第五章 我、黒イ薔薇ノ君哉。03
「我、人にして人にあらず。時の狭間を切り裂いて、来たれ来たれ狐の王よ」
お決まりの文句。お決まりの登場。真っ白の狐を見ながら、私はニッコリ笑って傅いた。
「覚悟が決まったか」
「ええ。今日は教えて欲しいことがあって」
「心得ておる」
そう言うと再び無理矢理便器から手を出して私の方へ伸ばす。私の肩口をつかむと、あっという間にトイレの中に引きずり込んだ。
「いたたた……あれ、濡れてない……ていうかここどこ?」
「時の狭間である」
「はぁ!? バカ!? あんたここは時の流れが違うと言ったわね? 何も分かってないじゃない!!」
私は効率の良い訓練方法が知りたかったのであって、無駄に時間が過ぎるようなことは望んでいない。このバカはそんなことも理解していないのか。なのに知ったかぶりをして私をこんなところへ――。
「時の流れが違うということは、好きなだけ訓練してから元の位置に戻ることが可能と言うことである」
「ごめんなさい、お狐様」
ははぁー……と土下座。しかし狐はへそを曲げてしまったようで、ツンとよそを向いて腕組みをしてしまった。
こうなったら最終兵器だ。
この国にはクミルという大豆に非常によく似た豆がある。私はわざわざそれで豆腐もどきを作り、そこからさらにアゲを作っていた。私には珍しく貢物というわけだ。
「お狐様ぁ……これでどうですかねぇ?」
馴れ馴れしく肩を抱けば、嫌そうな顔をしつつも一応私の方を見る。そして手に持っている物を見た瞬間、耳と鼻がピクリと動いた。
「……我の訓練は辛いものとなるであろう」
大勝利。
アゲに目を奪われて涎を垂らしたまま、狐は偉そうにふんぞり返った。
――その日の昼。私がトイレに吸い込まれてから一刻ほど。私は汗でびっしょりのぐったりでトイレにうずくまっていた。
「あ、あ……あの……あの狐ぇ……!」
辛いなんてもんじゃない。死にたいと思った。思わず「やっぱやーめた」って言いたくなるほどだ。訓練と称されたいびりと言っても過言ではない。
あの暗い空間にポッと出てきたのは、私の家族だったのだ。
「……はぁっ……はあ……」
肩で息をしながら、唇をかみしめる。
突然現れた家族は、にこにこ笑って私を見ていた。それがすぐに狐の出した幻影だと気付いたが、あまりの衝撃に思わず生唾を飲んで立ちつくしてしまった程だ。
家族はひたすら私に甘い言葉をささやき続ける。私の意識が持って行かれそうになる度、狐のきつい打撃が待っている。
久しぶりに会った家族は、幻影だというのに本物そっくりで泣きそうになった。というか、泣いた。簡単に言うと、物凄くホームシックになってしまったのだ。
辛い、帰りたい、恨めしい……そんな感情が思い浮かぶ度に、体中に張り巡らされた棘が私をしめつける。
結局のところ、今日は狐ストップが入った。これ以上やっても意味がないと。私は無駄に傷つけられて、泣きながら戻ってきたことになる。
「……っ……悔しい……」
グスグスと情けなくも鼻水を垂らしながら、私はトイレの中で声を押し殺しながらひたすら無く。
のろのろと起き上がって風呂場に移動し、ドレスを脱いで窓を開ける。爽やかな風が入り込んできて、汗でぬれた体を覚ましてくれた。
ドレスを窓辺で干しながら、冷たい水を頭からかぶってため息を吐く。あのドレスは洗濯して貰わないと駄目だろう。次からは、ジャージみたいな服で向こうに行くのが良いかもしれない。
「グスッ……悔しい……」
私は目の赤みが引くまで、ずっと水を浴び続けた。
――数日後。
私は相変わらずトイレから時の狭間に行き、こっそりと訓練を続けている。ミリアはそれになんとなく気付いているようで、毎回目を真っ赤にしながらトイレから出てくる私に気付きながらも、何も言わないでいてくれた。
でも恐らくルイとかにはその話が伝わってくるのだろう。面白いことに、なにやら貢物が増えた。この間なんか、立派な剣が送られてきたのだ。どこの世界に剣をプレゼントされて喜ぶ女がいようか。
「ご馳走様」
「スミレ様……」
「なに?」
「あの、もうお食事はお済でしょうか……?」
「……そう言ったはずだけど?」
何が言いたいのかは分かる。運動量に比べ、どんどん落ちていく食欲。意外と弱いことが分かった私の心は狐の訓練が辛すぎて食欲が落ちていた。でもやめるわけにはいかない。今、放り出すわけにはいかないのだ。
「スミレ様。トイレに入る度に目を赤くして出てこられることは陛下もご存じです」
「…………」
「聞きました。戦争に行かなければいけないのだと。もしお辛いのであれば、きっと陛下は――」
「違うの」
ああ、この優しいメイドは勘違いをしている。
きっと私が、戦争にいくとは言ったものの、怖くなってしまったのだと思っているのだ。
「強くなりたくて、頑張っている最中なの。心配をかけてごめんなさいね。でも、私はまだ大丈夫よ」
そう言って笑えば、余計につらそうな表情を浮かべる。
私なんかより遥かに泣きそうな顔をして、震える声で私の名前を呼ぶのだ。
「ミリア、貴女が私付きのメイドで本当に良かった。貴女がいなかったら、私はとっくにこの世から消えていたわ」
「スミレ様……」
とうとう我慢できなくなったらしいミリアは、嗚咽を漏らしながら顔を覆う。
それをそっと抱きしめて、私は何度もお礼を言った。
――その日の夜。
珍しい客が来たのは、私がもう寝ようかとしている頃だった。
「…………」
もう寝る間際であったのだろう、ラフな格好をしたルイが、顔をしかめながら偉そうな態度で突っ立っている。
「……あのね。念の為言っておくけど、私、もうすぐ寝ようとしていたの」
「見れば分かる」
「……そう」
それっきり、なにも話さない。
お互いに見つめ合ったまま、視線をそらしたら負けだと言わんばかりに睨みあっていた。
「……今日は……一緒に、寝てやる」
「はあ?」
「ち、違う! お前は何を想像しているんだバカ!」
「ば、ばかって……」
顔を真っ赤にしながら怒っているルイ。
いったい何が違うのかさっぱり分からないが、何か一大決心をしてここにきたであろうことは、短い付き合いの中でもルイという人物を知ることができたおかげでなんとなーく分かった。
「最近……また食が細くなったと報告があった。トイレから出るたびに、疲れたような顔をして目を真っ赤にはらしていることも」
予想の範囲内だ。私の行動は逐一ルイに報告されている。それでいい。それが正しいあり方だ。
「お前が悩んでいることも……わかる」
「悩んでいないわ。少し、疲れただけなの」
「…………」
そう言えば、再び黙りこんでしまうルイ。
みんなは、私がトイレの中でさめざめと泣いている、という認識なのだろう。間違っちゃいない。間違えではないけれど、私だってただ泣いてばかりいるわけではないのだ。いわば、この泣きは成長する為の一歩であり、あの最初の頃に比べるとだいぶ泣かないで済むようになっているのだ。
「お前は……頼れる人間がいないのか?」
「いないこともないけど……ルイはいないの?」
「……いる。俺の本性を見せても驚かないし、それどころか王である俺を侮るし、平気で食ってかかってくるバカがな。そして俺はなぜかそいつの前では本性が出てしまうのだ」
「へぇ……その人相当苦労してるんでしょうね。つーか、仮にも王様の貴方にそこまでするとか相当じゃない?」
「…………」
黙りこんで半目になるルイ。ため息を吐いて「お前の頼れる人間は誰なのだ」と偉そうに聞いてきた。この世界にはいない人間の名前を上げると、再び半目になる。
何をしに来たのかよく分からないこの王様を眺めていると、あることに気付いた。
「……やだ、ちょっと……ルイ、何その枕」
「だから一緒に寝てやると言っているだろうが!」
「えぇー! 本気なの!? 問題ありでしょうが!」
「どうせ結婚するんだから問題ないだろうが! それに俺はお前にだけは欲情しないから安心しろ!!」
バスンと音を立てて枕で私の顔面を殴ると、ルイはプリプリ怒りながら私のベッドへ向かう。
勝手に枕を移動させて横になると、さっさと1人で寝てしまった。
「なんて図々しい……」
苦虫をかみつぶしたような顔をしながら、ベッドの端っこからもぐりこむ。私とルイの間は2メートルほど離れているが、同じ空間に誰かがいるというだけで、不思議と私の心は落ちついていた。
「……寝た?」
「まだだ」
「……黙って聞いて。楽しかった過去を思い出して、辛い現状と比較してしまうことはある? 私はあるわ。そういう時、どう浮上して良いか分からないの。今まではそれを上回る楽しいことを見つけられたから、それでよかったのに……それが見つからないの」
段々涙声になっていく。
寝るとき、久々に感じた人の気配。それが私の心の奥に侵略してきて、私の口を軽くする。
「強くならなくちゃいけないのに、それのせいで頑張れないの。だから、あまり時間がないって言うのに――」
「それはこちらに頼れる人間がいないと思いこんでいるからだ」
黙って聞いていたはずのルイが口をはさむ。
こっそりルイの方を見ると、ルイは背を向けていたはずなのに、いつの間にか私の方を見つめていた。
「何故楽しいことがやってくるのか。それは頼れる人間がいて、その人間がいる限りは悪いことが続くわけがないからだ。楽しいことというのは他人からもたらされるからな」
「…………」
目から鱗だった。確かに、1人で楽しくなるよりは他人からもたらされる楽しさの方が多かった気がする。
そして、ここの人間で頼れない人がいるかというと、そうではないのだ。私は、本当に『いない』と思いこんでいた。いるのに、気付かないフリをしていたのだ。
「貴方達が嫌いで、頼れる人間がいないと言ったわけでは――」
「分かっている。お前が、向こうの……本当の世界に未練があることは分かっている。ここに居場所がないだとか、頼れる人間がいないと思わせてしまったのは俺の責任だ」
「違う……そうじゃ――」
「いや、俺の責任だ。俺が悪い。だから……だから今日は――」
スッと起き上がって近づいてくるルイ。私のすぐ横まで来ると、横になって私を抱きしめた。
暖かいぬくもり。人はこんなに温かかったのかと気付いた瞬間、ボロボロと涙が出てくる。
「一緒に寝ると言っただろうが」
「それは、慰めているの?」
「……謝罪だ」
「すぐ謝らないでよバカ」
クスクスと笑うルイ。謝らないと言った王様は、意外と簡単に謝罪を口にした。
そこから先の記憶はあまりない。久々に、いつ寝たか分からないほど即行で寝てしまった。
あのとんでもない王様は、人を寝かしつけるのが上手いらしい。