序章
「はぁ~……できた!」
私が祖母の所持している山で見つけたのは小さな社だった。
真っ赤な塗装がはげてすっかりみすぼらしくなっており、周りには草木が生い茂って見落とすくらいの大きさ。
草刈り鎌で草木を適当に切ってしまえば辺りはすっかり拓けて、ようやく小さな社が難なく見つけられるくらいになる。
「さてとー……」
白いワンピースを汚さないよう、美術の高校に通っていた時に使っていたペンキだらけの作業着を着て道具箱から朱色のペンキを取り出す。
一度始めたら徹底的にと思い、わざわざ街におりて修復用の板きれやら防水防腐ペンキを買ってきた。
ペンキをローラーでペタペタと塗り始めれば、辺りに懐かしいニオイが漂う。
「~♪」
社はかなり小さいものだった為に、数十分もかからずに綺麗に塗り終えることができた。
私は道具を片付けに一度家へ戻ることにし、「また来ます」と声をかけると山を下る。
* * * * * * * * * * * * *
「あぁ……お腹痛っ……」
のっけから汚い話で申し訳ないが、私は便秘が酷い。どのくらい酷いかと言うと、平気で四、五日は出ないくらいに酷い。
ちょっと道具を片付けてもう一度戻る予定だったのに、家に着いた途端ありえないくらいお腹が痛くなって来た。それこそ脂汗がダラダラ出るくらいにだ。
私の家は一応名家なものだから、私は例に漏れず『お嬢様』という部類に入っている。元々気の強い私には窮屈だけど、家にふさわしい娘になるよう言葉遣いも行動も丁寧な物をと心がけているせいか、外面だけが良くなっていった。
ただ、こうやって一人になった時や人生のピンチ(主に腹痛)の際はどうしても素が出てしまう。
「ああ……痛い……でもこの感じだと、全部出るのにもう少し時間がかかりそう……ね……」
一人ブツブツ呟きながら、一旦トイレから出る為に座ったままレバーを引く。
「……ん?」
レバーが取れたのに気付いたのは、水が流れていく音を聞いている時に手にパシャッと冷たい水を浴びた時のことだった。気付いた瞬間、後ろへ引っ張られる。
「……ぐわっ!?」
接近する便器を見つめながら最後に私が思ったのは、「モノが流れ去ったた後で良かった……!」の一言だった。
* * * * * * * * * * * * *
「…………」
私はあっという間にトイレに流され、水中で何としても水を飲まないように……! ともがき苦しんでいたはずだった。それがいつの間にか「本当の暗闇ってのはこのことを言うんだろうな」と思える程の真っ暗闇に落とされていて、どのくらい時間が経ったか分からなくなってきた上に、濡れた体が異常に寒くて震えが止まらないという残念すぎる悲劇に見舞われていた。
「だ、誰かいませんかー?」
何度かした質問を闇に投げる。返事は無い……と思われたその時だった。
ポウ……と柔らかい光の玉が空中に浮かび、青白い光をユラユラさせながらこちらへ向かってくる。
「…………」
それが自分に害があるかどうか分からないものの、あまりにも非現実的すぎたせいか、私は酷く落ちついてそれを眺めていた。
そしてその光は私の目の前まで来ると、じわりじわりと人型をとる。
「小娘、待たせたな」
完全に人型になった時、目の前のモノが人ではなく真っ白の狐だということに気付いた。二足歩行の狐は、朱色で顔をペイントしている。まるで神社の神主さんが着ているような和装に身を包み、私に人間の言葉で挨拶をする。
「……えっ!? ……ど、どうも」
「私はお前が直した社の主だ」
「社? ……ってあの社ですか?」
「ああ。今朝、お前が草木を抜いたり朱を塗りなおしたアレだ」
「へえ」
ああ、夢か。もしかしたらトイレに入ったまま寝てしまったのかもしれない。だってそもそもさ、人間がトイレに流されるなんてありえないもの。
「夢ではない」
目の前の狐はクスクスと笑うとしゃがんで座りこむ私に視線を合わせた。
「いや、しかし……来るのが遅れて申し訳ない。随分と痩せてしまったな」
「?」
「気付かないのか?」
狐の視線に自分の体を見れば、今まで闇で見えなかった自分の体が狐の体から発せられる光でぼんやり浮かび上がっていた。腕も足も驚くほど骨が浮き上がっていて力を込めればポキンと折れそうだし、髪の毛なんてボサボサと尻のあたりまで伸びている。
「えぇっ!?」
「いや、本当に申し訳ない。こんなに遠いとは思わなんだ」
「な、なんでこんな……私は、その、全然自慢じゃないんですけどもう少し太ってて……というか……いや……これ……ないわー……」
アワアワと服をめくったりして体中を調べる。どこもかしこも骨と皮。肌は垢が浮いて茶色くなっていたし、着ている物もボロ布と化していた。
「くぅっさ……! 臭いしっ……はぁっ……あれ、なんか……疲れたっ……?」
先程から何か臭いと言うことには気づいていた。でも、こんなにも自分が臭いのはトイレ(下水)を通って来たからだと思いこんでいたものの、どうやらそれだけじゃなさそうだった。
というか、自分の体を調べる為に少し動いただけでこの疲れ具合。筋肉まで衰えてしまったかのような反応に思わず顔が引きつる。ありえない。
「可哀想に……我が社を綺麗にした礼にと思うたが、とんでもないことになったな。人が弱いということをすっかり忘れておった。これでは弥三郎に怒られてしまう。不幸中の幸いと言うか、厠に流す前にお前の生命力を底上げしておいて正解だったな」
「えぇ? ちょっと、もう……っ……なんか本当に意味が分からないんですけど!! トイレに流した犯人は貴方!?」
「つまり、社を綺麗にしてもらった礼に、お前を別世界へご招待するつもりであったのだ。お前は兼ねてより『異世界に行きたい』と思っていただろう? まあ小旅行といったところなのだが」
狐は悪びれた風でもなく何度かうなづくと、自分の話に満足しているような顔で私を見つめる。
「ところが、ここ『時の壺』は意地悪で有名でな。オマケに時間軸もバラバラだ。例えばお前のすぐ右手側。今は壱時間が地球で言うところの弐時間程であるが、お前の左側では参〇分しかない。時の壺はお前と私の着地位置を変えたらしい。こうしてなんとか見つけたわけだが、あの時からすでに……地球時間で言うところの数カ月は経過しているようだ」
「へぇ」
「……お前、信じてないだろう」
「だって数カ月って言ったら色々アウトじゃないですか。この状態自体ありえないですし」
信じられる訳がない。数か月と言ったら捜索願を出されるレベルだ。それに私ほど大きい物がトイレに流れるわけないもの。
「都合のいい夢だこと。都合が良いついでに、どこに行くのか教えて頂けます?」
「――……お前が望むならどこへでも」
「あら、本当に都合のいい夢ですのね。では江戸へでも連れて行って下さらないかしら?」
人を馬鹿にするときにだけ出る悪い癖。おばあちゃんや両親に「名家の娘らしく、常日頃からそう振る舞え」と言われた物語に出てくる意地悪なお嬢様口調で、精いっぱい虚勢を張って強がる。
「江戸? ああ、私が日の本に住みついてしばらく経った頃であるな。あの頃の日の本は今とはまた違った活気があって、実に良い時代であった。少し前の、お前達が『戦国時代』と呼んでいる時代が特に好きでな。当時はよく弥三郎と言う小童が……まあ、それはよいか。ではあそこに……いや、待て」
忌々しそうに顔をゆがめる狐。なぜかそれは嫌な予感しかしなくて、私は気づかれないように顔をしかめた。
「どうやらお前を欲している世があるようだ。生憎向こうの世は好かんが、仕方あるまい。強引に扉を近づけたか」
「欲する? あら、そう。でも私は江戸に行きたいのですけど?」
「いや、駄目だ」
きっぱりと断られ、ムッとする。だいたい狐のくせに生意気なのだ。私の夢のくせに……!
「扉が近づけられてしまったのだ。もはや我の領域ではない」
「……江戸がいいって言ってるじゃないですか……お礼って言う割に私の意見が聞けないんですかね」
すっかり萎えてしまった私は、拗ねたようにいつもの口調に戻る。
「随分図々しい女子よ。叶えてやりたいがもう向こうの扉と引っ付いてしまった。そら」
狐は満足げに微笑むと、「たんっ」と軽く足を踏み鳴らした。その瞬間、パッと天から光が降り注ぎ、1つの和式トイレが現れる。
「さあ」
「いやいやいや。おかしいでしょう」
「申し訳ないが、私はアレしか出せない」
「……じゃあいいです。元の場所へ帰して下さい」
「もう入口はつないでしまった。さあ」
そういうと狐は私を力いっぱい押し、トイレの中に突き落とした。
「ちょっ……とぉ!?」
小さな悲鳴とともに、私は再び渦巻く便器へと身を落とす。