第三章 孤高の王女04
ルイは頭を抱えて床に座り込んでいた。
スミレがいなくなってしまったのは、まぎれもなく自分のせいだ。自分のせいで、スミレの命が危ないかもしれない。あの愚かで、自分を敬わず、すぐに楯突いてくる女がいなくなる。
そう考えただけで、高所から飛び降りたかのような内臓の縮みあがりを感じる。
「胡蝶……古より黒い薔薇の君の始祖として敬い、崇められてきた」
ポタリとサイドテーブルの上の割れた花瓶から水が滴る。
「胡蝶……国の礎として君臨し、老いることなく、朽ちることなく永遠の時を生きながらえる」
再び水の滴が落ちる。
床一面にじわじわと広がる水は、ビロードの絨毯を濃い赤に染め上げていた。
「胡蝶……その存在は……神に、最も近い存在。国を守り、王家を守り、民を守る……古の胡蝶……」
ルイは自分の髪をギリギリと握りしめ、歯を食いしばる。
「俺は……胡蝶を殺せるのか……? 黒い薔薇の君を守るためだけに……胡蝶を?」
その時であった。
トイレの方からパシャパシャと水音が聞こえる。
「……誰もいないはずだが……スミレか!?」
慌てて駆け寄って扉を開いた瞬間、ルイの喉の奥から人生で初めて出したであろう音が鳴った。
グゥともエウとも聞こえる困惑の声。
それは、目の前に広がる光景を見れば、例え数々の死線をかいくぐってきた王であろうとも出すであろう、と納得できる声である。
「……」
「……」
真っ白な獣が便器にはまっている。それも肩から下が全てだ。
その獣は、何も言わずにこちらを見ていた。場所が場所だけに違和感を感じまくりだが、なんとなく神々しい気もする。
「よもやこのような中途半端な格好になるとは思っていなかったのだ」
「そ、そうなのか……わ、私はルイルミア=レオ=デルムルカ=アルファルロ=クミ=カルフォールドデンバスター。この国の王だ。お前は何者なのだ?」
「貴様は何を言っているのだ。異国の呪文か」
「……まさかとは思うがお前は……その、スミレが言っていた『キツネ』とかいう奴か」
確かスミレは『白いキツネ』と言っていた。
『キツネ』と言うのがどういう意味を持つのか分からなかったが、この獣の名前なのだろう。何せトイレからはみ出ているのだ。ほぼ確実にそうに違いない。
「狐……あの女……そう言えば我のことをそのように呼んでいたな」
やはりか、と納得していると、キツネはルイに向かって向き直った。
「そう言えば小娘の気配が弱くなったが、なんぞあったか」
「……ああ」
ルイは唇をかみしめると、視線を外して床に座り込んだ。キツネと同じくらいの視線の高さになる。
「胡蝶は知っているか?」
「知らぬ。しかし禍々しい気配がするのは解る。カビ臭い嫌な臭いである」
「そのような言い方をするな!」
思わずカッとなって怒鳴れば、狐は特に表情を変えずにフンと鼻で笑った。そして窓の外を眺めながら鼻にしわを寄せ、牙を見せる。
「あれより我の方が長生きである。あのような偽物が神を名乗ること自体不愉快と言うものよ」
「……偽物だと?」
目の前の狐の毛並みは極上で、とても年老いたようには見えない。話し方こそご意見番のじい様どもに似てはいるが、ルイからしてみれば若い獣にしか見えなかった。
「小僧、聞け。我はあの小娘を失うのを良しとせぬ。何故なら恩があるからじゃ。我は恩を仇で返すようなことはせぬ。だから別世界へ行っても良い待遇をと思うて金持ちの家に落とした。しかし――……」
狐は細い目をさらに細めてルイに視線を合わせた。
「お前に預けたのは失敗であったな」
忌々しい物を見る目。その視線に、ルイは歯がみをした。
「お前は何を知っているのだ?」
「……小僧、口のきき方に気をつけろ」
スッと冷気がおりてビリビリと空気が震え、思わずルイは生唾を飲んだ。ひょうひょうとしていた狐が、世にも恐ろしいモノに見える。
「……頼む、力を貸してくれ……」
「本来であれば貴様の様な小童に力を貸すのは、例え極上の生贄を差し出されても断るところではあるが、此度は小娘の為である」
そう言うと狐は小さく息を吐いた。その途端、辺りに黒い霧が出て、ルイを包み込む。あっと思った時には、ルイは黒い霧の中にいた。
「小僧、見えるか?」
「何も見え……あれは……」
黒い霧の向こう側。
かすかに光る何かがある。目を凝らしてみれば、それは映像であった。段々大きく鮮明になる映像。そこには寝台に横たわるスミレが映っていて、そのすぐ隣には1人の老婆が立っている。
「見えるか、老いた人間が。あれが、お前達が『古の胡蝶』と呼んでいるものよ」
「ば……馬鹿な……本当に生きていたというのか……!?」
「おかしなことを。お前達も『生きている』としているではないか」
「それは象徴的な意味での話だ!」
胡蝶は生きている。
それは当たり前の物語で、生き神として祭られている。しかし、裏を返せばただの象徴。祭ってある塔の扉を開ければ、骨壷があるだけとされていた。これは王族しか知らないが、知らないがゆえに絶対の確証をもって言えることである。
ただ、国民だって生きているとは思っていない。しかし、生き神として長らくそう語られてきたのだ。それは、もはや当たり前の事実として認知されていた。
「小僧……我はあれが邪魔である。お前が長々と続く忌まわしき教えに背く覚悟があると言うのであれば、力を貸してやろう」
「背く……胡蝶を……消す……?」
「そうだ」
狐はニヤリと笑うと、新たな映像を映した。そこには大きな柵があり、中には美しい蝶の羽が浮いている。
「これは……!」
「あの小娘のものよ。老いた蝶が隠しているようだ。古き教えに従うのもよいが、時に新しい物を取り入れる方が良い場合もある。あらゆるものの上に君臨する王であれば、重要な場所での判断を誤るな」
「……」
「……まあ、老いぼれの戯言である。最終的な判断は自分でせよ」
そう言うと、狐はスッと便器に潜り込んでいった。
「ま、待て! 力を貸すとは具体的にどうするのだ!!」
「それはその時にならぬと分からぬ。全てはお前次第」
「それでは分からんではないか! 待て!!」
かすかな獣臭を残したまま、狐はぽちゃんと水音を立てて消えた。
「くそ……!」
「……へ、陛下」
「なんだ!!」
振り向いて気付く。
自分が便器に身を乗り出して悪態をついていたことに。そして、それを発見したメイドが血相を変えていることに。
「……貴様は今、何を見た?」
「……何も見ておりません、陛下」
「……よろしい、持ち場に戻れ」
「……畏まりました」
メイドが消えたのを見計らってため息を吐き、天井に向かって声をかけた。忍び笑いと共に現れたユンは、可笑しそうに肩を揺らしている。
「スミレ姫がいなくなって、頭可笑しくなっちゃったかと思った~」
「違う……お前には見えていなかったのか?」
「見えるわけないじゃん。何かの気配は感じていたけどね」
未だ笑いが収まらないと言った感じのユンをボーっと眺めながら、ルイは今までの人生を振り返っていた。
エリート街道まっしぐら。親の言うことに従い、頭も良く、人望もある。民からは癒しだの天使だの言われて悪い噂は1つとして聞いたことが無い。自分で言うのもなんだが、本当に良くできた物語に出てくるような人格者だ。この人間らしく悪態を付く王様の姿は、一部の物しか知らない。
しかしだ。
スミレが来てからは、ちょいちょいメイドに本性を見られている。メイドだけではない。この間は兵士にもみられた。口止めをしているから噂にはなっていないが、皆、相当驚いた表情をしていた。
「……いつからおかしくなったんだ」
スミレが来てから、何かが少しずつ崩れていく。
全て崩れ去った後には何が残るのか。
その変化が、ルイには恐ろしくてたまらなかった。
「僕は興味深~く見物しているけどね」
「……」
セナも同じようなことを言っていた。
ルイが生き生きしていると。では今までの自分は死んでいたのかと聞けば、笑ってはぐらかされた。ヴァンは忌々しいという顔をしながらも、よく面倒を見ている。
また、何かが、ゆっくり崩れる音がした。
「ヴァンとセナを集めろ」
頭を抱えて深いため息を吐く。
ため息は、恐れからか怒りからか、震えていた。
「……胡蝶を解放する」
「承知」
恭しく頭を垂れたユンが、音も無く消える。