第三章(4)
「んじゃ、そうと決まれば準備するか」
力強く立ち上がった和馬は、さっそく絵を描く準備に取り掛かった。本当は、隠しやすくてすぐに描けるスケッチブックでもよかったが、久しぶりに描く上、せっかくエイルがお膳立てしてくれたんだ。和馬は、しっかりとキャンバスに絵を描く姿を見せてやることにした。
和馬は、画材を探しに小屋にある倉庫へと向かった。扉を開けると、ムワッとしたカビと誇りの匂いが鼻を突く。いろんな骨董品やら、魔術道具やら、いわくつきの魔法書やらが所狭しと置いてあるミラの倉庫とはいえ、さすがにキャンバスや絵の具は置いてなかった。筆ぐらいはあればうれしかったが、ない物は仕方ない。
「しゃあねぇ、作るかぁ」
和馬はもう一度倉庫の中で使えそうなものがないか探し始めた。木材数本と、白い布、そして簡単な大工道具を取り出し、エイルの手を借りてリビングへと運ぶ。
「さてと、じゃあキャンバス作っちまうか。エイル、お手伝い頼むな」
「うん、エイル。頑張るよ」
両手を上げて、エイルが嬉しそうに微笑む。周りでは、精霊たちがにこにこと二人を見守っていた。
骨休めも、……いいかな。
キリキリと張り続けていた緊張を、和馬はようやく少し解くことができた。だから、この絵は精一杯描こう。和馬は、ぐっと残された左手に力を込めた。
題材に応じて、和馬は昔からキャンバスを何度か手作りしたことがある。持ってきた木材で木枠を作り、画布代わりの白い布を、緩まないようにエイルの手を借りてピンと張る。ものの三十分ほどで、新聞半紙ほどキャンバスが出来上がった。
「さ、て、と。じゃあ、次は題材だな。何かいてほしい? エイル」
「え? えっと、え~っと……」
エイルが何かいい物はないかと、リビングの中をキョロキョロと見渡す。
「そんなに悩むなら、エイルを描いてやろうか?」
「え……。え? ええっ!」
エイルの顔が、面白いくらいに真っ赤になった。
「だめだめだめだめだめ、そんなの恥ずかしいよ」
「そんなに慌てることないだろ。結構得意だそ、人物画は」
「だめぇー。得意でも、だめぇーっ! ほ、ほら。それだと、エイルが和馬の書いてるところ見れないから。だから、だからダメなの!」
「わかった、わかった」
あまりにも必死で「いやいや」と首を振るエイルに、和馬が「んじゃ、今度な」と意地悪げに微笑みかける。
「むぅ~」っと頬を膨らませたエイルは、「和馬の馬鹿」と口を尖らせると、画材を探すのをやめてそっぽを向いてしまった。
「おっと。悪い悪い。そんなに拗ねるなって。んじゃ~、お詫びに……題材はアレにするか」
そういうと、和馬は窓辺に置かれた花瓶を手に取った。淡い水色と黄色のガラス花瓶に、色とりどりの花が添えられている。エイルが毎日水を替え、大切に育てている花だ。
花瓶を持ち上げると、花のフワッと甘い香りと、草の緑の香りが和馬の鼻孔をくすぐった。
コトンと、優しく和馬が花瓶をテーブルに置き、少し離れたところに椅子を据える。その椅子の前に、キャンバスを立て掛けるため、エイルが使っている少し高い椅子を置き、和馬は出来たてのキャンバスを椅子にセットした。
「えっとあとは。うん。エイル、キッチン行ってパン持ってきてくれ」
「パン? もう、お昼にするの?」
「違う違う。木炭デッサンにしようと思うから、練り消しにするんだよ」
「わかった~」
トタトタと、楽しげな足取りでエイルがキッチンへ駆けていく。その間に、和馬は暖炉へ向かい、適当な炭を取り出して灰入れのバケツに入れ、キャンバスの隣に準備した。そこへ丁度エイルがパンを入れたバスケットを抱え戻ってくる。
「いやいや、そんなにいらないって」
苦笑しながら、食パン一切れをキャンバスを据えた椅子に置き、和馬が椅子に腰を下ろす。
「ちょっと、エイル。悪いけど、手ぬぐい頭に巻くの手伝ってくれるか?」
「いいよ、貸して」
手ぬぐいを受け取ったエイルが、前髪を持ち上げながら、髪全体を覆うように和馬の頭の後ろで手ぬぐいを縛る。絵を描くときに手ぬぐいやタオルを頭に巻くのが、和馬のスタイルだ。
「サンキュー」
和馬が礼を言うと、エイルは恥ずかしそうにハニカミながら、近くにあった椅子を引き寄せ、ちょこんと腰を下ろした。
その膝に精霊たちを乗せ、エイルが期待に満ちた目を和馬に注ぐ。
エイルの視線を受けながら、和馬は浅く長く息を吐くと、軽く目を閉じて集中した。
残された左手を軽く握る。
本当に、いつ振りだろう。この感覚は……
画材、キャンバス、その向こうに被写体。当たり前だったこと、当たり前だったものが、本当に久しぶりで。心と体に何かが満ちていくのが分かる。
「やるか……」
短い開始の言葉と共に、真剣なまなざしでキャンバスと花瓶を見つめた和馬が、木炭をその指先に掴んだ。
指先で木片を弄びながら、和馬がじっと花瓶を見つめる。見つめながら、全体の構成を、花瓶と花が放つ雰囲気を、キャンバスに書き表すイメージを高める。
花瓶を見つめること、約五分。
ようやく、木炭の先がキャンバスに黒を彩った。
鉛筆で書くデッサンはクロスハッチングという手法を使い、線を重ねて濃淡を書き表すのに比べ、木炭のデッサンは塗りの手法で濃淡を表現し絵を面で描く。そして、木炭で描く濃淡は、鉛筆のそれよりもずっと幅が広い。
描きたい面の幅、濃淡に合うよう、木炭を指先で回転させながら、和馬の左手はよどみなく動き、真っ白な布地の上に、花を、花瓶を、光を、影をかき上げていく。
花は、花弁の一枚一枚、その弁の根元と先の濃淡まで。葉は、その葉脈の一本一本まで。花瓶は、その透き通る透明感まで。黒と、灰色と、布地の白。たった、それだけの色が、キャンバスという白い大地に、瑞々しい花を咲かせていく。
描いていくうちに、和馬の表情は自然と変わっていった。
胸が、眼が、腕が、手が、身体が、心が……熱い。
今まで、絵を描くのには使ってこなかった左手が、初めて描く絵。それは、和馬が今まで右腕で書いていたどんな絵よりも、生き生きとしていた。
左手を動かすのは、右脳。今まで眠っていた感覚脳が、これまでにない世界を描いていく。ただ、この絵を際立たせるのは、それだけじゃない。
ミラの元で学んだ魔術の基礎。世界と自分の繋がりを知ったからこそ分かる、世界を映す自然の生命力、美しさが、和馬の中にイメージとして流れ込んでくる。
和馬の唇は、自然と恍惚とした笑みを浮かべていた。そして、その眼からは、知らず知らずのうちに涙が零れていた。
絵を描くことで思い出した自分の夢。そして、
自分と同じく、絵を描くことの楽しさを知った吸血鬼のことを。
ミラが、和馬の元で初めて書いたのも木炭デッサンだった。あの日は、二人で夜通し朝まで、いろんな被写体を描き続けた。
絵が、離れた心を、記憶を、夢を繋いでくれる。
和馬は、無心に絵を描き続けた。
普段なら、1時間ほどで描き上げるだろうデッサンが完成したのは、もう太陽が山の向こうに隠れ、濃紫の世界が訪れた頃だった。
「ふぅ……」
熱い、火傷しそうなほど熱い溜息と共に、和馬の左腕の動きは止まった。
「和馬」
「うおっ! エイル?」
エイルに呼び掛けられ、和馬が思いっきり驚く。熱中しすぎて、エイルたちが見ていることを完全に忘れていた。
「和馬、絵、見ていい?」
さすがに待ち疲れたのか、ちょっと眠そうに尋ねるエイルに、和馬は炭で真っ黒になった手で苦笑を浮かべた頬を掻くと、自分の座る椅子を絵の前からずらした。
「悪いな。待たせちまって。どうだ?」
和馬が完成した絵をエイルに見せる。
途端、エイルの眠たげだった瞼が、大きく見開かれた。
「ぅぁ……」
感嘆の声が、エイルの口から零れ落ちる。
和馬の描いた絵は、一瞬にしてエイルを虜にした。
絶妙な濃淡で描き移された花と花瓶。花はその一本一本が生き生きとし、花弁の一枚一枚は、実際に元となった花のどの花弁なのか分かるほどだ。7分目まで水を入れた花瓶は、その青と黄色の透明感まで、炭の濃淡ひとつで表現されている。
あまりに立体感がありすぎて、手を伸ばせばそこに花瓶があるようだった。
「すご……い。和馬、すごいよ! 和馬、天才だよ」
「そんな褒めるなよ。これでも、アカデミーじゃ一回も賞を取れない落第生だったんだぞ」
そうは言うものの、和馬自身、絵の完成度には驚いていた。おそらく、いや、絶対にこの絵は和馬が今までに描き上げてきた絵の中で、最高傑作と言える出来栄えだった。この絵なら、和馬がうらやむミラの絵にだって負けない。
そう断言できるほど、和馬の絵には見たものを惹きこむ何かがあった。
和馬が、煤だらけになった左手を握る。
ただ、この手が掴みたいのは、煤じゃない。
絵を描き上げてから、沸き上がり続ける衝動。
レミナにこの絵を見せたい。
レミナは、この絵を褒めてくれるだろうか。それとも、「まだまだだ」と叱咤激励をくれるだろうか。
いや、どっちでも構わない。
ただ、レミナと共に、喜びを、楽しみを分かち合いたい。
和馬の瞳に、再び熱い炎を帯びる。
今まで使ってきた右手を失っても、これほどの絵が描けるのだ。精霊と契約ができなくても、絶対に何か手はあるはず。
和馬の瞳からは、すでに絶望は消えていた。
「和馬、これマスターに見せようよ」
「いやいや、ソレは止めとこうぜ。怒られるのは、エイルも嫌だろ」
「マスターなら、褒めてくれると思うんだけどな……」
残念そうに小首を傾げるエイルに、和馬は苦笑を漏らしながら「さっ、飯にするぞ。腹ペコだ」と言って、二人で夕食の準備に取り掛かる。
ただ、和馬は一つだけミスを犯していた。あまりに集中力を使いすぎて、絵を片付けるのをすっかり忘れ、夕食を食べてすぐ、泥のような眠りに着いてしまった。




