる跳開橋、タワーブリッジの縁に三つの黒いローブが揺れていた。

 今宵は新月。世界は闇。とはいえ、イルミネーションにより煌々と照らされたタワーブリッジは、月の光を必要としないほど明るかった。

 風が吹く。ローブが靡き、そのフードを剥ぎ取る。

 黒いフードの下から現れたのは、ミラ、エイル、そして和馬だ。

「さてと、そろそろ頃合いだな。準備はいいか?」

「ああ」

 ミラの言葉に、ロンドンの生暖かい風を頬に受けながら、和馬が頷く。

 そして、肩に掛かる重みを確かめるように、左手に握ったロープを引っ張った。

 和馬は、その背に四角い板のようなものを背負っていた。

 まっすぐな瞳でビッグベンを射抜く和馬に、ミラが今更ながら呆れたように呟く。

「しかし、本当に行くのか? 私が言うのもなんだが、今ならまだ引き返せる。それに、今のお前の画力なら、この町で、いや世界のどこへ行っても食べていけるぞ。賞賛の光の下で生きていける。わざわざ、日陰者にならなくて……」

 ミラが、唐突にその言葉を切る。

 和馬は微笑んでいた。それは、とても安らぎに満ちた、健やかな笑みだ。

 微笑んだまま、和馬は言った。

「マスター。例をまだ言ってなかったよな。ありがとう」

「ふっ……愚問だったようだな」

 ミラが鼻を鳴らして笑う。そうだ、今更何を疑問に思うことがある。

 煙草に火を付けながら、ミラは地上の光に負けまいと、暗闇の夜空に光点を穿つ星々を見上げて、紫煙を吐き出す。

 そんなミラに、今度は和馬が少し影の差した表情を浮かべて、訊いた。

「俺より、マスターはどうなんだ。エイルも。ここからは、俺の戦いだ。せっかく、エクソシストや魔女狩りの奴らから隠れてきたんだろ。それに、マスターの師匠も」

「私の師匠のことなら気にするな。つーか、私たちより楽しんでいたのが分かるだろう」

「まぁ、確かに……」

 和馬は、自分やミラよりも先に敵の本拠地、ロンドンの象徴の一つ、エクソシストたちの本拠地ビッグベンに忍び込んだミラのマスターのことを思い出し、苦笑いを浮かべる。

 類は友を呼ぶというか、和馬は自分自身が変人であることを理解している。そして、ミラも疑うことなく変人だが、ミラのマスターはその斜め上を行く変人だった。

「あの趣味は、なんとかならねぇのか」

「そうか、似合っていたぞ。和馬のメイド服」

「やめろ、それは封印した過去だ。思い出さすな!」

 和馬が頭を抱えて首を横に振る。

 蘇りかかった記憶の残滓を振りほどくと、目の前でミラが微笑んでいた。ただ、その瞳は真剣で……

「見届けてやるよ。行って来い、わが弟子よ」

 その言葉も、真剣そのものだった。

「マスター……」

 なんと返していいかわからず、和馬が言葉に詰まる。

 その時、和馬のローブの裾を小さな手が引っ張った。

「エイル」

「和馬、エイルも手伝うよ。でね、約束だよ。和馬の恋人の吸血鬼さん、エイルにもちゃんと紹介してね」

「ああ、……約束するよ」

 和馬が強く頷きながら、エイルの頭を撫でる。

 エイルは猫のように目を細めると、和馬の手に身を任せて微笑んだ。

 その時、ミラが突然声色を固くした。

「そうだ、和馬。師匠の言葉、覚えてるだろうな」

「ん、ああ。……わかってる」

 ミラの言葉に、和馬が重々しく頷く。

 これから先、そして、レミナに出会ったとき。和馬がどうするか……。

 不安と、焦燥が入り混じる。

 だが、和馬はそんな自分の心に差した影に、そっと蓋をした。

 和馬が、静かに目を閉じる。自分と音、匂い、風、空気、水、大地、色、空、人の営み……。和馬の中に、より鮮明に、普段は見過ごしそうな世界のささやかな粒子が流れ込む。

 ゆっくりと息を吸い、細く長く吐き出す。

 見開かれた双眸に、もう、迷いはなかった。

「行こう」

 和馬の決意はテムズ川に吹いた風に乗り、暗いロンドンの町中へと溶けた。


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