第三章(6)
夜の帳の下、小屋の中、床の上。
和馬とエイルは、ミラの前に正座していた。
ミラの怒鳴り声を聞いた瞬間、和馬と、和馬と一緒に寝ていたミラはすべてを理解した。
早く帰ってきてほしいとは思っていたが、何も今日帰ってこなくてもと思わずにはいられない。
ちらりと、和馬が視線を持ち上げる
そこには、ただならない雰囲気を身に纏ったミラが、和馬の絵の前で両手を組み、見たこともない厳しい形相を浮かべていた。
和馬の隣では、エイルが小さな体をさらにちぢこませている。他の精霊たちは、遠巻きにその姿を見守っていた。
沈黙に耐え切れず、エイルが怯え気味に口を開く。
「あ、あのマスター。和馬を、和馬を怒らな……」
「エイルっ! お前は黙ってろっ!」
睨みと共に鋭い言葉を浴び、エイルが「ひいっ」と声を上げて、びくんと小さな体を弾ませる。
さながら処刑の前のような雰囲気に、さしもの和馬も怯えずにはいられなかった。
ドクンドクンドクンと、異様に鼓動が加速する。ミラは尊大な態度で和馬を弄ぶことはあっても、基本的に怒ることはない。そんなミラが、今まで見せたことのない厳しい目で、和馬を睨みつけている。
破門。そんな絶望が和馬の脳裏を掠めたとき、ようやくミラが口を開いた。
「和馬。お前、自分が何をしたかわかっているのか?」
一言一言がまるで研ぎ澄まされたナイフのように、和馬に突き刺さる。
「お前は、とんでもないことをしでかしたんだぞ」
そうだ、和馬はとんでもないことをした。ミラが怒るのも無理はないだろう。
決定的な約束はしていなくても、和馬は夢と引き換えにミラに魔術の指導を頼んだ。絵を描いたことは、そんなミラへの裏切りになるのではないか。
もっと、よく考えるべきだった。とはいえ、今となってはもう遅い。
ミラの燃えるように熱い視線が、和馬の双眸を射抜く。
「おい、何とか言ってみろ」
吐き出す言葉は、依然ミラが和馬に見せた、魔術で生み出した業火より熱い。
もはや、和馬が取れる手段は一つしかなかった。
和馬は、残された片腕を床に突き立て、大きく頭を下げた。
「マスター、悪い。俺が、悪かった。許してくれ! なんでも罰は受ける!」
「ああん? おい、何を……」
「マスター。エイルからもお願い。エイルが和馬に頼んだの。絵を描いてって。だから、和馬を怒らないで。悪いのはエイルなの。マスター!」
「な、エイル?」
エイルが立ち上がり、ミラに縋り付く。
ミラの顔に困惑が浮かんだ。
「マスター。ごめん。エイル、悪い子だね。でも、和馬は悪くないの。だから、だから」
「エイル。やめろ。全部、俺が悪いんだ」
「和馬は悪くないよ。エイルが、エイルが……」
エイルの瞳に涙が浮かび、ポロリと零れ落ちる。
その様子を見て、ますます困惑したミラは、普段は見せないようなあたふたとした動きを見せ、エイルと和馬に目を向けた。
「おい、ちょっと待て。お前たち、いったい何を勘違いしているんだ?」
「「え?」」
ミラの言葉に、和馬とエイルが首を傾げる。
「マスター、怒ってないの?」
「怒る? 私が? なんでだ?」
エイルの言葉に、今度はミラが首を傾げる。
どうにも話が噛み合っていない。
沈黙の後、ようやく和馬が口を開いた。
「え、でも。だって。さっき、マスター、ものすごい大声で、俺とミラを呼んだだろ。だから、てっきり絵のことで怒ったのかと……」
和馬の言葉に、エイルが「そうそう」と首を縦に振る。
すると、ミラがいやに疲れた表情を浮かべた顔を手で覆いながら、「ああ、そういうことか」と口を開いた。
「あのなぁ、私は確かに覚悟を見せろと言ったが、絵を描くことまで束縛した覚えはないぞ。そこまで私も鬼じゃない」
「え、じゃあ。なんでマスターは怒ってんだ」
「だから、怒っていないと言ってるだろ。まぁ、確かに大声は上げたが、こんなものを見せられれば、仕方ないだろう」
私のせいじゃないぞ、となぜか恥ずかしげにそっぽを向いたかと思うと、すぐにミラはいつもの調子を取り戻し、そして異様に熱の籠った声で言った。
「そんなことよりも、だ。おい、和馬。お前、自分がどれほどのことをしたかわかっているのか?」
「だから、それがわかんねぇんだっ……」
話の流れが掴めず、少し苛立ちだった和馬の目の前に、ミラが不意に何かを押し付ける。
それは、灰色の美しい花と花瓶だった。
でも、自然界にこんな色の花があるのか? 花弁も、葉も、茎も、根さえも灰色なんて……。しかも、その花と花瓶は紛れもなく、和馬が題材にし、和馬が絵に描いたソレだった。
そこまで考えた、そのとき。和馬は頭が殴られるような衝撃を受けた。
いや、現に和馬の頭は、ミラの手によって思いっきり叩かれていた。
「ったぁ! 何すんだよ、マスター」
「うるさい。ただの嫉妬だ。ありがたく受け取れ」
「いや、意味わかんねぇし。頼むから、一つ一つ説明してくれよ」
和馬の言葉に、ミラは「すまん、取り乱した」と素直に謝ると、エイルに水を持ってくるように頼んだ。
エイルの持ってきたコップを受け取り、ミラが水をその口に含む。
そして、ようやく少し落ち着きを取り戻しながら、ミラはその細い指先を、机の上に置かれた灰色の花と花瓶に向けた。
「和馬。それがなんだか、分かるか?」
「灰色の花と花瓶だろ。でも、なんで俺が描いた絵や、モデルの花瓶と一緒なんだ?」
「そこだよ」
和馬の言葉に、ミラは再び湧き上がる興奮を抑えるように、低い声で頷いた。
「さっき、私はその絵を見て、絵のイメージに囚われた。そして、気が付いた時には、手の中にその花と花瓶が握られていた。これが、どういうことかわかるか?」
「えっと、もしかして。俺の描いた絵が具現化した、とか?」
和馬は反笑気味に答えた。そんな都合のいい話し、あるはずがない。当然、ミラには鼻で笑われて一蹴されるはず。
だが、和馬の思いとはまるで逆の反応を、ミラは示した。
「ああ、その通りだ」
「……マジで?」
「ああ、大マジだ」
「いやいやいやいやいや。なんでだよ、俺は、ただ絵を描いただけだぞ」
「ああそうだ。お前は絵を描いただけだ。くそ、知らないうちに世界とわけのわからん契約をしたり、お前はどれだけ奇跡を起こせば気が済むんだ」
半ば苛立ちながら、ミラが新しい煙草の箱の封を切り、煙草に火を付ける。
そして、ゆっくりと紫煙を吐き出すと、自分の中の考えを整理するように話し始めた。
「おそらく、お前の中で培われた魔術と芸術の複合した何かの産物なんだろよ、この絵は。これはあくまで私の分析だが、この絵は見たものの心を捉え、絵に魅入られたもののイメージを世界の起源から摘出して具現化しているんだ。イメージの具象化。ふっ、こんなもの、へたすれば魔法使いの領域だぞ。私ですら、こんなことはできん」
冷静だった言葉が、次第に熱を帯びる。
その言葉を受け、和馬の中には燃え上がる熱と、感情の大きな波、そして困惑の渦が押し寄せた。
「じゃ、じゃあ。俺にも魔術が仕えたってことか。」
「これを魔術というかは悩むところだがな。こんな魔術、見たことも聞いたこともない」
「で、でも。俺は精霊と契約できてないぞ……」
「そう、肝心なのはそこだ。考えられる可能性は二つある。一つは、この絵に魅入られた者の精霊が、和馬の精霊の代わりとなり魔術を発動させたという説。そして、もう一つは……」
ミラは、視線をサラマンダーたち、そしてエイルに流して続けた。
「和馬お前自身が精霊と同階級にいるという説だ」
「俺が……精霊。おいおい、俺は人間だぞ。れっきとした」
「ああ、わかってる。だから、同じ『階級』っていただろ。前に話したな、お前は世界と契約を結んだ。世界を敵に回しても、吸血鬼を愛し続けると。その対価として、お前は精霊と契約できなくなった。だが、対価を支払ったのなら、効果を受け取らなければ吊り合わない。等価交換、魔術における基本思想の一つだ。費用対効果は、拮抗でなければならない。そうでなければ、世界の節理にヒビが入る。和馬が契約した存在が世界なら、なおのこと世界が自分を傷つけるとは考えにくい」
「じゃ、じゃあ。その効果っていうのはなんなんだ」
「そこだ! ここで注目したいのが、和馬の『愛し続ける』という言葉だ。だが、吸血鬼と人間の階層は違う。もし、和馬が吸血鬼を人間と同様に愛するならば、そこに歪が生まれる。だから、世界は。お前を吸血鬼と同じ階層に押し上げたんだよ。精霊と、同じ階層にな。つまり、お前は精霊なくして魔術が扱える、ある意味魔法使いクラスの反則技を手に入れたんだよ。たく、こんなこと。裏の法王達が知れば、眼の色を変えてやってくるだろうな。もちろん、大金と共に」
ミラが煙草の灰を、灰皿に落とす。
魔法使いクラスの力、金。魅力的な単語が次々に出てきたが、そんなものよりも、和馬は確かめたいことがあった。
「つまり、俺はミラを助けられる力を手に入れたってことか?」
和馬の質問に、ミラは悔しさを織り交ぜながらも、ニィッと満足そうな顔で微笑んだ。
「ああ、それも。ある意味伝説級の力をな」
その言葉に、和馬は自分の血液が沸騰するのを感じた。
ようやく、手に入れた力。それは、レミナを助けるには十分すぎるほどの力だった。
今すぐ、この場を飛び出した。
そんな衝動に駆られた和馬を押し留めたのは、ミラの厳しい言葉だった。
「だが、この力。体験した私にすれば、ひどく不安定なものだと言わざるえないな」
「え、どういうことだよ?」
和馬の熱がサッと引き、同時に首筋に不安を含んだ冷気が走る。
ミラは、灰色の花と花瓶を持ち上げ、その感触を確かめるように言った。
「今、これが具象化できたのは。私に、この花瓶を具象化するだけの魔力と創造力があったからだ。つまり、力のない物がこの絵を見ても、絵に囚われることはあっても、具象化するまでには至らない。それが、私の素直な感想だ。つまりこの絵、魔術は、その相手によって効力がだいぶ左右される。つまり、使い方次第で宝石にも石ころにもなる」
ミラの言葉は厳しかった。そしてそれは、舞い上がる弟子へとの忠告と優しさでもあった。
和馬が浮つく心を落ち着かせ、ミラの言葉に重々しく頷く。
ミラは視線を絵に流すと、灰色の花と花瓶を、瑞々しい色の花を咲かせる、元の花瓶の傍に置いた。
「まずは、この力について知れ。どの程度の力の者が、具象化にたどり着くか。たどり着かないものは、どんなふうに絵に囚われるのか。効力を上げたいなら必要な『ルーン文字』を書き加えねばならないだろう。さらに、『媒体』だ。和馬、お前はキャンバスに使った布だが、これは魔術師やエクソシストどもが、その法衣や装束を縫う時使う特殊なものだ。まぁ、この布を選んだところは、さすがと言っておいてやる。他にも、絵を描く上で必要なものがないか探せ」
そこでいったん言葉を切り、ミラは和馬の双眸をまっすぐに射抜きながら、続けた。
「和馬。お前は、私を超える魔術師になる。お前の創造で、私の想像を超えてみろ」
ミラは、自分の魔術の才能に絶対の自信を持っている。
そんなミラが今言った言葉の重み、それミラの下で魔術を学んだ和馬には痛いほどよくわかった。
和馬が頷く。
道は、開けた。
そんな和馬に、ミラはどこか嬉しげに微笑みながらも、苦い表情を浮かべて言った。
「やる気が出てきたようだな。じゃあ、そろそろ、バッドニュースの時間だぞ」
「バッド、ニュース?」
「ああ、そうだ。落ち着いてよく聞けよ」
ミラの言葉に、場の空気が一気に引き締まる。
「お前の恋人。吸血鬼は、あと4か月後に処刑される」
ミラの声をかき消すかのように、遠くで雷鳴が轟いた。
いつの間にか、山間の空はどんよりとした鉛色の雲が覆い尽くしていた。
「え……」
言葉の意味を理解するのを拒否するように、和馬の思考が停止する。
だが、タイムリミットという危機的情報は、和馬の脳細胞を否応なしに叩き起こした。
「ちょ、ちょいっと待ってくれよ。処刑ってなんで?」
「そんなに驚くことじゃないだろう。考えてみろ。奴らエクソシストの目的は、魔を滅することだ。ならば、吸血鬼を捉えたのなら、やることは決まっているだろ」
「で、でも。なんで、4か月後なんだよ?」
そうだ。あまり想像したくないが、初めから殺すつもりなら、連れて帰った時点でやればいい。わざわざ、タイムリミットを作る理由が分からない。
和馬の疑問に、ミラは煙草を灰皿に押し付けながら、答えた。
「吸血鬼、しかもお前の恋人はおそらく真祖だ。真祖の吸血鬼っていうのは、私たちの常識の中じゃ、トップクラスの存在なんだよ。いわば、神クラスの一歩手前だ。いくら、エクソシストとはいえ、そう簡単に滅せられるしろもんじゃない。人間みたいに、心臓を突いて終わり、なんてもんじゃないんだ。それ相応の、準備がいる。それが整うまで、あと4か月というわけだ」
ミラが新しい煙草に火を付ける。
和馬は、自分の絵の腕や、創作に掛かる時間を逆算した。
「時間、やべぇじゃねぇか。油絵なら、絵の具が乾くまで続きは描けない。それに、急いで描いたら、それだけ絵は劣化しちまう」
「ああ、そうだな。だが……」
ミラが新しい煙草を咥える。その眼は、強い自信と、信頼の光を放っていた。
「やるしかないぞ。それとも、まさか怖気づいたか。私に魔術を乞うたときの、腕を切り落とした時の気概はどこへ行った」
一度言葉を切り、ミラは笑った。
「私のかわいい弟子よ。私を失望させてくれるなよ」
優しく、ミラが微笑む。それは、和馬がミラから受けた笑みの中で、一番温かな笑みだった。
和馬の身体に、かつてない熱が籠った。
「やってやるよ!」
天下無二の魔術画家、黒木和馬の誕生だった。




