第四章 それぞれの思惑03
「違います」
「いぃったぁあ!」
鋭い音と共に私の尻に落とされる乗馬鞭。
つり上がった眼鏡をかけ、頭をひっ詰めているのは女教師というのにふさわしい女性。きつそうなイメージがあるけど、教えることに対しては真剣そのものだ。
そして教師はドSで、権力とかそういうのに一切屈指なさそうな人であった。少なくとも、未来の后(?)の尻に乗馬鞭を振り下ろすくらいには。
「スミレ様……先程もお伝え致しましたが、貴女は歩き方の他にも歴史やテーブルマナー、賓客の顔と名前、趣味など覚えることが沢山あるのですよ? こんなところで詰まっているようでは困ります」
分かる。言いたいことは理解できる。私だってこんなところで詰まっているわけにはいかないのだ。
ただ、私は昔からダンスのセンスが0。運動が出来ない訳ではないので、究極のリズム音痴なのだと思う。
「暗記系はほとんど覚えたから、いいじゃないですか」
「覚えたと仰られても、まだ覚えることはたくさんあります。あれは必要最低限の情報ですので。本来はもっと沢山のことを覚えて頂きたいのですが、期限は1週間とのことですからね」
「左様で……」
教師はブツブツとあと3日しかないのに、なんて呟いてはため息を吐いている。
教えるのが下手で自分の為に動くような教師であれば、私も怒り心頭で頬の一発や二発……いや、抗議をするとことだけど、この教師、教え方が上手いのだ。
私は暗記が得意だけど、天才的な訳ではない。それでも1~2日で全体量の7~8割りを覚えられたのは、ひとえにこの教師の努力のたまものだろう。この人は頭が良い。
「さあ、休憩したらダンスの練習を再開しますよ」
「えぇ!? 今の会話って休憩タイムだったわけ!? 休憩だと知っていたらもっとくつろいだんですけど!」
鞭で追いやられながら、私はニコラスの手を取った。
その瞬間、視界の端にシュッと何かが通った。しかし、それに気が付いた時には遅かった。
「違う!」
「いぃっ……た! んもう! 何がだめなんですか!」
「あれほど女性から手を出すなとお伝えしたではないですか!」
そう言えばそうだった。もーこういう形式ばったのって面倒なんだよねぇ。ニコラスも踊るの飽きてきちゃったみたいだし。ていうか、単純に私がヘッタクソだからなんだろうけど。
「あ、あの、スミレ様……ミリア様にオヤツを用意して頂いておりますから、これが終わったら食べませんか?」
「え!? ニコラスが手配したの!? やだー超可愛い」
ギュッと抱きしめれば、困ったような顔。『い、いけません!』なんて焦りながらも私の拘束を解くことと、そのまま抱きついていることのどちらが失礼にあたるかで葛藤しているらしく、青くなったり赤くなったりしながらモジモジしている。
「じゃあさ、先生試しにニコラスと踊って下さいよ。見本を見せて頂ければ頑張れるかもしれません」
「いいでしょう」
ニコラスを解放すると、今まで私を相手にしていた時は何だったのかという程にスマートなエスコート。
そして映画か何かで見るようなワルツ。教師がくるくると回る度にスカートのすそが広がり、幻想的な空間を演出していた。
何もかもが、キラキラと輝いて見える。着ている服は普段着で、スカートもそこまで広がっていないのにこの華やかさ。これが綺麗なドレスを着て大勢の人が躍ったらどんなに素敵か。
私は、その光景が見てみたい。
「素晴らしい! 大変素晴らしい!」
「拍手をしている場合ではないでしょう! 貴女がこれをやるのですよ!」
「いやあ、先生素晴らしいです! まるで先生が物語に出てくる妖精か何かに見えました!」
目をキラキラさせながら言えば、「え……」と少し照れたように赤くなる。
そんな珍しい光景に気づいてはいたけど、今の私の脳内はいかに私がスマートに踊るかで一杯になっていた。
「わー凄いなあ! 私も踊れるようになりたい!」
「なれますよ。わたくしが教えるのですから」
「ですよね! 先生教え方お上手ですもの! うわ~! 頑張ろうー! 超頑張る!」
「まずその言葉づかいをどうにかなさい!」
怒りつつも、先生はどこか嬉しそうだった。
ニコラスもニコニコしながら私を見ている。いつの間にか来ていたミリアも満面の笑みだ。
「ニコラス、ごめんなさいね。私が上手に踊れたら貴方も踊り易いでしょうに」
「いえ、エスコートが上手ければ女性は上手に踊れるんです。踊りにくいのはエスコートが下手なせいで……」
あんなに素晴らしい踊りをしていたのに、悲しそうに言うニコラス。
それが可愛くて頭を撫でれば、やめて下さいよーと言いつつも笑顔になった。
「さ、始めましょ。あと数日しかないんですからね」
――時に、私は自分を恰好よく見せる為には何でもする人間であると言いたい。
可愛く、ではなく、恰好よくだ。
「スミレ様! お上手です!」
「ありがとうミリア」
ルイが言った期限の前日。自分でもびっくりするような速度でダンスが上達し、私は一応それなりに踊れるようになっていた。
この間はセナも練習に付き合ってくれて、「おや、意外と上手に踊れるじゃないですか」なんて褒め言葉も貰った。
さらにびっくりなのは、今日の練習相手がヴァンだということだ。この人、なんだかんだ言いつつ私を心配してくれているようで、「おい、お前! 陛下に恥をかかせたらどうなるか分かってるんだろうな!」なんて言いながら踊りの相手をしてくれるのだ。
「はーい休憩休憩!」
「先程休憩したばかりだろうが!」
「トイレ休憩だってばー」
そう言えば、即座に先生から鞭。くどくどといかに言葉を濁して相手に正確なことを伝えることが美しいかを語り始めたので、私は適当に返事をしつつトイレへ逃げ込んだ。
「はー……」
全ての始まりはトイレだった。
トイレから流されてこんななところに来てしまい、私はとんでもない目にあっている。
あの狐は息災だろうか。怒りが持続しない私としては、あの白い狐が元気にしているかどうかが気になって仕方なかった。
「元凶はあいつだけど、なーんか憎めないんだよねぇ。まるで資料にあったナスイ家の長男みたいな感じよ」
まあ、資料が全てではないから何とも言えないけど、読む限りどうも狐とダブって仕方がないのだ。
「……ナスイ家……?」
はて、長男坊の名前はなんだっただろうか。
「…………」
ごくりと、生唾を飲む音がトイレ内に響いた。
私は慌てて立ち上がると、トイレを飛び出す。勢いがつきすぎて跳ね返ったドアは大きな音をたて、室内にいた人はみな一斉にこちらを見た。先生の顔が歪んだのが視界に映ったけど、それどころではなかったのだ。後ろから私を呼ぶ声も、全て無視して私はひたすら走った。
しばらく走り続けて到着したのは、この間教えて貰ったばかりのルイの執務室。コンコンガチャ、と返事も待たずに扉を開けると、驚愕で目を見開いたままのルイに駆け寄ってその腕にすがる。
そのすぐ隣にはユンも立っていて、2人していったいどうしたのかという表情で見つめ合っていた。
「踊りに夢中になってたら、覚えたこと全部忘れちゃったの」
「え、すまない……今良く聞えなかったのだが」
「だからさ……! 踊りを覚えるのに必死になってたら、今まで覚えた歴史とか貴族の名前とか全部すっ飛んじゃったんだってば……!!」
それを言い終わった瞬間、目の前のルイの視線がフラっと彷徨って椅子に崩れ込む。
「どうしよう……!」
「アハハハハ! スミレ姫ちょー面白いじゃん!」
「面白いわけあるか!!」
ルイの怒声にもめげず、ユンは腹を抱えて笑う。
まずい。非常にまずい。私は暗記力があるほうだ。でも、それと同じくらい、忘れるのも早い。だから学生時代のテスト期間中は一夜漬け以外やったことが無い。今回は、一夜漬けで覚えられる量ではなかったから事前に勉強を始めた。しかし……しかしだ。一夜漬けで鍛えられた脳は、長く覚えるということを忘れていたようで、ダンスに夢中になっている間に全て飛んでしまった。
「ていうかさ、そもそもなんで1週間? 明日何があるの?」
不満げにそう言うと、空気が凍る。みんな一様に「え、何言ってんの?」と言いたげな顔だ。
「え? 何……」
「お前は……なぜ一番大事なことを忘れるんだ!」
「は!? 何も聞いてないんだけど」
何か言われただろうか。私自身は言われていないと記憶しているし、ミリアも特に何も言っていない。先生もヴァンも何も言ってないしはずだ。
「聞いてないはずないだ――」
シーンと部屋が静まりかえる。何かを言いかけたルイは視線を天井に持って行くと、しばらく何かを思案し出した。そして――。
「すまない、言い忘れていた。明日、お前のお披露目をする。舞踏会だ」
「…………」
サーッと血の気が引いて行くのが分かった。目の前にいるルイの額にも脂汗が滲んでいる。
「マジで? え? う……え、な、なんっ……なんでそんな大事なことを言わないのよこのタコ助!!」
「だからすまないと言っているだろうが!」
うわ、逆切れ! 全然悪いと思ってない証拠じゃないか……!
どうしよう、なんてころだろう。そして、なぜ私は1週間後に何があるかを聞かなかったんだろう……!
「悪い……ミリアにも講師にも俺から言うから黙っておくように伝えたのを、すっかり忘れていた……」
信じられない……どうしよう……いや、こうなったらやるしかないんだ。だって本番当日は明日。
今まで社会の荒波をくぐりぬけてきたじゃない……! だとすれば、私がやることは1つ……!!
「トイレ借りるわよルイ!」
「え……?」
ドタドタと走って行き、トイレの扉を勢いよく開く。蓋を開けてフチに手をかけ、私は大声で叫んだ。
「我、人にして人にあらず。時の狭間を切り裂いて、来たれ来たれ狐の王よ!!」
「えぇ……? 何、スミレ姫、頭可笑しくなっちゃったの?」
「黙んなさいよ!」
後ろからドン引きの顔で覗き込んでくるルイとユン。ルイは小さく「お前はまた……!」と言っているが、無視をしてトイレを睨み続けた。
狐は出てこない。
「ちょっとぉ! 呼べば出てくるって言ったでしょう!? なんで出てこないのよ狐ぇ!!」
「やめろ! よし、分かった! 明日は体調不良で急遽中止と言うことに……」
「嫌よ! 私のプライドが許さないわ……!!」
「プライドとかそういう問題ではない! 恥をかく方がましだとでも言うのか!」
分かってない。全然分かってないよこの人。
鼻で笑ってルイを見つめれば、訝しげな顔で後ずさった。一応、何か私が企んでいることは伝わったらしい。
「まあ、黙って見てなさいって。驚くから」
狐は何かあったら声をかけろと言っていた。今まさに、その『何か』が起こっているのだ。さっさと出てきてもらわないと困る。
「…………」
出てきてもらわないと困る。本当に困るのだ。
「……何にも起こらないねぇ?」
ユンの楽しそうな声。
いつも楽しそうではあるけれど、今日ばかりはその楽しそうな声が癪に障る。
私はトイレの中を見渡すと、目的の物が無いことに落胆して外へいるメイドを呼び付けた。
「ちょっと持ってきて欲しい物があるのだけど」
低い声で呟いた私の顔を見て、目の前のメイドは青ざめながら何度も頷いた。
――しばらく後、メイドが持ってきたものを見て、あからさまにルイは顔をしかめる。
ユンは興味深げに私を見やり、ニコニコしながら私の後を付いてきた。
「おい、お前……それは……」
「ラバーカップよ。見て分からない?」
「いや、分かるが……そう言うことが言いたいのではなくてだな……」
ルイのつぶやきを無視して、私は大きく手を振り上げる。そして渾身の力を込めて、便器へそれを振り下ろした。
「呼んだか、小むす――」
ペグッと音がして、便器から顔を出した狐の顔のど真ん中にラバーカップがはまる。
「え! やだ……なんで出てきたの?」
「…………」
狐は答えない。
顔のど真ん中にラバーカップをめり込ませたまま、勢い余って便器の蓋に後頭部を強打していた気がする。
「……スミレ? いるのか……? その、狐が……」
「顔にクリーンヒットしているわ」
想像したらしいルイは顔をしかめ、ユンはおかしそうに笑った。
「貴方、タイミングが悪すぎるわ」
ポンっと軽い音がしてラバーカップが床へ転がる。狐の鼻はピンク色になっていて、結構痛そうだ。
「小娘……仕返しのつもりか?」
「ち、違うの……! むしろお願いしたいことがあって」
「ほう? 願いを……賽銭ならば貰ったことがあるが、このようなものは初めてだな」
「賽銭!? あんた、金取る気!?」
信じられない……! こんな酷い仕打ちをしておいて……いや、今酷い仕打ちをしたのは私の方なんだけど……そうじゃなくて、こうなったのもお前のせいだから全力でサポートをして欲しいと言いたい。
「ギブアンドテイクという言葉があってだな」
「狐のくせに難しい言葉を使うのねぇ」
「バカにするな。貴様より遥かに生きておるのだぞ」
「してないわよ。むしろ感動したわ。外来語まで操るなんて」
本心から凄いと思ったからそう言った。なのに、狐はキョトンとした顔をすると、露骨に照れ出した。
「……別に、それくらいは、普通だ。我は長生きであるぞ。それくらい……別に」
「いや、凄いわよ。でもさすがに何でもできるわけじゃないんでしょうね」
「侮るな。我にできぬことはない。言うてみよ。瞬きをするより早く叶えてやろう」
世の中には残念な奴って言うのが大勢いる。
大勢いるから全部を紹介するのは割愛するが、この狐は確実に残念なタイプに分類されるのだろう。
可愛いじゃないか、狐。
「頼もしいわ」
ユン曰く、その時の私の顔は、物語の中で描かれるどんな悪女にも引けを取らない笑みであったとか。
こうして狐との約束を取り付けた私は、「しまった」という顔をする狐を逃げないように押さえつけてニヤリと笑った。